9.深 淵 4

 高校二年の時、鉄郎はアキと出会った。
 二人の出会いに、特別なものはない。
 きっかけは、同じクラスになった。
 それだけだ。
 最初は、お互いを意識しあうこともなく、普通に会話を楽しむ、ただのクラスメイトだった。
 しかし、鉄郎は、アキの不思議な一面を気にした。
 高校生たちの溜まり場となっている学校近くの喫茶店。
 アキは、決まった日にだけ、その喫茶店に入ると、夢中でセーターを編み続けた。
 それは、生き別れた兄のもので、セーターを編むのは再会のためのおまじないだと、アキは鉄郎に説明した。
 そして、ちょうどアキが座る席の前が。
 兄と生き別れた場所だという。
 その時は、何気なく、アキの話を聞き流していたのだが。
 やがて、この兄妹が、鉄郎に深く関わることになろうとは、この時の鉄郎は想像もしなかった。


 その後、鉄郎は、アキが隠していた複雑な家庭事情を知ることになった。
 合気道の道場を営むアキの実家。
 しかし、その土地を含めた不動産は、ある悪徳業社の標的になっていた。
 その原因はアキの父親だった。
 アキの父親は、その会社の元社員だ。
 しかし、社長と悶着を起こしたせいで、父親はリストラされた。
 その後、父親は、アキの祖父、彦右衛門から道場を譲り受けることになった。
 それで、アキの家庭は落ち着くはずだった。
 しかし、社長の五月は、執拗に父親を脅迫し続け、アキの一家を苦しめ続けた。
 兄、徹也は、両親の優柔不断な態度に嫌気がさし、次第に粗暴になっていった。
 そして、そのまま家を飛び出した。
 その後、兄の連絡は途絶え、行方もわからなくなった。
 だが、それまで、どこにいるのかわからなかった徹也が、突然、姿を現した。
 小学生になったアキが、友達の男の子と待ち合わせをしているその前に。
 徹也は、銃を手にしていた。
 そして、あろうことか、アキの目の前で男の子を狙撃した。
 ショックを受けて立ち尽くすしかない、アキが見た兄の姿とは。
 逮捕されて、警察に連行されていく様子だった。
「徹也のバカ!」
 アキは泣き叫んだ。
 そして、大人の群集にもまれながらも、小さな体をどうにかかいくぐらせて、徹也の後を夢中で追いかけた。
 そんな妹に、徹也は、なぜか優しい笑顔を浮かべた。
 その微笑みだけを残して、徹也はアキの前から再び姿を消した。
 アキが最後に兄を見たのが。
 パトカーに乗り込む徹也の後ろ姿だった。
 その事件があってから。
 アキはずっと兄を憎み続けた。


 事実を知った鉄郎の衝撃は大きかった。
 アキの家を苦しめたという、五月商事。
 その企業は、織野系列の末端に属した企業だ。
 まさか、こんなところで接点ができるとは、考えも及ばなかった。
 まだ、鉄郎は、一切、アキに対して、自分の素性を打ち明けていなかった。
 鉄郎に深く関わるだけで、大企業の魔の手が忍び寄ってくる。
 鉄郎は、その危険性を深く認識していた。
 だが、鉄郎が、いくら距離を置こうとしても。
 時には、予想もつかないところから、鉄郎の方に迫ってくることがある。
 この兄と妹のように。
 それは最悪の形で、鉄郎の前で起きてしまった。


 アキは、近いうちに、兄、徹也に会えそうな気がすると、鉄郎に語った。
 確かに小学生の頃は、兄をただ憎むことしかできなかった。
 しかし、もう、その頃のアキではない。
 アキ自身のお家事情も、兄がそのせいでとった行動も、アキはよく理解している。
 小学生のアキに近づいてきた男の子。
 彼は、五月の息子だった。
 息子は何も知らないはずだ。
 小学二年生の彼に、邪心などあるはずがない。
 だが、少年は、父親に命じられてアキに近づいた。
 徹也は、そのことを早くから察知していた。
 やり方には問題はある。
 しかし、それは妹を守りたいがための行動だと、アキは感じていた。
 その兄に対して。
 アキはずっと謝罪したいと、思い続けていた。


