アキは、意識をなくしていた。
夢の中で、誰かに触られているような気がした。
優しい手ざわりで、背中をそっと撫でられる。
…鉄郎…
アキは、夢うつつでそう思いこんだ。
が、何かが違う。
触られているこの感じ。
すべてがザラついている。
ー鉄郎じゃない。じゃ、いったい誰?ー
はっきりと感じた。
別人だ。
急速に、意識がもどった。
すると、聞きなれない男の呟きが聞こえた。
「美しい…。」
ハッとしたアキは、目を見開いた。
うつぶせの状態で、アキは、裸のままベッドに寝かされている。
その傍らに居座る黒髪の男。
美しく磨かれた石の床に映った影を見て、アキは、男の存在を知った。
「離して!」
反射的に身を起こすと、アキは、男の手を激しく払いのけた。
腰のあたりにたまっていた薄布を、すばやく体に巻いて、ベッドから飛び降りる。
身構えると、黒髪の男に向かって語気強くいった。
「何者? いったい、あたしに何をしたの?」
男は、悠然とした態度でアキを見つめる。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「あなたが知りたいのは、それだけかな?」
アキは、男を見返した。
男は、アキの心の中を読み取っている。
その瞬間、男が、普通の人間でないことを悟った。
男は、自分の正体を明かした。
「すべてを話そう。私はジオリス。この世界、アトラリアの王の子として生を受けた。アトラリアの統治者はラムセス。我が父だ。だが、ラムセスはあなたを欲した。生贄にするために。私は、そんなあなたを、父のもとから救い出した。むしろ、礼を言ってほしいくらいだ。」
「生贄?」
アキは呟いた。
身を硬くすると、さらに聞いた。
「あたしの仲間は? 助けていただいたのは、あたしだけ?」
「仲間? 何のことだ? 最初から、あなた一人だけだった。」
「嘘を言わないで!」
アキは、激しく言い返した。
「あなたに信じてもらおうとは思わない。だけど、私は“未来の人間”です。タロスのせいで、過去に引っ張りこまれたの。あたし達に、エジプト文明の儀式など皆無です。みんなを助けに行きます。どこにいるのか教えて!」
必死に訴えるアキを見つめながら、ジオリスは苦笑した。
「何が可笑しいの!」
カッとなるアキをなだめるように、ジオリスはいった。
「あなたは、相当、ひどい勘違いをされているようだ。この世界がエジプト? ならば、今から数千年前に遡らねばならない。」
「エジプトじゃない?」
アキは、思わず眉をひそめる。
しかし、周囲を見回してから、アキは、さらに言葉を重ねた。
「どう見ても、あたしには、エジプトの世界にしか見えないわ。あなたも。あたしが知る限りのエジプト人の姿よ。あれは、鷹の像ホルス神。だったら、あなた自身は、ファラオの継承者ではなくて?」
ホルス神だけではない。
エジプト風の石像が、部屋のあちこちに飾られている。
壁画やタペストリーも白い鷲を模したもので、王の権力を示すものだ。
さらに、ヒエロクリフにも、王の象徴の句言が刻み込まれている。
しかし、ジオリスは笑みをこぼすだけだ。
アキは、冷ややかにいった。
「これは、あなたのご趣味? 他の文明の文化を冒涜していらっしゃるの?」
わざとらしいアキの言葉に、ジオリスの笑みが消えた。
アキは、ジオリスの怒りを感じながらも、ジオリスを問いつめた。
「あなたとふざけあっている暇はないの。仲間の居所を教えなさい。あなた、みんなの行方を知ってるんでしょ? なぜ、あたしだけをかばおうとするの?」
「…………」
「答えなければ…!」
アキはオーラを発した。
怒りのオーラ。
強い光球が、アキの両手の中で集まりはじめる。
その手を頭上に上げると、光は、槍のような棒状にスッと伸びた。
「いいなさい!」
叫ぶと同時に。
エネルギーを投げつける。
狙いは、はずれない。
光の矢は、ジオリスの胸めがけて直進する。
が、ジオリスは、自分の周囲にシールドを張り巡らした。
ジオリスの動作の方が早い。
アキのオーラは、ジオリスのシールドに跳ね返された。
