平成16年5月31日(月) 旗本八万騎 |
久々に郷里守口へ帰還し、京阪守口市駅に隣接する京阪百貨店へ足を運んだ。転居前は最寄り駅だっただけに、下校の際に立ち寄る事も多度であった。7階に本屋があるのだが、真っ先に探索するのは、やはり歴史読本や歴史小説の類で、その後に楽譜の全棚に目をやる。この行動は何年経っても不変である。そして、1冊の本に目を奪われた…その名も、「徳川旗本八万騎人物系譜総覧」という。……かなりマニアックな本である。日本史に関心なければ、まず出会わずに生涯を終える人もいそうなタイトルである。その名の通り、徳川幕府に仕えた将軍お目見えを許可された旗本(許されていない者は御家人というが、鎌倉時代の御家人とは異なる)が八万人いる(実際は約5000人強で、旗本の陪臣家臣等を含めて約8万人になる)のだが、そのうち知行高1千石以上に当たる840家が収録されている。旗本家の約2割に満たない家を紹介してあるに過ぎないのだが、幕臣の階層構成からいえば最上位の位置を占める家を網羅してることになるのだ。ちなみに、1万石を超えると、大名として立藩できるのであるが、若干の例外もあった。(一時期を除いて)石高のない地を領有していた蝦夷松前(北海道松前町)の松前(蠣崎)氏、石高5千石の下野喜連川(栃木県喜連川町)の喜連川(足利)氏は、名族の故をもってそれぞれ松前藩主、喜連川藩主とされている。また、徳川家古来からの家臣以外にも、旧大名家の一族やその旧臣、能力が認められた学者や医者等も随時旗本・御家人に登用されている。江戸開幕後に改易された、大友宗麟・織田信長・福島正則らの子孫も、後に旗本に召し出されている。 1時間立ち読みの後、あっさり購入。他にも目を見張るネタの本があったが、後日のお楽しみとしておいた。ちょっと思い込み的な自慢させて頂くと、筆者の先祖の一端にも旗本出の家が伝えられているのだが、さしたる情報乏しく、密かに情報収集を探っている。同本を発見した時、早速チェック入れを行ったが残念ながら掲載されてなかった。どうやら大した身分ではなさそうだ。しかし、暫らくは、この本が現時点での愛読書となるのは言うまでもない。 |
平成16年5月30日(日) 水泳 |
意外な所で、筆者はスイマーである。勝手ながら自慢させて頂くと4泳法(バタフライ、背泳、平泳ぎ、クロール)オールオッケーである。これには、幼少時に習っていたスイミングの恩恵が高い。中学時代後半くらいまで通っていて、階級は2級まで進級した。2級の進級テストは確か、4泳法×各50メートル=計200メートルのタイム計測だった(タイムは忘却)。結局これはクリアできず、やがて来る高校受験の為に止めてしまったのだが。何故こんな過去の記憶を搾り出しておるんかというのは、ここ最近急に暑くなったのが原因だ。じっとしていても何らの動きをしていても暑い、暑うてしゃあないのだ。本当なら今日か明日あたりに天候下り坂な筈なのだが、それも約数日ずれてしまったようだ。何かと話題の異常気象のせいなのか…。話早いが、泳いですっきりしたい、と思った。ここでようやく冒頭に繋がる。とかく暑いと水泳が恋しくなる。勿論、自慢できるほどの肉体美ではない、見せよと言われても困る。丁重にお断りさせていただく。守口在住時代は、前の家から数分のところにスポーツプラザがあり、わけあってタダ券が数枚某方より入手していたので、それを片手に飛び込んだものだ。友人連れの時もあったが、1人で乗込んだ時もあった。思い立ったら吉日、といわんばかりにである。普段は水の中に飛び込んでゆったり気分に浸るのだが、徳に調子がいい時は家族連れも子供らも気にせず泳ぎに泳ぎまくり、クタクタで帰宅する始末だ。勿論、他の客方は迷惑この上ない話だ。現在はそれもなかなかできず、暑さにもがいている。 |
平成16年5月29日(土) 殿堂入り |
徳川家康が囲碁界に殿堂入り――。日本棋院が設立する囲碁殿堂の表彰委員会が昨日、同棋院内で開催され、徳川家康の他、本因坊算砂、本因坊道策、本因坊秀策の計4人が選ばれた。同棋院設立80周年を記念し、11月に開館する殿堂資料館に顕彰される。囲碁殿堂は野球殿堂と似た制度で、囲碁の歴史・文化を通し、普及と発展に顕著な貢献をした人物に対する表彰を毎年行っていく。第1回の今回は江戸時代の人物が対象で、候補委員会が10人を選考、この日の表彰委員会で出席者の4分の3以上の得票があった4人が選ばれた。来年は明治時代も対象となり、その後は現代まで対象が広がる。徳川家康(1542〜1616)は諸大名・武将らと囲碁を通じて頻繁に交流し、幕府開設後は碁打ち衆を保護、近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献を果たしたとされる。彼は日本の天下を取っただけでなく、囲碁界でも天下を取ったということなのか。囲碁の腕前は解らぬが。また、他の3人の受賞理由は以下の通りである。本因坊算砂(1559〜1623)=1世本因坊。近世囲碁の開祖。本因坊道策(1645〜1702)=4世本因坊。近世囲碁の基盤を確立。本因坊秀策(1829〜62)=本因坊跡目。近代布石の基礎を作り、道策とともに「棋聖」と称される。 ちなみに、野球殿堂では、去年(一昨年だったか?)近代俳句の祖である正岡子規が殿堂入りしたのが印象的だった。正岡子規は「野球」の名付け親なのである。ただ、彼の本名は昇(のぼる)といい、最初はその音を伸ばして「野球(のぼーる)」と言っていたらしいが。もしかしたら、今後も思わぬ歴史上人物が"殿堂入り"を果たすかもしれない。 |
平成16年5月28日(金) 水都祭 |
夏の夜空を彩どる打ち上げ花火の製造が、兵庫県太子町の三光煙火製造所(三木斐佐治社長)で最盛期を迎えているという。花火は打ち上げた際の色や形に合わせて、「星」と呼ばれる小さい火薬を玉皮に詰めて、上からクラフト紙を貼り付ける。大きなタマネギのようになった花火は、360度均等に開くよう、天日干しされ、従業員によって時々転がされる。同社によると、市町村合併が相次いでいることを受けて、夜空で市章等が開く合併を祝うための花火の注文も入っているという。祝い事には夜空の花火…と合併実現に至った各市町村が考えているのだろう。お祝いの花火という概念は今も昔も変わらない。 私の生誕地守口市では、8月5日前後に「水都祭」という花火の催しがあった。打ち上げ場所は大阪市旭区辺りなのだが、同じ淀川のほとりですぐ近場の守口市も後援していたのである。ただ、去年からは、不景気の煽りを受けてか、「水都祭」が「天神祭」の一部に"吸収合併"されてしまったのだ。「天神祭」は"日本3大祭"(あと2つは東京神田祭、京都祇園祭)の一つである。同祭で花火を打ち上げる催しを「水都祭」と呼ぶ事になったのである。今までは家からすぐ近く(昔は屋上からでも見れたのだが)に堤防があってすごい見やすかったのに、大阪市内の桜ノ宮辺りにまで移ってしまったのだ。守口市民は大層がっかりしたんではなかろうか(筆者も同意)。確かに花火には大金がかかるかもしれないが、経済不況という理由で無くなる(正確には移った)のは実に惜しい。市民の娯楽(なのか?)が一つ潰された感じがしてならない……と、現守口市民でない(本籍は同地)筆者がぐちぐち言っても仕方ないのだが。是非とも守口市で再度花火が挙げられる機会に遭遇したい。 |
平成16年5月27日(木) 旧山城国淀藩淀城跡 |
