<本文から>
「桐壺」の巻冒頭で、帝のこの更衣に対する度を過ぎた寵愛ぶりと周囲のそしりを記述したその直後で、 語り手は、「父の大納言は亡くなりて」と、語り出した。「更衣」とすると上位の方だということは、すでに分かっているから、 大納言家の姫だということは聴き手の予想通りであるが、その父が既に故人だという情報は、驚きをもって聞かれたことだろう。 経済力がなく男の後見役のいない姫が入内することは常識に反している。その後見は旧家出身の母北の方が、身につけた教養を総動員して 対処しているという。でも、格式ある儀式の折りには、どうにも対処しきれないで、母娘とも困っている。 それは分かり切ったこと。ならばなぜ、そこまでして入内させたのか。 それは、本文中では、更衣の死後、弔問に来た靫負の命婦に向かって語る母北の方によって明かされる。 「生まれし時より思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、『ただこの人の宮づかへの本意必ずとげさせ奉れ。 われなくなりぬとて、くちをしう思ひくづほるな』とかへすがへすいさめ置かれ侍りしかば」と言う。後見なき宮仕えの苦労は分かっていたが、 父大納言の遺言ゆえの出仕だったという。それが帝の身に余る寵愛を頂いたばかりに、周囲からのねたみそねみのあれこれを受け、 娘は「よこざまなるやうな」死を迎えたのだと。母は娘を「横死」させた原因を作った帝の寵愛ぶりを恨む言葉さえ、付け加える。 娘の入内を望んだのは母ではない。あくまで故大納言だったのだ。それではなぜ、父大納言は娘誕生時から、この娘を入内させようという 強い意志を持ったのか?本文では語られない。 |
<読み解き>
「大納言家」の姫は入内して、寵愛を受けたとえ男子を出生しても、女御とは格が違い、本人が中宮に立后することは出来ないし、 その子が東宮に立つ可能性は薄い。だから、その家の受ける栄華というものは、娘が帝の寵愛を受けている時だけのものであって、 次期天皇の代の外祖父としての政治的実権を望むことはできない。 それなのになぜ、大納言は自分が死ぬ時にまで、娘の入内にこだわるのか。やはり謎である。 大納言はもし、死ななければ、次は右大臣になる位置にいる。この人は右大臣のポストを例の弘徽殿の女御の父と争って破れたのかも知れない。 失意のウチに、大納言のままで逝去したと考えられる。旧家出身の北の方を迎えている所から、この大納言も由緒在る出身だと思われる。 一方の右大臣家はそのような気配はどこにもなく、娘女御の実務家ぶりから推察しても、たたき上げの出世をしてきた男であろう。 新興勢力の右大臣家に対して、この大納言は美貌の娘を得た段階から、この娘を使っての名門回復の念願があったものと思われる。 故大納言の意思はいつ実現するのか?孫「光源氏」に託されたのか? じつは、物語では、親の強い意志を担って、本来の身分を超えた婚姻を実現する女性がもう一人いる。後に登場する明石の君である。 そして、明石の君の父明石の入道の父は、この桐壺の更衣の父大納言と兄弟であった大臣ということが明らかにされる。(「須磨」の巻) その父大臣は失脚した為、自分の出世も望めず、近衛中将という地位を捨て、播磨の守という地方官に成り下がり、 果てはその地位も捨て、土着の道を選んだ変わり者として登場する。ひたすら財力を蓄え、 娘を高貴な人の妻にと望む入道の野望が源氏を迎え入れる展開になっていく。 父大納言が娘の更衣に託した念願は、廻りまわって、甥の明石の入道の、娘を源氏に嫁すという念願となって再生されていく。 |
<本文から>
物語は、「帝がこの方を格別寵愛している」という既成事実から語られ出す。なぜ寵愛するようになったかは、一言もふれられていない。 では、この方が他の人よりも勝って特別に美しいかというと、それも語られない。二人の間に誕生した皇子は「世になく清らなる玉の」ともうこれ以上にないといった形容語を連ねて、最高の美で語られているにもかかわらずだ。 更衣亡き後の帝の追憶の中で、「心ことなる音をかき鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりは異なりしけはひかたちの」と語られるだけである。 美貌には違いないが、「絶世の美女」という趣はない。 では、性質が格別良かったのか。たしかに、弘徽殿女御の、「いとおしたちかどかどしき所ものし給ふ御かたにて」という性格形成は、この帝でなくても、 敬遠したい所であろうが、他に大勢の女御・更衣がいるなかで、この更衣のみの特色ある人柄といえば、上品であることと、穏やかで繊細な神経の持ち主というところであろう。 男女の仲の一目惚れというのは、理由などない。だからこの二人の中が格別なのは、前世からの宿縁なのだろう、と語り手は聴き手の意を汲んで言う。 果たしてそれだけか? |
<読み解き>
