書記

平成18年3月期分

今月で開設二周年を迎える放浪人の独り言の間。
今後もちまちまと続ける所存です。



平成18年3月15日(水)  京都“小”観光 東山編
いつものように大学の友人N氏とまた京都観光に精を出しました。今回は東山編という事で。メインは銀閣。京阪出町柳駅から出発です。

駅から今出川通を東へ歩き、最初に目に入るのはやはり旧帝大こと京都大学。大学受験の際、センター試験の受験会場が同大学でしたね。もう今後来る事はないだろうと、観光ついでに記念撮影。正門へ行こうと一筋南の東一条通へ。周囲には制服を着た受験生らしき人影もチラチラ見られました。ちょっと受験時代が懐かしいですわ……

京都大学正門は東一条通沿いにあるので、そのまま東へ進んでいくと、吉田山の麓に吉田神社があります。859(貞観元)年、第56代清和天皇治世時、中納言藤原山蔭(ふじはらのやまかげ)が春日の四神を勧請(かんじょう)し、平安京の鎮守神として吉田山に創建されました。その後、987(永延元)年、第66代一条天皇の行幸を始め、代々皇室の崇敬を集め、また室町時代に神職の吉田兼倶(よしだかねとも)吉田神道唯一神道)を創設しました。 吉田神道は、神こそ本地で仏を垂迹とする立場で、唯一なるものこそ即ち神である、というもので、伊勢神道の影響を受けています。朝廷・幕府に取り入り勢力拡大し、同神社に斎場を造営、その後吉田家は神職の大半を配下に置き、江戸時代には全国に勢力をはったのです。

余談ですが、吉田家の本姓は卜部(うらべ)といい、兼好法師こと吉田兼好卜部兼良(うらべかねよし))は同神社の神官の出、また、東照大権現の称号を受けて神となった徳川家康ですが、これには唯一神道が関わっているのです。

その後、神社の裏側にある吉田山公園の中を散策しながら再び今出川通へ出、そのまま東進してゆくと今回のメインディッシュである慈照寺銀閣とご対面!

銀閣寺は正しくは慈照寺で、臨済宗相国寺派に属している相国寺の山外塔頭。1482(文明14)年に室町幕府第8代将軍足利義政により建立されました。慈照寺の名は義政の法号“慈照院”に因んでおります。 通称の銀閣とは観音殿のことで、東求堂(とうぐどう)と共に現存する東山殿の遺構であり、国宝に指定されています。

銀閣は東向きの二層楼閣で、下層の心空殿(しんくうでん)は和様住宅、上層の潮音閣(ちょうおんかく)は観音像を安置する禅宗様仏堂。金箔張りの金閣のように、銀閣も銀箔張りを施す予定だったとか聞くことがあると思いますが、実際にはその意図があったかは不明で、痕跡すらありません。

東求堂は南向きの方形の建物であり、義政時代には阿弥陀三尊を本尊とする持仏堂です。特に、北面東側の四畳半の部屋は同仁斎(どうじんさい)と呼ばれる義政の書斎で、北側の付書院と違い棚は座敷飾として現存最古。また、草庵茶室の源流、四畳半の間取りの始まりと言われています。

作成途中



平成18年3月12日(日)  第13回京都シティハーフマラソン
午前9時、京都の平安神宮前をスタート地点として、第13回京都シティハーフマラソンが始まりました。私は出てませんが、古巣の友人kojikoji(以下、koji氏と略す)が一般男子の部で出走していたのです。正直いうと、昨日まで当マラソンのこと全然わからなかったんですがね(汗)

事の始めは昨日の夕方に起こりました。koji氏と久々に連絡を取ってたら、突然京都へ行かないか、と。“そうだ、京都へ行こう”的なノリ(?)で。断る理由のない時間帯だったので同行を快諾し、久々の京都上洛。道中でkoji氏と合流して詳しく話を聞いていると、ハーフマラソンに出場するために、郵送されてきた出場登録用紙のような紙を持参し、前日の21時までに受付登録をしに「京都市勧業館みやこめっせ”」まで伺わねばならないとのこと。koji氏は運動不足解消の一環として夜中に地元守口を流れる淀川の堤防沿いを定期的に走っていて、その腕試し的なノリもあるようです。

