今、夢中になっている「ヒカルの碁」。
最初は、囲碁の漫画なんておもしろくないだろうと思って、あまり反応しなかった。
しかし、周囲の熱烈なファンの人達に影響されて、私は、最近になってコミックスから読み始めた。
すると、読み出してから止まらなくなった。
囲碁がわからなくても、トーナメントのおもしろさ、多彩なキャラクター達の魅力に一気に引き込まれていく。
やがて、いつの間にか、ライバルとして塔矢アキラを目標に、かんばって上を目指そうとする主人公、進藤ヒカルのひたむきな姿を、応援している自分に気がつく。
キャラクター達がステキだから。
それだけでも、十分にはまれる要素がある。
さらに、原作者のほったゆみさんの構成力に唸らされる。
地味な囲碁という勝負世界を、スポーツのようなスピーディーな展開で、おもしろく見せる作家力は秀逸だ。
その演出力を絵として表現された小畑健さんの描き方にも迫力を感じる。
勝負の世界を、時には厳しく、時には楽しく感じさせつつ、その世界に身を投じたがために背負わされる試練と苦しみを乗り越えるキャラクター達の姿に心を奪われていく。
その心理状態の描かれ方こそ、一般の人達が感情移入できるパイプの役割を果たしていると私は感じている。
でも、「ヒカルの碁」を読み進んでいくうちに、この漫画が表現し伝えようというのは、ただ、作品のキャラクター達に感情移入して楽しむだけではないということがわかってきた。
その一つが「囲碁」の世界の説明である。
この作品に感化されて、小学生たちが囲碁を習い始めたというのは、一般的に知られていることだ。
でも、この作品が描かれなかったら。
「囲碁」の世界は、そんなに一般には浸透することもなく、一部の年配の愛好者たちだけの中で(もちろん、若年層も含まれるのだが)築かれる世界だったことだろう。
この漫画は、その世界の入門書の意味をかねている。
漫画という形式をとりながらも、囲碁の歴史と現状を私達に教えてくれるのだ。
この本の原作者、ほったゆみさんにそこまでの狙いがあったかは、私にはよくわからない。
リアル感を追求するために、日本棋院の梅沢由香里四段が監修している。
しかし、そのリアル感が読者の心をがっちりと掴む要素となった。
この本は、閉鎖的な愛好者の中で楽しまれてきた囲碁を、一般に広く紹介するスポンサーの役割を持っているということだ。
まさに、日本棋院にとっては、後継者を育てる救世主といっていいだろう。
そして、もう一つは韓国と日本の交流の難しさである。
「ヒカルの碁」の終章では、日中韓の親善試合が、スポンサーの主催で開催されるエピソードが描かれる。
その影では、出版社側の思惑という噂もあるようだが、「ヒカルの碁」は、その話題性から韓国にも輸出されている。
その韓国においても、囲碁の普及のため、「ヒカルの碁」が多いに貢献したことは、朝鮮日報でも報道された。また、原作者のほったゆみさんは、取材旅行のために韓国を訪問し、韓国名人との対談を実現させ、親交をさらに深めている。
しかし、コミックスの後からアニメが放映されたが、問題はこの時に露呈する。
人気が高いうえに、期待が大きかったようだが、現実に放送が始まると、徹底して日本的なものを排除し、修正をかけざるをえなかったために、視聴者からの非難が殺到したようだ。
とくに、平安装束をまとい登場する佐為は、首から下がほとんどぼやけてわからないまでに修正をかけられている。
確かにアメリカでも、日本のアニメが放映される時、きわどいシーンや暴力シーンがカットされたりするので、けっしてそれが珍しい現象ではない。
韓国の現場では、やもえないことらしいが、一部では、韓国に日本のメディアが輸出されて人気を博し、また、日本でも「冬ソナ」が社会現象になるほど、韓国ブームが高まりをみせている。
一方で、感情の壁が払われかけているのにも関わらず、まだ、完全でないところを「ヒカルの碁」が教えてくれるのだ。
私は、別のコーナーで平安装束についての記述させていただいた。
扇に平安装束は日本の伝統の中で変革してきた文化である。
しかし、その原型は、大陸から朝鮮半島を経て日本に輸入されたものである。
また、囲碁そのものも、中国の尭帝が仙人から囲碁の打ち方を伝授されたと伝えられ、日本には600年頃に伝わったとされている。
そうして考えてみると、日本は、その伝統を受け継いだ後継者とはいえないだろうか。長年の伝統を伝え、守っていく流れの上に日本も存在しているのである。
韓国において、その歴史の事実をこの作品から伝えることはできなかったのだろうか。
確かに、歴史の悲劇がすべてをリセットしてしまったという現実がある。
だが、そのリセットが消滅される日が来ることを願うばかりだ。
「ヒカルの碁」が伝えようとするもの。
それは、囲碁だけではなさそうだ。