一目惚れもあろう、更衣の性格のよさもあろう。そして周囲からいじめられればいじめられる程愛しさが募るというのもあるだろう。 しかし、それだけでは、帝のあの寵愛ぶりは説明しにくい。 特に、皇子が誕生してからの一見、思慮深い行動を取るようになった帝が、 後涼殿にいた他の更衣をよそに移して、この人に上局を与えるというやり方には、単なる溺愛ではなく、更衣を上局をもつ女御待遇にして、 周囲のいじめを許さないという強い意志が伺える。 ここまで帝が”この人”と心に決める何かがあるとしたら、それはなにか。それは、この人だけが持つ条件で他のひとのないものだ。 ここで読み手に浮かび上がるのは、この人の入内の異例さだ。この人だけが後見役の父や兄を持たない。 他の女性はすべて、その背後に父兄の政治的な強い期待がある。この人には、謎1,で解説したように、父の遺言があるが、しかし、それは現実的にはなんら帝を拘束しない。 この事実は案外思い意味を持つのではないか。 更衣亡き後、他のどんな女性にも慰まなかった帝が唯一慰められていくのは、藤壺。この人も父も母もいない人。 この点に、桐壺帝の、摂関家の勢力を排除して、王権の確立を望む意志を読みとろうとするのが、岩波新書最新刊の『源氏物語の世界』の著者日向一雅氏。 「源氏物語」を王権と政治の物語として読みとろうとする主張だ。 桐壺帝は、一の皇子をやむなく東宮にはするが、外戚の右大臣勢力を極力排除したい意志は明白で、それゆえ、源氏を臣籍降下後、左大臣の姫と結婚させることになる。 右大臣を押さえる左大臣を味方にしたかたちだ。 「源氏物語」を王権と政治の物語と読む主張には全面的には賛成しがたいが、作者紫式部が、桐壺帝を「天皇親政」を実現する帝と描いたのは事実だ。 それゆえ、物語の舞台を時代的に、書かれた当時よりも100年程遡る醍醐天皇の御代のイメージで読ませる工夫をしている。 桐壺帝がなぜ、桐壺更衣をあれほどまでに寵愛したのか?右大臣ら外戚の権力をもたないただ一人の女性として愛することができたから、と考えることが可能だろう。 |
<本文から>
物語では、後宮の恨みねたみをうけて「いとあつしくなりゆき、もの心ぼそげに里がちなるを、いよいよあかずあわれなるものに思ほして、 人のそしりをもえはばからせ給はず、」一層寵愛がまさると書く。 また、御子誕生後のますます激しくなるいじめに対しても、「いとどあはれと御覧じて、後涼殿にもとよりさぶらひ給ふ更衣の曹司を、ほかに移させ給ひて」とあるだけで、 帝は後宮の女性達に直接の命令を発していない。ただ更衣に対する自分の愛情を増すことと、最下位のの更衣の部屋を移動する事だけ。 天皇という最高の地位にある人に、後宮の支配力が見られないのはなぜか? |
<読み解き>
理由は幾つか考えられる。まず、後宮の秩序というものは、帝の恣意で動かせるものではなく、 後宮に娘を送り出している貴族社会の力関係に支配されているもので、桐壺帝の後宮においては、一の皇子の女御を頂点として序列が決まっている。 それを乱しているのが、更衣を寵愛する帝の側であり、帝の命令というものも定まった秩序を守らせるものでなくては発せられないであろう。 帝とは秩序の頂点に位置づけられた存在であって、感情に自由に従える個人ではない、ということ。 第二に、この段階での桐壺帝は、即位後間もなくで、まだ年若く、自分の力というものを発揮できるまでに至っていない。 彼の後見役は、娘を一の女御として差し出した右大臣が果たしたいところであるが、帝の更衣に対する寵愛は、この右大臣の勢力を嫌ってのことという意味合いが見て取れる。 つまり、まだ年若い桐壺帝は、自分独自の力を発揮したいと願っていながら、まだその力を持ち得ない時期であると見られる。 後宮の秩序を盾にした弘徽殿女御のいさめに対しては、それを無視できない帝が描かれていた。 桐壺更衣を助ける力のまだ無い帝のもとで、更衣は消えてゆくほかない。帝に光る君をプレゼントして。 桐壺帝が力を発揮する為には、弘徽殿女御を圧倒する地位を持つ女性を得ること、右大臣を圧倒する権力を持つ臣下をバックにもつことが必要であるのだ。 それが藤壺であり、光る君の後見としての左大臣である。藤壺入内のとき、帝は即位後10年ほど経過。彼の天皇としての力量が臣下にも浸透しているころである。 彼が、天皇位に20年ほどいるあいだに、臣下を抑え、後宮に対しても圧倒的な力を持つようになっていった様子は、 藤壺を皇后にした時に証明される。 東宮の母女御であり、その子が即位する事態になったにもかかわらず、弘徽殿女御を立后させず、 藤壺を皇后にし、その子(実は源氏の子、後の冷泉帝)を次期東宮にする。これはかなり異例のことであり、弘徽殿の不満は当然である。 それに対して、「あなたは天皇の母として『皇太后』という称号をえるのだから、それだけでいいだろう」と説得する。納得せざるを得ない弘徽殿女御であった。 退位した桐壺帝は、朱雀帝即位後も院として実権を握り、右大臣方を抑えつづけ、光る君が後見をする東宮の地位が安泰するように図っている。 その桐壺帝が退位後わずか1年で死去したことから、藤壺・光る君方の困難が始まる。 |
