9.深 淵 3

 あたりは夕暮れの景色に変わった。
 地上と同じように空は茜色を帯び、アトラリアの世界は燃え上がるような朱色に染め上げられる。
 鉄郎は、澄んだ泉の水に体を浸からせながら、ぼうっとそんな光景を眺めていた。
 アトラリアには、風呂と呼べるものはない。
 天然の泉が、人々の公衆浴場として利用されている。
 その習慣を知ってから、地球人の仲間達も、指定の泉で沐浴するようになった。
 今は、鉄郎ただ一人だ。
 そのほうがいいと、鉄郎は思った。
 いろいろと思い巡らしたいことが山ほどある。
 心の整理をつけるのに、そうしていられるほうがここちよかった。
 浮かんでは消えていくさまざまな思い。
 いつしか、鉄郎の心は過去の自分にもどっていった。


※ ※ ※ ※


 鉄郎が、織野財閥にゆかりがある者だと知らされたのは、10歳のときだ。
 知らせたのは、母の妹と名乗った女だった。
 母親と瓜二つだったその女は、母親が、交通事故で死んだ直後、突然、鉄郎の前に現れた。
 鉄郎は混乱した。
 今、死んだはずの母親が、どうして目の前にいるのか、わからなくなってしまった。
 しかし、その女は母親の年齢よりも、十歳以上も若かった。
 女は、静香と名乗った。
 静香は、自分が予約したホテルに鉄郎をかくまうと、その目的を話しはじめた。
 母親より数ヶ月前、仕事上の事故で、死んだことになっていた父親は殺されたということ。
 そして、母親も、同じ運命をたどらされたということ。
 そんな鉄郎の両親は、鉄郎が生まれる前に、両親の親達とケンカ別れして、疎遠になっていたという。
 しかし、鉄郎の両親の親。
 つまりは鉄郎にとって、祖父祖母にあたる二人が、息子夫婦と和解し、鉄郎に事業を継いでもらいたいという思いがあり、それを伝えるために、祖父祖母の代理で迎えにきたことを告げた。
 あまりの話に、幼い鉄郎でさえも、いたたまれない気持ちになった。
 しかし、静香の言葉が、鉄郎に一つの決心をもたらした。
「どうして、こうなってしまったのか、知りたいとは思わないの? すべてを知るために、織野に帰りなさい。あなたにとって、これは、そのための里帰りなのよ。」
 鉄郎は、静香に誘われて織野家にもどった。
 迷いと不安だらけだったが、鉄郎には、他に行くべき場所がなかった。
 鉄郎は、その時から「御曹司」のレッテルを貼られた。
 学校も転校させられ、それまでの鉄郎の過去は、すべて白紙にされた。
 最初、鉄郎は、新しい環境に馴染むだけで精一杯だった。
 織野。そこはただの家ではない。
 総長、織野源三を創始者として、源三一代で、世界中に富と名声を知られるにいたった複合企業の名だ。
 経営する主な企業の代表者は、織野一族の人間がそのポストについている。
 今では珍しいとされる血縁企業組織。
 その総元締めにあたる大家元だ。
 本家の家に住むのは、源三とその妻、そして静香と鉄郎の四人だけだが、二十人近い、「スタッフ」と呼ばれる世話役の男女が同居している。
 さらに、そのスタッフの総元締めと呼ばれる人物が、執事の時田だ。
 彼らは、常に訪問が絶えない来客の接待と、家の雑事のいっさいを任されていた。
 その規模の大きさからしても、普通の家庭環境とは、まるで違う別世界だ。
 鉄郎は、祖父からある依頼を受けた。
「源三の後継者として、今の事業を継いでほしい。そのために、しっかりと勉強して知識を身につけておくれ。」
 勉強というのは、後継者になるための、特別な英才教育のことを意味した。
 鉄郎は、通常の学校の勉強だけではなく、その知識をも身につけることを、約束されてしまったのだ。
 しかし、鉄郎には確固たる目的があった。
 両親が殺された謎を知る。
 その犯人は、織野に関係した人間であることに間違いない。
 そして、その犯人を見つけ出す。
 親族たちは、鉄郎の父親が、母親を利用して財産を横取りしたと、陰口を叩いた。
 そのために、星野の姓を名乗ることに、あまりいい印象をもたれていなかった。
 そんな両親の汚名を返上して、両親を蔑む連中を見返してやる。
 それが最終目標になった。
 鉄郎は、源三の偉大さに触れて、最初の目標を源三においた。
 仕事の内容は、鉄郎にはわからない。
