高校二年の時、鉄郎はアキと出会った。
二人の出会いに、特別なものはない。
きっかけは、同じクラスになった。
それだけだ。
最初は、お互いを意識しあうこともなく、普通に会話を楽しむ、ただのクラスメイトだった。
しかし、鉄郎は、アキの不思議な一面を気にした。
高校生たちの溜まり場となっている学校近くの喫茶店。
アキは、決まった日にだけ、その喫茶店に入ると、夢中でセーターを編み続けた。
それは、生き別れた兄のもので、セーターを編むのは再会のためのおまじないだと、アキは鉄郎に説明した。
そして、ちょうどアキが座る席の前が。
兄と生き別れた場所だという。
その時は、何気なく、アキの話を聞き流していたのだが。
やがて、この兄妹が、鉄郎に深く関わることになろうとは、この時の鉄郎は想像もしなかった。
その後、鉄郎は、アキが隠していた複雑な家庭事情を知ることになった。
合気道の道場を営むアキの実家。
しかし、その土地を含めた不動産は、ある悪徳業社の標的になっていた。
その原因はアキの父親だった。
アキの父親は、その会社の元社員だ。
しかし、社長と悶着を起こしたせいで、父親はリストラされた。
その後、父親は、アキの祖父、彦右衛門から道場を譲り受けることになった。
それで、アキの家庭は落ち着くはずだった。
しかし、社長の五月は、執拗に父親を脅迫し続け、アキの一家を苦しめ続けた。
兄、徹也は、両親の優柔不断な態度に嫌気がさし、次第に粗暴になっていった。
そして、そのまま家を飛び出した。
その後、兄の連絡は途絶え、行方もわからなくなった。
だが、それまで、どこにいるのかわからなかった徹也が、突然、姿を現した。
小学生になったアキが、友達の男の子と待ち合わせをしているその前に。
徹也は、銃を手にしていた。
そして、あろうことか、アキの目の前で男の子を狙撃した。
ショックを受けて立ち尽くすしかない、アキが見た兄の姿とは。
逮捕されて、警察に連行されていく様子だった。
「徹也のバカ!」
アキは泣き叫んだ。
そして、大人の群集にもまれながらも、小さな体をどうにかかいくぐらせて、徹也の後を夢中で追いかけた。
そんな妹に、徹也は、なぜか優しい笑顔を浮かべた。
その微笑みだけを残して、徹也はアキの前から再び姿を消した。
アキが最後に兄を見たのが。
パトカーに乗り込む徹也の後ろ姿だった。
その事件があってから。
アキはずっと兄を憎み続けた。
事実を知った鉄郎の衝撃は大きかった。
アキの家を苦しめたという、五月商事。
その企業は、織野系列の末端に属した企業だ。
まさか、こんなところで接点ができるとは、考えも及ばなかった。
まだ、鉄郎は、一切、アキに対して、自分の素性を打ち明けていなかった。
鉄郎に深く関わるだけで、大企業の魔の手が忍び寄ってくる。
鉄郎は、その危険性を深く認識していた。
だが、鉄郎が、いくら距離を置こうとしても。
時には、予想もつかないところから、鉄郎の方に迫ってくることがある。
この兄と妹のように。
それは最悪の形で、鉄郎の前で起きてしまった。
アキは、近いうちに、兄、徹也に会えそうな気がすると、鉄郎に語った。
確かに小学生の頃は、兄をただ憎むことしかできなかった。
しかし、もう、その頃のアキではない。
アキ自身のお家事情も、兄がそのせいでとった行動も、アキはよく理解している。
小学生のアキに近づいてきた男の子。
彼は、五月の息子だった。
息子は何も知らないはずだ。
小学二年生の彼に、邪心などあるはずがない。
だが、少年は、父親に命じられてアキに近づいた。
徹也は、そのことを早くから察知していた。
やり方には問題はある。
しかし、それは妹を守りたいがための行動だと、アキは感じていた。
その兄に対して。