<本文から>
帝と更衣との間に「玉のをのこ御子」が誕生したと語る文にすぐ続いて、「一のみこは右大臣の女御の御腹にて」と、登場する女御。この人がこの後、 ずっと光源氏の敵役として立ちはだかる人。右大臣家の姫が桐壺帝の最初に入内した女御だった。おそらく帝が東宮であったときにその妃として入内したのであろう。 そしてこの方には、すでに皇女もふたりいる。 適齢の娘をもった上達部はきそって娘を入内させようとする。その際、一番目に入内する”権利”を持つのは、一番の勢力家。 では、右大臣より上位の大臣である左大臣家はどうしているのか?聴き手の関心にはなかなか答えない語り手は、桐壺の巻最後の場面でやっと左大臣を登場させる。 源氏12歳での元服に際し、「引き入れのおとど」として登場したのだ。そして、その北の方である宮腹の御むすめを源氏の「添ひぶし」として差し出すのだ。 そのむすめには、東宮の方から「御気色ある」つまり東宮妃として入内しないかと要請があったのに、良い返事をしていなかったのだが、それには この君に娘をという考えがあったからと語る。帝からも「御気色たまはる」とあり、左大臣・帝の合意の上の結婚話である。 「さらば、この折りの後見なかめるを」という帝の言葉から、臣下に降り、成人した源氏をいよいよ親の庇護から放たなければならない帝が、 その後見を左大臣に託したことが分かる場面である。 左大臣は帝の信任が厚く、北の方は帝と同じ皇后を母とする内親王だった人。その家が源氏を迎えて、一層華やかになり、 東宮の外祖父右大臣家を圧倒しているという。 |
<読み解き>
桐壺帝の後宮に左大臣家の女御が登場しなかった理由は、適齢期の娘がいなかったからだ。さらにそこから浮かび上がる謎。 上位の左大臣は右大臣よりもずっと年が若いのか? そういうことだろう。左大臣は桐壺帝と同世代。右大臣より遙かに若いようだ。 それが上位の左大臣の位にいるということは、この人の家柄が右大臣よりもずっと高いということだろう。東宮と同腹の皇女を正妻に迎えるというのも 父帝のおぼえが高かったから。他と競わなくても、若くして最高位に上る家柄。 では、氏は?左大臣の長男「頭中将」が、内大臣の頃、その子息の一人として「藤侍従」がでてくる(「常夏」)。 また、太政大臣の頃にも「藤宰相」と呼ばれる息子が登場する。これから判断して、(当然の事だが)左大臣は藤原氏である。 とすると、左大臣は藤原氏嫡流の家柄か。 それに対して右大臣は傍系の家柄で、自分個人の政治力によりはい上がってきた家系か。 右大臣の長女弘徽殿女御が発言力を持っていて、子どもの朱雀帝にも力を揮う様などから見ると、藤原兼家が歳取ってからやっと 長女詮子の生んだ一条帝の世に実権を得た例が思い浮かぶ。 左大臣は政治力などなさそうで、生まれの良さがそのまま鷹揚な人柄となっている感じで、妻大宮共々、ひたすら婿がねとして迎えた源氏をかわいがる。 |
<本文から>
桐壺更衣の体調の悪さは、最初の紹介時から語られていた。 「あさゆふの宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心ぼそげに里がちなる」と。 人々の恨みを買うことを気に病んでの心労からの体調の悪さと考えられている。 御子が生まれてから後、更に激しくなるいじめの中で、「わが身はかよわく、ものはかなきありさまにて」という状態がつづく。 御子3歳の袴着を終えた後の夏、 「みやす所はかなき心地にわづらひて、まかでなむとし給ふ」のに、帝がいとまを与えずにいる間に、わずか5,6日で 一気に衰弱する。 やっと帝がいとまを出し、退出しようという時には、もう危篤状態で、息も絶え絶えで、わずかに別れの歌をいうのがやっと。 言い残したいことがありそうであったが、もう口に出す気力がなかった。更衣が退出してすぐ、帝が出した使いが里に到着した時には、すでに息絶えていたあとだった。 |
<読み解き>
更衣の具合の悪さは、「はかなきありさまにて」「はかなき心地にわずらひて」という言葉で語られるだけで、熱があるとか、胸が痛む(紫上の場合はこれ)とかいう具体的な身体上の記述がないのが特徴である。 精神的な弱さ、心労という原因しか考えられないようだ。 御子誕生後はわずか2年に満たない年月で一気に弱って死に至る。 その彼女を生かしていたのは、御子の無事な成長を見届けたいという思いだけだったのだろう。 3歳の袴着(今の七五三にあたる、子の無事な成長をいわう最初の行事)を見届けるともう、気力が尽きてしまったようだ。 そして、身体に堪えるのは京都の夏の気候。盆地特有の蒸し暑さは、冷房装置のない古代では冬の寒さよりももっと身体に堪えるものであるのは、 「徒然草」の兼好が、「家居のつきづきしきは夏をむねとす。