トリトンは朦朧としだした。
       意識レベルが低下している。
       症状を見ながらユーリィが告げた。
「これ以上は、どうしようもできないわ。」
「そんな…。トリトンが死ぬの?」
       裕子が声を震わせる。
       すると、ユーリィも声を荒立たせた。
      「勝手に決めつけないで! でも、このまま放置すれば当然の結果よ!」
       アキが、戸惑うような表情を浮かべた。
「トリトンを救えるのは君だけだ。何か方法はないのか?」
       ジョーが問い返す。
       だが、アキは身を震わせるだけで言葉がない。
       ケインが業を煮やした。
      「じれったいわね! あんたがあたしらをここまで誘ってきたのよ! ちゃんと責任を取りなさい!」
      「ケイン!」
       鉄郎がケインの腕を掴んだ。
       しかし、ケインは鉄郎を振りほどいた。
       アキに詰め寄った。
       ケインの剣幕にアキは怯える。
       ケインの長い指が、アキのマントに触れかかった。
       が、瞬間、ケインの手に衝撃が走った。
       電流のような刺激が、ケインをしびれさせる。
       オーラだ。
       ケインの息が詰まる。
       アキには触れない。
       しなやかな肢体から浮き出るように現れた穏やかな輝きは、ゆっくりと、アキの全身を包み込んでいく。
       柔らかく、優しく、一定のリズムを刻みながら。
       ケインは身を引いた。
       怯えた。戦慄で。
       オーラの光をまとったアキは美しく変貌する。
       そして、どこまでも優しく、“聖なるもの”にとってかわる。
       弾かれたケインは唇を噛みしめた。
「いったい、この子、何なの! こんなときに…!」
      「ケイン、何ともない?」
       ユーリィが気遣った。
       ケインはユーリィをはねつけた。
       オーラに包まれたアキの口から、ゆっくりと言葉が漏れた。
       なめらかな口調。
       歌うような響き。
       聞いていると、とても心地がいい。
       一同は息を飲んだ。
      「トリトンは生きます。私とともに…。アルテイアの言葉が聞こえました。私達は目覚めなければいけない…。今がその時…。みんな、トリトンから離れて…。」
「そんな、勝手な…!」
       レイラが反論しかけると、アキのオーラが一瞬強まった。
「離れなさい!」
       有無をいわせない強い口調だ。
       仕方なく、一同は、トリトンとアキから距離を置いた。
       アキのオーラが、トリトンの体をそっと包み込む。
       優しく暖かい光は、トリトンの傷ついた肉体と精神に、限りない安らぎをもたらしていく。
       トリトンはうっすらと目を開いた。
「アキ…。」
       力のない声で、トリトンは呼びかける。
       その視線の先にただずむアキは、どこまでも優しく、美しい。
      「私とともに…、行きましょう…。」
       トリトンの瞳が大きく見開かれた。
「デュアル…。」
       アキは呪文のような言葉を口にした。
       すると。
       オーラがいきなり変調した。
       今までアキが発してきたオーラではない。
       純白のオーラ。
       軽やかで空気に浮かんでいるようだ。
       オーラが空中を漂う。
       それは、鳥の羽根を思わせる。
       いや、本物の鳥の羽なのだろうか…。
       アキの姿は、外部から見えなくなった。
       あまりの光の強さに、まともに見ていられない。
       その光は数秒で消滅した。
       光の中から再びアキが現れた。
       その姿は、それまでのアキとまるで違う。
       きらびやかな衣装。
       淡いレッドのセパレーツ。
       豪華な飾りボタンで止めた、ワンショルダータイプの胸の布。
       さらに腰にまきつけた布が、優雅なドレープ状に広がり、程よい短さでその布の下からスラリとした足が伸びている。
       アキが体を動かすと、衣装がなびき、腰までのびた豊かな赤い髪を軽やかにゆらせた。
       アキはトリトンに近づいていく。
       アキはさらに遠い存在になった。
       そんな雰囲気を一同に与えた。
       トリトンは呆然とアキを見つめた。
       体が少しずつ後退した。
       起き上がれる力もないはずなのに、上体がわずかにはねあがった。
       トリトン自身も、体が硬直していくのを感じた。
