平成19年5月22日(火) 負傷 |
管理人、ここ最近ついてません。先日は朝に駅前で周囲を見ずにスピード出して走っていたチャリのおばさんにぶつかってこられました(泣)。さすがに管理人怒りましたよ。出勤する人が多い時間帯、その道中をチャリ乗って結構なスピード出して走るなんて、何考えてるんだと人格を疑ってしまいます。しかもいい歳した中年女性がさ……。自分の事しか考えてないんでしょうね…。その時も痛かったですが、今日はそれ以上に痛い一日でした。 今日の昼に、ダンボールをカッターで切っていた時の事、鼻がムズムズしてくしゃみをしたその時、ざっくり、と。……誤って左手親指を切ってしまったのです(痛)。痛いと思った瞬間、親指のテッペンから血がダラダラ(・・;) まるで親指が返り血を浴びて血色に染まっていくような……と考えている場合ではありません。瞬く間に御手洗いに飛んで行き水で傷口を洗いに洗って止血に追われました(汗)。 かつて「生物」の授業(か何か)で聞きましたが、血を早く止めるには冷水にあてるより温水の方がいいとのこと。そして、傷口を心臓より高くしておくと早く血が止まるらしいのです。人の話は聞いておくものです、かつて学習した事を身をもって体験(今頃?)した日でした。 せっかくなので、ここで血が止まる現象、要するに血液凝固について復習してみましょう。 過去私が愛用した生物問題集(1998年版)を使って少し紹介させていただきますと、 『血管が傷ついて血液が外に出ると、血小板から放出される血小板因子や組織・血しょう中の凝固因子などによる複雑な反応が起こり、その反応を経た後に生成したフィブリンという繊維状の物質が血球をからめて血ぺいをつくる。これを血液凝固という。血ぺいができると傷口がふさぎ、出血は止まる。』 ――――新編セミナー生物U 1996年2月初版 第一学習社発行 先述した、温水の方が良いというのは、上記の凝固反応には酵素が関わります。酵素の最適温度(最も活性が働く温度)は30〜40℃とだいたい体温くらいなので、低温では活性が低下するので、凝固反応が進まないのです。 傷口を高くするというのは……正直、よく覚えていません(笑)。ポンプの役目の心臓から各所に血液が送られますが、傷口を高位置にしておくことで重力の関係で血が溜まりにくいのではないか…と。うろ覚えなので、あまり追及しないで下さい(汗) 余談ですが、怪我して気付きましたが、携帯でメールを打てないのです。メール打つ時、管理人は左手親指を使います。右手でも出来るのですが、違和感があるので多用しません。右利きなのに。 ……ひょっとして管理人、左利きなんでしょうか。…はっ、もしや両利きなのでは?携帯ってふつう利き腕の方で持って使うもんなんでしょうかね。それとも逆…?考え出したら訳わからなくなってきました。 |
平成19年5月8日(火) 京都“小”観光 〜東山再訪編〜 |
ずいぶん久々に京都の東山を渡り歩いてみました。東山は京都をブラブラし始めた頃によく散策してたんですが、今では行動範囲が広がり、今回久々の訪問となりました。京都駅から出発し、東山七条辺りから三条まで、北へと散策しました。 文禄三年(1594)に淀殿(淀君)が父浅井長政の菩提を弔うために建立、寺名は父の法号に因む。開山は浅井一族の成伯法印。元和五年(1619)に焼亡したが、二年後に淀殿の妹崇源院が、夫徳川秀忠に願い伏見城の遺構を移して再建。以来、将軍家の位牌所、皇室の祈願所となった。 本堂にある有名な血天井は、伏見城落城時に鳥居元忠らが自刃した廊下の床板を用い、天井に上げてその霊を弔ったものである。 同寺は、京阪七条駅からみて、三十三間堂の裏側あたりに在する。 