冬はいかやうにも住まる。」と言っていることからも分かる。 女三宮の降嫁で心労の重なった紫上が息を引き取るのは秋だが、長年の体調の悪さが急激に悪くなるのがやはり夏である。 更衣の死因は、元来の弱い体質と精神的な弱さの上に加えられた周囲のいじめによる心労というほかないだろう。 わずか五,六日で急激に悪化というのも、身体に堪える夏の気候からと見るほかなさそうだ。 この急激な悪化と言うことから、呪いをかけられたとか、毒を盛られたとか考えるのは、必要ないと思う。 母北の方の「横ざまなる死」という言い方も、更衣に向けられた数年間にわたるいじめということで十分その意味が出ていると思う。 また、更衣攻撃の先頭に立つ弘徽殿女御側は、あえて呪いをかけなければならないほど、立場が弱くない。 弘徽殿女御側からみれば、更衣は身分不相応の状態を作り上げて、自分で自分の命を縮めていったのだ。 更衣の死後、秋の夜を管弦の遊びで楽しむ女御側には、スッとしたという気持ちはあっても、死んだ更衣からのたたりを畏れる気配はない。 聴き手は、更衣の死を純粋に悼みつつ、更衣が自らの命とかえて、帝に託していった御子の将来を更衣とともに祈る気持ちになる。 |
<本文から>
「夕顔」の巻の「某院(なにがしのいん)」に出現する「物の怪」以降、「源氏物語」にたびたび出て来る「生き霊」「死霊」のかずかずだが、 物語の中で一番悲惨な死に方をした「桐壺更衣」が、「死霊」となって出て来ることは一度もない。 |
<読み解き>
なぜ更衣は「死霊」となって登場しないか。物語の中にその必然性を探ってみると、更衣の魂は鎮められていることが挙げられる。 まず、母北の方が弔問に訪れた靫負の命婦に言った「横ざまなる死」という言葉。これは聴き手とすると少々驚かされた言葉であったと思う。 ずいぶんとはっきりいったものだと。この言葉が発せられたことで、更衣の、後宮でじっと耐えていた胸の内が明らかにされ、 更衣の死の無念さは、語り手聴き手も含んだ共有の思いとなって受け止められたことになる。 このときの、母と命婦がしめやかに語り明かす場面の静かな時の流れは、更衣の魂を鎮める特別の時間として、語り手が心を込めて語っている。「桐壺」の巻のなかの唯一の名文である。 また、命婦からの言上を寝ずに待っていた帝の姿を、玄宗皇帝と楊貴妃の事例にならいつつ、長恨歌に語られた以上に癒されない悲しみで、 更衣の死を悼み続けるとしている。この帝の尋常でない悼みのこころが、あの世の更衣の魂を鎮めるであろう。 さらには、「死霊」「生き霊」はどのような人物がどのような人の前に現れ出るか、その条件を探ってみるべきだが、 それは、今後の物語の具体的な登場場面で探っていくことにする。 「桐壺更衣」は「桐壺」の巻のなかで静かに登場し、静かに去っていった人物であるが、 しかし、彼女のこの世に残した一番大きなものは、母の顔すら記憶にない息子「光源氏」に刻まれた「母親への思慕」という深層心理であろう。 彼の生涯の女性遍歴は、母を求める心が支配しているといえる。 |
<本文から>
一の皇子は登場の最初から、「疑いなき儲けの君」として世の信望が厚い。しかし、光る君が誕生し、帝の特別の愛情が傾けられると、 一の皇子の母女御は、「坊にもようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と疑いだした。 東宮を決める時期にはまだ至っていず、次期東宮位が不安定で、疑心暗鬼が生じているのだ。 息子の東宮位、ひいては天皇位を賭しての桐壺の更衣に対するいじめが組織化されていったのだった。 この東宮位争いが決着を迎えるのは、桐壺更衣亡き後、里にいた光る君が参内した翌年である。 「あくる年の春、坊さだまりたまふにも、いとひきこさまほしうおぼせど、御うしろみすべき人もなく、また世のうけひくまじきことなりければ」とある。 帝は東宮坊を決定するに当たって、内心はこの光る君を立てたいのだが、後見人もいないし、世間が承知するはずもないので、おくびにも出さずに、一の皇子を東宮にしたのであったと言う。 このとき東宮7歳、光る君4歳(最少の数え方で)。 現代の天皇家では、一夫一婦制の男系主義で、一番最初に生まれた男子が父が天皇に即位した時に、自動的に東宮となっている。 しかし、この一の皇子は誰もが思っている東宮候補ではあっても、それは決定するまでは不分明だったのだ。では、東宮位とはいつどのような時点で決定するのか? |
<読み解き>
