無理矢理、服を着せられたトリトンは、カンカンになりながら天幕の外に飛び出してきた。
ラムセスを追いかけてきたが、外の世界を目の当たりにして、トリトンは言葉をなくした。
そこは、三方を壁に囲まれた四角い部屋だった。
ただ、一箇所だけ柱の列柱を通して、外の街並みを一望することができる。
それで、この建物が、高い位置に建てられてあることがわかった。
「あのクソ親父、どこへ行きやがった!?」
部屋の中を見回しても、ラムセスの姿はない。
トリトンがいる場所は、フロアになっている。
ところどころに坐椅子やクッションが置いてあり、足元にまで赤い手織りの絨毯がひかれていて、リビングルームが作られている。
意味不明なのは、そのフロアの半分が仕切られ、プールが設けてあることだ。
プールの所々に、想像上の神を模した、エジプト独特の彫刻が置かれている。
その様は、さしずめ、西洋の美術館に似てなくはない。
その中で、一際目立っているのが、ラムセスの顔を模った彫刻だ。
彫刻の台座には、象形文字が刻みこまれている。
ヒエロクリフと呼ばれる文字を、トリトンは、なんとなく感じることができた。
「太陽の神の像? ラムセス神? …冗談じゃない!」
吐き捨てるように呟くトリトンの後ろで、か弱い女の声がした。
「あの…、気に入っては…。」
「気に入るわけないな!」
女達の方を振り向かずに、トリトンは、突き放すようにいった。
すると、わずかな間をおいて、女達は悲しい声でいった。
「私達はお役目を誤りました。この償いは、死をもって謝罪するしかありません…。」
「ならば、舌を噛み切りましょうか…。」
二人の女性の言葉に、残りの女達がすすり泣いた。
それを聞いたとたん、トリトンの肩がビクリと跳ねた。
慌てて振り返ると、夢中で叫んだ。
「待てよ! こんな所で簡単に死んでもらっちゃ困るんだ! 死ぬなんて絶対に考えるな! わかったな!」
「でも、トリトン様はお怒りでしょう。もう、私達に生きる価値はありません…。」
女の一人が怯えながらそういうと、トリトンは、額を手で押さえつけた。
「あのね…! 人に嫌われただけで、死んでどーするんだよ;; そんなのに、いちいち命を賭けてたら身がもたねーだろ? 君らは思い込みが激しすぎる…!」
女達は呆然とした。
彼女達の態度は、どこか、よそよそしくぎこちない。
トリトンは小首をかしげた。
すぐに、彼女達の中に照れの気持ちがあるのだと、トリトンは気がついた。
それから、トリトンは笑顔を浮かべた。
「だけど、普通だったら怒るよ。いくら、優しい男でも我慢ができなくなる。でも、そうじゃなかったら、俺は君達のことを、もっと好きになれるよ。」
「はあ…?」
女達は目を丸くした。
トリトンの言葉は、あまりに軽い口調だ。
遠慮せずに、トリトンは彼女達にいった。
「早い話が、俺と君達は、気の合ういい友達になれそうだってこと!」
「そんな、友達だなんて…!」
「レイラ、君は友達に向かって、そんなクソ丁寧な喋り方をするのか?」
「私の名前をどうして知ってるの? …あっ…!」
レイラは、馴れ馴れしい口調になってしまったのに気づくと、慌てて口元に手をやった。
トリトンはニッコリとしながら、他の女性達にも声をかけた。
「俺、名前を当てるのが得意なんだ。右から当ててみようか? ミリアーネ、レムノス、リオ、サラ、アイリス。」
「すごい!」
女性達は、感嘆の声をあげる。
トリトンは、得意になって会話を続けた。
「こう見えても、俺は大学の教授だ。生徒の顔と名前は、一発で覚えて当てられるから、結構、人気があるんだぜ!」
女性達は笑い出した。
トリトンは、改めて自己紹介した。
「俺は、ロジャース・トリトン・ウイリアム。みんなは、ロディとかトリトンとか、呼んでくれる。」
「トリトン王から受けついだ名前だと、思っていたわ。」
レムノスがいった。
彼女の緊張も、しだいにほぐれてきている。
トリトンは肩をすくめた。
「親がつけてくれたんで大事にしてるけど、意味まで考えたことはないな。」
「変わった方ですね。トリトンは。」
サラがいうと、トリトンは首をかしげた。
「そんなにおかしい? 俺が?」
トリトンが悪戯っぽく声をかけると、今度は、アイリスが慌てて口を開いた。
「そういう意味ではありません! トリトン様は、素晴らしい方だと思います。だけど、身分の高い人は近寄りがたい方ばかりなのに…。あなたは全然違う。王の申し子だと聞かされていたけど、とても親しみやすい方だから…。それで…。」
「俺は君らと何も変わらないよ。普通の男の子だ。俺もびっくりしてる。目が覚めたら、いきなり、王様になれとかいわれちゃうし…。」
トリトンはこう続けた。