       頬も熱い。
「アル…テイア…、君は…。」
       トリトンは囁くように呼びかけた。
       変身したアキの表情はどこか悲しげだ。
      「これが私の“本当の姿”だという…。そして、あなたにも“本当の姿”がある…。目覚めて、お願い…。」
       トリトンの顔が強張った。
       得体の知れない恐怖にかられて、トリトンは激しくかぶりを振った。
「や、やだ…! 俺は、今のままでいたい…。これ以上、何も、変わりたくない…。」
       トリトンは身を震わせる。
       アキの澄んだ瞳に哀しい色が差し込んだ。
       憂いを帯びた表情がとても切なげだ。
      「それが、あなたを助けられる唯一の方法…。恐がらないで…。そうでなければ、私達は前に進むことができなくなる…。お願い…。」
       アキはトリトンの前に白い手をスッとのばした。
       トリトンの体の震えが治まらない。
       しかし、自然とアキに引かれていく。
       オーラが輝く方向には、安らぎが待っている。
       そうすれば、このどうしようもない苦痛からも開放される。
       頼りたい。その光に。
       トリトンは自分の気持ちに負けた。
       拒み続けようとした手を恐々とのばした。
       そして、アキの手にそっと触れると、しっかりと握り返した。
       すると、トリトンの体からも、オーラが放出されていく。
「こんなことが…!」
       初めての体験に、トリトンは呆然とした。
       トリトンの中で、一瞬、何かが弾けた。
       アルテイアから、アキへ。
       そして、トリトンへ…。
       不思議な感覚は、着実に、そして染み渡るように。
       トリトンの手から体の内部へと伝わっていく。
「デュアル、エル、デイ…。」
       トリトンは無意識のうちに言葉を口にした。
       それは、アトラスの言葉。
       意味は「海よ、目覚めよ。」
       と、そのとたんー、
       トリトンの体がオーラに包まれていく。
       厳密にいえば、オーラはトリトンが持っている剣先の、テニスボールくらいの大きさしかないブルーのロッドから放出されている。
       そのオーラの様子も、アキのものとは違う。
       たとえるなら、「海の波」。
       ロッドから勢いよく押し流された海の波が、一気に、トリトンの体をもみ隠し広がっていく。
       そう思わせるような、群青色をした液体状の荒々しいオーラ。
       ブルーと純白のオーラ同士が美しく絡み合う。
       しかし、実際は激しい光に視界を奪われて、外からだと非常にわかりにくい。
       やがて、光の帯が、地上を離れてゆっくりと浮かび上がった。
       ゆったりとたゆとうように、天空に昇っていく。
       地上にいた仲間達が気づいたのは、光の照射角度が頭上に変化したためと、光の度合いが、幾分弱まったせいだ。
「どういうこと?」
      「わからないけど、二人とも、空に飛んじゃったのは間違いないわ。」
       ケインとユーリィがいいあった。
「目が痛いよ…。」
       レイコは目を抑えながら声をあげた。
       島村ジョーがレイコの顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「うん。たぶん…。さっきよりましだよ…。」
       レイコは照れたように答えた。
       鉄郎は不思議なパワーを肌で感じた。
       気がつくと、ジオリスにやられた傷の痛みが嘘のように消えている。
       鉄郎は目を見張った。
「肩が…軽くなった…。」
「どういうことだ?」
       そばにいた倉川ジョウが聞き返した
       鉄郎は、上から降り注ぐ光の中心を凝視した。
「細胞復活。傷が治った。トリトンの力で。だけど、それはアキがもともと持っていた力だ…。」
       ジョウは顔をしかめた。
       鉄郎はぽつりといった。
「トリトンが、アキと同じ存在になろうとしている…。」
       おもてをあげると、ジョウは降り注ぐ光を見上げた。
       その顔が驚きの表情に変化した。
       裕子が叫んだ。
「見て、あれ!」
       激しい光の渦が治まると、柔らかい光の中にいるトリトンとアキを確認した。
       その時は、トリトンも様子が違った。
       深い緑の髪を際立たせるような純白の服と真紅のマント。
       ギリシャ風のゆったりとしたドレープの服。
