ここは他の宿場とはちょっと違って別格だったと言っていいかも。重要な街道である東海道の初宿であり、しかもとなりは遠浅の海だったってこと。長さはおおよそ二キロ、目黒川をはさんで北宿と南宿に分かれていた。 のちに、北宿に歩行新宿が加えられたとある。特に食売旅籠も多く、北の吉原に対して南と言えばここ品川をさしていた。落語にもよく登場するね。中でも土蔵相模と呼ばれた相模屋はつとに有名だった。 行楽に、遊興に賑わっていたことは想像できるね。
八ツ山橋を過ぎ、京急の踏切を渡ると歩行新宿に入る。目に留まるのが左手に下る路地の脇の問答河岸の碑、路地はかなりの傾斜がありそうだ。 その先右に清水横丁の路地。この先は京急北品川駅。旧道から分かれる路地は横丁と呼ばれている。
左に見えてくるのが一階がコンビニのマンション、ここが飯売旅籠だった通称土蔵相模と呼ばれた相模屋跡。説明板があるだけで面影は何もないね。 ここらあたりから店が目立ち始めるが、あまり賑わいは感じられないな。
土蔵相模跡の裏手の方向に、かつての海の面影が品川浦舟溜まりとしてかろうじて残されているね。海が近かったことが実感できる。
少し歩くと右に大横丁の説明板、ここは他の横丁より巾が広いから大か。ここと清水横丁を結ぶ裏道を、とくに旧東海道の表に対して 裏町と呼ばれていたとあるね。星野金物店、めずらしい看板建物が残っているね。
左に台場横丁の下り坂、台場建設時に作られたとある。そのまま進んで、かつての目黒川で今の八ツ山通りを渡ると、利田神社がある。 ここは洲崎弁天社だったところ。鯨塚を見ておこう。迷いこんだ鯨を捕獲、見物 の庶民で大騒ぎになり時の将軍家斉も上覧したと言う。それほど珍しいことだったようだ。 実は利田神社の場所は目黒川を渡った先になり南宿に含まれていた。
利田神社の東側には、今は一部が小学校になっている台場跡がある。正式には御殿山下台場と言ったそうだ。 また当時の台場の形が外周の道路として 残っているのもおもしろい。第二台場にあった灯台のモニュメント。
台場横丁の向が黒門横丁、ここらあたりまでが歩行新宿かな。黒門横丁はかつて広大な寺域を誇った東海寺へ向かう道だった。 道を挟んで隣が伊豆の長八の「こて絵」のある善福寺と大イチョウが見ごたえのある法禅寺。
左手に留屋横丁、その先に洲崎へ向かう鳥海橋があった。となりに品海公園、ここに江戸から二里を示す碑がある。ななめ向には丸屋、明治期に建てられた履物店、 旧道にはふさわしい建物だな。
一心寺、かつてあった脇本陣の跡にできた比較的新しい寺とあるな。成田山の不動明王を勧請してるそうだがその提灯の数、かなり成田山を強調してるな。向かいに虚空蔵横丁、 その先虚空蔵尊の養願寺、ここでは十三参りが行われていたそうな。ついでに正徳寺のレンガ塀をみておこう。
左、竹屋横丁を過ぎると本陣跡。今は聖蹟公園に変わった。聖蹟とはなんとも難しい言葉だが、天皇が行幸し休憩、宿泊した場所の跡をこう呼ぶらしい。
北馬場通りで第一京浜国道を渡った先が品川神社、ここは北宿の鎮守で天王社。「品川の富士」には登っておこう。ここの富士塚は高台にあるのでかなりの高度感を味わえるな。
旧道は山手通りで分断されちゃったね、そこを渡ると、右手方向に荏原神社。そこは南宿の鎮守、天王社でもある。 まてよ、まだ目黒川を越えてないよな。実は目黒川は改修されていて、かつては神社の北側を流れていたとのこと。つまり川の南に存在していたってこと。鳥居の向いている方向 に違和感を感じるのも納得。
目黒川の手前、東側方向、八ツ山通りを渡った先が洲崎猟師町にある寄木神社。ここにも伊豆の長八の「こて絵」が残されている。ここも嘗ての南宿。目黒川が改修されてなんともややこしい。
目黒川に架かる品川橋を渡ると南宿に入る。すぐ左角が脇本陣を営んでいた百足屋があった所、現在の城南信用金庫。南は北と比べると店も少なく、さらに閑散としているね。
右手に海徳持、ここの本堂は250年前に建てられたとある。その先に「街道松の広場」旧道には東海道の各宿場の名がついた松が植えられているがここのは特に大きいな。
少し進んで「南馬場通り」との交差点の左角が問屋、貫目改め所があった場所で今はビルになっている。当然ながらかつての面影はない。この裏手の方にはかつての護岸の石垣が残されて現在も使われている。
右手にあるのが長徳寺、ここは焔魔堂を見ておこう。隣が天妙国寺、ここの境内はかなり広い、将軍宿泊の記録が残されている。真了寺との間に松岡畳店、この建物も古いね。 ここらあたりが、 かつての海に最も近かったところ。
「ジュネーブ平和通り」を渡った右手に品川寺が見えてきた。入口すぐに江戸六地蔵の一つが鎮座している。ここはなかなか風韻気のある寺だな。境内に入ると 洋行帰りの梵鐘がある。「鐘帰る」で「金返る」の語呂合わせを楽しむ、むきありだそうだ。
向かい角に釜屋があった。ここも今はマンションに変わっている。釜屋は海の眺めも、料理も良く人気があった立場茶屋、その後幕府御用達の旅籠になったそうな。北に比べると健全か。
海雲寺、千躰荒神堂奉納扁額が区の民族文化財に指定されている。荒神とはかまどの神様。ここらあたりで宿場は終わるようだ。この先国道15号とぶつかる鈴ヶ森まで旧道は続いていく。
途中立会川に架かる橋が浜川橋、通称泪橋と呼ばれていた。橋の西の方向に京急立会川駅、そばの北浜川児童遊園に、近くにあった土佐藩抱え屋敷にいた坂本龍馬の銅像がある。東の方向には土佐藩が作った浜川砲台跡がある。 そこには、かつての海が、勝山運河の一部として残っている。
国道15号と交わる手前に鈴ヶ森刑場跡がある。言わずと知れた御仕置き場。千住には小塚原、北と南はとくに有名だな。ここに残されている「磔石」と「火あぶり石」はなんともおぞましい。ここで丸橋忠弥と八百屋お七が処刑された。 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。