「俺の場合は、こうしてもらえるかな? 嫌だと思うことは無理してやらなくていいってことに…。見知らぬ男の着替えまで、平気で手伝える女の子なんていないよ。みんな、普通の女の子だから安心した…。」
「…………?」
「けっこう、俺は女の子に優しいんだぜ。だから、安心してくれていいよ。」
キョトンとしていた女性達は、やっと、胸のつかえがおりたように安堵しあう。
トリトンは、そんな彼女達に笑みこぼした。
ようやく緊張した空気が解けたことを、お互いが確認しあった。
「それにしても…。」
トリトンは、不機嫌そうに口を尖らせた。
「あの親父、どういうつもりだ! この部屋に出口なんかどこにもありゃしない! これじゃ、幽閉じゃねえか!」
「この部屋は、あなたと私達のための部屋だと、ラムセスがいってたわ。」
レイラがいった。
「物は言い用か。でも、部屋の飾りはどう見ても俺向きじゃない。あのオッサンの趣味が、いかされすぎている。」
トリトンは、ふいに、台の上に置いてあった金細工の燭台を掴んだ。
そして、吹き抜けの柱の方に投げつけた。
すると、柱の向こう側で激しい電撃が走る。
燭台は、粉々になって消滅した。
「これだ…!」
トリトンはかぶりを振る。
「うっかり、外にも出られない。」
吹き抜けの窓に、シールドが張り巡らしてある。
“力”を持たないトリトンは、この部屋から出ることができない。
トリトンは、レイラ達に首をめぐらした。
「ね、ここは、ほんとにアトランティス? 俺には、どうしてもそうは思えない。俺の服はラムセスの国のものだろ? 服だけじゃない。この建物も、彫刻だって…。」
吹き抜けの窓から見える、外の世界を見つめながら、トリトンはよけいに疑問を抱いた。
外の建物の中には、ピラミッドだけではなく、スフィンクスも作られている。
建物の様式も、トリトンが知っているような、ギリシャ建築の神殿ではない。
ラムセスの人体像を柱にした、壮大な建物が建ち並んでいる。
権力を誇示したエジプト独特の、建築様式の建物だ。
建物や彫刻だけならまだ許せると、トリトンは思った。
まさか、自分までその世界にどっぷりと浸からされた気分がして、とても嫌だった。
トリトンが着ている服は、服と呼んでいいのか迷ってしまうほど露出が大きい。
ラムセス同様の腰布を巻き、上体は、白いローブを片肌を露にした形でまとわされた。
それも、体つきがはっきりとわかるくらいの感じでだ。
リオがいった。
「私達が、ラムセス王から聞いた話では、ラムセスの国の素晴らしさを市民に知らしめるためだとか…。権力を誇示することが、エジプトの国の伝統らしいのです。」
「そんな伝統なんか、俺はわかりたくもない。ここが、俺が知っているアトランティスだとしたら、そんな考えはふさわしくないんだ…。」
トリトンは四年前、ジリアスの遺跡の中で出会ったミラオが、遺言として伝えてくれた言葉を思い出した。
ーミラオなら、きっと、こういってくれる。人が人らしく生きていけばいい…。権力など持ち込む必要はない…。そんなことをすれば、人が笑って暮らせる世界がなくなってしまうって…。ー
「トリトン、ここは、あなたのための部屋です。」
トリトンがぼんやりしていると、一番愛らしいミリアーネが声をかけた。
ハッとしたトリトンはキョトンとした。
「!…どうして?」
「あなたは、水の中で生きていく人なのでしょう? 水がなくては生きていけない。そう聞きました。」
「そのためのプール?」
「そうよ。」
ミリアーネは明るく答える。
トリトンは笑った。
でも内心は呆れた。
ー誰だ、ガセネタを流した奴は…! 水陸両棲だから、水なんかいらねぇのに…!ー
しかし、都合がいいこともあるだろうと、あえて、トリトンは否定しなかった。
その時、外から賑やかな喧騒が聞こえてきた。
「何だ?」
首をめぐらすトリトンに、レイラが説明した。
「あれは市場の活気よ。この城下にあるの。夕方から夜にかけて、一番賑わう頃だから。ちょうど今頃、城の中にも賑わう声が聞こえてくるの。 ーどうしたの、トリトン?」
レイラは驚いた。
その話を聞いたとたん。
急に、トリトンが、ラムセスの彫刻によじ上り始めたからだ。
突然のことにびっくりしながらも、レイラは、トリトンについてきて隣に上ってきた。
「いったい、どうしたの?」
「あれだ!」
トリトンは、大声で叫んだ。
ようやく高い所に上って、わずかに見える市場の明かりを、トリトンは指さした。
「俺が、ずっと、夢見ていたアトランティス…。 人が笑って、行き来して、争いのない世界…。 子供の頃から、呼びかけられてきた…。 あれは、この世界のことだったんだ…。」
「子供の頃?」
見つめるレイラに、トリトンは小さく頷いた。
「うん…。 ここしか、見られそうな所がなかったから…。 感じるんだ。みんなが笑って、とても楽しそうだ…。出来ることなら、あそこに行ってみたい…。」
