都内でも、ここ、一条家の敷地内だけは雰囲気が違った。
亡き曽祖父から引き継がれた道場と、一緒に建てられた母屋は純和風の造りで、都会の喧騒とはまったく無縁の場所だ。
よく手入れされた和風の庭園は、祖父、彦右衛門が丹精を込めて作り上げた自慢の庭だ。
植木や盆栽、石やししおどし、水琴窟などは、彦右衛門が厳選した一品があつらえてある。
そこは、まるで隠れ家のような落ち着いた空気が漂っている。
その庭を眺めながら、愛孫のアキが奏でる津軽三味線の音色を楽しむのが、彦右衛門の老後の楽しみの一つになっていた。
面倒見がよい彦右衛門だが、孫のアキには、ちょっと困り者の祖父だった。
幼いときから、父親以上に彦右衛門のしつけを教え込まされて、アキは、合気道と日本の女性としてのたしなみを身につけさせられた。
そのせいで、家の中では普段から着物を着こみ、琴や三味線といった和楽器に親しみを感じるような女の子に成長した。
そんなアキは、時代錯誤の感覚をしているからといって、友人達からよく笑われている。
しかし、今度はその友人達を彦右衛門が制裁しようとするから、友人達はこのモーレツじいさんを恐れて、ほとんどアキの家に近寄ろうとしなくなった。
アキは、こんな彦右衛門を尊敬している。だけど、もう少し、融通を利かせてくれてもいいのに、と、いつも思ってしまう。
現在、アキは、大学の近くにあるマンションで一人暮らしをしている。
一人でいる方が気楽だと思いつつも、たまには顔を見せて彦右衛門を安心させてあげたいと思い、月に一度はこの家に戻ってくるようにしていた。
そうすると、彦右衛門は妙に機嫌がいいのだ。
アキは、久しぶりに愛用の津軽三味線に触れた。とはいうものの、毎日のことではないから腕も鈍る。
どこか手元がたよりないとアキも思った。
が、ふとした感覚で、アキは弾いた弦の音を狂わせた。
アキはハッとした。
アキの内面を不思議な感覚が一瞬で駆け抜けていった。
心の奥が騒めくような妙な胸騒ぎだった。
「どうした? アキ…!」
指が止まったまま、呆然としているアキの様子を、おかしいと思った彦右衛門が声をかける。
その声で我に返ったアキは、無理に笑顔を作った。
「何も…。」
と、そこへ重なるように携帯のメロディが鳴り響いた。
アキは、アッと顏を起こした。
胸騒ぎが、アキを突き動かす。
津軽三味線を投げ出すと、テーブルに置いてあった携帯にアキは飛びついた。
「落ち着かんのう! アキ、携帯の音は嫌いだといっただろ! 切っておかんか!」
「ごめん!」
そういいながらも、アキは携帯に出て相手と話しはじめた。
その時別室から、同居しているアキの従兄弟にあたるヤマキが姿を見せた。
アキの家は、いろいろあってこの三人暮らしだ。
ヤマキは、たいてい彦右衛門のなだめ役を買ってくれる。アキにとってはありがたい存在だ。
「また、もめてるのか?」
「ごめん、急用ができたから出かけてくる!」
携帯を切ったアキは、早口で二人に告げた。彦右衛門の代わりにヤマキがアキに質問した。
「誰だ? 鉄郎だったのか?」
「違うわ。レイコ。同級生だった子よ!」
「ああ…。あのレーサーの奴と一緒になったっていう…。わかったよ。じいさんの方は、何とかしてやるよ。」
「感謝、ヤマキ!」
アキは、すぐに二階の自室に向かった。着替えて出かける準備をするためだ。
その間、不機嫌になった彦右衛門に、ヤマキが話しかけた。
「じいさん、もう少し、アキを自由にさせてやったらどうだ?」
「今でも自由にさせてやっとる…。ただ、わしらでないとアキを守ってやれる者がおらん…。息子夫婦や兄の徹也のようにはさせられんじゃろ…。」
彦右衛門は、遠いまなざしで和室の奥に飾られた仏壇を見つめた。それは、彦右衛門の息子夫婦と長男の徹也の写真だ。
ヤマキが声を出そうとしたとき、カジュアルなパンツルックに着替えたアキが姿を見せた。
アキは、こういう身軽な格好の方がいいと思っている。
腰までのびた美しいストレートの赤い髪は、ほっそりとした体型とあいまって、優雅な印象を人に与える。
