今回は四宿巡り板橋を歩くことにしよう。板橋は中仙道第一の宿場、平尾一里塚から始まり、平尾、仲、上宿と続く。一番賑やかなのは本陣のあった仲宿だな、上宿との堺にあるのが石神井川にかかる橋、これが名前の由来だとか でもそのころの橋は大体がどこでも木製だよね、それをことさら強調して宿場の名称としてしまう板橋とはある意味すごい。宿場の名称が区と駅の名前に継承されていることはある意味当然だよね。 駅は宿場の機能の一つでもあったからね。なぜか千住は区の名称に採用されなかったが。ところで、JR板橋駅は東口を含む大方は他の区の中に存在してるって、ふむ~、駅前もなんか素朴って感じ。新宿との落差はあまりに大きいね。宿場の規模としては四番目かな、 脇本陣は各宿にあったそうだ。現在は追分かつての川越街道との分岐点で国道17号によりスパッと分断されている。また、この宿場の特徴として、仲宿から板橋に向けて道が下り坂になっていることかな。
今は江戸から二里にあたる「一里塚」の痕跡はどこにもないね。ここらあたり当時は人家もほとんどなく、付近には馬捨て場があり、そこで近藤勇は斬首されたとあるね。古地図に描かれた平尾一里塚。右が現在、滝野川方面を見る、 手前の横断歩道の両端付近じゃないかな。
板橋と聞くと近藤が頭に浮かぶ人もけっこういるのではないかな。近藤勇の墓地がJR板橋駅の東口のほぼ正面にあるね。駅前に墓地が残されているのにはちょっと驚くけど史跡としての価値ありとみたためかな。 墓は永倉新八等によって建立されたとあるね。細長い墓石の正面には近藤勇と土方利三、側面には各隊士の名が刻んであるが側面は判読しづらくなっているな。近藤の諱が上下逆であるのが謎とされているようだが、案外、 単純に手違いによるもので永倉も今更変更は難しいと、これを良しとせざるを得なかったんじゃないかな。死後遺言により永倉もここに分骨され墓が建てられたとあるね。永倉の墓は左手、かなり「りっぱ」近藤の像は右手、かなり「かわいい」。
実質、宿場として機能するのは川越街道が分岐する追分あたりからか。往時に比べると寺域も小さくなった東光寺、えらくモダンな門に変わってるな。入口横には寛文二年の庚申塔、めずらしい座ったお地蔵様、 その横は宇喜田秀家の供養塔、明治期に子孫が建てたとのこと。
少し進むと右手に観明寺、都内で一番古いとされる、こちらは寛文元年の庚申塔が木枠に囲まれてあるね。境内はさながら駐車場のようで殺風景な感じを受けるのは、こちらの期待のかけすぎによるものか、これが現実ってことかな。 この寺の横の道を入って行くと今ではマンションに変わっている平尾宿の脇本陣跡がある。
しばらく進むと王子新道との交差点に仲宿の看板、仲宿の通りは商店街の趣、人の数が違うね。大正時代に建てられた板五米店は、レンガの「袖うだつ」がある土蔵造り町家として数少ない古い建物の一つ、 古きゃいいってもんではないが、宿場の街並みにはふさわしいね。保全の一環で、商店として建物が活用され残されているそうな。
右手に遍照寺がある、かつてここには馬継場があり、その馬にも幕府用、公用、一般用の三種類あったとあるね。この寺、数奇な運命をたどってるね、明治にあの騒ぎで廃寺となり昭和になって復活したとあるね。 復活とはこれまたすごいね、いろいろ事情はあるのだろうが。狭い境内だが近年草花も綺麗に整備されて全体的に新しさを感じるね。しばらく下って行くと右手に本陣跡を示す石碑、さらにその先今度は左手の道を行くと奥に脇本陣跡の石碑がある。 こちらも「ホテル」ではなく「マンション」に変わっているな、宿場ではなくなったってことか、かつての脇本陣の敷地の広さといったものが想像できるね。
