7.アクアの海の攻防 5

「なんだ、これは…?」
 数分くらい、人魚の後について泳いだトリトンは、目の前に漂ってきた巨大な物体にびっくりして泳ぎをやめた。
 直径七十メートルくらいはあるだろう。
 円盤を思わせるような、楕円形の岩の浮遊物だ。
 かなりの年月が経っているらしい。
 海草やイソギンチャクやサンゴなど、多くの付着物が物体の表面を覆い尽くしている。
 しかし、その異様な物体にも生命の息吹があった。
 この海に棲む小魚が物体の周囲に集まり、その小魚を追い求めて、さらに大型の魚達が集まってきている。
 そして、大型の魚達を狙って、イルカやエイ、時には鮫も集まってきて群れながら泳ぎ回っていた。
 先ほど見かけた人魚達も、この物体の周りを遊泳している。
 後から追いついてきたアキも、その光景を眺めて目を丸くした。
「これ、いったい何?」
「何かの死骸だよ。おそらく化石だ。」
 説明したトリトンは、案内役の人魚に視線を向けた。
「まさか、こいつを俺に…?」
「はい。あげます…。」
 人魚は当然のように答える。
「あっ…!」
 トリトンは死んだ。
 アキは、クスリと笑った。
「よかったわね。素敵な贈り物で…。」
「嫌味だな…。」
 トリトンはふてくさった。
 アキはトリトンの顔をのぞきこんだ。
「何か使い道はあるかしら?」
「使い道って…。」
 トリトンは顔をしかめた。
「このままにしておいて、魚の住み家にしておいてやるか、海上に持っていったら、浮島にして陸上の利用も考えられるけど…。あるいは、村の人の道具作りの材料…。」
 トリトンは肩を落とした。
「俺には、何の得にもならない。せいぜい、研究材料がいいとこだ…;;」
「もっと、マシなものがもらえると思っていたんでしょ?」
「バカいうな…!」
 トリトンはそっぽを向いた。
 すると、人魚がトリトンの腕にすがった。
「助けて…。」
 トリトンはえっとなる。
 アキも表情が変わった。
 人魚は震えていた。
 その怯え方は異常だ。
「どうしたの? なぜ、そんなに震えているの?」
 アキが優しい声で聞くと、人魚はか細い声でいった。
「私達を苛める奴がいる…。私達はそいつを倒せない…。でも、あなた方なら大丈夫。きっと、助けてくれる…。」
「君達を苛める奴って?」
 トリトンが聞いた。
 人魚が口を開いた。
「ペイモス。半魚人の化物。私達はペイモスの奴隷。逆らったら、ひどい目にあわされてしまう…。」
「ペイモスってどこにいるの?」
 アキが続けて尋ねると、人魚はスッと物体を指し示した。
「あそこ…。あの、“亀のエネシス”の死骸を寝ぐらにしている。」
「“亀のエネシス”の死骸!?」
 トリトンとアキは思わず合唱した。
 もう一度、二人は、巨大な浮遊物をじっくりと見つめた。
 いわれてみれば、確かにそれは亀の甲羅だ。
「こんな大きな海ガメなんて、見たことがない…。」
 アキは息を飲んだ。
 トリトンは焦りだした。
「あれが、俺達が探していたエネシスか? しかも、死んでしまったカメなんて…!」
「まさか、エネシス違いでしょう…!」
 アキはかぶりを振ると、もう一度、人魚に問い返した。
「人魚さん。私達は、エネシスという隠者を訪ねてきたの。他に、エネシスという人はいませんか?」
「いいえ。」
 人魚は首を横に振った。
「エネシスといえば、みんな、“カメのエネシス”と答える。他にはいません。」
「そんな…。何かの間違いだ…!」
 トリトンが反論しようとした。
 すると、人魚は、強引に二人の手を引っ張った。
「早く来て! みんながまた苛められてしまう…! 甲羅の中に。お願い!」
「待てよ!」
 トリトンは呼びかけながら、人魚の後を追った。
「半魚人退治なんて、聞いちゃいなかった…。」
 トリトンはぼそりと呟いた。
「ケインやユーリィじゃないけど…。人魚に報酬をもらわなきゃ、割が合わねぇ…!」
「あなたまで、そんなことを言い出して…!」
 アキが軽蔑を含んだ口調で返すと、
「だって、人間だもん…!」
 すねたようにトリトンはいった。
 二人は、カメの死骸に近づいた。
 しだいに、その巨大な規模に圧倒された。
 まるで小島のようだ。
 そして、ぽっかりと大きく開いた中央の洞穴へと、二人は案内された。
 だが、それは洞穴ではなく、カメの首の入り口だ。
 中には、白骨化したカメの頭と、ヒレの化石がいすわっている。
「恐竜みたい…。」
 アキとトリトンは呆然と見とれた。
