千住大橋
現在旧橋、新橋があるが、ここでは旧橋をとりあげる。この橋は横から全体を撮ることができないのが残念だなぁ。
概要、構造形式、タイドアーチ橋(日本最古)、長さ91.6m、幅24.2m、竣工、昭和2年(1927)
創橋は文禄3年(1594)当時将軍になる前の家康の命により荒川に最初に架けられたそうな。はじめ、橋は200mほど上流に作られたが、その後何度か架け替られる中で
現在地に変わったとある。 架橋当初は単に「大橋」とよばれていたそうな、今は橋梁の上部に「大橋」と刻印されているのがそのなごりのようだね。また、水に強いとされ橋脚に使われた
高野槙の一部が いまだに水中に残されているそうな。
それまで「橋場の渡し」を経由していた佐倉道、奥州道、水戸街道がこの橋経由にかわり、日光道中を含む四街道がこの橋を通ることになり千住宿が一層発展していったようだね。
また船で深川を出た芭蕉がここから前途三千里の旅を始めたところでもあるね。
江戸後期につくられた「日本大橋づくし」千住大橋、両国橋、吾妻橋が行司に指名されているのはよいとして、永代橋、新大橋が前頭とは納得いかないなぁ。
江戸、大坂の日本橋が共に勧進元なのも面白いなぁ。
元祖「大橋」長さ66間、それまでになかった大きな橋と言う感覚はうなずけるなぁ。
「奥の細道」は実質的にはここより始まるのかな、「漂泊の思い」つよしとはいえ相当な覚悟がなければ一歩を踏み出すことはできないよなぁ。 後ろ姿が見えなくなるまで門人たちが見送ったのもうなずけるなぁ。
ゆくはるや
とりなきうおの
めはなみだ
吾妻橋
概要 構造形式、3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋 長さ、150m 幅、20m 竣工 昭和6年(1931 )
創架は安永3年(1774)庶民の嘆願により作られ、町人からは銭を徴収した江戸期最後の橋。はじめ「大川橋」と呼ばれたが
江戸の東と言うことで俗に「東橋」と呼称されていた。その後諸説有るらしいが向島の「吾妻神社」にちなんで正式表記は「吾妻橋」となったとあるね。
この橋の西は浅草広小路に浅草寺、東には墨堤の桜並木、三囲神社、長命寺があり、参詣に、行楽に多くの人々が大いに行き交ったことだろうなぁ。
近には「山の宿」、「竹町」の「渡し」があったがやはり橋の上を歩くほうが安心だし便利だよなぁ。
今も昔も、昼も夜も浅草寺には多くの人が集まってくるなぁ。
浅草寺には奥山、猿若町には芝居小屋、少し離れて新吉原と
庶民の欲求を満たしてくれる所がこおもたくさんあればおのずと人は集まるものだよね。
両国橋
概要、構造形式、3径間ゲルバー式鋼板桁橋、長さ164.5m 幅24m 竣工、昭和7年(1932)
創橋は万治2年(1659)、寛文元年(1661)の二説あるらしい。名称は当初「大橋」とされたが、武蔵国と下総国の二国に跨っていることから 俗に両国橋と呼ばれるようになり、元禄6年新大橋が架橋されると正式に「両国橋」と名称が変わったとある。架橋場所は現在より100m程下流で、 橋のたもとには火除け地が設けられ広小路と呼ばれたそうな。当時、両国と言うと西詰の広小路を指し東詰めは、向う両国と呼び区別したそうな。今日地名が残るのは墨田区側だけ なんだけど、「向こう」と言うあたり両国とば西が中心だったと言うことなんだな。その広小路には仮設の見世物小屋、茶店等の設置が許され庶民で大いに賑ったとあるね。 今は両国国技館、江戸東京博物館等と賑わいは東側に変わった感があるね、それに回向院横には花火資料館もあるしね。
江戸の夏と言えば両国の川開き、川開きと言えば打ち上げ花火。江戸中期に疫病退散を願って、かの吉宗により始められたそうな。吉宗と言えば墨堤の桜も整備したし、庶民にとっては 実にありがたい公方様だよねぇ。打ち上げは橋の上流と下流で鍵屋と玉屋が競い合ったそうな。橋の上には大群衆が、大川には猪牙船、屋根船、屋形船とひしめきあう模様は今も変わらないな 打ち上るたびごとに多くの人々の歓声が上がったことだろうなぁ。「橋の上たまや、たまやの声ばかり、なぜか鍵屋と言わぬジョウなし」