東宮とは何か?次期天皇位に就く人である。それでは東宮はいつ決めるか?新天皇の即位のときである。 つまり、天皇が”いったんことあった時”は、空白期間無く即位できるように前もって準備(設け・儲け)されている人のこと。 だから、この「桐壺」の巻では、実は、桐壺帝の即位時でなく、中途で東宮が定まるというのは異例のことなのだ。 何かあったのだ。 つまり、桐壺帝即位時には別の人が東宮としていたはずだ。それこそ、「葵」の巻で登場する六条御息所の夫、「先坊」である。 その東宮が東宮位のまま若死にしてしまったのだ。一の女御として大臣の娘が入内し、その間に皇女も誕生していたのに。 夫が健在なら、次期天皇妃・皇后として最高の地位に就くはずだったのに、若くして「未亡人」となって、 世間から身を引かざるを得なかった誇り高い女性が、この弘徽殿女御の安堵の背後に隠れ潜んでいるのだ。 この先坊は、後に桐壺帝が源氏をいさめて言う言葉により、帝の弟であったことがわかる。 さらに考えてみよう。次期東宮を決めるのはだれか?重臣達の審議によって決めるという建前はあるらしいが、 実質的には退位する天皇側にあったようだ。自分が退位し、東宮に天皇位を譲渡するに当たって、次期東宮を決めるのだ。 当然、自分に都合の良い血筋を選ぶわけで、自分の子を選定していく。だから面白いことに天皇系図を見ていくと 天皇順が、A系とB系と交互に受け継がれていっているのがわかる。 この物語での桐壺帝前後の皇位継承はどうなっているか?とりあえず、藤壺入内を考える「8,」で考察しよう。 |
<本文から>
藤壺は「先帝」の「四宮」で、母は后である。桐壺帝の父は「一院(いちのいん)」または「朱雀院」として登場。源氏は19歳の時、父桐壺帝の朱雀院行幸に供奉している。その時の試楽で舞った「青海波」の美しさが尋常でないと語られていた。 藤壺の父「先帝」は既に故人として話題に登場している。この人は譲位して「院」となることなく、在位中に死去した人と思われる。 |
<読み解き>
この帝が亡くなって、桐壺帝が即位するに当たって、新東宮を決める際に、この天皇方の皇子が立太子していないで、桐壺帝の弟が立ったのだ。 この人が「六条御息所」の夫である東宮だ。 考えるに、「先帝」には「東宮候補」としてふさわしい皇子がいなかったのだ。あるいは皇子を推す強力な後見役がいなかったのだ。 藤壺の兄「兵部卿の宮」がいるが、この人が東宮となるチャンスは無かったようだ。 「兵部卿の宮」の年齢を推定するに、 妹藤壺が入内した時、彼女は源氏より5最年長の16歳くらい。桐壺帝とは、15歳から20歳くらいの差がある。 兄は2,3歳年上だとして、桐壺帝即位時にはまだ元服前。それでも、「先帝」がみずから退位するのであれば、 この皇子を東宮として推したはずだが、急死してその機会がなかったのだろう。 そこで、先の帝である桐壺帝の父「一院」の意向で、桐壺帝の弟皇子が東宮となったと考えられる。 桐壺帝と「先帝」とは、「兄弟」という近しい関係ではなく、かえって、皇位を争い合っている二つの皇統と考えることが出来そうだ。 それが、「先帝」の死去により、皇位が「一院」−「桐壺帝」ー「弟の東宮」へと一つの系統に収斂してきたと考えられる。 ここに、強力な王権保持者としての「桐壺帝」の位置が確立されていったと見ることが出来るのではないか。 のちに桐壺帝が退位するいきさつを見ると、帝は東宮である一の皇子に位を譲るに際し、弘徽殿女御を抑え、後から入った藤壺を皇后とし、 その生んだ皇子を東宮に立て、その後見役に源氏を任じるという離れ業を実行する。ここには王者としての桐壺帝の意志が強力に働いている。 「桐壺更衣」の子「光源氏」を皇位に立てることを断念した桐壺帝は、「先帝の四宮」という「身分」を持つ藤壺を取り込むことで、 右大臣方を抑える手だてを得た。 |
<本文から>
「玉の御子」を東宮に立てることを断念せざるを得なかった帝は、この御子の将来をどうするか、思慮する。まず7歳になると英才教育を施す。この御子の聡さに驚き、 政治に必要な漢学はもとより、「琴」「笛」などの管弦楽器も学ばせるが、この御子は天才的な音色を発する。このあと、光源氏は「琴の琴(きんのこと)」の名手として物語の最後まで語り継がれる。 無能な子ならそれ相当の処遇ですむが、この驚くべき能力をもつ御子の将来をどうするか。考えあぐねた帝はおりから来日中の「高麗」の「相人(そうにん)」に占わせることにする。 身分は教育係だった右大弁の実子といつわって。 相人の占いの言葉。「国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることもやあらむ。おほやけの固めとなりて、天下を輔(たす)くるかたにて見れば、 亦その相たがふべし。」つまり帝王になる相の持ち主だが、もしそうなったら天下が乱れるだろう、朝廷の強力な臣として国の政治を補佐する役として見ると、それにも当てはまらない相だというのだ。 天皇の相をもつが、天皇でもなく、臣下としての「一の人」にも納まりきらない人。 この言葉を聞いて、父帝は、この御子を源氏に下すことにする。つまり、親王のままで皇位継承の可能性を残すことをやめたのだ。 その場合は世の乱れが生じる、つまり、この子が政争に巻き込まれることが明白なのだ。また、後見のない親王ほど、存在の薄い者はないのだ。 父は、この子の才能に期待して、臣下として、自力で道を切り開ける可能性を選んだ。もちろん、慎重に後見役をさだめて。 「光る君」という呼称はこの「高麗」の「相人」がつけたものとも語られる。 |