「そんな…、アクエリアス…!」
アキは呆然とした。
ジオリスは、その隙をついた。
逆に、アキに向かってオーラを放つ。
よける間もなく、ジオリスのオーラが、アキの体を包み込んだ。
アキの体が硬直した。
まるで、金縛りにあった時のように。
それから、ジオリスの方へと、強引に引き寄せられた。
アキは、悲鳴をあげて抵抗した。
でも、無駄なあがきだ。
滑るように引き戻されたアキは、再び、ベッドに体を押しつけられた。
あわてて起き上がろうとすると、ジオリスに肩を掴まれた。
「いやっ!」
叫ぶアキを上からのぞくと、ジオリスは低い声でいった。
「断っておくが、私の父は、ファラオの血を受け継いでいる。父の独政で、アトラリアは半分エジプトとも結びつき、この異様な世界を作り出した。だが、私は父とは毛なみが違う。私は、自らの力で、このアトラリアを支配してみせる。」
「そのあなたの志と、あたしがどう関わるの?」
アキが喘ぐように聞くと、ジオリスは静かにいった。
「そのためには、あなたがぜひとも必要だ。」
ジオリスは、アキを見据える。
燃えるような熱いまなざし。
その視線に、アキは、射すくめられた。
顔を背けることもできない。
目の淵をアイラインで美しく飾り、強調されたジオリスの瞳。
揺るがない、絶対的な強さがこもっている。
その漆黒の、冷たい輝きを放つ瞳に見つめられると、なぜか、体が動かない。
「アトラリアは、アトランティスの成れの果てだ。あなたは、この国の人間だ。本当の、あなたの名はアルテイア。この私と、交わることによって、オリハルコンを活性化させるエネルギーとなり、統治する運命を持たされている。」
「この世界が、アトランティス…?」
アキにとっても、意外な事実だ。
「あなたは、いったい…。」
「ジオリス。この世界で、あなたと同じ血を受け継ぐ者だ。あなたとの出会いは、最初から運命づけられていた。」
「信じない!」
アキは、かぶりを振った。
ジオリスの腕の中で、激しく、もがいた。
「あなたは、私に勝つことができない。」
ジオリスはアキの薄布を剥ぐと、現れた白い胸に唇を押し当てた。
「離して!」
アキは泣き叫ぶ。
しかし、ジオリスは聞き入れようとしない。
「すべてを受け入れよ。あなたに残された道は、それ以外にない。」
ジオリスは、アキを追いつめていく。
アキは、すがるように心の中で強く念じた。
ー鉄郎!ー
その瞬間。
アキの中に、別の思考が飛び込んできた。
ーアキ、どこだ? いるのなら返事をしてくれ!ー
アキはハッとした。
トリトンの思考だ。
どこかで、アキを探している。
ートリトン、どこ? もう一度、声を聞かせて!ー
アキは、夢中で訴える。
だが、トリトンの思考は、二度と聞こえてこなかった。
ジオリスは、アキを離した。
そして、怒りの形相で遠くを見つめた。
アキの戒めが自然に解かれた。
ジオリスの下から抜け出したアキは、布で体を隠すと、ジオリスを窺い見た。
ジオリスは、別の何かに向けて、激しい憎悪の念を向けている。
「ラムセス、こうまでして、私の邪魔をするか…!」
口元を歪めながら、くぐもった声をジオリスは発した。
アキは、それを聞き逃さなかった。
「ラムセス…?」
ジオリスは、アキに向き直った。
「我が父であっても、父とは思いたくない。神聖な結びつきを汚そうとする、ふとどきな男だ。」
「よほど複雑ね。あなた方、親子は…!」
皮肉げに言い返したアキは、すぐに、ハッとした。
一瞬、届いたトリトンの思考が気になった。
ジオリスの口ぶりから想像すると、それが、ラムセスの妨害と受け止められる。
だとしたら、いったい、トリトンは…。
「まさか、ラムセスは、トリトンを生贄にするつもりなの? あなた、それを知っていて、あたしに話そうとしなかったのね?」
「鉄郎とは何者だ? あなたの思考の中で、一番強く、それを感じた。」
ジオリスは、逆に問い返す。
アキは、ジオリスを睨みつけた。
「関係ないわ! それより、トリトンをどうするつもり? 答えて!」
「覚えておくといい、アルテイア。」