アキはずっと謝罪したいと、思い続けていた。
アキの内情を知っていく中で、鉄郎には、どうしてもひっかかるものがあった。
そうまでして、五月は、なぜ、アキの家を攻め続けようとするのか。
ただの取立てという行為以上の執拗さに、他に目的があることを、薄々感じはした。
だが、その目的が何かというと、それ以上の見当をつけようがなかった。
そんな鉄郎の思惑を超えて、事態は思わぬ方向に展開した。
アキの予感は的中した。
それまで行方不明だった兄は、やがて、鉄郎とアキの前に現れた。
その徹也の目的とは。
五月の手先となり、鉄郎を襲うことだった。
すべて、五月の計略だった。
アキを脅し、鉄郎をおびき出すための。
野心家の五月は、源三のやり方をまねて、鉄郎を利用しようとした。
その手腕に感心したものの、鉄郎にとって、五月は敵になる相手ではない。
しかし、徹也が絡んだことで、一筋縄ではいかなくなった。
先に、五月が指定した場所に駆けつけたのは、鉄郎ではなく、アキの方だった。
五月の脅しに、アキは屈しようとしなかった。
危険を承知の上で、五月の条件を無視して、単独でアキは行動した。
兄に会いたい。
そして、自分が間違っていたことを、どうしても兄に伝えたい。
だが、それ以上に。
こんなことで、鉄郎を失いたくない。
そんな強い一念がもたらした、無謀な行動だった。
まだ、アキは気がついていなかった。
鉄郎に対して、いつしか、熱い思いを抱くようになっていたことを。
その一方で。
鉄郎は出遅れたことを、とても後悔した。
アキの行動が、鉄郎をかばうためだったことを知ると、いてもたってもいられなくなった。
織野一族の野望のせいで、これ以上、大切な人を失いたくない。
鉄郎の母親。その妹の静香。そしてアキ。
鉄郎にとって、三人の女性の存在は、同等のものに膨らんでいた。
そんな鉄郎の目の前で。
アキが、五月にいたぶられかけている姿を見た瞬間、怒りが増大した。
それは、静香を失ったとき以上の激しさだった。
自分の命を省みずに、鉄郎は、弾丸のように五月の集団に飛びかかった。
そして、必死の思いでアキを救出した。
その目的を遂げた鉄郎が、五月の集団から逃げ出そうとした時に。
鉄郎は、アキの兄と対峙した。
徹也はためらうことなく、鉄郎に銃を向けた。
それが、徹也の行動のすべてだった。
妹にどう思われようと、織野の血を引く人間を徹也は許せない。
そんな兄を止めようと、アキは、必死で兄を説得した。
「兄さん。鉄郎は悪くない。このまま家にもどってください。あの時のことを、もう繰り返さないで!」
「お前がかばうやつは、お前を不幸にするだけだ。どけ。そいつを生かしておくわけにいかない。」
「鉄郎は違う。それよりも、兄さんが鉄郎を殺せば、その責任は一条家が負わされることになる。兄さんは利用されてるだけ。早く気がついて。」
「そんなことは百も承知だ。だが、他に方法がなかった。そいつと合いまみえるためには、こうするしか。」
鉄郎は、兄と妹の複雑な心の葛藤を、じっと見つめた。
しかし、徹也の中に別の何かがあることを、鉄郎は気がついた。
「徹也さんといったっけ。あなた、何かを守るために行動してるね。アキの中にある何か。俺も気がついていない重大な何か…。それはいったい何ですか?」
「お前には関係ない。」
鉄郎の言葉は、アキの気持ちをわずかに揺さぶった。
しかし、会話はそのまま流れてしまい、それ以上の事実を掴むことはできなかった。
鉄郎は、それとは別の事実を、徹也に打ち明けた。
「関係があるよ。だって、俺はあなたをよく知っている。あるヤツからあなたの事を聞かされている。そいつは、あなたのことを今もずっと尊敬して自慢してるよ。あなたは、そいつを少年院から脱走させたことがあった。その時、ある思いをそいつにあなたは託したんだ。そいつ、今もあなたのその言葉を叶えるために、あなたの大切なものを一生懸命に探している。」