 しかし、商談や会見など、時には二百人ほどの客が押し寄せる、迎賓館なみの家の様子や、この家の雑事のすべてをとりしきる、時田の仕事ぶりを見ていて、鉄郎は、源三が抱える事業の大きさを、身をもって痛感した。
 それから、鉄郎は、意地で、その過酷な教育プログラムをこなしていった。
 徹底的に叩き込まれた、上流社会の常識と厳しいしきたり。
 そして、細やかな立ち居振る舞い。
 ひたすら努力して、それらを身につけようとした鉄郎のがんばりは、周囲を驚かせた。
 無知だった普通の子どもは、礼節をわきまえた聡明な少年に。
 さらには、その実力が有望視される青年実業家の卵として。
 目覚しい成長をとげていった。
 鉄郎は、そんな生活の中で、親代わりになって身の回りの世話をしてくれる執事の時田と、姉のように接してくれる静香を慕いはじめた。
 特に、静香には母親の面影を重ねるだけではなく、憧れの女性としての気持ちを高めていった。
 やがて、鉄郎は中学に進学した。
 そこで、自分の今までの学業の成果を試される機会を、鉄郎は偶然に得ることになった。


 鉄郎は、大人の会話の立ち聞きから、強引に会話のなかにわりこんだ。
 大人達は、鉄郎を邪見にしようとしたが、さりげない会話の間に、鉄郎は、大人達では導き出せなかった解決策を簡単に思いついた。
 その手腕が認められて、鉄郎は初めて、重役達の交渉人として、パーティーに出席した。
 そして、与えられたホスト役をみごとにこなした。
 周囲の鉄郎に対する評価は、この機を境にぐっと高まり、織野一族の、貴重な宝のような存在になった。
 源三は、その技量を見込んで、その後も鉄郎を重宝した。
 それから、鉄郎は一年間にわたって、源三の助手として、幾度かホスト役を務めた。
 しかし、鉄郎はその間に、隠れた織野の裏の一面も、知ってしまうことになった。
 パーティーに鉄郎が出席すると、列席した人々は、必ず鉄郎を賞賛した。
 愛らしい立ち振る舞いと、大人びた知性を持つ鉄郎は、人気の的だった。
 しかし、その裏にあるのは、莫大な織野の資産と権力だ。
 誰もがその資産を狙い、鉄郎を利用することを考えた。
 なぜなら、鉄郎は、創始者の寵愛を受けた、宝物なのだから。
 鉄郎は、その事実を感じたとき、すべてのイベントや催しを、疎ましく思うようになった。
 さらに、鉄郎は、織野の経営組織にも疑問を抱き始めた。
 一代でその富を肥やし、国家の権力者さえも、取り込む力を持った源三。
 その影で、犯罪シンジケートの総元締めとしての顔があることも、まこと密かに噂された。
 だが、そのことを確かめる術はなかった。
 国家なみの力を誇る大企業に近づくものは、ことごとく排除された。
 また、多くの人間は、その巨大な権力の逆鱗に触れるのを恐れて、けっして深入りしようとしなかった。
 謎はけっして暴かれることがない。
 疑惑としてしこりを残す程度で、黒いヴェールに覆われた闇の組織は、永遠に、その地位と誇りを保ち続ける。
 それが事実ならば。
 鉄郎は、一族そのものの存在を、許すことができなくなっていた。
 だが、織野一族が抱える闇の力は、根本からも湧き出ていた。
 その問題は、さらに根深いところにまで達している。
 その一つが。
 織野一族の中にいる人物の存在だった。
 亡き父親の弟にあたる正という男。
 彼が、後々まで、鉄郎を苦しめる存在になることを、この時の鉄郎は、夢にも思わなかった。
 しかし、唯一の肉親であるはずの鉄郎を、この叔父はことごとくあしらった。
 その理由は、優秀な兄の血を持つ鉄郎をねたんでのことだと、静香に聞かされたものの、そんな軟弱な叔父のことを、鉄郎は叔父とも思わなかった。
 そればかりではない。
 その叔父と静香がつきあっているという現実も、鉄郎をさらに苛立たせた。
「別れてほしい。」
 鉄郎は、そう何度も静香に願い出たが、静香は叔父をかばうばかりで、二人の間の進展は何もない。
 鉄郎は、静香の身の危険を、常にどこかで感じていた。
 そう思うものの、静香をかばう手段が、鉄郎にはまったくなかった。
 その上に。
 外部からの圧力がかからない一族の中は、荒れに荒れていた。
 その最大の原因は、重役の地位をめぐっての、激しい骨肉の争いだ。
 株の非公開の一件も絡んで、親族たちは、己の欲望のために奔走した。