当HPでも散々京都云々……と言っておきながら、意外と近場で行っていない処に「淀城」跡が挙げられる。自宅からは京阪電鉄1本で悠々と行ける距離にある。かつて一度だけ下車した事があるのだが、とりあえず時刻表だけ頂戴しといてまた次回という事にし、そそくさとまた乗車したという、理解しがたい行動をとった事を覚えている。ちなみに駅を挟んで同城跡と反対側に京都競馬場がある。帰路は同競馬場を横目に見ながら、脳裏に重賞ファンファーレ音を浮かべて帰っていた……。そんな話は置いといて、今後観光予定(としておく)の同城跡の予習(?)を此処でしておく。 淀城は江戸時代淀藩を支配していた同藩藩主の居城である。江戸時代前半は度々大名が入れ替わっている。寛永2(1625)年、徳川家康の異父弟松平(久松)定勝の子定綱が遠江国掛川(現静岡県掛川市)から35,000石で入り立藩した。この後、永井尚政(100,000石)・尚征(73,000石)、石川憲之(以下代々60,000石)・義孝・総慶(ふさよし)、松平(戸田)光熙・光慈(みつちか)、松平(大給)乗邑(のりさと)と代替わりした。享保8(1723)年松平氏にかわり、稲葉正知が下総国佐倉(現千葉県佐倉市)より102,000石で入封し、幕末まで在封する。ちなみに、稲葉氏の家祖正成の後妻の福はのち春日局と称し、徳川3代将軍家光の乳母となっている。 さて、幕末。最後の藩主正邦は京都所司代・老中を勤めた。万延元(1860)年には藩校明親館を設けている。慶応4年正月、京都郊外鳥羽伏見で新政府軍と幕軍が戦火を交え、敗れた幕軍が入城しようとするのを淀藩は拒否している。これには、親戚の尾張藩より中立を守れとの助言があったからといわれる。藩主正邦は老中として江戸にいたが、帰城して新政府軍に帰順し藩の士卒450人を差し出した。これにて淀藩の歴史は終幕である…。 現在、京阪電鉄淀駅のすぐ西に淀城跡公園があり、本丸の石垣と内堀の一部が残存しているそうだ。忘れないうちに散歩がてら観光する事にしよう。 |
平成16年5月26日(水) 開設2ヶ月通過 |
忘れていたのだが、当HPが開設されて無事2ヶ月が経過できました。当初の目標だったカウンタ500の値も、思っていたより早く叶い、感謝感激であります。次期目標として、夏期中でのカウンタ1000、つまりは4桁への突入が現在の目標としていますが、実際はいつまで継続させられるか……というのが見えないの目標でもあります。また、口コミで訪問者拡大という訳わかめな策略も考えている次第です。ロボットエンジン等の検索であっさり見つかるのでは、どうも味がありませんし。再来者も新参者も共に歓迎致します。ともあれ、更新遅れがちですが、今後も継続していく所存です。継続は力なり、といいますし。という訳で、閲覧者各方面方々、今後とも当HPご愛顧宜しくお願い致します。 |
平成16年5月25日(火) ウィキペディア |
「ウィキペディア(Wikipedia)」なるものをご存知だろうか。ウィキペディアは誰でも自由に利用できる、ウェブ上のフリー百科事典の事だ。ウェブ上で誰でも利用可能だから、利用者は日本だけでなく、世界中に広がっている。現在、ウィキペディア日本語版には約49943本の記事が掲載されている。社会、経済、環境問題、芸能、人名辞典……等々、何でも揃っている。基本方針に賛同できたならば、誰でも記事を投稿したり編集したりすることが可能なのだ。 筆者がこの事典を知る由となったのは、言わずもがな、ラジオ(ナイナイのANN)からである。数ヶ月前のリスナーからの投稿ハガキが情報元である。それを簡単に説明すると、「ウィキペディアという利用者が世界中に渡るウェブ上の百科事典があるそうです。日本のみならず、世界中の著名人や社会的出来事などに混ざり、ナイナイの2人の記事も掲載されてました。ナイナイの項目の他に岡村、矢部のピンの項目もあります」…との事で、当人2人も「そんなビッグになったんやなあ…」等と関心しきりだったようだ。そんな噂のウィキペディア(あまり世上には広まっていない)を久々に昨日覗いた。ナイナイの項目を中心に見る限り、個人的感想を述べさせてもらうと、ナイナイ関連の項目は大半がラジオのリスナーによる投稿だとよくわかる。また、他の芸人に比べて、投稿された内容も数多い。恐らく、上記のラジオで話を聞いたナイナイANNリスナーが我こそは、と、ここに溜りに溜めた情報やネタを存分に書き記したのではないか……と、思われてならないのだが。折角なので、ウィキペディアのURLを以下に記しておく。直リンしないのは、大規模なHPなだけに堂々と貼るのも恐れ多いおいう、筆者の味のある弱み(?)からである。興味ある方は以下をアドレスバーに貼り、そのHPへ飛んでいただこう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 但し、ウィキペディアは世界規模のHPのせいか、利用者が多いせいか、リンクが繋がりにくい欠点(?)がある。その点は気長に待ってもらいたい。 ちなみに、筆者は昨日これを延々見ていてため、就寝時間は早朝の午前4時半……。何をしてるんだ、ワシは(汗)。 |
平成16年5月24日(月) 池田炭 |
日本の伝統技術の一つの存続危機がまた紙面トップを飾った。茶の湯で最高級の炭とされる大阪府北部産「池田炭」が、炭焼き職人の高齢化と後継者難の為ピンチに立たされている。原料となるクヌギの林も手入れ不足で荒れてきており、府や林野庁は茶道界と連携し、池田炭の再興を目指す協議会を7月にも発足させる事を決定した。池田炭は大阪、兵庫府県境jの北摂山系のクヌギで作られる。切り口が菊の花の形をしている事から「菊炭」とも呼ばれる。パチパチはじけたり立ち消えたりせず、燃えた後も形が崩れない。同府池田市の久安寺が1145年から1870年まで宮中用として献上し、1595年には太閤豊臣秀吉が同寺で観月の茶会を催したと伝えられる。しかし、炭焼き職人の数は年々減少の一途を辿る。府によると、現在府内では70代の2人だけしか職人はいない。炭焼きは乾燥させたクヌギを高温で2日間焼き、さらに窯内で4日間冷ます過酷な作業を一冬繰り返す。労力がいる上に危険も伴うため、継いでくれる人がいないのが現状だ。加えて収益も多くないのもその一因である。茶道界からも、何とか残してほしい、との声が高まり、府等がバックアップを検討開始、府森林組合を主体とした協議会で、後継者探しやビデオ撮影などによる技術の伝承等の支援に乗り出す事にした。ボランティアによるクヌギ林の伐採にも取り組みたいとしている。茶道界も絶賛する、約1千年の伝統が誇る「池田炭」、何とか後継者を募り存続してほしいものである。しかし、リストラを余儀なくされたサラリーマンや職を求めて翻弄するホームレス等の人などはその対象にはならないのだろうか。実際、リストラされたサラリーマンが昔、念頭にも入れてなかった農家への転身も増えているらしい。そういう人等の転身採用の機会を増やせば、酷く蔓延した社会問題の発展を防げるように思うのだが、愚考だろうか。 |
平成16年5月23日(日) 献血・休日編 |
外出ついでに久々に献血ルームを訪れた。いつものように京橋で成分献血なのだ。前回時から丁度1ヶ月経っている。成分の場合、事前に血小板献血か血漿献血か、献血センターからの注文に合わせて変わったりするのだが、筆者の場合、血小板が一般人平均数より多いため、「血小板献血」で即決されるようである。どうであれ、筆者はボランティア精神のもと、今日も世のため人のため、我が血液を提供するだけである。…今日の筆者はちょっと"大人のふりかけ"な感じである。…例え古いか。 話を戻して、久々に顔を出すと、いつもよりかなりの人数がルームにわらわら……。訪れたのが昼間のせいなのか、休日のせいなのか、筆者が訪ねた中で最も人数が多い。当然かなりの人数がいたので、いつもより待ち時間が長かった。自分の番の時、看護婦にこの事を聞いてみると、昨日の方がもっと多かったそうだ。実は、当献血ルームは受付・待合室と献血室の2部屋あるのだが、昨日は両方ともいっぱいで、空きすら無かったそうだ。手慣れた看護婦の方々も、最後はクタクタになったそうで、かなり多いと思った今日は「まだマシな方」なんだとか。…お疲れ様です。しかし、筆者の見解では、昨日今日のように、献血提供者が1人でも増える事はとても望ましい事実だと思うが、実際には、統計的には若干ながら減っているらしい。当「書記」ご閲覧方々、今こそ決起の時なり。周囲を呼び込んで、献血に協力すべし。 |