でも、性格は意外に活発だ。見かけよりも内に秘めた情熱は熱い。そのために、時々激しい一面をのぞかせることもある。
「行って来る!」
それだけいうと、アキは玄関の方に向かった。
「アキ、遅くなるんだったら連絡しろよ!」
ヤマキは、そういって声だけでアキを送り出すと、彦右衛門に言い返した。
「大丈夫だ。アキには信頼できる仲間がいる。俺達がでしゃばる必要はないよ。見守ってやるだけでいいんだ…。」
ヤマキは、自分にも言い聞かせた。
家族のように暮す一人娘。
しかし、アキは本当はこの家の娘ではない。
養女に迎えられて育てられたのだった。
いつもの繁華街に出たアキは、高校時代から仲がよかったレイコと三ヶ月ぶりに再会した。
ちょうど三ヶ月前、レイコは長く交際していた島村ジョーと結婚式を挙げた。
その後、彼女はジョーと一緒にイギリスへ渡った。ジョーがイギリスのF3選手権のレースに出場することになっていたからだ。
そんなレイコが、ふいに日本に帰国してきた。
突然、かかってきた連絡にアキの方がびっくりした。
待ち合わせ場所にアキが行ってみると、両手いっぱいにショッピング袋を抱えたセミロングの女性がいた。
トレードマークだった長い髪をばっさりとカットしたが、レイコの明るい印象は、以前と少しも変わらない。
流行の先端を取り入れた、カジュアルなスーツに身を包んだところが、いかにもレイコらしい。
この後の展開はアキにも想像がついた。
「このために、わざわざあたしを呼んだの?」
そういって、アキはがっくりと肩を落とすと、
「そういわないでよ〜。ちゃんと、アキに会いたかったんだよ〜。でも、助かったわぁ…。どうしようかと思っちゃった…。」
「買いすぎよ!」
アキは呆れた。
仕方なく、レイコの荷物持ちを手伝ったアキは、近くのカフェに入って落ちつくことにした。
でも、そこは女性同志だ。顔を会わせると、自然に会話の花が咲いた。
レイコの話では、ジョーはレースの最中で帰国できずに、レイコだけが里帰りしてきたらしい。
「むこうはどうなの?」
アキがそういうと、レイコは肩をすくめた。
「少しは馴れたけど、まだまだわからなくって…。やっぱり日本がいいわぁ、店もよく知ってるし…。それに、ジョーは今、オーストラリアに行ってるんだ…。」
「どうして?」
意外な話にアキが首をかしげると、レイコは声をひそめてアキにいった。
「ひょっとしたら、契約してもらえるかもしれないの。その話で呼ばれたのよ。まだ、正式決定してないけどね。」
レイコの意味はアキにも理解できた。
ジョーにF1チームの誘いがきてるのだ。
思わず、アキの顔に笑顔が浮かんだ。
「おめでとう!」
「まだ早いよ。今年の成績が悪かったら、すぐにその契約も流れちゃうわ。あるチームのオーナーが、オーストラリアにいるからって、極秘で面会しにいったんだよ…。その間、あたしは日本に帰国できるように、とりはからってくれたの。あさってには、イギリスに戻る予定なんだ。」
「そうだったの…。大変そうね…。」
「あいつが選んだ道だからね…。あたしは、彼に連いていくだけよ…。」
レイコは事もなげにいった。
アキは笑顔で頷こうとした。
そのアキの顔を、レイコはのぞき込んだ。
「あたしのことよりも、アキの方こそどうなの?」
「あたしのことって…。」
「とぼけない! 鉄郎ちゃんだって留学先から戻ってきたんでしょ? 二人とも、即ゴールインすると思ってたんだけどなぁ…。何をモタモタやってんの!」
レイコにいわれて、アキは肩をすくめた。
「まだ、お互いにいろいろあるから…。ほら、鉄郎の家の事情もあるし…。」
「それ、あんたのいいわけでしょ。鉄郎ちゃん、そんなのにこだわる人じゃないよ!」
「出よう、レイコ。」
アキは立ち上がった。
レイコはスッと目を細めた。
「そうやって、すぐ逃げる…。」
先にアキの方が店を出て、大通りに面した歩道に移動した。
と、その時、また不思議な胸騒ぎを覚えた。
アキは周囲を見渡すが、すれ違う人々の雑踏も街の様子も何も変わらない。
「どうしたの?」
後から出てきたレイコが、アキのただならぬ様子に顔をしかめた。