酒造、医薬、縁結びの信仰がある。 永暦元年(1160)に後白河天皇が新熊野(いまくまの)神社を勧請する時、西塔本覚院の昌雲が別当となり法住寺付近に開創したのに始まる。鎌倉初期に尊性法親王が入寺して以来、梶井門跡(三千院)や青蓮院門跡と共に三門跡の一つに数えられた。 宗祖親鸞が弘長二年(1262)に没した際、鳥辺山南辺(現大谷本廟御荼毘所)で火葬され、親鸞の娘覚信尼(かくしんに)が遺骨を現在の知恩院山門北側の大谷に納め、堂を建てて安置したことに始まる。この廟堂は大谷影堂と呼ばれ、のち大谷本願寺となり、慶長八年(1603)徳川幕府の政策により五条坂の現在地に移転した。 入口の円通橋は石造のアーチ橋で、江戸時代の遺稿。 応和三年(963)に空也が鴨川の東岸に一堂を建て、西光寺としたのに始まる。貞元二年(977)に中信が入寺して現称となり、天台宗の別院となった。 正しくは六道珍皇寺。六道さんとも言いならわし、古くは愛宕(おたぎ)寺とも呼ばれた。平安・鎌倉時代には東寺を本寺として隆盛したが、その後衰退し、室町時代前期に建仁寺の聞溪良聰(もんけいりょうそう)によって再建され臨済宗に改めた。この地が葬地である鳥辺野の端にあたるため、現世と冥界の境界として小野篁が冥土通いをしたという伝説をうみ、六道まいりの信仰を集めた。 盂蘭盆会(八月七日〜十日)の日に撞く鐘を迎え鐘と呼び、精霊を冥界から呼び戻すという。 北政所(ねね)が秀吉没後も同寺でその余生を送った所縁に因んで命名された。同道は二年坂、産寧坂へと続き、途中から石塀小路(いしべこうじ)が西につながる。 慶長七年(1602)に本願寺が東西に分裂した際、開祖である親鸞の祖廟を東本願寺境内に建てたことに由来。寛文十年(1670)に現在地に移転。明治維新までは大谷御坊と呼ばれ、その後大谷管刹・大谷別院と変わったが、昭和二十七年(1952)に大谷本廟と改め、東本願寺の飛地境内となり、同五十六年(1981)に現在の大谷祖廟に改めた。 天台宗三門跡の一つ。平安初期の比叡山の青蓮坊が始まり。天養元年(1144)に天台座主(ざす)の行玄(ぎょうげん)が三条白川房で門跡寺院としての初代となり、鳥羽法皇の命により青蓮院となった。 庭園は龍心池を中心とし、跨龍橋と呼ばれる石橋が架かり、洗心滝が配されている。 国宝の不動明王二童子画像は青不動といい、日本三大不動の一つ。 |
平成19年5月2日(水) 京都“小”観光 〜比叡山編〜 |
かねてから訪問を検討していた「比叡山」に今回遂に観光を実現させました。“京都”としていますが、厳密には「滋賀県」なんですよね。でも、ユ○スコの世界遺産でも、古都“京都”の文化財の一つとして当山が加わっているので、ここでも、古都京都の中に含めた扱いとします。 南都(奈良の諸大寺)に対し北嶺(ほくれい)、園城寺(おんじょうじ)の寺門(じもん)に対し山門(さんもん)と呼ばれる。 延暦四年(785)に最澄(伝教大師)が比叡山で修行して薬師堂(一乗止観院)を建立、最澄自ら彫った薬師如来像を祀ったことに始まる。最澄が弘仁十三年(822)に没した直後、当寺は大乗戒壇(だいじょうかいだん)設立の勅許を得、翌年に延暦寺となった。最澄のあとを継いだ三代天台座主円仁(慈覚大師)・五代天台座主円珍(智証大師)により次第に密教化していった。 康保三年(966)に十八代天台座主良源(りょうげん)は、急速に寺基を拡大し、東塔、西塔、横川(よかわ)の三塔十六谷に三千といわれる寺坊をもつ一台寺院群を形成するに至る。 天台教学は八宗兼学といわれ、浄土宗や日蓮宗、禅宗等の鎌倉新仏教は全て延暦寺に端を発する。 |