平成16年5月22日(土) 三菱 |
三菱自動車が窮地に立たされている。その名の通り、旧財閥の三菱グループの一翼であるが、経営不振により、三菱自は独ダイムラークライスラーの傘下に下った。しかし、最近の世間騒がす一連の不祥事と北米事業の失敗により、親会社のダイムラーは三菱自への支援打ち切りを通告したのだ。経営危機の窮地に立たされた三菱自は、三菱グループの管理下で危機を回避する事を選択した。だが、同グループというだけで不振企業に手を差し伸べることには、市場の厳しい目が光るという事態は免れない。業績好調である三菱商事も三菱自支援を表明後、株価が下ぶれする傾向が続く。三菱自の課題はグループ各社の利害調整と部門ごとの縦割り主義が定着し、経営の意思決定が遅い点の克服方法と言われる。三菱という看板は旧財閥時代以来、「ブランド力」は絶品だが、大組織なほど上記のような点が問題になり易い。同社は、カルロス・ゴーン社長の下で大幅なコスト削減によるX字回復を果たした日産自動車の改革手法を参考に、1年限定の「事業再生委員会」を発足させ、事業再生のテーマごとに若手中心の部門横断型の検討チームでプランの練り直しに着手するそうだ。「脱系列」の象徴といわれる日産とは別の経営体制の下、同社が新たな復活モデルを示せるかが注目されている。果たして将来その成果は如何となるか……。 さて、話変わってネタ(歴史)に踏み込もう。旧財閥の中で最大級の組織を誇る「三菱」だが、元々は海運業が主体だった。創業者は岩崎弥太郎である。天保5(1834)年土佐藩(現高知県)の地下浪人の子として出生した彼は、後藤象二郎(後に伯爵)や福岡孝弟(たかちか;後に子爵)等の人脈を活用して藩が経営する物産交易所、開成館大阪商会の責任者となる。明治3年、藩から経済力を奪取しようとする新政府の政策から逃れる為、表向きは民間会社形式の九十九(つくも)商会を設立、これが海運業者としての第一歩となったのである。この時、汽船は土佐藩からの払い下げだが、この船に現在の三菱マークと同じスリーダイヤを付けた。岩崎家の家紋は"三階菱"という、菱形を3段に重ねたものなのだが、自己のブランド化を図って、旧藩主山内家の家紋"三つ柏"を取り入れ、放射状の形をしたスリーダイヤに変えたのだった。今では馴染みの「三菱」と言われる所以である。その後、九十九商会は三菱商会と衣替えし、明治7年の台湾征討、同10年の西南戦争等で荒稼ぎをする。政府軍の輸送を一手に引受けた弥太郎は、兵員輸送船を政府から補助金付で借り受け、それをフル活用して三菱財閥の財政基盤を築きあげた。西南戦争に掛かった戦費約4000万円のうち、実に1500万円は弥太郎の懐に入ったと言われているほどだ。 ちなみに弥太郎は明治18年に逝去するが、同29年に弥太郎の海運業の功績を評価されて、長男久弥氏が男爵を授爵した。そして、大正2年1月に発表された「資産家一覧・1千万円以上の部」で、三菱本社社長の久弥男爵が1位を占めた。江戸時代初期には存立していた三井家、住友家を追い抜き、堂々の1位に君臨したのである。 |
平成16年5月21日(金) 台風2号 |
台風(2号)が来たらしい。最近天気予報を見忘れるので、事の事実に気づくのが遅い。普段は「め○ましTV」でのお天気お姉さんが言う予報に耳を傾けながら、寝ぼけ眼に飯をつつくのである。朝が弱いせいもあり、玄関の扉を開けて外の空気に触れるまでは、ボケボケ状態が多い。しかし、この季節に台風接近とは異常である。四季の国、日本に5月の台風は違和感がある。日本に来る台風は2桁の番号が普通なのに…。実は通常ならこの季節、台風の進路を阻んでくれる高気圧が定位置を外れているというのだ。やはり巷で騒がれる異常気象の産物だろうか。去年は冷夏、その前は水不足だったか。覚えてないが。ともあれ、自然相手では文句も何も言えない。懸念されるのは、異常気象で苦労するのは古今問わず農業だ。去年の冷夏でも、収穫高が例年を下回り、相場が揺れた。大被害に繋がらないよう祈願するばかりである。 |
平成16年5月20日(木) 資格 |
今のご時世、何かと言われだした資格取得、当然私もその荒波(?)に揉まれて幾つか試みたが、いつもそう易々と天は味方してくれない。密かに再挑戦を謀計しておる次第だ。 当HPに(勝手に)リンクを貼っている「歴史能力検定」もその1つだ。元来、日本史への執着心満載(やや誇張)の自分は密かにそのような資格があれば、と考えていたが、実際その存在に気づいたのはつい近年である。この資格は漢検と同様、一部の大学だけだが取得者は点数が優遇されるので、寧ろ受験を控えた学生の方がプラスが大きいかもしれない。 私が再戦を窺っているのは「危険物取扱者(甲種)」である。何ともおどろおどろしい(?)名か…寧ろ筆者の方が"危険物"じゃん!……と言われそうな感があるが、そこは暗黙の了解(?)である。これには受験資格があるのだが、もともと化学系、工業系資格である。筆者が受験できるのは、大学で農芸化学科専攻である化学系学科を履修した為である。実は1度受験したが、あえなく不合格の烙印を押されてしまった(泣)。くやしゅうて仕方がない。それだけに再戦の期日を窺っている状態なのだ。しかし、同資格には甲種以外に乙種・丙種が存在し、順に難易度が下がる(受験料も)。一般的に著名なのは乙4(乙4種)と言われる試験だ。扱う項目がガソリンスタンド関連の知識だけだからだ。だから、ガソリンスタンドバイト希望者は当然同資格を知っておく必要がある(バイトしてたら取得できると噂も聞くが…)。ただ、乙・丙種はあまりプラスには転じないらしいが。ちなみに合格率は甲種約3割(乙・丙種はたぶん5割)。国家資格の「初級システムアドミニストレータ」もほぼ同割くらいだ。ちなみに後者の方は無事合格を果たした。そのお蔭でこうしてHPを独学で開設できた……というのはこじつけだが。 実は知らん間に取得していた資格があった。その名も「毒物劇物取扱者(一般)」という。……また、えげつない名前だ。これは先述の危険物と同様、化学・工業系の資格なのだが、応用化学に関する学課を修了すると試験免除になる、つまり、その地点で資格取得した事になる。他に、薬剤師の人も試験免除で取得できるが、この資格は証明書・免許証に値する物が存在しない。以前は存在したそうなのだが、廃止されてしまったのだ。試験を受験し合格した人には合格証明書が通知されるが、試験免除で取得できたものは証明するものが頂戴できないのだ。だから、どうも取得した実感がよけいしなくて何か物寂しい。 ところで、最近注目しているのが、"音検"と呼ばれる「音楽技能検定」なるものだ。とある資格紹介サイトでチラ見した際、たまたま発見しただけで詳しい詳細まではっきり見てないので何ともいえんが受けれるなら挑みたい資格だ。音楽史、聴音などの試験科目も登場するようだ。聴音なら私の十八番(思い込み)なので問題無し男ちゃん(?)なのだが、音楽史はサッパリさんである。西洋音楽史がやはり主を占めているようなので、取得実現までにはかなり身を削られそうだ。 という訳で、最近は資格探しにも視野を置いている。何ぞ目ぼしい資格があれば是非ご紹介願おう。 |