 会社の方針では、一部をのぞいた株は、会長から順番に株の公開権利を認められていたために、上の地位につくほど、高額の資産を受け取る仕組みになっていた。
 しかし、親族たちは、平等に株の公開を望んでいたが、会長である源三は、それを認めようとはしなかった。
 源三を引退させることもできない状況を打破するために、親族達は、いくつかの派閥を作って、源三に対抗するようになった。
 実力があるものを重役につかせ、派閥グループの仲間で得た富を分配しあうという方法だ。
 グループ同士の対抗心と摩擦は、熾烈を極めた。
 彼らは源三を失脚させようとして、逆に、命を狙われた鉄郎の両親の二の舞になるのを避けるために、遠巻きに源三の様子を伺いみている。
 鉄郎は、そんな噂を耳にした。
 そして、鉄郎は、欲にからんだ血縁者たちからもターゲットにされて、否応なく、派閥の中に引き込まれようとした。
 親族たちは源三を諦め、源三がもっとも大切にしている、鉄郎に白羽の矢をたてた。
 その結果、鉄郎は、いつの間にか、派閥闘争の中心的存在になってしまい、望んでもいなかった財閥抗争の渦中に、もまれることになった。
 鉄郎は、それでも確固たる意志を貫いて、安易な誘惑には乗ろうとしなかった。
 しかし、鉄郎を誘惑しようとする者は、後をたたなかった。
 そのもっとも危険な手を使ってきたのが、静香と母親の従妹にあたる昌子だ。
 彼女の執拗な誘惑をどうにか振り切って、彼女が手配したホテルから逃げ出してきたものの、鉄郎は、自分の心が、歪みかけているのを強く感じた。
 昌子が使った手段。
 それは、思春期に達した、鉄郎の心を巧みに操ろうとした甘い誘惑だ。
 鉄郎は、それを理解していながら、逆に、昌子を利用しようと企んだ。
 今まで考えもつかなかった性欲という名の武器。
 鉄郎は、自分にもそれがあることを知った。
 鉄郎の衝撃は大きかった。
 自分の考えや価値観が、どこかで狂わされている。
 そして、ことごとく嫌悪した。
 自分の立場。自分自身。この世界。周囲の人々。この環境。
 鉄郎が、望んだもの。
 それは、学校の友人たちが何気なく送る、ごく当たり前の日常だ。
 ちょうど、一年。
 源三の耳や足となり、助手として精力的に動きだしてからの日々。
 それまで耐えていたものが、一気に爆発した。
 だが、それはほんの序章だった。
 鉄郎の悲劇は、ここから始まりの幕を開けた。


 十五歳。
 この時、鉄郎は、高校生になっていた。
 そして。
 昌子の一件があった翌朝、鉄郎は、源三の自室に赴き、自分の気持ちをぶちまけた。
「やめたいんだ。」
 それが、第一声だった。
 しかし、源三は、鉄郎の気持ちを軽く一蹴した。
「お前は織野にとって必要な存在だ。利用できるものは何でも利用する。お前は、わしの補佐をすることで、ビジネスの理念が学べるのだ。何の不服がある?」
 その鉄のような思考に、鉄郎は猛反発した。
「間違ってる! いつもそうだ。あなたは俺を物のようにしか扱わない。もう嫌だ。人の裏をかいたり、心の中を探ったり。あなたは、俺の気持ちを少しも理解しようとしない。俺は、ずっと、あなたのためだと思ってやってきたのに!」
「それがお前の才能だ。」
「みんな、自分のことしか考えちゃいない。そんな連中のご機嫌とりの役なんか、もうまっぴらだ! そんな連中にいいように操られるのも。争いに巻き込まれるのも!」
 鉄郎は、最後にこういい捨てた。
「あなたが、一番、俺のことを利用しようとしているんだ! オヤジの二の舞になんかなりたくない。最低なんだよ、じいさん!」
 鉄郎は、そのまま源三の部屋を飛び出した。
 その後、鉄郎に突きつけられたのは、祖母が持つ銃口の切っ先と、脅しともとれる忠告の言葉だった。
「織野の人間は、人を殺すことも何とも思わないわ。逆らい続けたら、今度、お前がそうなってしまうかもしれない。私達は、そんなことを望んではいません。いつか、両親がなくなった真実が明らかになる。そのために、お前は、このまま黙って、私達のために働き続けておくれ。そうしている間は、お前も安全でいられるのだから。」
 そして、祖母は、源三から頼まれたという、次のもてなしの客のリストと資料を、無造作に置いていった。
 鉄郎は悔し涙を流した。
 怒りを通り越して、憤りの激しさで震えがとまらなかった。
 抜け出したくても抜け出せない、頑丈な鉄の檻の中で。
