日時・組 | お菓子・飲み物 | 物語の場面 | 本日のつぶやき |
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2005.6.21 19:30〜21:00 紅梅組(11名) |
「千鳥屋」の「隅田川」 ・緑茶・ブルックスコーヒー |
「澪標」巻 姫君の「五十日の祝」の品を盛大に源氏が贈ってくる。 その後の「乳母」の気持ちを中心に書き、「乳母」が源氏から「明石」に贈られた文を一緒に見ている場面。 | なぜ、「乳母」が「明石女君」に来た源氏の手紙を一緒に見たり出来るのだろうか?
「乳母」が「明石君」をちょうどよい語り相手として、都での源氏のすばらしさを思う存分語って、気慰みが出来た とか、源氏からの手紙を一緒に見ているとかいう表現を見ると、この「乳母」は明石君より、身分が高い存在としてこの地に居ることが分かる。 つまり、「乳母」は源氏にやとわれて、姫の養育をするのであって、この入道の家に居ても、決して入道家に使えているわけではないようだ。 今の私達の感覚からすると、女の子の世話役なら、その母が女主人というように思うが、違うようだ。 乳母になった女は、明石君を見て、「こんな女が源氏に愛されるなんて・・」とおもって悔しがる。でもそれなりに明石の人柄が素晴らしいので、 次第に気を許して仲良くなっていっているらしい。 なにも書いてないけれど、明石君にしてみれば、源氏が娘を大事にしてくれるのは有難いが、この乳母の思い上がった態度は、ずいぶん悔しい気がしただろう。 そこは「身をわきまえて・・・」とひたすら自分に言い聞かせて我慢したに違いない。なにしろ、源氏の都での様子はこの女の口からしか聞けないのだから。 「乳母」が、都の源氏を直接知っている優越感から、得意になってしゃべるのを黙って聞きながら、「私はその源氏の姫を生んだんだわ。 それはまだ他の誰もしていないこと、それなら、私は少しは自信をもっていいんだわ」と心密かに思う。 うーん、この屈折したところが「明石君」ね。 (茜組・あきよ) |
2005.5.31 13:00〜15:00 紅梅組(11名) |
アップルパイ ・ブルックスコーヒー |
「明石」巻 それまで自分の苦しい心のうちを見せずに、穏やかに振る舞っていたいた明石の女が、 源氏がいよいよ京へ出発するという時の歌に対する返歌には、「返る波にや身をたぐへまし」と源氏の帰京の後を追って波に身を投げて死んでしまおうかしら」と 心の中をそのまま詠みこんでいる場面 | なぜ、それまでのように自分の本心を隠しておかなかったのだろうか?
解答例@ 源氏に去られるのがあまりにつらくて、見捨てられてもしかたない自分の運命を絶望的に悲しむ気持ちを 隠しておこうとするだけの気力を維持できなくて、思わずポロッと本心を書いてしまった。 解答例A 源氏が去るにあたって、彼の心に強く自分を印象づけるには、激しい思い(死にたい思い)をぶつけることで最大限の効果を発揮しようとした。 つまり、相手への歌の効果を考えて、あえて本心をさらけ出す技巧をした。 正解は@とAのどちらでしょうか? 物語の流れから読むと、当然@でしょうね。 別れにあたって忘れがたくなっている源氏の心に沁み入る、あわれな女に秘められていた深い嘆き。 でも、それだけかしら?と考えてしまう熟年女の読者である私(たち)。 今までの彼女の思考法を考えてみると、「男に捨てられるなら身を投げて死ぬ」は彼女の最初からの考え方で、 それを、今になって、あえて相手に言い出すというのは、”衝動的な”しわざなんかではなく、 もうこれっきり自分を忘れるかも知れない相手へ、最後の手段として、自分を印象づける捨て身の効果をねらったのではないかしら? 源氏の帰京はもう何日も前に分かっていること。 としたら、毎日毎日その当日のことを1人考え詰めていたはずで、そのときの返歌の内容もおそらくどうするか、考えていたはず。 紫上が無技巧の嫉妬の表現によって源氏の心をとらえるとしたら、明石女は十分に考えに考えた表現によって相手の心をつかむことを必死に行っていると思う。 去っていく男の心をつかみ止めるにはどうするか?ここに一つの回答が紫式部によって示された!(紅梅組・たえこ) 同感!同感! 女性読者のわたしたちから見ると、技巧に過ぎる感じがするけれど、それをしなければ身分の低い彼女がおのれの存在を維持できないという構図なのでしょう。 身分制社会の中で、必死になって肩肘を張って「私はわたしなのよ」と主張する明石の姿は、読んでいてすこし息苦しいけれど、考えてみると、現代の男社会の中で必死につっぱてきた 私たちに思えるわね。(紅梅組・ゆうなみ) |
2005.5.24 19:30〜21:00 茜組(3名) |
パステルのなめらかプリン ・レディグレィティー |
「明石」巻 源氏に帰京の宣旨が下り、帰京が数日後に迫ったある夕べ、源氏ははじめて明るい光りの中で明石の女を直接見る。 思っていた以上の容貌の美しさに胸打たれ、なんとか工夫して、この女を京に迎えようと思う場面。 |
もう、明石の女の元に通うようになって1年近く経って入るというのに、夜暗くなって行き、暁に帰るという夫婦生活ではまだ、
ちゃんと顔を見ていなかったんだ!
「源氏」を読んできて、”その人”というものの情報が、手紙の紙のセンス・香り、文字、歌の内容という間接的なところから始まって、 当人の直接情報がインプットされるのが、”会った時”だというのは分かっていたけれど、まさか直接顔を見るのに1年もかかったなんて・・・! 現代の私たちは、”人は顔が一番だ”と思っているけれど、それはみんなが同じような流行の服を着て、少ないボキャブラリーで同じようなセリフを はいているだけだから、区別は顔くらいだと思ってるのかもしれない、けれどその顔も同じような化粧法で変哲がないし・・。 現代人は本当に”個”としてどれほど互いの違いを知っているのだろうか、とおもってしまった。 王朝時代の男女が、顔以外のあらゆる情報を駆使して互いの個性をつかみ合い、よく知り合ったと思ったその最後のところで顔が登場して、その”顔”によって、 いままでより一層つよいインパクトを受けるというこの展開は凄い。 それにしても、想像以上に顔が美しかったから見捨てがたく、「京に呼ぼう」と思う源氏は、この明石の女をこの地にいる限りの”一時の慰み” と思ったいたわけだ。明石の女の嘆きは当然だったのだ。(茜組・つねみ) |
2005.5.10 19:30〜21:00 茜組(3名) |
メイプルリーフクッキー ・キューバコーヒー |
「明石」巻 明石の女の岡辺の家に行き、女と一夜を過ごした源氏が紫上への心のとがめから、明石の女には訪問が間遠になりがちになる場面 | 源氏がはじめて明石の女に会ったのに、その日にすぐ紫上を恋しがる神経がよくわからない。
それに対して、自分の意志でもなくこういう契りを結んでしまって、行く末に対してもはかない望みも持てないと自覚していながら、 表面には自分の感情を一切出さない明石の女の強さというのはすごい!(茜組・あきよ) |