平成16年5月19日(水) 剣豪将軍 |
5月19日は室町幕府第13代将軍足利義輝公逝去の日である。周知の通り、義輝は剣豪将軍の異名を持ち、度々京から追われながらも権力回復の為に積極的に活動する。地位安定の折、しきりに諸国の大名との修交し、特に長尾景虎(上杉謙信)には鉄砲を贈って優遇している。これには、義輝の従兄弟であり義兄弟でもある関白近衛前久(義輝の室は前久の姉)も含め、三者の間で盟友関係が築かれていた事がわかる記録も存在する。また、当時弱小勢力だった織田信長とも謁見している。尾張国(現愛知県)統一の為、信長は桶狭間合戦前に上京し、義輝より尾張守を拝命している。この時、義輝愛刀の1つとされている大般若長光(国宝)なる刀を下賜したと言われている。史実では信長が徳川家康に姉ヶ崎合戦での功績を讃えて下賜したとされているが。どちらにせよ、利が伴う名刀下賜した地点で、信長の類稀なる天運を見抜いていたのかもしれないが、信憑性は薄い。ともあれ、義輝は「天下を治むべき器量あり」、「当御所様一段御起用御座候」等と評されるほど傑出した人物だった。しかし、時代の流れには逆らえず、主君三好家の実権奪取した松永久秀率いる大軍に御所を急襲される。義輝は以前塚原卜伝から剣術を習んでおり、新当流極意まで授けられている程の達人である。御所急襲時には、足利家累代の宝刀を片手に持ち前の剣術で敵兵を圧倒し、剣豪将軍と呼ばれるに相応しい戦いをするが、多勢に無勢、志半ばで自害してしまった。享年30歳、あまりに若すぎる死であった。ところで、塚原卜伝の新当流剣術は伊勢国司北畠具教にも教授されている。しかしこちらも、領土拡張を伺う織田家に攻撃され、講和の際に養嗣子として迎えた北畠具豊(織田信雄;信長次男)の配下により暗殺されてしまう。卜伝の新当流は足利家、北畠家といった名家に伝えられたものの、両家は戦国の世に逆行できず、没落してしまう。それと運命を重ねるかの如く、同流派も時代の流れと共にやがて衰退していってしまった。新興勢力の台頭しかり、既存勢力の衰退しかり。これも戦国の世の宿命か……。 |
平成16年5月18日(火) 瀧ノ北遺跡 |
昨日、奈良県河合町教委が、奈良時代(710〜794)初めの権力者、長屋王の邸宅跡(奈良市)から約15km離れた同町薬井(くすりい)の薬井瀧ノ北遺跡で、邸宅と同型の複数の瓦片が発見された事を発表した。同遺跡周辺(同県北西部)は当時「片岡」と呼ばれていて、王家の所領存在をうかがわせる木簡(荷札)が邸宅跡から見つかっており、これを裏付けた。当時の王の権勢を知る資料になりそうである。同遺跡は縄文―室町時代の複合遺跡である。今年2月末から約55uを調査した結果、灰を捨てた層の下から、軒平瓦、軒丸瓦の破片21点が発見されたのだ。瓦は700年頃の製作で、少なくとも5〜6基窯があったと推測されている。破片は最大の軒丸瓦で縦約21cm、横約27cm、高さ約5.5cm。軒平瓦の唐草文様と軒丸瓦の蓮華文様や全体の作りが王邸に使われた瓦と細部までほぼ一致している。奈良文化財研究所によれば、長屋王邸宅跡からは88年以降、約5万点もの木簡が見つかっており、うち13点には蓮の葉など薬草や野菜を「片岡」から献上したとする荷札が確認されている。木簡などに「御薗(みその)」「御田(みた)」との名が見える幾つかあった王家の所領と考えられている。ちなみに、長屋王邸宅跡はJR奈良駅のやや北西側で、当時の平城京の敷地内在所。瀧ノ北遺跡はJR王子駅からやや南東の方向に在する。近くまで足を運ぶ際は是非寄られたし。 最後に、この長屋王なる人物について触れて記述を終える。長屋王は、生没年は684〜729年、第40代天武天皇の孫で、高市(たけち)皇子の第1皇子として生誕。同王は第45代聖武天皇即位と共に左大臣になり、皇親勢力となって藤原勢力に対抗した。しかし、729年、同王は左道(邪道)を学び国家を傾けようとしているとの密告により邸宅を包囲され、天皇の命で妻子共に自害させられた。実は、藤原不比等の娘の光明子立后を謀る藤原氏の陰謀によるものと考えられている。この頃既に他氏排斥を伺う藤原氏台頭の暗雲が広がりつつあり、皇親勢力もその犠牲となってしまったのだ…。 |
平成16年5月17日(月) 忠臣蔵 |
昨日の続きという訳ではないが、武士の話をしていたので今回はちょっと変わった武士のネタを記す。 時は元禄14(1701)年、勅使下向の際、その接待役だった赤穂藩主浅野内匠頭長矩(ながのり)が江戸城中で脇差を抜き、高家筆頭吉良上野介義央(よしなか)に斬り付けた。吉良上野介は傷も浅く無事だったが、浅野内匠頭は殿中で刃傷におよんだので、直ちに切腹、浅野家は取り潰された。この為、国家老大石内蔵助良雄(よしお)が中心となり、長矩の弟大学(だいがく)に家名を継がせるよう運動をしたが、幕府に聞き入れられず主家再興の望みが絶たれた。そこで大石良雄は同志を集め、主人の仇討ちを決意。翌15年12月15日朝、一行47人が吉良家に討入り、義央の首をとって主君の恨みを晴らした。……おなじみの忠臣蔵、赤穂浪士討入事件である。忠臣蔵といえば、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」をはじめ、芝居等でも大変人気があり、実際に事件が起きた時も民衆の最大の関心を集めた。しかし、芝居・講談等で脚色に脚色が重ねられているだけに、真相が粉飾で覆い隠されてしまっている事件も実は珍しい。 ……という訳で、これに関する真相をまたまた史書の頁で採り上げてみる。 |
平成16年5月16日(日) 武士道 |
今回も紙面よりテーマを抜粋した。このところ、武士道が書物やスポーツで大流行らしい。スポーツでは、あのシンクロナイズド・スイミングの種目でアテネ五輪の出場演目が披露された。ペア組は「歌舞伎」、チーム組は「武士道」だった。歌舞伎は男が演じる伝統芸術、武士道は男の伝統倫理という通念を、現代女性が艶やかにはねのけたのだ。その見事な演技は万雷の喝さいを浴び、それを追い風として彼女等はアテネに向う。 昔、黒沢明監督の「七人の侍」が「セブン・サムライ」の名で世界中に知れ渡った頃、サムライや武士道は日本の男の伝統的な生き方である雰囲気があったようだが、今やそれらは日本の男の独占でなくなり、外国人の間に敬意と共感を獲得しつつあるという。例えば、映画「ラスト・サムライ」はその好例だ。渡辺謙氏がアカデミー賞で助演男優賞にノミネートされた。ハリウッド映画に登場する日本はどこか中国風だったり悪趣味に流れかねない所があったそうなのだが、当作品はそれが無かったらしい。同氏の名演のみならず、脇役の真田広之氏が自分の出番でないシーンの撮影現場にも熱心に出かけ、日本らしい表現になるよう真剣にアドバイスし、監督等も謙虚にそれを取り入れたからだそうだ。彼は英国のシェークスピア俳優と共演し「リア王」で高度な道化役を演じきって英国人観客を魅了したことがある。加えて英語堪能である為、彼のアドバイスなら正確に米人に伝わるのだ。更に「ラスト・サムライ」監督エドワード・ズウィックも主演トム・クルーズも、新渡戸稲造の著書「武士道」に感化されたことが、映画プログラムに記されているらしい。そこには「武士道」のエッセンスである義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義、克己、武士の魂としての刀等の解説まで付されている。 「武士道」はあの5千円札で有名な新渡戸稲造が執筆した著書である。これは元々英語で書いたものであり、実は「日本の心」という副題が添えられている。太平洋の架け橋にならんとした彼の意図は、西洋のキリスト教に相当する日本の道徳規範が武士道だというものであった。