 その時ー
 骨の奥から、傷だらけになった人魚が飛び出してきた。
「ひどい…!」
 アキは顏を曇らせる。
 一方で、二人を案内した人魚が悲鳴をあげた。
「ペイモスだわ…!」
 とたんに、鋭い殺気が駆け抜けた。
 トリトンとアキの間に。
 身構える二人に、鉄の鎖が飛びかかってきた。
「逃げろ!」
 トリトンが叫んだ。
 アキと人魚達が、トリトンに続いて、フルスピードで脱出する。
 アキは人魚達をかばい、しんがりをとった。
 また、鎖が飛んでくる。
 外海に飛び出した瞬間、アキの首に鎖が巻きついた。
 呻きながら、アキはオーラを放出しようとした。
 が、先に、アキの方が襲われた。
 鎖を伝わったオーラの電撃に。
 魂切るような悲鳴をあげて、アキはグッタリとした。
「アキ!」
 トリトンは絶叫した。
 急いで引き返した。
 トリトンは剣を抜いた。
 横手に回ると、アキに絡みついた鎖を断ち切ろうとした。
 だが、トリトンにも別の鎖が飛んでくる。
 トリトンは身をかわす。
 すると、それまで無関心だった鮫やエイなどの獰猛な魚達が、トリトンめがけて攻撃をしかけてきた。
「くそっ、いったい何なんだ!」
 トリトンはわめいた。
 状況がつかめないまま、トリトンは、先にそいつらと戦わざるを得なくなった。
 突進してくる鮫やエイ達をかわして、次々に剣で消滅させていく。
 入り乱れながら、トリトンはアキに視線を送った。
 アキは、どうにか意識を保っていた。
 鎖を解こうともがいている。
 そうすると、電撃の攻撃をくらい続けて、アキの力はしだいに失われた。
 アキの体は、ゆっくりとカメの死骸の方向に手繰り寄せられていく。
 鎖の主は、人間の姿をしているものの、オコゼのようにひしゃげた顔を持つ醜い半魚人だ。
 でかすぎる不気味な目が、怪しい光を放っている。
 顔の輪郭まで大きく裂けた口には、牙が生えていた。
 顔だけではない。
 背中には背びれを持ち、手や足には小さな水かきがついている。
 上体は裸で腰布をまいていた。
 しかし、くすんだ赤い肌のそれは、人間と呼ぶにはほど遠い生物だ。
 アキは怯えた。
 あらゆる生物を慈しむことができるアキの中で、「醜い」という偏見の感情が生まれた。
「いやっ!」
 残る力で、アキは抵抗し続けた。
「がんばってくれ!」
 トリトンは強く願った。
 すぐ目の前にいるアキを助けてやれない。
 はがゆかった。
 原因はトリトンにある。
 その責任をとらなくてはならない。
 焦りが頂点に達した。
 ペイモスは、トリトンを逆なでした。
 しゃがれた声で嘲笑った。
「もがけ、小僧! わしの女に手を出した代わりだ。わしが、この女をいただいてやる!」
「何いっ!」
 トリトンの顔が怒りでひきつった。
 一か八か、魚どもをすり抜けて、突進を敢行する。
 だが、新手の鮫に包囲された。
「トリトン!」
 アキが叫んだ。
 あのままでは、トリトンはいずれ力をなくす。
 一抹の不安がアキを狼狽させた。
 気をとられている間に、ペイモスがアキの後から抱きついた。
「離して!」
 振りほどきたい一心で、アキはもがき続けた。
 しかし、力で負けた。
「私をどうする気?」
 アキはペイモスを睨みつける。
 ペイモスは不気味な笑いを浮かべた。
「わしに一生つくせ。」
「お断りよ!」
 アキは語気を荒げた。
 ペイモスの形相が変わる。
「このわしに逆らったら、ただではすまん!」
 ペイモスは容赦がない。
 アキを縛り上げた鎖を締めつけた。
 アキの呻き声が海中に響いた。
 その声を耳にした時、トリトンの怒りが爆発した。
 両手で握った剣を頭上に上げる。
 精神を集中させるとー
 剣から、まばゆい光量があふれた。
 光が爆発する。
 伝説のオリハルコンのエネルギー。
 高熱と光を発して、すべてを消滅させてしまう“海の太陽”ー
 まとわりついていた魚どもは、一瞬で蹴散らされた。
 トリトンは、ペイモスに猛然と迫る。
 対峙したトリトンは、激しい口調でペイモスに叫んだ。
「アキを離せ! お前の相手はこの俺だ!」
 ペイモスはトリトンを見据えた。
「ただの小僧とは違うな。しかし、わしを倒すことはできん!」
 トリトンは身構えた。
 次は必ず仕掛けてくる。
 そう睨んだ。
 だが、ペイモスに攻撃をしかける気配はない。
 トリトンはペイモスを挑発した。
「どうした? 女をいたぶることしか芸がないのか?」