 鉄郎は、むなしくあがくしかないのだ。


 その日の午後。
 鉄郎は、納得いかない感情を抱えたまま、本社の資料室にこもり、一人で資料整理に追われた。
 この作業は、鉄郎が本格的に仕事に携わることを決めてから、ずっと続けている作業だ。
 しかし、この日は違った。
 まったく前に進まなかった。
 だらだらとやり続けるそんな時、鉄郎は、偶然、古い資料のコピーを発見した。
 それは、鉄郎の父親が書き記したものだった。
 鉄郎は、緊張しながら、その報告書の中味を読み進んだ。
 遠い昔に見た記憶がある父親の筆跡。
 その字で書かれてある内容とは、織野財閥がとある契約に関わったときに、起こした不正の事実だった。
 父親は、この報告書の中で、克明にそれまでの取引すべてに偽りがあったことを第三者に知らせていた。
 鉄郎は、息を飲んだ。
 最後に書き記された言葉に心を奮わされた。
“おそらく、私の命は保障されはしないだろう。しかし、私は、この事実を明白にしなくてはならない。愛する加奈江と、まだ、生まれてはこない私達の子どものために…。”
 報告書に解決策が書かれてあるはずがない。
 しかし、鉄郎は何度も文面の中味を読みあさった。
 父親が証明できなかった真実。
 それを、鉄郎が証明することができるのか。
 しかし、事実を知った鉄郎にも、死の魔の手がのびるのは確実だ。
 鉄郎は、その策を思い巡らしながらも、いったいどうすればいいのだろうと、迷い、苦悩し続けるしかなかった。


 鉄郎に危険が迫ったのは、その直後だった。
 屋敷にもどった鉄郎に、いきなり、静香が襲いかかった。
 鉄郎には、理解できなかった。
 静香の身に何が起きたのか…。
 しかし、すぐに、その原因が明らかになった。
 正の歪んだ愛情を受け続け、静香は、幻覚を見てしまうほどに、麻薬中毒に犯されてしまっていたのだ。
 静香は嫉妬に狂った。
 よりにもよって、昌子は、鉄郎を誘惑した一部始終を、静香に暴露した。
 でっちあげられた、でたらめの既成事実。
 それは、腹いせの何物でもない。
 しかし、静香は、その言葉を鵜呑みにした。
 それらをふまえての、静香の無謀な暴挙だった。
 もはや、鉄郎の言葉など、静香には届かない。
 そのかわりに、鉄郎が聞かされたのは、一方的に鉄郎の父親への思いを募らせた静香が、振られたと思い込み、自暴自棄な気持ちで弟の正に走り、正のいいなりになり続けるしかなかったという、あんまりな理屈だった。
 静香は、悲しい女の性をぶちまけた。
 正常な判断ができなくなった異常な女の行動。
 歪んだ鉄郎の父親への愛は、息子の鉄郎に、いや、父親と混同し、区別できなくなった鉄郎に一気に注がれた。
 鉄郎は、逃げ場をなくした。
 鉄郎は、静香の自室に監禁されて、薬を含まされ、その上で、もて遊ばれようとした。
 その時に強いられた屈辱は、大きな痛手だった。
 耐えようとしたとき、鉄郎は、かけつけた執事の手で何とか救われた。
 結果、大事にならなかったものの、鉄郎が受けた心の傷は計り知れない。
 もう、誰も信じられない。
 そして、何を心のよりどころにしていいのかもわからない。
 そのどん底の状況を打破する答えを与えたのは、鉄郎を救い出した執事の時田だった。
 鉄郎は、初めて、時田の本心を知った。
 時田は、織野のもとで、ずっと忠実に職務をこなしてきた人間だ。
 しかし、その気持ちは、鉄郎とまったく同じだった。
 織野が重ねてきた、幾つもの不正行為を、黙認するしかないというジレンマ。
 そして、鉄郎の両親を救うことができなかったという苦しみ。
 時田は、織野一族の解体のために、ずっと、影で行動してきたのだ。
 時田はこういった。
「私には、織野を何とかしようという力は持たされておりません。そのために、従い続けるしかありませんでした。しかし、あなたは総長代理の地位を得られました。重役の一人として、本社の重要機密書類やデーターを持ち出すことができます。私が、一年前、あなたに役目を引き受けてはどうかと提案しました。そのすべてを、あなたに知っていただきたかったからです。内部から、実力があるものが切り崩しにかかれば、織野は必ず崩壊します。それをやるかやらないかは、鉄郎様ご自身でお決めください。あなたは、今まで自分を犠牲にして、織野に尽くしてこられました。しかし、これからは、あなたの思うとおりに生きていきなさい。」
