7.アクアの海の攻防 4

「鉄郎、起きて…。」
 誰かに呼ばれているのを、鉄郎はぼんやりと感じた。
 ゆっくりと目を覚ました。
 おぼろげながら焦点を結んだ。
 赤い髪、モスグリーンの美しい瞳、愛らしい微笑み。
 アキだ。
 鉄郎はフッと脱力すると、寝ぼけたような声を出した。
「アキ、どうしたの?」
 鉄郎は、アキの手を引っ張った。
 いきなり抱き寄せようとする。
「しっかりしなさい!」
 慌てたアキが、軽くオーラを発して刺激を与えた。
 効果的な一発だった。
 身震いして、鉄郎はやっと正気になった。
「何すんだよ…!」
「気がついた?」
 アキはすました表情で、鉄郎に聞き返す。
 そばで見ていたトリトンがにやけた。
「ふーん、そうやって誘いをかけるんだ、鉄郎って。」
「放っとけ…!」
 鉄郎はそっぽを向いた。
 そのまま周囲を見回しながら、呆れたようにいった。
「ここは、いったいどこだ?」
 トリトンが答えた。
「“アクア”。異次元の海の中だ。」
「異次元だって…?」
 鉄郎は絶句した。
 殺風景だった砂漠の光景とまったく違う。
 どこまでも澄んだブルーの世界。
 普通の海の景色ではない。
 透明感に満ち、淡い光で彩られた不思議な空間だ。
 その空間の中を、色とりどりの魚達が遊泳している。
 じっと見つめていると、絵に描いたような、幻想的な世界に吸い込まれそうになっていく。
「マリンアートみたいだ…。」
 呟いて硬直してしまった鉄郎に、アキが声をかけた。
「鉄郎、みんなを起こしてくれる? さっきの衝撃で、みんな意識をなくしてしまったの。」
 鉄郎はハッとした。
 足元を見渡すと、さらに仰天した。
「これ、どうなってんだ?」
 鉄郎やみんながいる場所は、最初に立っていた砂漠の大地の上だ。
 それが、直径五十メートルほどの、魔法陣で区切られた物体に変化している。
 その物体は、ゆっくりと海底に向かって降下していた。
「あえていうなら、砂地の“オプチカルエレベーター”だ。」
 トリトンがいった。
「力場が働いていて、水を堰き止めている。この空間の周りだけ。だから、この空間の中には、ちゃんと空気がある。」
「どこまで行くんだ?」
 鉄郎が聞くと、
「行き着くところまで。」
 トリトンは平然と返した。
「夢を見てるよ、俺は…。」
 鉄郎は頭を押さえつけた。
 三人は手分けして、残りのメンバーを起こしてまわった。
 鉄郎は、ジョーコンビとベルモンドを。
 アキは、レイコと裕子を。
 トリトンは、ロストペアーズとレイラを。
 トリトンは、ケインとユーリィの頬を軽く叩いた。
「ほら、起きて、周りをよく見てみろよ。」
 二人が反応するのを確かめてから、レイラには優しい声で呼びかけた。
 ケインとユーリィは、その態度の違いに怒りだした。
「ったいわねぇ!」
「あたしらを何だと思ってんの!」
「ケインとユーリィ。ロストペアーズだろ?」
 見向きもしないで、トリトンは棒読み口調のまま答える。
 すると、ケインは、ますます頭にきた。
「いったい何を見ろっていうの? あたしの前にあるのは、あんたの黒っこげの足とお尻の肉だけよ! どちらも形はよさそうだけど、焦げすぎちゃって消化不良を起こしそう…!」
 ギクリとしたトリトンは慌てて飛びのいた。
 赤くなりながらわめいた。
「どこを見てんだ!」
 すると、ユーリィも逆襲した。
「そっちが無防備なの! 不可抗力。見えちゃったわ〜。白いアンダーウェア!」
「うるせ〜っ!」
 トリトンは身を震わせて、羞恥に耐えるしかない。
 全員が目を覚ました。
 アキとトリトンから事情を聞かされた一同は、とんでもないという顏をした。
 倉川ジョウは、呆れたように口を開いた。
「やめてくれ…。目的なしの底なしエレベーターなんて…!」
「どーなっちゃうのよ、あたし達…。」
 レイコが影で囁く。
 すると、ぼーっと海中を眺めているアキに気がついた。
 アキがいった。
「不思議…。光がぜんぜんなくならない…。かなり深く潜ったはずなのに…。」
「オリハルコンのせいだ、きっと。」
 トリトンが口をはさんだ。
「だけど…。」
 アキはいいかけて、言葉をなくした。