<読み解き>
ここでなぜ、「高麗」の「相人」が登場するのか。 角川文庫「源氏物語」の註で玉上琢弥は「高麗人」を「こまうど」とよみ、実際には「渤海国人」のこととしている。 歴史をさかのぼると、920年に渤海国の使いが入京し、正三位を授けられている。その年、醍醐天皇は皇子高明に源氏姓を与え、臣下に下している。 この高明こそ、一世源氏として左大臣の地位まで昇ったが、安和の変により失脚し、太宰府に流される人である。光源氏のモデルに擬せられている。 この「渤海」国の使者来朝をふまえた話だとして、なぜ、「高麗」国の使者とするのか。 物語の執筆時朝鮮半島では新羅が滅び、「高麗(かうらい・こうらい)」が半島を統一していた。 また、朝鮮半島のことをひろく「こま」と呼ぶ言い方がされてきたことから、聴き手に目・耳慣れた「高麗(こま)」にしたのかも知れない。 しかし、「こま」と呼び慣わす「高麗」は本来「高句麗」のこと。 「新羅」「百済」「高句麗」と三国並んで、日本の古墳時代から668年に唐に滅ぼされるまで、朝鮮半島で力を持った国のこと。 日本書紀によると、高麗から渡ってきた僧が、日本のある人を敬い畏怖し、その人に名を贈った話が載る。聖徳太子である。 高麗の僧慧慈は故国で太子の死を伝え聞き、太子を「玄(はるか)なる聖の徳を以て、日本の国に生(あ)れませり」とたたえ、浄土で太子に会い、 共に衆生済度をしたいと次の年の太子の命日に死を誓い、果たすとしている。僧慧慈は太子の20代の時、日本に渡り、太子の師として約20年間教え導いた人である。 聖徳太子の呼称はこの師により付けられたのだ。 「源氏物語」の作者は、この聖徳太子伝説をこの御子にかさねて、「高麗」の「相人」の予言の強力なことを読み手に印象づけているのである。 さて、この「高麗」の「相人」の占いが実現する過程が、「源氏物語」第一部の道筋であり、須磨退去の辛酸をなめたあと、 都に返り咲いた源氏が、四十の賀をまえに、太政大臣を超えて、臣下でありながら、引退した天皇に匹敵する準太上天皇として、 「院」の称号をえるという前人未踏の境地に至る結末が用意された。 |
<本文から>
源氏12歳の元服に際し、「引き入れ」の大臣として初めて登場した左大臣であったが、元服の儀式が滞りなく済んでいく模様を語る文の中に、 この大臣のむすめの話題が差しはさまれてくる。 「引き入れのおとどのみこばらに、ただ一人かしづき給ふ御むすめ、東宮よりも御気色あるを、おぼしわづらふ事ありける、この君に奉らむの御心なり。」 引き入れの大臣の皇女腹(皇女である妻のお産みになった子)に、ただひとり大切にお育てなさっている姫君、その方には東宮からも妃としてのご所望があったが、 父の大臣はお返事を渋っていらっしゃったが、この君に差し上げようとのお考えだったのだ、と語り手は説明する。 |
<読み解き>
4,の問いでの読み解きで既に触れたが、左大臣は自分の所の一番の手駒である、宮腹のむすめを最初から、光源氏に差し出したいと考えていたという。 東宮の元服に際し、先方から所望された入内をあえて断っていた。 次期天皇妃として、皇子を生めばその子はやがて天皇位につくかもしれない、むすめは皇后にもなるであろう、その可能性をすてて、臣下に下った「光源氏」を「婿」に、とはどのような考えなのか。 一番に考えられるのは、桐壺帝の意向である。源氏の元服時に、左大臣に後見役を依頼したのは帝であり、左大臣との相互の了解があった。 帝は右大臣の力を抑える為に、左大臣の力を自分の側に取り込む必要がある。 左大臣としては、娘を東宮の女御として出すことは、右大臣家に娘を差し出すことになり、自分がその下に位置することになる。 左大臣はおなじ藤原氏であるが、右大臣とは家系が違う名門で、 内親王を妻として迎えることができる家である。新興勢力であり、外戚として権力を握りたい右大臣を抑える為に、帝と左大臣との共同戦線がはられた。 |
<本文から>
帝は一の皇子を東宮位につけた後も、この御子の取り扱いは決めかねていた。「高麗」の「相人」に御子を占わせただけでなく、自身も御子の相を占い同じ結果を得ていた。さらに 多くの占いを業とする人にも見せている。 帝はおおいに悩んでいたのだ。しかし、どの占いによっても御子をこのまま親王にすることを是としていない。 「親王となり給ひなば、世の疑ひ負ひ給ひぬべくものし給へば、宿曜の賢き道の人にかんがへさせ給ふにも、同じさまに申せば、 源氏になし奉るべく、おぼしおきてたり。」 まだ、真意は誰にも告げないが、心中では決めていた。 やがて、この御子を臣下に下し「源」氏を与えることは実行に移されたらしい。何歳かは分からないが、 藤壺入内の話のあと、この御子は「源氏の君は」と称されている。 |