 アキの内情を知っていく中で、鉄郎には、どうしてもひっかかるものがあった。
 そうまでして、五月は、なぜ、アキの家を攻め続けようとするのか。
 ただの取立てという行為以上の執拗さに、他に目的があることを、薄々感じはした。
 だが、その目的が何かというと、それ以上の見当をつけようがなかった。
 そんな鉄郎の思惑を超えて、事態は思わぬ方向に展開した。
 アキの予感は的中した。
 それまで行方不明だった兄は、やがて、鉄郎とアキの前に現れた。
 その徹也の目的とは。
 五月の手先となり、鉄郎を襲うことだった。
 すべて、五月の計略だった。
 アキを脅し、鉄郎をおびき出すための。
 野心家の五月は、源三のやり方をまねて、鉄郎を利用しようとした。
 その手腕に感心したものの、鉄郎にとって、五月は敵になる相手ではない。
 しかし、徹也が絡んだことで、一筋縄ではいかなくなった。


 先に、五月が指定した場所に駆けつけたのは、鉄郎ではなく、アキの方だった。
 五月の脅しに、アキは屈しようとしなかった。
 危険を承知の上で、五月の条件を無視して、単独でアキは行動した。
 兄に会いたい。
 そして、自分が間違っていたことを、どうしても兄に伝えたい。
 だが、それ以上に。
 こんなことで、鉄郎を失いたくない。
 そんな強い一念がもたらした、無謀な行動だった。
 まだ、アキは気がついていなかった。
 鉄郎に対して、いつしか、熱い思いを抱くようになっていたことを。


 その一方で。
 鉄郎は出遅れたことを、とても後悔した。
 アキの行動が、鉄郎をかばうためだったことを知ると、いてもたってもいられなくなった。
 織野一族の野望のせいで、これ以上、大切な人を失いたくない。
 鉄郎の母親。その妹の静香。そしてアキ。
 鉄郎にとって、三人の女性の存在は、同等のものに膨らんでいた。
 そんな鉄郎の目の前で。
 アキが、五月にいたぶられかけている姿を見た瞬間、怒りが増大した。
 それは、静香を失ったとき以上の激しさだった。
 自分の命を省みずに、鉄郎は、弾丸のように五月の集団に飛びかかった。
 そして、必死の思いでアキを救出した。
 その目的を遂げた鉄郎が、五月の集団から逃げ出そうとした時に。
 鉄郎は、アキの兄と対峙した。


 徹也はためらうことなく、鉄郎に銃を向けた。
 それが、徹也の行動のすべてだった。
 妹にどう思われようと、織野の血を引く人間を徹也は許せない。
 そんな兄を止めようと、アキは、必死で兄を説得した。
「兄さん。鉄郎は悪くない。このまま家にもどってください。あの時のことを、もう繰り返さないで!」
「お前がかばうやつは、お前を不幸にするだけだ。どけ。そいつを生かしておくわけにいかない。」
「鉄郎は違う。それよりも、兄さんが鉄郎を殺せば、その責任は一条家が負わされることになる。兄さんは利用されてるだけ。早く気がついて。」
「そんなことは百も承知だ。だが、他に方法がなかった。そいつと合いまみえるためには、こうするしか。」


 鉄郎は、兄と妹の複雑な心の葛藤を、じっと見つめた。
 しかし、徹也の中に別の何かがあることを、鉄郎は気がついた。
「徹也さんといったっけ。あなた、何かを守るために行動してるね。アキの中にある何か。俺も気がついていない重大な何か…。それはいったい何ですか?」
「お前には関係ない。」
 鉄郎の言葉は、アキの気持ちをわずかに揺さぶった。
 しかし、会話はそのまま流れてしまい、それ以上の事実を掴むことはできなかった。
 鉄郎は、それとは別の事実を、徹也に打ち明けた。
「関係があるよ。だって、俺はあなたをよく知っている。あるヤツからあなたの事を聞かされている。そいつは、あなたのことを今もずっと尊敬して自慢してるよ。あなたは、そいつを少年院から脱走させたことがあった。その時、ある思いをそいつにあなたは託したんだ。そいつ、今もあなたのその言葉を叶えるために、あなたの大切なものを一生懸命に探している。」
「なぜ、お前がそのことを…。」
 徹也は呆気にとられた。
 アキは、言葉をなくした。
 二人は、鉄郎が徹也を知っている事実に驚いた。
 しかし、鉄郎はあっさりと言い返した。
「だって、そいつ、俺のいいダチだ。」
 鉄郎は、島村ジョーのことを徹也に伝えた。