「なぜ、お前がそのことを…。」
徹也は呆気にとられた。
アキは、言葉をなくした。
二人は、鉄郎が徹也を知っている事実に驚いた。
しかし、鉄郎はあっさりと言い返した。
「だって、そいつ、俺のいいダチだ。」
鉄郎は、島村ジョーのことを徹也に伝えた。
過去に少年を狙撃した徹也は、当然のように少年院に送られた。
そこで、後から入ってきた一人の混血の少年と、徹也は出会った。
それが、島村ジョーだ。
ジョーは、疑いをかけられて少年院に入れられた。
ジョー自身に否は何もない。
ジョーは徹也にそう打ち明けた。
徹也は、そんなジョーを少年院から脱走させた。
その段取りをつけたのは徹也だ。
そして、徹也はある頼みを、ジョーに言付けた。
自分が身につけているペンダントを、最愛の妹に渡してほしい。
ジョーは、徹也との約束を果たすために、その時から、ずっと徹也の妹を探し続けていた。
鉄郎は、徹也との出会いから、ジョーの探している妹が、アキだということに気がついた。
アキは、そのことを知らない。
もちろん、当人の島村ジョーも。
鉄郎と徹也の出会いは、そんな接点をもたらした。
「元気なのか? あいつは。」
徹也は懐かしい同窓を振りかえるように、鉄郎に尋ねた。
すると、鉄郎は笑顔で頷いた。
「もちろんだ。うまくやってるよ。自分がこうしていられるのはあなたのおかけだと、そういってる。」
「そうかい。」
徹也はかすかに笑った。
一方で、鉄郎は悲しい顔をした。
「でも、そいつも悲しがる。あんな男のために、あなたは“実の妹”に銃を向けている。あなたに、俺を撃つことはできない。妹の言葉だって信じられないあなたに、人を信じることはできない。だから、五月のようなヤツに利用されてしまう…。織野は、俺を殺したくらいで解体できるような、そんな生易しい組織じゃない。俺だって、あなたと目的は同じだ。憎いんだ、織野の組織が。でも、その俺ですら、今はどうすることもできない。だけど、あなたのような人が力になってくれたら、少しは状況が変えられたかもしれない。残念でならないよ。こんな形であなたと会うことになるなんて…。」
「お前は…。」
徹也は、銃をとり落とした。
徹也にとっても、鉄郎の本心は意外なものだった。
しかし、その鉄郎の心が、徹也の気持ちを変えさせた。
そして、徹也は、自分の過ちを認識した。
徹也は、アキが義理の妹だと知っていた。
それでも、実の兄と思って疑わずに慕い続けるアキのことを、徹也は、実の妹以上に愛しく感じていた。
そして、徹也はアキを守ろうとした。
彼女の内の中に秘めていたものを。
鉄郎は、何も知らない。
しかし、何かがあることを、鉄郎は悟りかけている。
その気持ちとアキを思う気持ち。
さらには、織野の人間でありながら、織野を解体させようとする目的が同じであることを、徹也は知った。
徹也は、その償いをするために、一つの答えを引き出した。
それこそが、アキと鉄郎をかばい、命がけで二人を逃がすことだった。
「兄さん、やめて!」
アキは悲鳴をあげた。
兄を助けようとしたものの、それは叶わなかった。
「二人ともすまなかった。鉄郎くん、アキを守ってやってくれ。わかったな。」
「はい…。」
「アキ、お前には鉄郎くんがいるだろ。彼にすべてをまかせたらいい。行くんだ、早く!」
徹也は、二人の体を押しやると、がむしゃらに五月と部下たちに向かって銃を乱射した。
その一方で、逃げた鉄郎とアキは、徹也の悲鳴を耳にした。
狂乱しかけるアキをかばいながら、鉄郎は、最後までアキを守り通した。