京阪三条駅から歩くこと約15分、「みやこめっせ」到着。すぐ近所に平安神宮岡崎公園京都会館などがあります。koji氏の付添いとして受付会場にも足を運んでみました。1階で受付後、3階へ行くと、イベント会場が広がっていました。本大会協賛企業などが並んでいて、ユニフォームやシューズ、サングラスなどのスポーツ用品やグッズが販売されていました。他にも健康度チェックや京菓子の販売もされています。会場正面に飾られた大画面には、実行委員や関連企業のお偉い方がコメントしているビデオが流れてました。大会に参加するには事前登録が必要ですが、大会前日や前々日に催される各種イベントには自由に参加が可能のようです。残念ながら、有名選手は見かけなかったのですが、スポーツグッズ売場の所には高橋尚子を始めとした有名選手のサイン入りスポーツ用品が展示されていました。あまりに人が多くて写真撮れなかった……

しばらく見て回って後、すぐ近所にそびえる「平安神宮」で完走達成祈願。管理人もこの古くからの友人の目標達成を願い本殿で祈願致しました。 思えば約20キロ超走るわけです、よく体力持つなあとひたひた感心。その後二条通沿いにある某喫茶店(店名忘れた)に入店してしばし談笑。明日のマラソンを完走する事を宣言(させた)後、帰路に着きました。

―――そして、大会当日。今日の事です。マラソンを終えた昼頃にkoji氏から無事完走したとのメールが。ちなみに、マラソンの模様は朝からKBS京都で実況生中継、晩にはKBS京都TVで録画放送されました。……でも、私は見れてませんが(汗)。



平成18年3月10日(金)  大阪“小”観光 造幣局編
JR東西線大坂天満宮駅(大阪地下鉄谷町・堺筋線南森町駅とも接続)から東へ歩くこと約15分、国道1号線沿いにある造幣局にある、「造幣博物館」へ行ってみました。春になると、桜の通り抜けで有名な所です。造幣博物館は、日本のお金の歴史を学習できる所であります。

博物館は一階と二階に分かれており、一階は主にお金の作製過程の説明や造幣局建立に携わった人物の紹介、周辺地図、勲章・褒章等の製造過程・展示など。二階は古くは「富本銭(ふほんせん;701年鋳造された和同開珎より古いお金)」から始まるお金の歴史や種類、その他展示物や海外のお金の紹介などがされています。また、中には実物がココ大阪に一つしかないという貴重な金(竹流金)や、豊臣秀吉が鋳造した世界最大級の金貨(天正長大判)なども展示されています。お金の種類があまりに多いので、最初はココでは省略します。詳しくは、同館を訪問するか、HPでご確認下さい。余談ですが、織豊政権期〜江戸時代に作られた楕円形の大判小判の類は、主要国の中では日本にしかないらしいです。

訪問当初は1時間位で見て回れるだろうと思いましたが、じっくり見て回ってみると1時間では全然時間が足りません。大学の友人N氏も同博物館へ来たことがありますが、やはり同意見でした。じっくり展示物を見て回りたい場合は、もっと早くに伺わなければならないようです。次回の訪問はは、桜の通り抜けの時期でしょうかね……
開館時間は、9時半〜4時半、入館は閉館の30分前まで。
休館日;土、日、祝日、年末年始(都合により臨時休館する事有)
入館料;無料



平成18年3月7日(火)  大阪“小”観光 百舌鳥編
観光好きな大学の友人N氏と今度は中百舌鳥(なかもず)へ観光に出かけました。今回は堺市の大仙陵古墳(一般的に仁徳天皇陵仁徳陵古墳とも呼ばれる)を中心に古墳巡りが主な観光です。

地下鉄御堂筋線なかもず駅で集合して、いつものように徒歩で散策。すぐ隣には、南海高野線中百舌鳥駅がそびえ立っているので、さり気なくチラ見しながらまずは府道28号線沿いに南下。中百舌鳥駅から西南西の方角に鎮座されてる、百舌鳥八幡宮が最初の観光地です。駅から歩くこと約10分くらいでしょうか。