ところで、武士道とキリスト教とを両立させた人物がいた。武士の子としての自覚を生涯にわたって持ち続け、無教会主義のキリスト教徒として人生を貫いた内村鑑三である。彼の著書には「代表的日本人」があり、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人の日本人が取り上げられている。この書物は新渡戸の「武士道」の少し前に英文で出版されていた。新渡戸も内村も共に札幌農学校(現北海道大学)で学んでいる。日本政府が当時米政府農務長官であったケプロンを招き、「少年よ、大志を抱け」で知られるクラーク博士(彼の言葉でないという説がある)を教頭とし、キリスト教に基づく人格教育を施した。アメリカの教授陣が最良のフロンティア・スピリットを吹き込み、それを全身で受け止めたのが武士の子という訳だ。米国の開拓者精神と日本の武士道とが一体となった場で多感な青年期に人格を築いた新渡戸や内村が、武士の強靭な気合のもとに、最初の一行目から自ら習得した英語で、米人に狙いを定めて書いた書物が米人の心を打たない筈がない。日本人でなく、米国人の監督や俳優が、伝えたかったのが「日本の武士道」であったことに、日米間の深い絆が示されているようだ。 しかし、「武士道の」本家本元である我々日本人はどうだろう。この「武士道」おろか、新渡戸稲造すら解らない人々がいるのは実に悲しい。世界中でサムライや武士道への理解が進んでいる中で、本家の日本人の中でその心が失われていっている事実は何か物悲しい思いがしてならない。……と言っている私自体、同書を読んだ事がないので偉そうにいう資格はないが、海外ばかり目を向けず、もっと誰しもが自国の事をよく知る必要があると思うのだが…。 |
平成16年5月15日(土) 卑弥呼の鏡 |
日本神話期を含む古代は何よりの私の興味分野である。日本皇国の起源が不明で史実の信憑性が確定しづらい最も謎めいた時代である、これほど興味がそそるものはない。その一端である邪馬台国卑弥呼に関する新証拠(と思われるもの)が紙面1面を飾った。 卑弥呼が中国(当時の国号は「魏」)皇帝から貰った「卑弥呼の鏡」の最有力候補とされる三角縁神獣鏡に含まれる微量の金属の成分比率が、3〜4世紀の中国鏡と極めて類似することが、大型放射光施設(Spring-8、兵庫県三日月町)を使用した分析で判明したのだ。この鏡は外縁の断面が三角形となる特徴をもつ平均直径22cmの銅鏡で、鏡の背面に中国の神仙思想を表す神仙と聖獣が掘られている。1998年奈良県天理市の黒塚古墳で全国最多の33枚が確認される等、近畿を中心に出土している。「魏志倭人伝」に記述のある、卑弥呼が魏に使いを送った「景初3(239)年」の年号を刻んだ鏡もあることから、魏皇帝から貰ったとされる「銅鏡百枚」との関連から「邪馬台国畿内説」の根拠の一つとなっているのだ。分析したのは、泉屋博古館(京都市左京区)と財団法人・高輝度光科学研究センター(同町)であり、分析した鏡は同館所蔵の戦国〜西晋時代(紀元前3〜4世紀)の中国鏡69枚、三角縁神獣鏡8枚、古墳時代(3〜5世紀)の日本製鏡18枚の計95枚。いずれも青銅鏡で、Spring-8を使用した「蛍光X線分析」によって、鏡の青銅中のごくわずかに含有する銀とアンチモンの量を分析した。その結果、三角縁神獣鏡のうち、製造年代の古い6枚は中国の三国西晋時代(3〜4世紀)の魏や呉の年号を持つ鏡と近い値となり、残る2枚は古墳時代の日本製鏡と似た値が出たのだ。日本の古墳から約500枚が出土する三角縁神獣鏡は、古いタイプを中国製、新しいタイプを日本製として分類する「中国鏡説」がある一方、中国で出土例が無いことから、全て日本製とする「国産説」がある。今回の結果は、中国鏡説と概ね一致したのだ。分析数が少なく、ごくわずかな測定誤差が結果に大きな影響を及ぼす可能性等から、研究者間でデータとしての信頼性について意見が分かれているが、この分析方法を使用すると、貴重な文化財を一切破壊せず、内部の超微量元素を測定できることを示した。国内外からもっとサンプルを集めてデータ収集を行えば、更に正確な結果が得られ、製造ルートや同時代の実態が少しずつ解明できるかもしれない訳だ。今後の更なる研究が注目される。 |
平成16年5月14日(金) 8020運動 |
久々に祖母宅を訪ねた。流石にもう高齢であるため、身体はしっかりしてないが、気はまだまだ大丈夫そうだ。これで100歳までは安泰である……とは断定できんが。現在祖母と呼べる人はもう1人だけになってしまった。他の祖父母は既に他界されている。特に、祖父は2人とも早くに亡くしておるので、殆ど記憶に残る思い出が無い。だから、彼等の遺品を眺めたり、両親や親族から話を聞いた際に薄れた記憶の物思いにふける……。ところで、この祖母の家には3通の表彰状が飾られている。共に昨年に頂いたものである。1つ目は町内の老人会が営む老人用サッカーのようなスポーツ(名称不明)で1度得点王に輝いた時のものだ。最近は腰や膝が痛んで上手く決めれないと少々スランプ気味のご様子。2つ目は大阪府から引退した商売人に送る感謝状だ。私が生まれる前から小さな駄菓子屋を営んでいたが、近年身体の老化もあって、店をたたんだ。その際、府から送られるそうだ。3つ目は大坂歯科連盟(名称違うかも?)からの8020運動達成者への表彰状だ。8020運動というのは、簡単に言えば80歳で20本以上の歯を残そうという運動である。80歳以上で該当した場合、年1度市内で表彰されるらしい。更にその中で特に優秀な人は歯科医の推薦状でもって大阪府歯科連盟から表彰されるらしい。うちの祖母は親知らず含め29本残っている。幼少時は身体が弱かったので、栄養あるものは何でも食べ、堅いものもバリバリ食べていた。そのお蔭で、今でも全て健康な歯である。残念ながら、私は歯の矯正で数本抜歯しているので、この記録をぬり替える事はできないが、歯そのものは祖母譲りもあってか健康である。恐らくこの遺伝も受け継がれているのに加え、幼少時は甘い物はそれほど食さない性格だったことも影響してるんだろう、と自分で推測している。虫歯にかかったこともほとんどない。ところで、堅いものを食べるのは丈夫な歯と歯茎を鍛えるのによいと昔からあちこちで聞いたが、まさにその通りだ。祖母を見ればつくづく実感できる。最近は柔らかい食品が市場に多く出回っているだけに、将来差し歯や入れ歯の人が増えそうで心配である。自分が老齢になってもやっぱり自分の歯で食事したいものだ。 |
平成16年5月13日(木) 在りし日の学び舎 |
遅くに帰宅すると、久々に封書の郵便物が届いていた。何処ぞの者か、と思い見てみると、大学時代に所属していた吹奏楽同好会からだった。先日実施した追コン及び卒業式の時に撮影した写真が出来上がったので送付します、というものだ。もう卒業して約2ヶ月経ったのか……と思うと月日が移り往くのは本当に早いものだと実感する。実際、自分で言うのも何なんだが、在学中は同期の中でもかなりの問題学生だったものの(関係者方々、色々迷惑かけました……泣)、いざ卒業してしまうとまた何か物寂しい感ぜざるを得ない。それだけ年をとったという事なんだろうか。一番面白かったのは学祭だったかな。文化部でありながら小劇で皆々が大ネタを仕込み会場を大爆笑の渦に巻いていた、あの光景はいつまでも覚えている。……そういえば去年の学祭のビデオのダビングはどうなったんだろう?……と、送付してくれた写真を見ながら、そんな当時の記憶がちらほらと……。う〜、自分らしくない発言だな。とはいえ、苦楽の思い出が多い奈良から離れる(学校所在地は奈良である)のもなかなか辛いもので、卒業式から数日後、再度楽器を片手に同期メンバーと自主練に勤しむ自分がいる。高校以来愛用しているトランペットも最近はご無沙汰気味だ。他人はどうか分からないが、人生の半分以上音楽と共に歩んだせいか、長く楽器に触れていないと逆に欲求が出てきてならない。まるで禁断症状の如く(いいすぎか?)。ともあれ、そろそろまたマイ楽器を河原で吹き荒らしたい気分である。 |