東両国広小路には大山詣での垢離場があったそうな。近くには回向院がある、この寺は「諸宗山無縁寺」と言い、刑死者や動物などあらゆる生物を供養するのが特徴であり、また
勧進相撲や出開帳が行われ賑わったとあるね。この寺の正門は今と違って広小路側にあり、となりには松阪町に吉良邸があった。現在敷地のごく一部が公園として残され、12月14日には義士祭が行われているそうな。
回向院には磔にされた鼠小僧の墓 があり今でもここを訪れる人が多いと聞くね。
新大橋
概要 構造形式、2径間連続斜張橋、 長さ170m、 幅24m 竣工、昭和52年(1977)
創架は元禄6年(1694)現在地より100m程下流、長さは二番目の百九間とあるね。大橋(両国橋)の次に架けられたため新大橋と命名されたそうな。
この橋は五橋の中では三番目に古いにもかかわらず「新」の字が残され、今日に至るまで名前を変えられることが無かった稀有な存在といえるかもしれないなぁ。
架橋当時近くに芭蕉が暮らしており、有名な句がいくつか残されているね。芭蕉が今の橋を見たならどんな句を詠んだだろうかなぁ。また広重もこの橋を題材に有名な浮世絵「あたけの夕立」
を残している、「あたけ」とは、このあたりに幕府御用船「あたけ丸」が係留されていたことにちなむそうな。この橋はどうやら文化人を引き付ける何かがあるのかもしれないね。
はつゆきや
かけかかりたる
はしのうえ
ありがたや
いただいてふむ
はしのしも
現在架けられている橋の東詰めあたりに幕府御船蔵があったことになるね。
深川の破屋に隠棲したかに見えた芭蕉翁もインフラが整備されるのは、さすがに嬉しいもののようだね。いくつもの句を残している
ことからも翁の気持ちが伺えるね。
元禄2年、今年は敬愛する西行法師の五百回忌にあたるな、「歌枕」も訪ねてみたいし、「名所旧跡」も訪れてみたいし、やはりじっとしていることは出来ないな、「旅に死せるあり」か、
おおいに望むところだ。
長く困難な旅になるかもしれないけれど、早く松島にかかる月を見てみたいものだ、日に日に今度の旅への思いも強くなってきた。せめて、この旅を通して
「不易流行」を体得できればなぁ。
こんな破屋でも住んでくれる人も見つかったし、 これで思いを残さず菜茶庵に移れるね。
笠の緒も付け替えた、足に少し不安はあるけれど旅支度はできたな。
芭蕉庵があったとされる場所は現在芭蕉稲荷神社になり、
隅田川河畔にある小さな公園には芭蕉翁像が千住へ向け 遡った大川を向いていたね。
菜茶庵跡には旅立ちの芭蕉翁像が、なんとも身軽な旅装だなぁ。
永代橋
概要 構造形式、中央径間 下路式スチールアーチ 両側、鋼桁橋 長さ184.7m 幅25m 竣工、大正15年(1926)
創架は元禄11年(1698)現在より100mほど上流で、大川最下流の橋で河口に近いだけあって長さは一番、百十間、ここより先は佃島を挟んで江戸湾がひろがっている。
大型の弁財船は上流には進めず積み荷はここで「はしけ」に積み替えられたそうな。
西詰には三浦屋二代目高尾太夫を祀った高尾稲荷神社が、東詰めには討ち入り後泉岳寺に向かう赤穂浪士一行に
甘酒をふるまったとされる乳熊屋にまつわる碑があるね。元禄15年、架橋4年目の永代橋を16歳の「主税」はどんな思いで渡ったのかなぁ。時代は下って文化4年(1807)富岡八幡祭り見物の群衆の重みで崩落し
多数の犠牲者を出したそうな。橋にもいろいろと歴史があるよね。
高尾は万治二年仙台藩主伊達綱宗に惨殺されたとされ、「万治高尾」とも「仙台高尾」とも称されるそうな。この稲荷はナント「しゃれこうべ」がご神体とのこと珍しいねぇ。赤穂浪士一行はその高尾稲荷を横に見ながら
泉岳寺へと向かったことになるね。乳熊屋は初代が浪士の一人「大高源吾」と親交がありそのよしみでもてなしたとのこと。深川祭りの神輿は西から東へと渡御、橋の上での神輿の差し上げが
見どころの一つになっているね。
本懐を遂げた浪士一行は回向院正門前から東両国広小路で小休止の後隊列を整え出発、一の橋を渡って新大橋東詰めを通り川沿いに南下、芭蕉庵跡を左に見ながら萬年橋を渡る。佐賀町河岸 を右にさらに南下、当時棟上げ式で甘酒を振舞っていた乳熊屋で休憩した後永代橋を西に渡り、高尾稲荷前を進んで行ったことになるね。