 鉄郎の決心は揺らがなかった。
 時田に、きっぱりといいきった。
「俺が織野にもどってきたのは、父さんと母さんを殺した犯人が誰なのかを知るためだ。それが、たとえ、じいさんであっても、犯した罪は償ってもらうつもりだ。」
「悲しいことですが。その通りです。でも、源三様にしてみれば、あなたにまで裏切られてしまったという、失望があります。とても気の毒な方です。」
 鉄郎は心を沈ませた。
 一方で、時田の中には、主人を裏切る後ろめたさがあることも感じた。
 その後、時田は、一つのマグナム銃を鉄郎に手渡した。
 それは、父親が、鉄郎のために残したものだという。
「時期がくれば、あなたにお渡しするようにと、鉄二様からお預かりしていたものです。しかし、鉄二様は、あなたにこれを渡す日が来ないことを望まれていたでしょう。これが、織野との闘かう第一歩となってしまうからです。」
 鉄郎は、その銃を震える手で受け取った。
 父親の思いが込められた銃。
 触れるのさえも、怖く、躊躇うほどだった。
 鉄郎は銃の扱いを、すでに、教官だったロバートから学んでいた。
 最初は、どうしてこんなことを学ぶのか、鉄郎にはわからなかった。
 しかし、それが、いつか鉄郎には必要になるだろうと、時田は予想していたのだろう。
 時田は鉄郎にいった。
「後のことは何も心配なさらないように。あなたは、あなたの人生に悔いが残らぬように。それだけを考え、真っ直ぐに前を見据えて、進んでいってください。今まで、本当にありがとうございました。」
 時田は、織野の執事として未婚のまま、人生を捧げてきた人間だ。
 しかし、鉄郎の面倒をまかされたことで、家族に恵まれることがないと思っていた時田にも、愛情を注ぐことができる息子に巡り会えたのだ。
 また、鉄郎にとっても、鉄郎の成長する姿を温かく見守ってくれたことは、感謝してもし足りないと思った。
「お礼をいうのは僕のほうだ。ありがとう、執事…。ううん、お父さん…。」
 鉄郎は、時田にすがりつくと、しばらくは、離れられなかった。
「できることなら、全部夢であってほしい…。あの頃にもどりたい。僕が初めてこの家に来たときの日に…。みんなが優しかった…あの頃に…。」
 そういいながら涙を流す鉄郎を、時田は優しく促した。
 鉄郎は、そのまま織野を去った。
 そして、そんな我が子の成長を見届けた時田は、うやうやしく頭を下げた。
 忠誠を尽くす主人であるとともに、家族と暮らすという幸福に浸らせてくれた人物だ。
 鉄郎への感謝の気持ちは、とても深かった。


 鉄郎は、意外な人物の協力を得て、困難といわれ続けた内部告発に成功した。
 それが、ロバートだ。
 時田の依頼なのかは、鉄郎にはわからない。
 しかし、鉄郎を助けるためだけに、ロバートは、わざわざ来日してきた。
 ロバートの助けがあったとはいえ、無傷というわけにはいかなかった。
 容赦なく、阻止しようとしてきたプロのガードマン相手に、アクション映画のような激しい攻防が繰り広げられた。
 むしろ、命があったことのほうが奇跡だった。
 自由を勝ち取りたいという強い一念で、起こした鉄郎の行動。
 それが実を結び、織野源三一家は没落の一途をたどった。
 地位や名誉を剥奪されて、財界トップの座から失脚させられた源三。
 持病の悪化で、この世を去った祖母。
 そして、静香は療養中に自殺を図ったと、後から鉄郎は聞かされた。
 鉄郎は、心に傷を負いながらも、普通の一人の少年として、生きる決意を固めた。
 その時、鉄郎は「織野」という姓を捨てた。
 鉄郎の肉親は誰もいない。
 だが、それで、すべてが終わったわけではない。
 ますます激化する後継者争い。
 一つの一族を潰した鉄郎は、財界世界からも危険な存在として恐れられ、再び、その身を狙われることになる。
 あるいは、その才能を欲して、利用したがる者も現れるだろう。
 何気ない日々の中で、鉄郎は、その危険を、常に自覚しながら生活し続けた。
 そんな鉄郎にとっての唯一の救いは、鉄郎の存在が、公表されなくなったことだった。
 イギリスの全寮制の学校へ留学したと報じられたことで、世間にそう浸透していった。
 しかし、一度は沈静したかのように思えた荒波は、わずか二年後に、また、鉄郎を飲み込み渦巻きはじめた。