特記事項



ペリー来航の真意
ペリー提督率いる米国艦隊4隻が、1853(嘉永6)年6月にフィルモア米大統領の国書を携えて突如浦賀に来航した。そして厳しく開国を迫り、日本国民を驚かせた事は周知の事実だ。この時各艦隊は総員配置につき、砲口を開いて臨戦態勢を整え、江戸の町に向って火蓋を切らんばかりの有様だったとされている。一方の幕府はペリー艦隊が退去しない場合を考え、これを至近距離から砲撃する為に、夜を日に継いで江戸湾にお台場の完成を急いでいた。言わば一触即発の状態だったが、何故かペリーは幕府に猶予期間を1年間与えて突如日本を去ってしまう。そして、翌年の1854(安政元)年正月、7隻に増強した米艦隊が再度伊豆沖に姿を現して数日後に江戸湾に入った。この1年間で頭を冷やした幕府は、彼我の武力の実力差を判断し、世に有名な日米和親条約を締結し、伊豆下田、箱館(函館)の2港を開港した。以上が通説のペリー来航時の状況である。

しかし、疑問が生ずる。何故に米国は極東の小さな島国に圧力かけてまでこだわったのだろうか、という点だ。結論から言うと、直接的原因は実は鯨であった。米国は鯨を獲る為の基地が欲しかったのである。太平洋に面する日本は鯨の基地として最高であったのだ。当時、米国は国力上昇期であり、太平洋岸まで領土開拓していた時期である。しかし、激しい人口膨張から食糧の欠乏に悩んでいた。特に、肉食民族が集まってできた国家なだけに、動物性蛋白源の不足が深刻だった。そこで、彼等はその補給を鯨に求めたのだ。また、石油が普及していない頃なので、灯油に鯨油を必要としたのである。米国捕鯨船は初め北大西洋で活躍していたが、やがて大西洋全域が舞台となる。しかし、彼等の濫獲によって主な獲物のマッコウクジラが獲れなくなると、18世紀末頃にケープタウンを回って南太平洋に進出した。更に19世紀になると、領土が西海岸にまで達したので、カリフォルニアを基地として太平洋全域を所狭しと活躍しだす。米捕鯨の黄金時代到来という訳だ。近年、動物保護の観点から、日本の捕鯨に熾烈な圧力をかけ、遂には捕鯨全面禁止の方針を打ち出し、これを日本に承認させるに至った張本人は米国であるが、その米国が昔、捕鯨をめぐって日本に開国を迫ったという事実は「歴史の皮肉」という以外にない。時代が変われば米国のような民主主義の本拠のような国でも、単にエゴ丸出しで言う事が180度異なりかねない…という事か。本当に皮肉という他ない。話は戻って、幕末時の米国の国内事情はどうしても鯨を必要とした。しかし、当時の船は石炭や薪を焚いて走る外輪汽船である。燃料蓄積には限界があり、長距離移動ができなかった。そこで、米国は捕鯨船のために燃料と水、食糧を補給する寄港地を日本に求めたのであった。日本は資源乏しく、商品市場としても狭い国だから、ロシアや英国が来ても強腰で開国させるほどのメリットがなかった。しかし、ペリーの来日は米国の深刻な食糧事情が背景にあるので、武力に訴えてでも開国させようという強硬手段を採ったのである。

ところで、ペリーにはもう一つ重大な使命を帯びていた。それが、日本列島の測量である。教科書ではペリーは砲艦4隻で来航したとあるが、実際は砲艦1隻のみで、残る3隻は測量艦であった。これは戦後発見された『ペリー遠征日記』というのに書かれている。ペリーは浦賀に来航すると、直ちに江戸湾の綿密な測量を開始した。幕府が米国の開国要求に従わない場合、江戸の町を砲撃することを考えていたのだ。ところが、3隻の測量艦で3点測量を繰り返しているうちに、彼は江戸湾の地形がシーボルトの著書『日本』に掲載されている地図と全く同じであることに気づき、大変驚いた。

ここで少しシーボルトの著書『日本』に関して触れておく。シーボルトに関しては著名であるので詳細は述べないが、幕末より前の文政年間に、オランダ商館付きの医師の資格で来日した。彼はドイツの医師だが、当時日本はドイツと国交がなかったため、こういう資格で来たのだ。来日後、あの有名な鳴滝塾を作り、日本の青年らに西洋医学を教授した。来日して5年目に彼は一度帰国する事になった。ここで事件が起きた。帰国の荷物の中に日本列島の地図が入っていたのである。これは海外持ち出し厳禁、つまり"国禁の地図"である。この地図は江戸に来たシーボルトに幕府天文方の高橋景保が暦数書と交換で与えたものだったのだ。この地図に関する話は「伊能忠敬と日本地図」の項で述べたのでここでは省く。ともあれ彼は罪を問われて国外追放となった。更に、幕府はこれを機会に洋学者の大弾圧を開始し、シーボルトの門下生を多数処罰した。俗に言う「シーボルト事件(1828年)」である。その後、彼は幕末に再来日し、約年で帰国する。そして故国ドイツで執筆したのが『日本』である。この時、彼は遂に何らかの方法で日本地図を手に入れた。そして『日本』に掲載されていた地図こそ、あの国禁の日本地図である。ペリーが見たのがこの地図だったのだ。

ペリーはこの日本地図が、方位も程尺(比例尺)も全くデタラメで、単なる見取り図だと聞いて全く信用してなかったのだが、実測との照合で驚くべき正確さで科学測量された地図だという事がわかったのである。野蛮な国だと思っていた日本国は、恐るべき技術を持った国だと認識したペリーは、すぐさま測量を中止し、直ちに琉球へ引き揚げていったのだ。これはあまり指摘されることのない事実で驚かれるかもしれないが、これこそ明治維新が平和裡に到来した大きな原因と考えられよう。つまり、もう数日測量艦が滞在していたら、幕府が造っていたお台場が完成し、大砲が据えられて火蓋が切られる確率が非常に高かった。この砲撃戦が始まった場合、薩英戦争・下関戦争の結果からして勝敗はおのずから明らかであろう。ペリー艦隊の大砲の射程距離は品川沖から江戸城本丸まで届いたのだが、対する幕府の大砲は艦隊にかすりもしない程だ。そして、この砲撃戦をきっかけに、米国が大艦隊を送って江戸の町を占領する事態にでもなったら英・仏・露なども流石に黙っていられない。必然的に明治維新の代わりに、欧米列強による日本植民地化が開始された可能性が高い。つまり、日本を救済したのは、歴史の陰に埋もれていた1枚の地図だったと解釈できないだろうか。庶民出身でありながら、世界屈指の地図を作成した伊能忠敬は、思わぬ大功績を挙げられたといえるだろう。



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