 その時、海中を優雅に泳ぎ回る美しい女性達を発見した。
 十人ほどが群れている。
 だが、女性達には足がない。
 かわりに、鱗を持つ尻尾がはえている。
 泳ぐ女達は“人魚”の群れだ。
「そんな…!」
 アキは目を疑った。
「彼女達は本物ですか?」
 ベルモンドが悲鳴をあげた。
 後の仲間達は固まってしまう。
 そんな時、アトラリア人のレイラがぽつりといった。
「海人(うみびと)だわ。伝説の…。」
「海人?」
 トリトンがレイラを見返すと、レイラが答えた。
「ええ。昔のアトランティスにはいたって聞いたことがある…。半分は魚、半分は人…。彼らの祖先は、人間だともいわれていた…。」
「人間? 彼女達の祖先が…?」
 トリトンは目を見張った。
 そして、何かを決心すると、エレベーターと海底の境界に近づいた。
 トリトンは目を閉じた。
 精神を集中すると、全身から、ゆらりと淡い色のオーラが放たれる。
「お前…。」
 トリトンの姿を見て、鉄郎は呆然とした。
 確かに、トリトンは、アキと同じ力を持ってしまったのだ。
 トリトンのオーラに導かれるように、人魚の一人がエレベーターの傍に泳ぎ寄ってきた。
ー恐がらなくていい…。なぜ、君達はここにいる? 教えてくれる?ー
 トリトンは思考を送った。
 人魚は困惑したようにトリトンを見つめていたが、やがて、静かに応じた。
ー助けてください…。ー
「助ける?」
 驚いたトリトンは、人魚を見つめ返して声を発した。
ーあなたは私達を守ってくださる。だから、助けてください。ー
「なぜ、俺が、君達を助けなきゃいけないんだ?」
 トリトンが首をかしげると、人魚は手をさしのべた。
ー…一緒に来てください。あなたに見せたいものがあります。ー
「見せるって何を?」
 人魚は、それっきり何も語らなくなった。
 後は、しきりについて来いというゼスチュアを繰り返すだけだ。
「あの人魚、あなたを誘っているの?」
 ユーリィが呆れたようにいうと、
「うん。来いって。見せたいものがあるらしい。」
 トリトンが答えた。
 ケインが睨みつけた。
「まさか、ほんとについて行く気?」
「だって…。行ってみなくちゃわからないよ。」
 トリトンは言い捨てると、おもむろに海に飛び込もうとした。
 ケイはスッと目を細める。
 瞬間、トリトンのマントの裾を引っ掴んだ。
「わっ…;;」
 トリトンは後ろにのけぞった。
 マントの紐で首を締め付けられて、息をつまらせた。
「邪魔するな!」
 トリトンは逆上する。
 ケインはきつく言い張った。
「甘いわ! 素直に行けると思った?」
「エネシスという人物に会うというのが、目的じゃなかったのか?」
 島村ジョーも口をはさむ。
 トリトンは平然と言い返した。
「だけど、こうもいわれたぜ。あるものはすべて見ろって。」
「“女に釣られろ”とは、誰もいってない。」
 鉄郎は肩をすくめた。
「まさか“女”って、あの人魚のこと?」
 トリトンが身を乗り出すと、鉄郎は冷ややかにいった。
「女の尻を追っかけると、ロクなことにならないぞ。誰かさんの教訓だ…。」
「“誰かさん”っていうのは、俺のことか?」
 ジョーが不満げにいうと、鉄郎は冷ややかにいった。
「お前のことだなんて、誰もいってない。それとも、何か心当たりがあるのか?」
「お前な…!」
 掴みかかるジョーを、鉄郎は逆に押しとどめた。
 トリトンは苦笑する。
 苛立った倉川ジョウがわめいた。
「真面目にやれ!」
「こわ…。」
 トリトンは怯えた振りをした。
 しかし。
 いきなり視線の方向を変えると、反対側の海底を指して叫んだ。
「すげぇ! 美形の人魚〜!」
 えっとなった一同は、その方向に目を向けた。
「どこ、どこにいるの? 美形の人魚!」
 ケインが興奮気味に、外の海底をくまなく捜索する。
 反射的に、トリトンのマントを離してしまった。
 その隙をついて、トリトンは、素早く海の中に飛び込んだ。
「騙したわね〜!」
 気がついたケインは、恨めしげにトリトンを睨む。
「バカ…!」
 ユーリィが罵倒した。
 全員が、がっくりと肩を落とした。