 過去に少年を狙撃した徹也は、当然のように少年院に送られた。
 そこで、後から入ってきた一人の混血の少年と、徹也は出会った。
 それが、島村ジョーだ。
 ジョーは、疑いをかけられて少年院に入れられた。
 ジョー自身に否は何もない。
 ジョーは徹也にそう打ち明けた。
 徹也は、そんなジョーを少年院から脱走させた。
 その段取りをつけたのは徹也だ。
 そして、徹也はある頼みを、ジョーに言付けた。
 自分が身につけているペンダントを、最愛の妹に渡してほしい。
 ジョーは、徹也との約束を果たすために、その時から、ずっと徹也の妹を探し続けていた。
 鉄郎は、徹也との出会いから、ジョーの探している妹が、アキだということに気がついた。
 アキは、そのことを知らない。
 もちろん、当人の島村ジョーも。
 鉄郎と徹也の出会いは、そんな接点をもたらした。


「元気なのか? あいつは。」
 徹也は懐かしい同窓を振りかえるように、鉄郎に尋ねた。
 すると、鉄郎は笑顔で頷いた。
「もちろんだ。うまくやってるよ。自分がこうしていられるのはあなたのおかけだと、そういってる。」
「そうかい。」
 徹也はかすかに笑った。
 一方で、鉄郎は悲しい顔をした。
「でも、そいつも悲しがる。あんな男のために、あなたは“実の妹”に銃を向けている。あなたに、俺を撃つことはできない。妹の言葉だって信じられないあなたに、人を信じることはできない。だから、五月のようなヤツに利用されてしまう…。織野は、俺を殺したくらいで解体できるような、そんな生易しい組織じゃない。俺だって、あなたと目的は同じだ。憎いんだ、織野の組織が。でも、その俺ですら、今はどうすることもできない。だけど、あなたのような人が力になってくれたら、少しは状況が変えられたかもしれない。残念でならないよ。こんな形であなたと会うことになるなんて…。」
「お前は…。」
 徹也は、銃をとり落とした。
 徹也にとっても、鉄郎の本心は意外なものだった。
 しかし、その鉄郎の心が、徹也の気持ちを変えさせた。
 そして、徹也は、自分の過ちを認識した。


 徹也は、アキが義理の妹だと知っていた。
 それでも、実の兄と思って疑わずに慕い続けるアキのことを、徹也は、実の妹以上に愛しく感じていた。
 そして、徹也はアキを守ろうとした。
 彼女の内の中に秘めていたものを。
 鉄郎は、何も知らない。
 しかし、何かがあることを、鉄郎は悟りかけている。
 その気持ちとアキを思う気持ち。
 さらには、織野の人間でありながら、織野を解体させようとする目的が同じであることを、徹也は知った。
 徹也は、その償いをするために、一つの答えを引き出した。
 それこそが、アキと鉄郎をかばい、命がけで二人を逃がすことだった。
「兄さん、やめて!」
 アキは悲鳴をあげた。
 兄を助けようとしたものの、それは叶わなかった。
「二人ともすまなかった。鉄郎くん、アキを守ってやってくれ。わかったな。」
「はい…。」
「アキ、お前には鉄郎くんがいるだろ。彼にすべてをまかせたらいい。行くんだ、早く!」
 徹也は、二人の体を押しやると、がむしゃらに五月と部下たちに向かって銃を乱射した。
 その一方で、逃げた鉄郎とアキは、徹也の悲鳴を耳にした。
 狂乱しかけるアキをかばいながら、鉄郎は、最後までアキを守り通した。