百舌鳥八幡宮は第15代応神天皇を主祭神とし、神功皇后(仲哀妻)、仲哀天皇(第14代)、住吉大神春日大神を配祀されています。 所伝によれば、神功皇后が外征からの帰りにこの百舌鳥の地で、幾万年の後まで天下泰平を祈願され、第29代欽明天皇治世時にこの地を万代(もず)と称し、神社を創建してお祀りされ、後の第77代後白河天皇治世時に京都の石清水八幡宮の別宮になったと伝えられています。
境内には、樹齢約800年にもなる大楠が社前にそびえ立っており、大阪府指定天然記念物にも指定されています。

毎年、中秋の名月の日にはふとん太鼓が繰り出す「月見祭」が催されています。大小合わせて17基のふとん太鼓が登場されます。

また、大相撲の追手風部屋が、大相撲大阪三月場所に際して、百舌鳥八幡宮を宿舎としています。訪問時には、偶然にもその宿舎を見つけましたが、あいにく力士の方々は外出中だったようで、けいこの様子は見れませんでした。去り際に、ふと自転車に乗った力士が一人すい〜っと走ってきて何処ぞへ行ってしまいましたがね。

百舌鳥八幡宮の東隣に、光明院があります。
寺伝によれば、729(天平元)年に光明皇后(藤原不比等の娘)の発願により、行基の開基によるものとされています。1743(享保十七)年に神鳳寺の末寺となりました。
境内には水掛観音も鎮座されていました。なかなか見かける事もなかったので、写真を撮ってしまいました。
勿論、水をかけて祈願しましたよ。

百舌鳥八幡宮から府道197号線を少し西進したところに、御廟山古墳(ごびょうやまこふん)を発見しました。前方部分を西に向けた形をしている前方後円墳です。百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)では4番目の大きさの前方後円墳です。

百舌鳥古墳群とは、大阪府堺市にある古墳の集まりを指し、同じく大型古墳が密集している、大阪府羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古市古墳群(ふるいちこふんぐん)とともに、巨大な前方後円墳を擁する古墳群として知られています。4世紀末ないし5世紀初頭から6世紀後半頃に作られた古墳が分布しており、大仙陵古墳ミサンザイ古墳など大型の前方後円墳があることで知られています。かつて100基以上の古墳が存在したとされてますが、第二次大戦後に宅地開発が急速に進んだことにより、かなりの数の古墳が破壊され、現存するのは50基に満たないそうです。

御廟山古墳から西進すると、JR阪和線百舌鳥駅にぶつかります。
駅前の踏切を渡ってすぐ左手に向かえば、交番の隣に長塚古墳がお目にかかれます。百舌鳥駅から南西にすぐの所にあり、西を向いた前方後円墳です。実は周濠もあるのですが、すでに埋没しており、墳丘の周りは住宅に囲まれています。そのため、その名残を臨むことは叶いません。

写真を撮ろうとしても、木々の茂った丘にしか見えません…

長塚古墳から北へ向かえば、今回のメインディッシュ的存在である、大仙陵古墳の登場です。前述しましたが、一般的には仁徳天皇陵仁徳陵古墳と呼ばれています。御存知のように、日本最大級の前方後円墳で、クフ王のピラミッド、秦の始皇帝の墓と共に世界三大墳墓の一つと言われたりしています。北側にある反正陵古墳(田出井山古墳)、南側にある履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれており、「百舌鳥耳原中陵(もずみみはらなかのみささぎ)」とも呼ばれたりします。最大級の古墳にふさわしく、周囲に陪塚と思われる古墳が10基以上あります。

1872(明治五)年に、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が出、刀剣・甲冑などが出土されました。この時の出土品は再度埋め戻されたと言われていますが、その詳細な絵図の記録が博物館にあるので、その内部の様子を眺めることが可能です。

一般的に仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中両帝の在位順とは逆に、履中陵古墳よりも後で築造されたことが判明しており、また実際に仁徳天皇が埋葬されていたか疑問もあるため、最近では大仙陵古墳と習う事が多いのではないかと思われます(若しくは伝仁徳天皇陵として)。
ちなみに、管理人は「大仙陵古墳」と学校で習った気がします。