遠くから、市場の活気を見つめるトリトンの顔は優しく、暖かみのある表情だった。
そんなトリトンを、レイラは、穏やかな表情で見つめた。
トリトンはラムセスと違い、人と人との繋がりを喜べる人なのだということを、強く感じずにはいられなかった。
レイラは感じた。
トリトンはおどけていうだけではなく、自分でも気がつかないくらいに、優しい心を持った人なのだということをー。
しばらく、そうやって笑みをこぼしていたトリトンは、急に、顔を強張らせて沈んでしまった。
「どうしたの? 街に行ってみたいの?」
不安になりながら、問いかけるレイラに、かぶりを振ったトリトンは小さく呟いた。
「仲間が心配だ…。どこにいるのかわからないけど…。安全な場所にいてくれないかって祈っている…。」
「仲間? アルテイア様のこと?」
「ほんとは、アキっていうんだ…。 彼女も含めた大切な友達がいる…。 みんな、ひどいことをされてなきゃいいんだけど…。」
その時だ。
トリトンの頭の中に、いきなり、アキの悲鳴が飛び込んできた。
ー助けて!ー
トリトンはハッとした。
ーアキか? どこだ? いるのなら返事をしてくれ!ー
ートリトン、どこ? もう一度、声を…!ー
追いつめられたような、アキの思考を感じて、トリトンは血の気をなくす。
思わず、声を出して叫んだ。
「アキ、大丈夫か? どこにいる? 教えてくれ!」
「トリトン…?」
レイラが呼びかけると、トリトンは呻くようにいった。
「アキの声がした。ひどいことをされてるみたいで。 “助けて”っていってきた…!」
「そんな…!」
トリトンは、素早くプールに飛び込んだ。
今度は、吹き抜けの柱の方に泳ぎよっていく。
「だめ、そっちは…!」
レムノスが叫んだ。
レイラは、女性達の方に戻った。
そして、女性達に声をかけた。
「あの人を、ここから出してあげたい。何か、方法はない?」
「無茶よ。私達に何ができるの!」
リオが反論した。
だが、レイラは訴える。
「あの人とラムセスは違う! こんな所にいる人じゃない。あの人なら、昔のアトランティス人のように、みんなを、もっと違う世界へと導いてくれるわ!」
「わかっているけど…。ラムセス王には逆らえない!」
サラが顔を伏せた。
「それでも、何とかして助けてあげたいの! あの人を、このまま、ここに閉じ込めておくわけにいかない…!」
「レイラ。気持ちは同じよ。でも、方法がない。諦めるしかないわ…。」
アイリスが声を震わせた。
女性達は、痛々しげにトリトンを見つめた。
トリトンは、プールの端から端までを何度も泳ぎきった。
そして、時々、身を乗り出して柱の外を覗き込むと、アキに、強く呼びかけた。
その姿が、あたかも酸素不足で、苦しそうに喘いで呼吸する魚のように思えた。
女性達は、トリトンの姿を見て、胸を締めつけられるような思いだった。
トリトンは、気にかけていない。
アキを救いたい一心で、何とか、脱出口を感じ取ろうと必死だった。
だが、アキの思考は二度と届かない。
交流を絶っているのは、鉄以上に頑丈なラムセスの力場だ。
少しでも、シールドが弱まるのではないかという思いで念じ続けたが、トリトンが感じた答えは脱出口はなく、ここは、完全な密室だという絶望的な回答だった。
無力だということを、トリトンは思い知った。
近くにいるはずのアキでさえ、救出することができない。
トリトンは、焦りながらも落胆した。
どうしようもない怒りと悔しさを滲ませる。
やりきれない思いで満たされると、グッと唇をかみ締めた。
「くそっ!」
トリトンは、柱にガツンと拳を叩きつけて怒りを露にした。
その後は、力尽きたように崩折れた。
うずくまると、肩を震わせながら呻いた。
「アキ…。頼むから無事でいてくれ…。」
女性達は、息を飲んでトリトンを見守った。
………………
狂ったように、お互いを求め合うトリトンとアキの様子を感じ取り、ラムセスは、冷たい笑みを浮かべた。
二人が求め合い、愛し合うことで、オリハルコンは再生を遂げる。
しかし、まともに攻めても、二人がそんな意志を働かせるはずがない。
面倒でも、この方法が、直接的な気持ちを高めあうのに最適なやり方だ。
冷静でいられるよりも、錯乱した方が、二人の気持ちも利用しやすい。
まして、トリトンが無力であることを痛感して、力の源であるオリハルコンを求めるようになれば、ラムセスとって、とてもありがたいことだ。
しかしー。
「人間とは悲しいものだ。無駄だと悟りながらも、なお、己の力を試し、そして自らも傷ついていく…。トリトン、アルテイア。お前達は、二度、同じ運命をたどる。それが、お前達が素晴らしいと信じている人間の業だ…。時代がどれほど移ろうと、変わりはしない…。人間という生き物は…。」
ラムセスは自嘲的に呟いた。
なぜか、物悲しい笑みを浮かべた…。