平成16年5月12日(水) バッハの手稿譜 |
5月11日は織田信長の誕生日らしい。現在は太陽暦が採用されているが、明治以前は太陰暦である為、厳密には現在と日付が合わない。旧暦という言い方があるのはその為だ。だから、信長の誕生日も恐らく太陽暦に直した日付だと思うので、正確な月日を知りたくば太陰暦に換算せねばならない。私はそこまで賢明な頭脳が無いのであえて調べるようなマネはしない。 ところで、つい最近紙面で登場したある記事のほんの一端を紹介しよう。先日、バッハの"結婚カンタータ《満足したプライセの町》BWV216"の手稿譜がピアニスト原智恵子氏の遺品から発見されたのだ。このニュースは歴史的出来事として世界中を駆け巡った。研究者にとっては無論重要な発見であるのだが、専門的な資料でありかなりの反響があったようだ。この手稿譜は、バッハが書き下ろした「自筆総譜」(1度も発見されていない)から初演用に作成された声楽用パート譜で、彼の弟子であったトーマス学校生マイスナー(当時21歳)が筆写したものである。筆跡はバッハの自筆によく似ており、両者が区別されるようなったのは20世紀半ばのことだ。従ってBWV216の手稿も自筆譜として伝承され、1920年代かそれ以後にガスパール・カサドも自筆譜と信じて疑わなかった。後にカサドと結婚した原氏は、カサドが毎朝、練習前にそれに「手を合わせて一礼」する光景を目撃しているとのこと。筆写譜にはかなりの修正が入っていたので、その中にバッハの直筆が入っているのではないかと期待する向きが多かった。筆跡学最高権威である小林義武成城大学教授が最終的な鑑定を行ったが、細部にわたる吟味の結果、バッハの直筆部分は発見されなかった。しかし、筆写譜の価値は変わらないので、そこから書き落とした箇所を後から補ったり、アルトとソプラノの譜表を数小節混同して修正したりと、作成時に起きた小さなドラマを「視認」することができるらしい。 発見楽譜は声楽パートのみで、実際に音にするためには器楽パートを復元しなくてはならない。これは大変困難な問題であるが、今日のバッハ研究の水準をもってすれば、一定の成果が期待できるそうだ。そこで、米バッハ研究家ジョシュア・リフキン氏に復元を依頼し、氏の指揮によって日本で披露コンサートを行うべく、計画開始されたところである。この世界が注目する歴史的な発見物であるが、復元叶ったその楽譜を音にして私も是非聴いてみたいものだ。 |
平成16年5月11日(火) 女性天皇 |
最近、雅子皇太子妃殿下の体調不良が懸念されている。心身疲労が溜りに溜まって、公務どころではないのだろう。敬宮愛子内親王も御生誕なされて約1年か、母として皇太子妃としてかなりのご多忙な生活だったのかもしれない。皇室に関してやはり気になるのは「女性天皇」の是認か否認か、という問題だろう。最近あまり取り上げられないようなので議論は停滞中なのだろうか。 旧現両皇室典範によれば、皇位継承資格者は男系の男子のみである。しかし、明治以前はそのような規定はない。皇位継承者はあくまで男子の皇嗣が優先されるが、女性の即位は可能なのである。日本史上、実在確かな女帝は8人10代在位していた事が知られている。順に、第33代推古天皇、第35代皇極天皇(重祚して第37代斉明天皇)、第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第46代孝謙天皇(重祚して第48代称徳天皇)、第109代明正天皇、第117代後桜町天皇である。見れば、古代と近世に集中していることがわかるだろう。多くの場合は、皇位継承予定者が幼年の為、直ちに即位できないといった事情が存在し、言わば中継ぎ的な意味で女帝が即位しているのである。この女帝を中天皇(なかつすめらみこと)という。現在は女性天皇が即位する可能性が失われているので、現時点では後桜町天皇が最後の女帝という事になっている。 現在、皇太子の徳仁親王は年齢でいえば中年の段階に突入している。第125代明仁今上天皇が万一崩御なされた場合、皇太子が次代天皇に即位する訳だが、この時次の皇太子資格者は弟の秋篠宮文仁親王である。厳密にいえば、"皇太弟"ということになる。現時点での皇位継承資格者は年齢的に中年以上の域の方であり、若年男性は1人たりともいない。このまま進めば世界史上最古より継続する万世一系の天皇家が嗣子断絶の危機に晒されるという事態になる。だから、敬宮愛子内親王御生誕の時、この「女性天皇」の話題が登場したのである。現在の皇室には、自分等で改正する権限がない。だから、政府が直ちに皇室典範改正への議論を進めるべきなのだが…… 最後に天皇陛下の呼び方について注意を促す。そもそも○○天皇の○○は贈名といい、天皇崩御後に贈られる名の事である。明治以後は一世一元制により年号を贈名として扱う(明治天皇、昭和天皇等)のだが、明治以前は生前住まわれた場所や性格等から崩御後に配下(貴族や公家)が推論して贈名を決定するのである(一条天皇、白河天皇、継体天皇など)。だから、現代でいえば今上天皇とか明仁天皇という。これは歴史の本や資料集等を見ればわかる。また、新聞やTVでは単に天皇陛下と呼んだりする。昔に下ると、陛下や帝、上様などという風が多い。これは日本国最高位におわす人物である為、名前(諱〔いみな〕という)で呼ぶのは失礼に当たるという考えが強いためだ。ここでいう名前は勿論、○○親王、○○内親王の○○であり、我々の下の名前に当たる。ちなみに天皇には名字に当たる名はない。これは古来、名前は最高権力者(神々や天皇)から与えられるものだという概念があった。皇族は名字が無いから、皇籍離脱し臣籍降下した元皇族には天皇が名字を授けた。これが所謂「源平藤橘」である。また、戦後GHQにより皇籍離脱されられた皇族は11宮家、51人いるが、宮家を創設しているのでその名を名字に適応させた。戦後最初の内閣総理大臣に就任した東久邇宮稔彦親王は、皇籍離脱後の名前は東久邇稔彦である。4月5日の「書記」にも記述した、明治天皇の曾孫のJOC会長竹田恒和氏も皇籍離脱がなければ、たぶん竹田宮恒和王と名乗っていただろう。話はそれたが、当代の天皇に対しては贈名・年号で呼んではいけないのである。 |
平成16年5月10日(月) 江戸貨幣 |
133年前の同日は、それまでの通貨の「両」が「円」に変わった日である。"両"といえば、世界史上類のない"楕円形"小判が思いつく。俗に言う「慶長小判」や「天保小判」等である。勿論金は高価なので純金でなく、銀が混在したものである。開国の事態で物価沸騰の煽りを受けた幕末は、金の流出を防ぐ一案として、小判の金の割合を極度下げた。そのため経済混乱を招き、その結果百姓一揆や打ちこわしが多発した事は史実通りである。 ところで、徳川幕府は基本的には貨幣の鋳造を町人に請け負わせ、貨幣発行権を町人に持たせた。大判小判には例えば後藤家の署名や印判の刻印がついているのだが、この発行権が金座奉行を勤めていた町人の後藤家にあるということを示している。東京に銀座の地名が残っているが、これは銀座奉行の町人が貨幣発行していた地である事に起因する。これらは江戸幕府を樹立した家康がとった方針である。自身はまだまだ未熟である幕藩体制の徹底に意を注ぎ、貨幣経済面では表舞台に出ず、経済情勢に敏感な町人にまかせたのである。ただ、これが成功したのはあくまで幕政前半期である。元禄時代以降は権限を与えすぎてしまったため、商人の力が大きくなりすぎてどうにもならなくなる。完全消費者と化した武士は支出がどんどん増えて貧困化が進み、商人資本に徳川幕府はやられてしまうのだ。徳川第4代将軍家綱治世の明暦3(1657)年、"明暦の大火"と呼ばれる大火事が江戸中に発生し、江戸城本丸が焼失、災死者10万8千人に及んだ。しかしその後、天守閣が復興される事はただの1度もなかった。既にこの頃から幕府には修理代の余蓄すらなかったと推測される。江戸時代は約2世紀に渡り世界でも珍しく泰平の世が続いたが、その内面では商人資本による貨幣経済という見えない敵に早くから圧迫されていたのではないだろうか。 |
