今回は四宿巡り、千住を歩くことにしようカァ~。千住は江戸四宿のひとつで、日光、奥州道中の最初の宿場町、最初にできた千住五ケ町を本宿、次に加えられた掃部宿、河原町、 橋戸町を中宿、さらに発展に伴い荒川(現隅田川)の南側、中村町、小塚原町を下宿と呼び、また川の北側を大千住、南側を小千住と区別して呼ぶこともあったとあるね。当然ながら 食売旅籠も多く品川に並ぶ歓楽街へと発展していったとあるなぁ~。
ここは小塚原、江戸への入り口、見せしめのためでもある御仕置き場、東海道には鈴ヶ森がある。今は常磐線が上を走り首切り地蔵の延命寺と 回向院を分断している。回向院は刑死者のためにつくられ、ここには橋本佐内、吉田松陰、頼幹三郎、変わったところでは鼠小僧、高橋おでんの墓がある。 また解体新書の作成のきっかけとなった腑分けが行われたところでもある。三尺高い木の上にどれほどの首が晒されたことか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
古地図によるとここらあたりから民家が建ち始めるようだ。まさか仕置き場のすぐ横に住むわけにはいかないわな。今は道も拡幅されたようで小千住と呼ばれた 面影は全然ないな。この道は素戔嗚神社あたりで下谷道と合流する。下谷道は東叡山門主輪王寺宮が日光参内に利用したとある。今は国道四号線となり西光寺前あたりで 真養寺を東西に分断するように真っすぐに替えられている。旧道はわずかに残され今では何の変哲もない生活道路になり、つき当りの素戔嗚神社を右に折れ 四号線に合流する。この素戔嗚神社には瑞光石がまつられている。
文禄3年(1594)大川に最初に架けられた橋。ここが足立郡と豊島郡の堺だった。深川を出た芭蕉が船から上がり前途三千里の旅を始めたところでもある。 現在の足立市場前に旅立ちの碑がある。ここからは道幅も狭くなり旧道が残されているようだ。付近の家には「やっちゃば」が繁栄していたころのなごりか古い屋号が 掲げられている。しばらく行くと旧大師道分岐の道標がある。またここには唯一と言っていいネギ専門の市場がある、千住ネギは有名だからね。
ここは掃部宿、今も残る源長寺が目安となる。大川の氾濫に備えて築かれた掃部堤は今では墨堤通りに変わった。相変わらず宿場の面影はないな、両側に店はほとんどなく 住宅街といった感じ。かつて千住小橋があった所は道路に変わり旧道との交差点に出ると道路沿いに申し訳なさそうに一里塚跡を示す標識があった、ここまで二里か、それにしても 小さな公園ぐらいにはできなかったかな。一里塚の反対側には高札場跡碑がある。
道路を渡ると一丁目、宿場の主要な施設、問屋場と貫目改所跡がある。跡地は広場になっており 当時を説明する案内版がある。ここらあたりから両側に店が建ち並びはじめ、旅籠とは違った賑わいが出てくるね。さらに進むと二丁目、道の左側少し引っ込んだ所に勝専寺、ここには将軍も滞留したとか。右側に入って行くと金蔵寺、こちらは飯盛り女の「投げ込み寺」的な存在 新吉原には浄閑寺があった。いずれも千住の歴史ではあるね。北千住駅への道路を渡ると三丁目、ここが宿場の象徴のような存在の本陣があった所、今は商店街の真ん中 と言うことで面影は全然ないね。細い路地に隠れるように案内板があるのがなんかさみしい。
宿場の外れに近づいてきた。江戸時代後期の建物が残る伝馬屋屋敷の横山家の右の路地を入っていくと長圓寺がある。左にはこれも古い絵馬屋吉田家、その先に遣り掛けを謳った団子の店 「遣り掛の松」にまつわる逸話が残る清亮寺は旧水戸,佐倉道を進んだ所にある。右に旧水戸,佐倉道の道標を過ぎて真っすぐ行くと旧下妻道、少し進んで道は左に折れて行く、いずれも今では 荒川の土手にその先を阻まれることになる。ここでは名倉接骨医院は外せないね、門前市をなすではないが患者のための宿があったとのこと。