<読み解き>
ここでさまざまな問いを立てることができる。 @ 「皇子を臣下に下す」あるいは「源氏を賜ふ」とはどういうことか? A また、帝はなぜ、御子を親王とせず、皇族の身分より遙かに下となる臣下にするのか。 B さらに、この物語において、主人公が天皇の子としての最高の身分で登場しながら、臣下に下ることで物語としてのどのような発展が可能になるのか? @ 「氏」は上代に豪族が自らの系統を示し、他と区別した名称。「姓(八色の姓やくさのかばね)」は天武天皇 が六八四年に、各氏の家格を整理統一するために制定した八等級の姓。真人・朝臣・宿禰など。 皇族は氏姓がない。だから天皇の子が臣下に降りる時は、氏を与えられる。それが「源」や「平」や「在原」である。 A 桐壺帝が光る君の将来をいろいろ考えて、臣下におろしたのは、一つには、親王であれば皇位に立つ可能性があり、その場合の天下の乱れをさける為。 また、ただの「親王」で一生を終えるとしたら、それは御子にとってかわいそうなことと考えたのであろう。 「源氏物語」の登場する多くの「親王」が、することのないつまらない生活を送っているし、中には「八の宮」のように世の中から忘れられた存在になってしまう。 天皇の子として生まれたなら、天皇になる以外にはかえって力を発揮するチャンスは失われるのだ。 「光る君」は学芸にたぐいまれな才を示している。この御子の能力を信じてその力で自分の世界を広げさせる可能性に帝は賭けたのだ。 そのための後見役として、臣下の一の人「左大臣」を配した。 B 「親王」には皇族としての身分柄、自由がない。光る君は臣下に降りて自由を獲得すると同時に、ただの臣下でなく、 帝の寵愛する御子としての、尊さを持ち続けることで、さまざまな行動が許されるという自由をも持つ。 物語の主人公として、自由を獲得する。 |
<本文から>
藤壺が入内すると、帝の心は次第に藤壺に移っていったという。 本文では「おぼしまぎるるとはなけれど、おのづから御心うつろひて、こよなうおぼし慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。」と微妙な表現をする。 更衣を失った悲しみは紛れるということはないのだ。しかし、自然と藤壺に対する寵愛の気持ちが心中を占めて、悲しみの心は背後に移動してゆく。 帝の日常を常に支配する感情ではなくなってゆくのだ。それを語り手は、「あはれなるわざなりけり」と言う。 本文では藤壺と更衣を比較して2項目挙げている。 @共通点「(ふじつぼは)げに御かたちありさま、あやしきまでぞおぼえ給へる。」二人の顔立ち、からだつきが不思議な程似通っている。 A相違点「これは、人の御きはまさりて、思いなしめでたく、人もえおとしめ聞え給はねば、うけばりてあかぬ事なし。」 それに対して、「かれは、人の許し聞えざりしに、御こころざしあやにくなりしぞかし。」 藤壺は身分が高く、人々の評判はすばらしく誰もも貶めることがお出来にならないので、本人も堂々としていてなに不足もない。 それに対して、更衣は人々が認めなかったのに、帝の寵愛があいにく深すぎたのだ。 @とAが帝の心が慰められ、藤壺に心が移っていった理由としてあげられている。 |
<読み解き>
典侍の薦めは「更衣にうりふたつ」という条件だったが、@とAとを冷静に読み比べてみると、Aの違いの方が際だっていることがわかる。 顔かたちの類似よりも、性格や振る舞いの違いの方が大きいのだ。 人間のイメージは、初対面と、しばらくつきあってその人物の人柄を知った後では、 後者が強くなるのは、日常の経験がしらせるところ。 つまり、更衣と藤壺とは別人なのだ。 それが、帝の気持ちが慰められる背景にあるとしたら、帝が藤壺に満足した理由は、どこにあるか。 もちろん、更衣の面影に似ると言う点ははずせないだろうが、そのほかに、 @ 後宮で最高位の藤壺をだれ憚ることなく寵愛できる点。A その藤壺には、バックとなる権力者がいない点。 とくに、Aの点が帝にとっては意味があるのではないか。 外戚としての権力把握を露骨に願う右大臣とその娘弘徽殿女御の意をそぐにたる存在として、藤壺は帝の願ってもない女性として現れたのだ。 |
<本文から>