平成16年5月9日(日) 故障その2 |
先述のPCのみならず、どうやら愛用品の1つのMDLPウォークマンまで調子が悪くなってきた。症状は、電池の残量が少なくなると、こちらの意図を無視するかの如く自動的に停止したり、使用してないのに勝手に再生されたりするのだ。使用してないウォークマンを鞄に入れたまま行動してると、知らない間に再生されてて気がついた時にはかなりの電池が消耗されてたりする。…当然残量が無くなったら充電するのだが、電池が満タンにして使い始めると、全く上記のような事は起こらず正常に働いてくれる。そして、残量がなくなってくるとまた、訳の分からない謀反をおこしてくれるのだ。…やむなく充電回数が増えてやまないのだが、かといってまだまだ使用可能な同品をすぐ修理するのももったいない。非常に困ったちゃんである。 |
平成16年5月8日(土) 怨霊信仰 |
今から約400年前の8月14日は太閤豊臣秀吉の7回忌である。この日、京都東山区の豊国社で臨時祭が挙行された。臨時であるのは、前日雨天であったせいで順延されていたのだ。騎馬を従えた神人・巫女らの行列があり、猿楽や田楽が奉納された。そして、翌15日には風流踊りが計画されていて、当日は京中が熱狂の渦に包まれたらしい。これらの計画は家康が早くから準備の計画を立てていたようである。しかし、太閤秀吉の威光が輝く同社は、1615年の大坂夏の陣で豊臣家滅亡の後の7月に破却させられており、同社の神体は有名な方光寺の回廊裏に移された。歴史の皮肉を感ぜざるを得ないが。ただ、豊臣家臣の反乱分子を抑えるために、その後家臣らの大名仕官を認めて戦後処理を行っている点はまさに家康らしい。ちなみに大坂城は豊臣家滅亡後、直ちに改築修理を行っている。徳川将軍家の住まう江戸城よりも大坂城の方が一回り大きかったそうである。勿論、大坂城下の民衆に徳川家の力量を見せ付ける為の計画でもあったようだ。しかし、家康は豊臣恩顧の家臣を屈服させはしたが、その後も死ぬまで豊臣家の怨霊に悩まされ続けたのである。日本には古来より怨霊信仰のようなのが存在する。簡単に言えば、恨みや呪いを持って死去した者が怨霊となって現世に現れ、崇りを起こすというものだ。梅鉢紋を掲げ、天神様で有名な菅原道真も左遷先の大宰府で病死した後、怨霊神となって京に戻ってきた話は有名だ。この時、当時の醍醐天皇以下、左遷に関与した皇族、貴族は全て病死や不慮の事故で数年内に死亡しているのだ。また、源頼朝が落馬して暫らくして後病死したのも、弟の義経や滅ぼされた平家一門の霊に襲われたという話もある。家康も死の直前、罪人を切った刀を持って西に向って刃を構えたという著名な話も、豊臣家の怨霊に悩まされていた一例でもある。これらの場合、人の死去だけに伴わず、天災も発生する。特に、道真の時は、天候が狂い、奇病が蔓延して都に死体が多く上がるという事もあって、怨霊を鎮める為に天満宮の建築を実施したのだ。それだけ怨霊に対する概念が強い。さて、現在ではどうか。不慮の事故や、予期せぬ事件に巻き込まれ、物故となる方が後を絶たない。これかの方がもし怨霊となって仕返しに戻ってきたとしたら……。最近取り上げられたりする怪奇現象や心霊写真に登場する幽霊がこれらの一端を担っていたとしたら……。これほど怖い話はない。 |
平成16年5月7日(金) 福田赳夫元首相子息 |
ちょっと真面目に政治界に目をやった。本日福田康夫官房長官が年金未納で辞任の意向を示した。それどころかここ最近未納議員がどんどん膨れていってるような気がせんでもない……。あれだけ国民にせびるように要求し、年金提供の際は出し渋りのような態度が見えてしまう、お国の代表である議員が未納というのはいただけない。あれでは全く説得力がない。現在唱えられている年金一元化法案等も、このような議員がいる中での会議自体、信用がどんどん減衰していく…。もしかしたら、裏工作してる人も多々いるのでは……と思われても仕方がない。これ以上国民を困惑させないでくれ…という心情が出てならない。 締めが物足りないので、突然話を180度転換させてラジオネタに移る。勿論昨日も聴いていた。今回は違うが先週は民主党菅直人議員の未納が発覚し、岡村がえらく不平タラタラ文句を唱えてぶった切っていたのを思い出す。ところで、本日とりあげた福田官房長官は当ラジオのネタハガキでちょくちょく登場なさる。ネタの中では、同官房長官は政治界よりも芸能関係に関心抱き、下ネタ好きという本人とのえらくギャップがあるところがツボで面白かったのだが、本人辞任で表舞台から姿を消しては今後ネタハガキもなくなりそうで、ちょっと残念な感にみまわれる。ただ、しばらくしたら有罪者鈴木宗男や無党田中真紀子のように政治界に復活の野望再燃させたりして……ありがちな気もせんでもない。 |
平成16年5月6日(木) 献血 |
今日は献血の予定日だったのだが、うっかり忘れてしまった。勿論個人的に勝手に決めた事なのだが。最近私は2週間に1度血小板成分献血を実施しておる。この成分献血だと2週間後の同じ曜日から次回の献血が可能だ。ただし、年内12回までと規定がある。私は今年に突入して既にもう6回献血にご協力させて頂いている。特に行く必要性がないのだが、"プチ"ボランティア精神に目覚めつつあるので、突如思い出したように献血ルームに駆け込むような感じだ。"プチ"というのがポイントである。私は青二才の為、完全に覚醒しきってないのだ、たぶん。まるでうたた寝しているDQの"エスターク"といった感じか。……よくわからんな。というか、何だこの例えは? ちなみに今回献血すると通算20回に達する。私の周囲の友人網の中でこれ位実施している人はあまりいない筈だ。私はあくまで個人的善意の元で協力しているまでのこと。果たして生涯何度献血できるだろう。ギネスを狙ってみたいものだが、始めたのが遅かったからまず無理であろう。18歳(200mLのみ16歳)から献血可能だが、始めたのは20代突入してからだったような…でも日本人最高回数は狙ってみたいところだな。ただ、調子乗りすぎて自分が体調崩さんようにせねば… |
平成16年5月5日(水) 故障 |
思わぬ事態が発生してしまった。私が使用しているパソコンは実はノート型なのだ。本体の横にCD、DVD類の挿入口があるのだが、ここの中がどうやら故障した可能性が出てきた。久々にCD出も聴こうか、と某サントラCDをセットし楽しんでいると、途中で変な音が聞こえ再生されなくなってしまった。最初はCD自体が壊れとるのか、と思い、違うモノを入れてみた。CDをセットしてみると、キュイーンと起動が始まったかと思っていたが、すぐにカタッカタッ…としかいわなくなり、起動すらされなくなった。その後も何枚か試してみたが、結果は同じで完全に起動されなくなった。……どうやら故障してしまったらしい。しかし、それ以外の作業は問題無く使用できるので、果たして修理に出すか否か…という状況だ。実際の所、CD、DVD等はPS2やステレオがあるのでそっちを使えば問題ないが。当然修理する事になったらこのHPもまた暫らく更新滞ってしまいそうだし、また出費しそうだし、いやはや困った状況だわ……。 |