仁徳天皇陵から南へ向かうことすぐの所に、竜佐山古墳があります。西向きの前方後円墳であり、仁徳陵古墳の陪塚ではないかと考えられています。
仁徳陵を見た後だと、どうしても大きさを比べてしまい、小さいなあ……と思ってしまいます。

大仙公園を通って南へ向かうと、履中陵古墳があります。百舌鳥耳原三陵の一つで、南側にあるので「百舌鳥耳原南陵(もずみみはらみなみのみささぎ)」とも呼ばれたりします。巨大な前方後円墳で、日本で3番目に大きい古墳です。同古墳の周囲に10基以上の陪塚があったことが判明しているのですが、現在では七観山古墳の出土資料などから、仁徳陵古墳より古くに築造されたことがわかっています。

また、江戸時代の記録によれば、後円部中央に大きな窪みがあったといわれていることため、既に盗掘に遭っている可能性があります

道路を挟んで履中陵古墳のすぐ北方に七観音古墳があります。まるっこい形をした円墳で、履中陵古墳の陪塚とのことですが、整備されて元の古墳の形と変えられているらしいです。……ちょっと残念な気がしました。

七観音古墳から大仙公園内へ入り、歩道を歩いていると、旗塚古墳を見つけました。全長約56m、後円部径約45m、高さ約3.9m、前方部幅約18mという、前方部が短い前方後円墳で、帆立貝形古墳と呼ばれたりします。二段築成で前方部を西に向けた形をしており、盾形の濠がめぐらされてあります。本格的な調査は行われていないので内部構造など詳細は不明であるのですが、葺石と埴輪があり、円筒・朝顔形埴輪や盾・蓋(きぬがさ)等の形象埴輪も出土しています。

旗塚古墳からすぐ西側に目を向ければ、グワショウ坊古墳が目に入ります。直径が約58mもある大形円墳で、墳丘は二段築成と考えられています。その周りには濠がめぐらされてあり、葺石と埴輪があります。旗塚古墳の時と同じく、主な構造など詳細が不明な点はありますが、仁徳陵古墳の陪塚とされている径60mの大安寺山古墳(仁徳陵古墳の北側の円墳)に次ぐ、全国でも有数の大型円墳ですが、仁徳陵古墳や履中陵古墳の陪塚ではないようです。
―――というか、何でこんな名前にしたんだろ……?

最後に訪れたのは、仁徳陵古墳の北東側にある、源右衛門山古墳です。仁徳陵古墳の倍塚の一つなのですが、周囲を金網に囲まれており、且つ住宅街の中にこじんまりとあるので、なかなかいい角度で写真が撮れない(汗)。やむなく右のような写真に……(泣)

ここまで来ると、すぐ近くにJR三国ヶ丘駅があり、ふと時計を見れば時間も時間という事で、本日の古墳巡りを終了する運びとなりました。

改めて撮影した写真を見てみると、どうみてもちょっと緑の多い公園の一部にしか見えないですね……。やはり、航空写真でないと判りづらい感じですか。そりゃあ、日本の上空を飛ぶ米軍が空から見て初めてその古墳の形に気付いたらしいですからね…日本人ですら近年までその形を知る人はほとんど居なかった訳で。何でこんな形にしたんやろ……?



平成18年3月1日(水)  献血三昧
またまた空き時間見つけて献血行ってきました。わざわざ京橋の献血ルームまで出向いて。余程の事情が無い限りはココでいつも献血しているので、いわゆる常連と化しています。他の所でも献血は可能ですが、私の場合は以前違う所でした際に、うまく針が刺さらず失敗した事があります。

そのトラウマ(?)が有るのか無いのか、できれば行き慣れた所の方が良いとの判断で、通算で一番実施回数の多い京橋へ行くのです。ちなみに、第二位は守口、第三位は奈良です。何処で献血しても何も変わりないんですがね……

今日で献血回数は41回になりました。今年頑張れば今冬には大台(?)の50回に到達しそうです。自分の限界まで提供続けるとなると、一体あと何回できるでしょうか……



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