スーパー横の道を入って行くと文殊院がある。このあたりでは唯一と言っていいほどお寺の雰囲気をのこしているかな、ここは飯盛り女の「投げ込み寺」になっていたらしい。 飯盛り女の供養墓、側面に「永代祠堂料金拾両」と刻まれているね。旅籠亭主の思いといったものは感じられるか。 入り口横に閻魔堂、ガラスごしの閻魔様と奪衣婆。
いよいよ板橋に到着、川は直線に改修された、どうやら手前の短い橋がかつての位置のようだな。Ⅴの字型に残された旧川床が公園となって残されている。 これが今の石神井川か、当然のように岸はコンクリートで固められ、かなり深いな、これはもはや放水路だね。土手には花が咲き、水の流れは緩やかにもっと身近に流れていてほしいものだね。
上宿に入ると緩やかに上っていくね、て言うことは、水は板橋に向かって流れるってことか。店はパラパラと見かけるくらいまた静かになるね。すこし進んで行くと右手にあの有名な「縁切り榎」がある。 和宮を迂回させたと言うから、かなりのパワーがありそうだ。榎の周りには、憎しみ、恨み、妬み、嫉み、ありとあらゆる人の業といったものが渦巻いていることだろう。実は古地図によると昔は左手にあったそうな。 上宿の脇本陣跡は見つけられなかった。おそらく川の改修で消滅したのかな。
甲州街道の最初の宿場は高井戸だった、江戸から4里いかにも遠く不便極まりないと町民の願い出により高遠藩内藤家の敷地の一部を割き、新たに宿場が作られ内藤新宿と呼ばれたとある。四谷大木戸から青梅街道と別れる追分までほぼ1キロ、 下、中、上に分けられていた。規模としては三番目あたりかな、江戸からも近く宿よりは歓楽街としてこちらも食買旅籠で賑わっていたが一時期廃止され、その後復活したとあるね。この街道は半蔵右門前あたりからほぼ一直線に続いていたことが災いしてか別に道が作られることなく拡幅されるだけで、 かつての面影はほとんどなくしてしまったね、かろうじて残されているのは内藤家の跡地と寺院ぐらいか。他の宿場に残された旧道と言う言葉は見当たらない。そんなものは開発の邪魔でしかないと言わんばかりに、 その後の激変と発展ぶりには、ただただ驚くばかり、古い過去はいらない、新しい変化のみを探求すだね。
入口の大木戸は当然のごとく跡形もなく、かつて存在したことを示す碑があるのみ。 内藤家跡地の新宿御苑を見るとかつての大名に与えられた拝領屋敷地の広大さが実感できるね。
道は拡幅され両側はビルの壁、かつて宿場の目抜き通りであったことなど、とても思いもよらないな。それにしても、街の中心がかつての街はずれ、角筈あたりの新宿駅方面に移ってしまったけど、この間の変わり様には感心。
すげぇ~これがお寺か。内藤家の菩提寺でもある太宗寺、その外観には驚くね、江戸を感じるどころかこれは未来を感じさせるね。寺さえも新しく変化をつづけるだな。 ここには江戸六地蔵の一つがあるね。塩かけ地蔵、すごい、塩が固まって岩塩みたいになっているよ。
まるで校庭を思わせるように真ん中が広く開けた境内、ここが寺だとはちょっと思えないな、おもわずボールでも蹴りたくなるくらい。東西に分かれて閻魔堂に不動堂
成覚寺、場所としては太宗寺の裏手にあたるかな。ここが飯盛り女の「投げ込み寺」になっていたみたい。墓石には子供合埋碑と刻んであるね、子供に仕事させてはいけないでしょうに。ここはわずかだが古い感じを残しているかな。
青梅街道との追分、周りはビル群に囲まれ言葉さえ変化を求められそうだが、追分の呼称はのこされたね、バス停、交番、だんご、 今は明治通りが通され交差点になっているね。