ゾッとするほど、凍りついたまなざしで、ジオリスはアキを睨んだ。
アキは、思わず身を引いた。
「どんな男だろうと、あなたに近づく者は、けっして容赦しない。皆、死あるのみ。トリトンは私に比して、この世界に生を受けた者。生かしておくつもりはない!」
「あたしも彼も、この世界にとどまるつもりはないわ! 彼に会わせて! 彼は、ここにいるんでしょ?」
アキは訴えた。
ジオリスは、冷たい声で言い放った。
「できぬ! 生贄になるのは、ヤツだけで十分だ。減少したオリハルコンが、わずかでも復活さえすればいい。それだけで、ヤツは、その役目を果たしたことになる。」
「そんなこと、させない!」
ジオリスは、アキを無視して事を継いだ。
「あなたがいう、“仲間”という連中も、いずれは裁きにあうだろう。心しておくがいい。」
ジオリスは言い終えると、オーラを発して宙に浮いた。
そのまま、空間を移動すると、列柱が並んだ窓から外に飛び出していった。
「待って!」
アキは、ジオリスの後を追った。
しかし、アキが窓に近づくと、その直前で空間が光り、シールドが発生した。
アキは身を引いた。
アキの進行が阻まれた。
「そんな…!」
愕然とした。
シールドは、突き破ることができないくらい、強力な力場を生じさせている。
他の三方は、いずれも壁だ。
アキは、一方の壁に近づいた。
そして、壁を壊そうと、何度もオーラをぶつけて試した。
だが、合金のように頑丈で、アキの力ではびくともしない。
「だめ…。どこも力場が働いている…。」
それでも、諦めるわけにいかない。
力場は、アキの力を封じるための手段だ。
力をなくしても、アキの自由が奪われたわけではない。
部屋の隅々にまで目を配った。
こういう石造りの神殿には、非常用の抜け穴があるものだ。
ジオリスが、丁寧にその脱出口を開けてくれているとは思わなかった。
しかし、ネズミが入れる隙間でもあれば、力場が弱まっている可能性もある。
地味だが、念を集中させて、隠し扉や仕掛けを探っていった。
そうやって、二時間は、部屋の中を調べまわっただろうか。
アキは、神像の足元にある、小さなスカラベの紋様に引きつけられた。
ためらわずに、その紋様に触れる。
すると、すぐ壁の脇が、ズズッと、重く引きずるようにして開いていく。
そして、人一人がようやく入れそうな通路が現れた。
「トリトン、お願い。どうか無事でいて…!」
アキは、急いで通路に飛び込もうとした。
が、先に、女が中から出て来た。
髪を細やかに編み上げた黒髪の中年女。
エジプト風俗で身を包んでいる。
身構えるアキを前にして、女は、恭しく頭を下げた。
「王女アルテイア、お迎えにあがりました。どうぞ、こちらへ。」
「迎え?」
アキが顔をしかめると、女はいった。
「ラムセス王がお待ちです。ジオリス王子が気づく前に、トリトン様に会わせろというのが、ラムセス王のお言葉です。」
「そんな言葉を信じろというの?」
アキが、語気強く叫ぶと、
「信じられないのなら、仕方がございません。でも、最後の機会です。ラムセス王は実の王子ではなく、才能あるトリトン様に、王位を譲られることをお望みです。トリトン様が、あなたに会いたいとおっしゃったそうです。その命を受けて、こちらに参りました。」
「トリトンは無事なの?」
アキが質問を重ねると、女は微苦笑した。
「はい。元気すぎていらっしゃると、申し上げておきましょう。」
アキは、女をジッと見返した。
女の言葉を注意深く聞き取って、ようやく、女を信じる気になった。
ー確かに、この女は、トリトンに出会っている…。ー
トリトンの性格がわかるだけに、この女が、トリトンをどう思っているのかが、解るような気がした。
トリトンは、気まぐれで短気だ。
立場が同じなら、アキ以上に、激しく相手に抵抗しているだろう。
元気がよすぎるという表現は、あまりにも当てはまっている。
罠かもしれないが、ここは、誘いに応じてもいいだろう。
それに、どんな理由でも構わない。
一刻も早く、こんな部屋から外に出たかった。
「いいわ。案内してください。」
アキはいった。