平成16年5月4日(火) ペリー来航と日本地図 |
先月17日の「書記」の項目で「伊能忠敬と日本地図」に関するネタをはさんだ。神戸市の例の博物館への訪問はまだ実現化できておらず、近日なんとか都合付けて見学に行きたい所存である。…そんなプライベートな話を書くつもりはない。以前「伊能忠敬と日本地図」のネタを別項で述べたが、文末にもう一つの事件に地図が登場する…というような書き方をして筆を止めていた。結論から言えば、先月20日の項目で登場させた"ペリー"来航時である。そこで、今回はこの後続編をいつも通り史書で紹介しよう。 |
平成16年5月3日(月) 地名+地名=地区 |
当HPでも勝手にリンクしている「歴史能力検定」試験をこの度受験する事に決めた。理由は書くまでもないので略す。実は先年も申込んでいたが、公務員試験と日程が重複してしまい、泣く泣く受験辞退に至った。後日問題用紙と解答が来たので試しにやると、やはり欲望がかき立てられてしまったので今度こそ…という訳だ。その影響で当頁では最近歴史ネタが後を絶たないがそんな事気にせず書き記す。 昨日地名の話を書いたのでまた地名ネタに引っ掛けてみる。生誕地の守口市に"庭窪"という地名がある。現在の地下鉄大日駅の少し北側にあるのだが、命名されてまだ約100年位という、割と新しい地名だ。明治以前は存在せず、元は"大庭"と"大窪"という地名があった。その2地区を合わせて"庭窪"と命名されたのである。このように、2つの地名を合わせて新たな地名や地区を表す事例は数多い。 筆者の最寄り駅を走る鉄道は"京阪"電鉄である。名の通り"京都"と"大坂"に跨ぐ鉄道である。1番判り易い事例であろう。同様に述べると、"阪神"電鉄("大坂"と"神戸")、"名神"高速道路("名古屋"と"神戸")、"京滋"バイパス("京都"と"滋賀")、"青函"トンネル("青森"と"函館")等々然り。これが旧国名の場合もある。国名は927年延喜式によって決められており、明治以前まで使われていた本国を割振った国の名で、現在の都道府県の元になっている。日本史や古典の本、資料集にも掲載されているのでご一読されたし。例えば、中京地区に跨る"濃尾"平野である。これは、国名で"美濃"と"尾張"に跨る平野という訳だ。今更説明するまでもないが、それぞれ現在の岐阜県と愛知県西部(愛知県は尾張国と三河国で形成)である。同様に記せば、"房総"半島("安房国"と"上総・下総国")、"信越"本線("信濃国"と"越後国")、"常磐"自動車道("常陸国"と"磐城国")、"奥羽"山脈("陸奥国"と"出羽国")などなど。 違うパターンでは地名に方角、方向の意を付けて新たな地名・地区を成すものもある。手っ取り早い例が"東京"である。言わずもがな、"東"の"京"の意である。ただ、この例は旧国名を扱うものの方が多い。"東武・西武・南武"は、現在の東京都と埼玉県の元の"武蔵国"のそれぞれ東・西・南側の地区を意味する。南紀白浜の"南紀"は和歌山県の元の"紀伊国"の南地区を指す。大阪府北西部を"北摂"と呼ぶが、これは大坂北部の"摂津国"の部位という訳だ。さらに、旧国名自体も方角で区切っている例がある。例えば、九州の筑前国・筑後国、中国地方の備前国・備中国・備後国、滋賀県・愛知県の元の近江国・遠江国、1868年に分割された出羽国(羽前・羽後)・陸奥国(陸前・陸中・陸奥)である。これらは当時の中心地京都からみた距離で決まっている。近い方が"近江"、遠い方が"遠江"なのだ。京に近い順に、"備前"・"備中"・"備後"という風になる。 地名を辿ると結構に面白い。当然探し出すとキリがつかないのでもう筆を止める。是非に御自分でも調べてみては如何か。 |
平成16年5月2日(日) 地名 |
現在、日本中で話題の市町村統合、いわゆる「平成の大合併」、双方意見一致で実現に至った地域もあれば、利害得失が複雑に絡み合い、進展が厳しい地域もあろう。あるいは全く合併案廃棄の地域もあるとかないとか。筆者生誕地の守口市も隣接する門真市との統合意見が交わされているそうだ。ちなみに統合されると国から"ご褒美"といえる金の支給が賜られるのだが、我が国は世界先進国中で群を抜いて唯一膨張を続ける借金大国であり、今後増税が恐らく決定的な上、老後年金の保障が薄い。国は金を出す余裕がないように思えるのだが、この市町村合併が果たして我々将来の危惧を打開する足がけとなってくれるかどうか、個人的心境は複雑なところだ… 暗い話はまあ横に置いといて、折角"地名"に触れたのでこれを踏まえたネタを搾り出してみよう。個人的見解も一部あるのだが、地名の歴史はとかく古い。我々の苗字の大半が地名に由来するというのは周知の事実で、聞いた事ある人もおろう。その土地に土着した人が地名から取って苗字にするのだが、それ以外にも、主人から下賜された姓を苗字にしていた例もある。源、平、藤原、橘の各氏はその代表例といえよう。これらは"源平藤橘四大姓氏"と一括りに表現されたりする。後世名のある人物の先祖を辿ると大概これらの一族に繋がる為だ(捏造、歪曲されてる場合もある)。ところで地名の苗字にする事例は鎌倉時代までには確立されていたようだ。当時は貨幣経済よりも土地基盤の流通の方が大きかった。主人(将軍又は執権)から下賜された土地を武士は一族共に命懸けで守りぬき、開発に励んだ。鎌倉武士は半農半士であり、暇があれば自分の土地で農業を営んでいた。完全消費者に陥った江戸時代の武士とは全く異なるのだ。そして片や出陣の声があがると鎧兜に身を包み、「いざ鎌倉」と意気込んで出動した。封建時代の御恩奉公の関係である。ちなみに「一所懸命」という熟語があるが、これは自分の土地を懸命に守りぬく鎌倉武士の心情から生まれたものである。 土地と地名は元は日本人にとって生活基盤と密着した命にかえてでも大事なモノである。そのような重みのある地名を、単に経済不況等という理由で市町村合併を促されて、安易に変えてしまっていいのだろうか。奈良県明日香村では、此度周囲の各村と統合を果たしたが、当初は"明日香"の名を残さない姿勢だった。しかし同地は古代の貴重な史蹟や文化財が数多く存在し、"明日香"の名を安易に変えるな、と歴史家や専門家、マニア等から批判が相次いだ。彼等は異例の数の署名を集め、遂には統合後の村名を変更せず、"明日香"村に決定されるに至った。これはこれで面白い結果だ。かわって我が郷里守口はどうか。隣接の門真と統合し、「なみはや市」となるとの噂が以前流れた。…何か締まりがないと思うのは私だけだろうか?また、なみはやって何?と多数がお思いになるだろう。私も実はよく知らない。"守口"も"門真"も共に相当昔から地名として存在する。まだ統合にまで話が進んでないが、実際のところあまり名前が変わらないでくれ、というのが私の本音である。後半は完全に筆者の暴走際立ったが、所詮は管理人の「独り言」という事で片付けてもらいたい。 |
平成16年5月1日(土) 再開 |
掲示板でも同じ事書いてるのだが、今週"黄金週間"なる長期連休で更新が滞ってました。しかし、当頁は「書記」と題しており、「日記」ではありません。その日筆者が諸所で見聞した事、思いついた事、過去の事例、妄想事…等々のその日の"独り言"を思いつくままに記しておるのです。だから、毎日分書いていきます……できるだけ。今後更新が遅延してきよった、とお思いになっても、そのうち書きよるわ、と大きく構えておいてくれれば結構です。 とりあえず、本日分は更新遅延の"言い分"という事で。 |