アキは、しきりに視線を泳がせている。
その目が、大通りの向かい側にある、大型の街頭ビジョンに向いた。
大型ビジョンにニュースが流れた。
オーストラリア沖の海上で豪華客船が火災に見舞われ、大惨事になっているという緊急報道だ。
街を行く若者達も、足を止めて大型ビジョンに見入っている。
アキは口元を覆って立ち尽くした。
息を飲んで身を震わせる。
「アキ、どうしたのよ!」
レイコが心配げに問いかけると、アキは呻くように声を出した。
「あの船に、鉄郎が乗ってる…。」
「ええっ? 鉄郎ちゃん、今、どこにいんのよ!」
「オーストラリア…。間違いない…!」
それを聞いたレイコの方が仰天した。
アキの動揺は、それだけで収まらなかった。
立て続けにアキは身の危険を感じた。
それは直感だ。
一瞬、全身に戦慄が駆け抜けて、閃光が脳裏を貫く。
この激しい殺気は、四年ぶりにアキにある種の力を目覚めさせた。
アキは、瞬時の判断で行動した。
素早く身を伏せて、後方に飛びのく。
わずかな差で、それまでアキがいた場所に、鋭い光線が飛び込んでくる。
光線はまっすぐにのびた。
そして、後のカフェのウインドウの強化ガラスを突き破った。
ピシッと、高質で乾いたような音が周囲に響く。
その音で、歩いていた若者達が悲鳴をあげて逃げ出した。
一気に騒然となった。
「ガラスが割れた!」「ピストルだ!」
「アキ!」
アキとはぐれたレイコが、人の波を分けてアキの方へ駆け寄ろうとする。
「レイコ、こっちへこないで!」
アキは叫んだ。まだ攻撃は続く。
アキは、そう予感した。
レイコは立ち止った。
アキが何かをいっている。
逃げた方が安全だ。
しかし、いったいどこへ。
レイコは逆に戸惑い、立ちすくんだ。
「レイコ!」
アキは絶叫した。
撃たれたと思った。思わず、目を伏せた。
だが、実際はそうではなかった。
人ごみの中から飛び出した青年が、レイコの体をつき飛ばして、レイコをかばった。
やはり、コンマ何秒というわずかな差だ。
レイコがいた場所の、すぐ後のウインドガラスが、同じように砕けた。
アキは息を飲んだ。
しきりにアキの中で騒めいていたものが、一気に噴き出した。
しかし、一方では信じられないという気持ちもあった。
まさかという思いが広がった。
青年の素早い反射神経や、身のこなしはアキのそれと同じだった。
顔をはっきりと見たわけではないが、身長170センチほどの青年の髪は緑色だった。
アキの周囲の騒ぎは、よけいにひどくなっていた。
それに紛れて、アキは青年とレイコの姿を追って脇の小道に駆け出した。
その頃、青年とレイコは路地裏に飛び込んで、重なるように突っ伏している。
しばらくして、青年はゆっくりと上体を起こした。
そして、気遣いながらレイコに声をかけた。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
こういう態度にレイコは弱い。青年の声は澄んだテノール。その声の質から想像しても、さぞ、魅力的な青年だろう。
結婚したという肩書きのおかげで、レイコに近づく男性は極端に減っている。
悪戯心で、この青年の気を引いても悪くないと思いついた。
「え…ええ…。」
わざと“か弱い振り”をして、レイコはゆっくりと顔をあげた。
だが、先に声をあげたのは、青年の方だった。
「あなた、レイコさんでしょ!」
いきなり、名前を呼ばれてレイコは我に返った。
じっくりとその青年の顔をのぞきこむと、レイコは言葉をなくした。
年齢は十七、八。甘さを含んだ精悍な顔立ち。澄んだブラウンの瞳。
その瞳にかかる髪は艶やかな緑色だ。
「君は…。」
レイコは、やっとそれだけいえた。
大人びているが、あの時の面影が多分に残っている。
あの時は四年前だった。
この青年は、まだあどけない顏をした十三歳の少年だった。
彼は、地球人ではない。
宇宙にいた天才少年。
後を追ってきたアキが、呆然と立ち尽くして青年に呼びかけた。
「あなた…、トリトン…!」
誰もが認めたアトランティス最後の末裔の少年ー。