藤壺と源氏と二人並び立ち、世の人から「光る君」「かがやくひの宮」と称されることを述べて、 語り手は次の話題、光源氏の元服へと進む。 「この君の御わらはすがた、いとかへまうくおぼせど、十二にて御元服し給ふ。」 先年、一の皇子の元服があったという。その元服は東宮としての元服であったから、万事公の定めに則ったものであった。 東宮の元服は紫宸殿で行われ、すべて公の財でまかなわれる。 さすがにこの御子の元服をそこで行うわけにはいかない。清涼殿の帝の御座所で行うが、 それ以外はすべて、東宮の時と同じ、いやそれ以上に豪華に、公の財をも放出させて行う。これには多少の非難が出たらしい。 後見役に当たる「引き入れ」のおとど役は前述の左大臣が行った。 (東宮の時の「引き入れ」がだれかは語られないが、多分、右大臣だったろう。) 当日、御子は最初に童子姿のみづらを結って登場。その髪を切って、もとどりを結い、それを冠の巾子(こじ)の中に入れて、 冠をこうがいでとめる、その役を左大臣がするのだ。「元服」を「初冠(うひかうぶり)」とも言うのはこのためだ。 帝は髪を切る我が子をじっと見つめているうちに、この姿をなき更衣がもし見ることが出来たならと思うと、涙が出そうになるのをじっとこらえている。 久しぶりに更衣を思い出す帝である。 童子姿の美しさに見なれている人々は、「さま変へ給はむこと惜しげなり」であった。 「かうきびはなる程は、あげおとりや、と疑はしくおぼされつるを」とあり、御子は「きびは」だと語られる。「きびはなり」とは 「幼くて弱々しい様」をいう。十二歳の御子は年よりも大人びているのではなく、かえって、幼なおさなした感じなのだ。 帝もそれをよく承知している。 |
<読み解き>
それならば、なぜ、帝は光る君の元服を急ぐのか? 臣下に下すことにした「光る君」には、父としての自分以外に庇護者はいない。しかし、自分は「帝」としての公的存在であり、 精神的には支えることは出来ても、実生活では何もしてやれない。 この子には、はやく臣下の後見人が必要なのだ。それには、自分の妹を妻として迎えている気持ちの通じた左大臣しかいない。 その左大臣の娘は16歳、結婚適齢期で東宮側からも所望されている。 ここは少し早いが、光る君を元服させて、左大臣家の婿としての位置を確保しておこう。父帝と左大臣の庇護を受けたこの子は、最高の道を歩むことが可能だろう。 この配慮が、早すぎる元服・早すぎる母子(藤壺と光る君)分離をもたらし、光源氏の意識の底深く藤壺思慕の心を刻みつける結果となったわけだが、父帝は察知していたかどうか。 |
<本文から>
元服の夜、左大臣の姫と結婚し、左大臣邸で婿がねとして丁重に迎えられたのであったが、なかなか左大臣邸には足が向かず、とかく宮中にいることの多い源氏である。 表向きは、帝が相変わらず離したがらないからだが、じつは、源氏の内心には、藤壺を理想の女性としてしたう心が生じてしまったのであった。 「ただ藤壺の御ありさまを、たぐひなしと思ひ聞こえて、『さやうならむ人をこそ見め』」と思い、左大臣の姫を「をかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかず」 と思うのであった。 その直後に、元服とはどういう事態になることかを語り手は言い出す。「おとなになり給ひてのちは、ありしやうに、みすのうちにも入れ給はず」となるのだ。 自分の意志でなく、十二歳で元服したと思ったら、住まいは宮中から出て左大臣邸で、宮中にいつも行き来するにしろ、 自由な場所は自室として特別許された桐壺のみ。帝に呼ばれていっても、いつものように一緒に御簾の中には招じ入れてもらえない。 自分は御簾の外、簀子に座らせられるのだ。 御簾の中からわずかに洩れ聞こえる藤壺の声を聞くだけしかできない、あれほど母代わりになじみ慕っていた人と、たった1日を境にして隔てられてしまった。 「元服」=「おとな」だからという理由で。 当時の結婚は男が女の所に通う形で、完全な同居でないから、源氏自身の家が必要だ。そこで帝は母更衣の里邸を大修理して美しく作り直して源氏の邸宅とする。 二条院である。源氏は「かかる所に、思ふやうならむ人をすゑて住まばやとのみ、嘆かしうおぼしわたる。」 この二条院に据えたい人、それは藤壺なのだ。 |
<読み解き>
本文でほんの数センテンスで語られてしまう「藤壺思慕」の心理だが、これが無理なく聴き手に受け取られるのは、 背後にある「桐壺更衣」の存在だろう。亡き母を慕う「子の心」の普遍性が、母代わりの藤壺を慕わせる。 それが、ある日突然、不条理に引き裂かれたことで、渇仰の対象に転化する。 しかも、現実で葵の上との結婚という形で 一気に「一人前の大人」となれと要求してきた世の中なのだ。「大人の男」は、妻以外の「大人の女」と会ってはならないとしたら、 自分の会いたい女性を妻にしたいと思うのは当然なのだ。 この源氏の深層心理が、フロイドの分析した男性の成長過程にあるエディプス・コンプレックスと同質であることは、だれにもすぐ思い浮かぶことであろう。 この後の物語の展開のなかでは、源氏の表層意識は「藤壺思慕」にのみ限定されていくが、その深層に「母思慕」があることは忘れてはならないだろう。 その母が血がつながらないことで、より先鋭に、「異性としての藤壺思慕」になり、その女性を独り占めにしている帝=父に対して競争心を燃やす。 自分を庇護するかけがえのない存在でありながら、自分が最も乗り越えたい存在。 帝の后であるその藤壺を犯すことで、「偉大な父」殺しを果たす青年源氏が誕生する。 |