5. 狂った儀式 5

「トリトン、アキ、気がついて!」
 薄らいだ二人の脳裏に、聞きなれた少年の声が響く。
 二人の意識が、その声に導かれるように、しだいにはっきりとしてきた。
 意識を取り戻した二人は目を見張った。
 驚いて声も出せなかった。
 二人は、床に倒れたまま抱き合っている。
 アキの衣類は大きく乱れていない。
 でも、足を無防備なほど大胆に開いていた。
 一方のトリトンも、アキの上に体を預けていた。
 アキの手首を押さえつけて、彼女の首筋に唇を押し当てている。
「いやっ!」
「わっ!」
 悲鳴をあげたアキが、トリトンを突き飛ばすのと、びっくりしたトリトンが慌てて身を引くのと、それは同時だった。
 アキの手がそれた。
 それが、トリトンの頬を張り飛ばす結果になった。
「いっ…!」
 顎がはずれるのではないかと思えるほどの激しさに、トリトンは目を白黒させる。
 その間に、アキはトリトンの体の下から這い出した。
 上体を起こすと、両足を隠すようにそろえて折り曲げた。
「ひでぇな…。まさか…!」
 起き上がりながらぼやいたトリトンだったが、ハッとして自分の下半身に目をやった。
 上体は裸だ。
 でも、腰布をしっかりとしたままだったので、少し安心した。
「大丈夫です。二人は、まだ何もしあっていません!」
 澄みきった少年の声がした。
 二人は、思わず声が聞こえた方向に視線を向ける。
 そして、それまで以上の衝撃を受けた。
 二人を助けたのは、トリトン・ディウル・ド・アトラスだ。
 しかし、事情を知らない二人は、かつての十代前半のトリトンそっくりの少年の存在が信じられなかった。
「トリトン…?」
「だ、誰だ? お前は…!」
 息を飲む二人に、トリトン・ディウル・ド・アトラスは思考を送りつけた。
 一瞬の間だ。
 しかし、その情報量は膨大なものだ。
 わずかに、頭を押さえつけられたような苦痛を二人は味わう。
 二人は混乱した。
「俺の分身? 数千年前に…殺された…?」
「前世では…恋人…だった…?」
「僕にとって、ラムセスは憎むべき敵です。あなた方にまで、その考えを押しつけるつもりはありません。でも、あの男は、あなた方を辱めようとしたのです。許せる相手ではないでしょう。」
 トリトン・アトラスの高い声が早口で聞こえた。
 アキとトリトン・ウイリアムは、その間に立ち上がった。
 二人とも、事態の急展開にまごついた。
「なぜ、貴様が今になって…!」
 怒りで身を震わせたラムセスは、グレーに濁ったオーラを放出した。
 狙いは、少年王トリトン・アトラス。
 全身からほとばしる、攻撃的なエネルギーだ。
 だが、その邪悪なエネルギーを。
 トリトン・アトラスは、自ら、放出したシールドのパワーで弾き返した。
 ブルーの澄んだオーラを放ちながら、トリトン・アトラスは叫んだ。
「肉体は、あなたに滅ぼされた。しかし、オリハルコンのエネルギーが、僕の精神を支えてくれた。あなたに、この二人もオリハルコンも渡さない。あなたの時代は終わった。あなたも滅ぶべきだ…!」
 トリトン・アトラスはアキに視線を向けた。
「アキ、あなたの力を貸してください。この神殿を破壊します。早く…!」
「でも…!」
「この神殿は失くさなくてはいけないのです! さあ!」
 とたんに、アキの体から純白のオーラがはじけた。
 アキの意志ではない。
 勝手に、アキの力が放出された。
 トリトン・アトラスの力に、アキの力が誘発されたのだ。
 アキは呆然とした。
「あなた、アクエリアス? あたしと同じ…?」
 トリトン・アトラスは答えずに、アキに命じた。
「同調して! 矢を放って!」
 トリトン・アトラスの手から、オーラが、矢のように細長くのびる。
 アキもまた、同じ矢を作り出した。
「よせ!」
 ラムセスが叫んだ。
 同時だった。
 その叫びと、トリトン・アトラスとアキが矢を天井に向けて放つのが。
 ブルーのオーラと純白のオーラの輝きが。
 空間で入り混じる。
 一同の頭上で、光が、大量に満ちあふれた。
 神殿の中いっぱいに。
 何も見えなくなり、白い闇に包まれる。
 それとともに、神殿が崩壊した。
 像が崩れる。
 天井が落ち、柱が倒れる。
 壮大な神殿は、一瞬で、瓦礫と化す。
 白煙があがった。
 衝撃が伝わる。
 空気を突き動かす。
 トリトン・ウイリアムは、すかさず、死角に飛び込んだ。
 そこは、アキとトリトン・アトラスの真下だ。
 オーラとシールドで守られている。
 けっして埋まることがない。
 十七歳のトリトンは無傷だ。
 間髪を入れず、崩れた瓦礫の一角が吹き飛び、オーラを放ったラムセスが這い出してきた。
 その程度で、やられる男ではなかった。
 生き残っているのは、アキを含めたこの三人だけだ。
「許さぬ…。けっして許さぬ…!」
 怒りに満ちた形相のラムセスを、トリトン・ウイリアムは睨みつけた。
 トリトンは、吐き捨てるように叫んだ。
「それはこっちのセリフだ! ご先祖さん、俺にも、何かやらせてもらえるんだろ?」
 アキを伴って、ゆっくりと地上に降りてきたトリトン・アトラスは、十七歳のトリトンに向かっていった。