「わしは、“アクア”の主だ。貴様など簡単にひねりつぶしてくれるわ!」
 うそぶいたペイモスは、不可思議な呪文を唱え始めた。
 構わずに、トリトンはペイモスに肉迫する。
 が、異様な力が、海底を激しく揺さぶった。
「なんだ?」
 トリトンはハッとした。
 不気味な振動は、潮の流れに影響を与えた。
 海底が荒れた。
 大きく波打つ。
 すさまじい水流が、すべてを押し流す。
 やがて、巨大な渦が出現した。
 トリトンであっても、泳いでいられない。
 あっという間に、水流に巻き込まれた。
 人魚達と一緒に悲痛な叫びをあげる。
 ペイモスは哄笑した。
 トリトンの無様な姿が、おかしくてたまらない。
 すでに、アキの意識はなかった。
 ペイモスは満足げに手中にした美しい女を見返した。
 トリトンの意識は混濁していった。
 上下感覚もなくし、軽い吐き気がこあげてくる。
 ふと、トリトンは足元に視線をやった。
 とたんにギョッとした。
 真下から、不気味な生物が浮上してくる。
 蠢く無数の触手。
 得体の知れない赤黒い巨大な物体。
 トリトンは息を飲む。
 全身が、総毛立つような悪寒を感じた。
 いきなり現れたのは、エネシスの化石以上でかいイソギンチャクだ。
 人間など一飲みにされそうな大きな口が、パクパクと中央で開閉している。
「こんなの、どこから沸いてきやがった!」
 トリトンは叫んだ。
 イソギンチャクの太い触手が、人魚やトリトンに襲いかかる。
 人魚達をかばいながら、触手を剣で薙ぎ払わなくてはいけない。
 トリトンはイラついた。
 いっそう焦りが深まった。
 そんな時に。
 突然、オリハルコンの剣の力がなくなった。
 トリトンは愕然とする。
 体の力がサーッと抜けた。
 自由に動き回れなくなった。
 最悪だ。
 そこに、巨大イソギンチャクの触手が絡みついた。
 トリトンは、イソギンチャクの口の方へと引きずられた。
ー冗談じゃない! こんな化物に食われちまうなんて…!ー
 トリトンはもがいた。
 何とかして、触手を振りほどこうと剣を振るう。
 しかし、触手は、トリトンの体を締めつけていく。
 トリトンの意識がぼーっと薄れた。
「くそっ…!」
 トリトンは舌打ちした。
 絶対絶命だ。
 認めたくないが、トリトンもアキもジ・エンドになりかけている。
 観念するしかないのか。
 しかし、助かる見込みもない。
 そういえば、このアトラリアにやってきて、“死ぬ”と思うことが何度もあった。
 ありすぎて、またか。と思ってしまう。
 マシな死に方を選択できるとしたら、アキと一緒に生贄にされかけた時だ。
 どうせなら、あの時に死んでおけばよかったと、トリトンは真剣に想像した。
ーだめだ、こりゃ…。死ぬ感覚が麻痺しちまってる…!ー
 自分で呆れた時だ。
 イソギンチャクの触手がいきなりちぎれた。
 反動で、トリトンの体は、海中に放り出される。
 あわてて体勢を起こすと、トリトンは頭上を見上げた。
 砂のオプチカル・エレベーターが、ゆっくりとこちらに向かってくる。
 そこにいたケインとユーリィのレーザーライフルが、トリトンに絡みついた触手を切り飛ばしたのだ。
「ケイン、ユーリィ、みんな…!」
 トリトンの顔が明るく輝いた。
 ケインが罵声を浴びせた。
「トリトン、あんた、人魚からいったい何をもらったの?」
 トリトンはオプチカル・エレベーターに泳ぎ寄った。
 笑顔を浮かべると、オウルト語で“愛している”といった。
「アン・ニュイ…。ケイン、ユーリィ!」
「バカね…!」
 ユリが真っ赤になる。
 ケインはわざとそっぽを向いた。
「いったい、どうなっちまったんだ?」
 倉川ジョウが、怒りの口調でトリトンに問いかける。
 トリトンは早口で答えた。
「後で説明する。俺を援護して。あの半魚人からアキを取り返さないと…!」
「どっちが世話を焼かせるんだか…!」
 いいながら、鉄郎は銃を構えた。
「よし、行け!」
 鉄郎が、トリトンに合図を送る。
 その指示に従って、トリトンはペイモスに突進した。
 一方で、ロバートが全員に命じた。
「俺達は、あのイソギンチャクの相手だ。」
「どうやって、あんなデカブツを倒す?」
 島村ジョーがわめく。
 ロバートは軽く答えた。
「集中攻撃だ。」
「軟体動物よ〜;;」
 裕子が嘆いた。
 ロバートが返した。
「ダメージを与えるだけでいい。」
「やるぞ!」
 倉川ジョウが気合いをこめた。
 攻防が展開した。