       左サイドが縫い目すらない袖つきなのに、右サイドがオフになっていて、それを幅広の腰布を巻きつけて止めている。
       印象深いのは、剣先のロッドと同じくらいに、深いブルーの色合いを放つマントの飾りボタン。
       それに、ブレスレットにはめこまれた、オリハルコンと同じ輝きを持つ右腕の小さな石だ。
       目覚めるように目を開いたトリトンは、そんな自分の姿を見つめ直して呆然とした。
「体の傷まで完治した…。これは、君の力のせい…?」
       トリトンはアキをうつろに見つめる。
       アキは小さく首を振った。
「いいえ…。みんな、あなたの力…。それが、本当のあなたの姿…。」
「おおげさなファッションショーだ…。信じたくないよ、こんなこと…。」
       トリトンは頭をもたげた。
       外見に変化はない。
       しかし、オーラを有し、飛ぶ能力まで発揮してしまったことを、トリトンは強く否定したかった。
       トリトンの戸惑いなど関係なく、アキは、たたみかけるように指示を出した。
「のんびりできないの。“アクアの海”の入り口を開かなくてはいけない。あなたの力も必要です。」
「何でもやるよ、こうなったら…。」
       トリトンは投げやりに応じた。
       悩んでいる余裕もない。
      ー私達の下に集まって。そのほうが安全だから…。ー
       アキは、思考で地上にいる一同に呼びかけた。
       声の響きを脳裏で聞いてしまった一同は、さらに呆れた。
      「今度は集まれだ?」
      「何をする気よ?」
      「ついていけねぇ…。」
       仲間達は愚痴をこぼしながら、いわれたとおりにせっせと移動した。
       一同には、これから何が始まろうとしているのか、まったく理解できない。
       それはトリトンも同じだ。
       だが、トリトンには、アキから作業の段取りが手短に伝えられていった。
「半円を描いて大地を裂く…?」
「できるでしょ?」
「ああ…。」
       アキの提案にトリトンは頷いた。
       二人が漂う高さは、地上から十メートルくらい。
       背中合わせになると、トリトンは剣を抜き、アキはオーラから矢を作りだした。
       二人の体から、オーラが勢いよく吹き上がる。
       その状態で、二人は、剣先と矢の先端を斜め下になるように構えた。
       その先端から、レーザー光条のような光の帯が放たれる。
       光条が、地表を切り裂くようにえぐりはじめた。
       トリトンとアキの体は、ゆっくりと半周した。
       と、同時にえぐられたラインの内側に、不可思議な文様が描かれはじめる。
       中心に集まった一同は、足元を猛スピードで駆け抜けていくラインに翻弄された。
       悲鳴をあげながら、複雑に描かれていくラインを踏まぬように避け続ける。
       やがて、互いの出発点が終点に繋がるように、完全に裂け目が作られた。
       そのせつなー。
       完成した円形魔法陣の外側の大地がドッと崩壊した。
       大きく割れた裂け目から、一気に大量の水が吹き上がる。
      「なんだっ!」
      「わぁっ!」
       激しい振動に足をすくわれて、地上にいた仲間達は次々に転倒した。
       強烈なショックだった。
       身震いするように、地表が大きな振動を繰り返す。
       全員の体が、地表に叩きつけられた。
       上空からその光景を見つめていた、トリトンとアキは息を飲んだ。
       一面、砂漠でしかなかった地表が消滅して、そこかしこから大量の水が湧き出してきて、集まりはじめた。
       その規模は、ナイアガラの滝の何百倍ものすさまじさだ。
       この世のものとは思えないすさまじい大瀑布が、すべてを押し流してしまうような勢いであふれ出し、けっして止まることがない。
       冷や汗をぬぐいながら、トリトンは、うわずるように言葉をしぼり出した。
      「“アクアの海”は、この砂漠の下に広がっている、“異次元の海”のことだったんだ…。」
      「きっと、ラムセスがエネシスの力を恐れて封印してしまったのね…。この封印を解くために、私達の力を必要としたんだわ…。」
       アキは、そういうのがやっとだ。
       と、前方を見据えたアキの視線が釘付けになった。
       目の前を、鳥の形をしたような水流が吹き上がっていった。
       いや、あれは本物の鳥なのだろうか…。
「水の鳥…?」
「すごい…!」
       トリトンは唸るように声をあげた。
       すべてが、二人の想像を超越したすさまじい現象だった…。