 水棲能力を持ったトリトンは、水の中にいてこそ、本来の力を発揮する。
 海に飛び込んでしまえば、誰も、トリトンに手出しができない。
「嘘じゃないぜ。ここに、ちゃんと“美形の人魚”がいるだろ!」
 トリトンが水の中にいる状態で声を出すと、レイラがびっくりした。
 彼女には、まだ半信半疑のところがあった。
「もどってこい!」
 鉄郎が忠告した。
 しかし、トリトンはまったく聞こうとしない。
 海中を漂いながら明るくいった。
「大丈夫だよ。やっぱりいいや、この感じ! それに、こんなに“軽い海”なんて初めてだ。」
「軽い海?」
 アキが問い返すと、トリトンは大きく頷いた。
「うん。全然、水圧を感じない。だから、少しも息苦しくならない。おまけに、俺のマントだってこんなに鮮明だ。なんだか不思議。だけど、とっても素敵だ!」
 太陽光線がまったく届かない世界で、人間が真っ先に見えなくなるのは、赤い色だといわれている。
 しかし、“アクアの海”の中では、常に一定の光が満ち溢れている。
 その環境は深海とはいえない。
 やがて、トリトンの体がゆっくりと回転しはじめた。
 ジョーがムッとしながら叫んだ。
「おい、遊んでるな!」
「遊んでなんかいないよ。潮の流れのせいだ。」
 トリトンが楽しげに答えた。
「渦を巻くんだ。おまけに“軽い”から漂っているだけで、こーなっちゃう!」
 ケインは唸った。
 トリトンが回転すると、豊かな緑の髪と赤いマントが華麗になびいた。
 さらに、白い衣装が映えて絶妙なコントラストを作り出す。
 細やかな泡がトリトンの体を包み込むと、美しい光の粒となって輝いてはじけた。
 トリトンは、神話の世界から抜け出たような神秘的な存在だ。
 そして、何かを強烈に訴える魅力にあふれている。
 それだけで、トリトンに引きつけられてしまう。
 自分で例えたトリトンの形容は、決してはずれていない。
 トリトンが体を静止させると、なびいていたマントと緑の髪がふわりとゆらいで落ちついた。
 ようやく潮の流れをつかんで、バランスを取ることができた。
 人魚の一人がトリトンに近づいた。
 そして、透明な声でいった。
「慣れましたか?」
「少しね…。それで、何を見せてくれるんだ?」
「こちらへ…。」
 人魚は先に泳ぎだした。
「待ってよ!」
 トリトンは、慌てて人魚の後を追って泳ぎだした。
 あっという間に、一行の視界から二人は遠ざかっていく。
「あいつは、どういう体質をしているんだ?」
 ロバートがぼそりといった。
「信じられません…。人間が、こんなに自由に海を泳ぐことができるなんて…。」
 ベルモンドは声を震わせた。
「いっとくけど、オウルト人でも、あんなことができるのはあの子だけよ!」
 念を押すように、ユーリィが強く主張した。
 その瞬間、アキもトリトンに続いて海に飛び込んだ。
 裕子の甲高い声が響いた。
「あんたまで、どこに行く気?」
 アキの体も回転する。
 優雅に舞いながら、鋭い声を発した。
「連れ戻してくるわ。」
「放っておけ!」
 鉄郎が投げやりな口調でいった。
 アキは言い返した。
「そうはいかないでしょう。あの子に万が一のことがあった場合、事態がますます混乱するわ。」
 そういいながら、アキも体を静止させた。
 そして、確信したように呟いた。
「トリトンの言ったとおりね…。この海は、とても“軽い”…。」
「“軽い”?」
 ジョウが改めて聞くと、アキが答えた。
「この空間には重力がない。だから水圧も感じない…。へたに惑星の海の感覚で泳いだりしたら、止まらなくなってしまう…。だから、こうやって体を慣らすのよ。」
「あなたも、水の中で生きることができるの?」
 レイラが聞いた。
 アキはかぶりを振った。
「いいえ。オーラで体を守っているだけ…。すぐ戻るわ。みんなは、そこにいて!」
 言い残して、アキは人魚とトリトンを追いかけた。
 後には、呆然とたたずむ、無力の仲間達が残された。
「あたしら、どーすんの?」
 レイコが恨めしげにぼやいた。
 しかし、誰も答えられない。
 困惑と重い空気の中に沈んだ。
 鉄郎は頭を抱えると、ぼやくように言葉を吐き捨てた。
「もう、知るか…!」