「僕の力を使ってください。そうすれば、オリハルコンは、あなたでも十分に使いこなすことができます。」
「本当か?」
「だけど、あなたは…!」
 アキが叫ぶと、トリトン・アトラスは語気強く言い返した。
「テグノスの森へ行きなさい。そこに、あなた方の帰りを待つ人達がいます。そのために、あなた方は、生きてここを出なくてはいけないのです。」
 いい終えたトリトン・アトラスは、その体を光り散らせる。
 そして、自分の姿を光の帯に変えた。
「いけない!」
 アキは絶叫した。
 トリトン・アトラスが消滅する覚悟でいたことを、直後に感じた。
 しかし、アキの声は届かない。
 トリトン・アトラスの光の帯は、たった一つ、残されているオリハルコンの剣先に吸収された。
 あっという間の出来事だ。
 トリトン・ウイリアムは、ハッと表情を変えた。
 オリハルコンの剣が、生きているかのように弾け飛ぶ。
 そして、吸いつくように、トリトンの手の中に入ってきた。
 剣を握っても、最初の時のような脱力感に襲われない。
 オリハルコンは完全なものとなった。
 この瞬間、力を持ったトリトンが復活した。
 また、トリトンも再び一人になった。
 そこにいるのは、十七歳のトリトンだけだ。
 ラムセスは、トリトンに向けてオーラを放つ。
 反射的に、トリトンは剣を前にかざした。
 ラムセスのエネルギーは剣の刃に当たった。
 だが、瞬間に割れて、左右にそれていく。
「すごい、シールドを作り出してる!」
 トリトンは、その力のすごさを実感した。
 背後にいたアキが、ラムセスに向けてオーラを放つ。
 オーラは、周囲の瓦礫を吹き飛ばした。
 その白い光が、ラムセスを取り囲む。
 ラムセスは、カッと睨んだ。
「アルテイア、結界を張ったか!」
「正々堂々と、勝負しなさい!」
 紅い髪を、オーラの風になびかせながら、アキは鋭い叫びを発した。
 ラムセスは顔を歪めた。
 アキのオーラが、ラムセスのオーラを封じて無力にした。
 ラムセスは正面に視線を戻した。
 そこでは、オリハルコンの剣を構えたトリトンが睨みつけている。
 ラムセスは自分の剣を抜いた。
 剣の勝負に応じるしかない。
 僅かな間、トリトンとラムセスは、互いの気を推し量るために対峙しあう。
 その影で、神殿の破片の一部が崩れた。
 均衡が破られた。
 ラムセスは目を細める。
 トリトンが動いた。
 ラムセスの背後に。
 ラムセスは、後ろに“気”を感じた。
 振り向きざま、剣を構える。
 その時、トリトンが振り下ろした剣と交差した。
 トリトンの剣の力が上回った。
 ラムセスは、一歩後退して、トリトンの剣をはじく。
 トリトンは、連続した動きで、ラムセスに剣を振り下ろす。
 それを、ラムセスが受け止める。
 さらに、三撃目。
 互いの剣が合わさった。
 ラムセスは、トリトンの剣をはじいた。
 そして、トリトンの腰のあたりを薙ごうとする。
 トリトンは、ジャンプしてかわした。
 そして、空中から剣を振り下ろす。
 が、同じく、ラムセスにもかわされた。
 五撃目。
 トリトンは、さっきよりも大きくジャンプする。
 胸の辺りを裂こうとした、ラムセスの剣をかわした。
 と、同時に。
 ラムセスの頭上めがけて剣を振り下ろす。
 しかし、ラムセスは剣を横に構えて、トリトンの一撃を受け止めた。
 力で押しても、ラムセスを制覇することはできない。
 諦めたトリトンは、ラムセスの頭上を飛び越えた。
 空中で身を何回転かひねる。
 ラムセスから距離を置くと、トリトンは地面に着地した。
 油断なく剣を構えなおすと、トリトンはすかさず態勢を整えた。
 ラムセスはかすかに笑った。
「剣の才能は前世(せん)と変わらずか…。しかし、今のお前の力で、どこまで持つかな…。」
「それはお前の方だ。望みの来世に送ってやる!」
 叫んだトリトンは、先に突進した。
 ラムセスは受け身に回る。
 だが、その時。
 トリトンの激情を受けた、オリハルコンの輝きが加わった。
 まばゆい輝きを浴びたラムセスの体は、とたんに硬直する。
 ラムセスの剣が折れた。
 トリトンは、剣を一気に振り下ろす。
 ラムセスの左肩口から右脇腹にかけて、ざっくりと、肉体を両断した。
 ラムセスの体が大きくズレて、血が噴き出すように飛び散る。
 その上、ラムセスの肉体が溶解した。
 トリトンが斬ったのは、ただの剣ではない。
 高熱を発するオリハルコン。
 溶けたラムセスの体は肉片と化す。
 さらに、肉片は細かく分裂して消滅した。
 すべてを見届けてから、アキは、フッと目を伏せた。
 生き残ったトリトンは、ゆっくりと、アキのところにもどっていった。
 そして、静かにいった。
「行こう、テグノスの森へ…。」
「トリトン、あたし達は、本当は…。」
「いろいろあるけど、今は逃げる方が先だ。俺も、まだ混乱してる。何もかも、最初から考え直さなきゃいけない…。」
「これを…。」
 アキは、足元に落ちていた剣の鞘を拾うと、トリトンに手渡した。
 トリトンは、その鞘に剣を収めると、アキの手を引いて走り出した。
 脱出口を求めてー。