| 平成18年2月26日(日) 大阪“小”観光 成田山編 |
私の地元の京阪香里園駅から東方へ歩いていくと、「成田山不動尊」がそびえています。成田山不動尊は昭和九年、関西の信者の熱い要望を受け、千葉県にある成田山新勝寺の大阪別院として寝屋川市香里の丘に建立されました。現在、成田山といえば「交通安全」の御利益で有名であり、年間で約20万台の車の祈祷がされているそうです。また、2月3日の節分の時に催される「節分祭」では、各界の芸能人らが豆撒きを行う行事が恒例となっています。地元を走る京阪電鉄のイメージキャラクターの“おけいはん”も他の著名人と並んで豆撒きをなされています。
私は観光の一環で同所へ伺いましたが、観光で伺う場合は駅から徒歩で向かうのをお薦めします。駅からの道中に友呂岐神社がありますし、坂を昇り降りするので、香里の丘の上にそびえているのが目と足で感じられます。友呂岐神社は、正月に伺うと、御神酒をいただくことができます(確か無料)。また、成田山は交通安全で有名ですが、同所へ向かう道路は国道に比べると少々細く車の往来も多いこともあるので、そういう場合は注意が必要です。 …まあ、私が伺った日時のせいかもしれませんが。 |
| 平成18年2月22日(水) 大阪“小”観光 大坂城編 |
今まで京都をメインに観光していましたが、(よくよく)考えてみると、大阪府民なのに大阪観光してへんやん、という事が発覚してしまいました。じゃあ、どっか行こうと思い、大学の友人N氏と密談(?)を重ねた結果、大阪のシンボルの一角、「大坂城」へ行こうとの結論に至り、都合のついたN氏と同城へ観光に出向きました。大坂城なんて何年ぶりでしょうか。
観光なんて、小学生時代に遠足で行って以来の気もしますが……。ちなみに、大“阪”城が一般的ですが、本来は大“坂”城なので、ここでは“阪”でなく“坂”と表記します。
JR大坂城公園駅を下車し大坂城ホール前を通過して青屋門から入場。ふと左手に目をやると、梅林が広がっています。伺ったときには、ちょうど赤色や白色の花が咲いておられます。各所でその綺麗な花を狙ったカメラマンたちがあちこちでシャッターを押しています。不肖管理人、花に関してはとんと疎い所があるのですが、あまりに写真を撮る観光者たちの多さにつられて混ざって梅の花の写真を撮ってしまいました。 そのうち一番写りのええモノを載せております。たまたま撮影時に花粉を頂戴している蜜蜂を発見したので、花粉採取時を狙ってシャッターを押しまくりました。
ちなみに、私は高校時代に電車の中で蜜蜂に刺されるという珍事(?)に遭遇しております。今でも覚えていますよ、あれは痛かった……
梅林を過ぎると坂手にかかり、坂を上ると左手に大きな石碑のようなんがそびえ立っています。「石山本願寺跡」です。元を辿れば、豊臣秀吉が建築した大坂城の前には、石山本願寺がここにはあったのです。上町台地北端部に構え、第11代法主本願寺顕如光佐率いる、一向宗(浄土真宗)の拠点でもあり、織田信長が討伐に約11年もかけたという話は著名であります。本願寺はその後秀吉の手により復興し、大坂から京都に移り、徳川家康時代に西本願寺・東本願寺に分裂して現在に至ります。
更に南へ少し下ると「豊国神社(正しくは、豊國神社)」が見えてきます。当然祀られているのは大坂城を建立した、太閤豊臣秀吉の他、実子の豊臣秀頼、大和大納言と呼ばれた弟の豊臣秀長の三公が奉祀されています。
明治六年に京都に本社を造営、後に同十二年に大坂に別社として創建されました(現在とは位置が異なる。)秀吉といえば、足軽の地位から権力者にまで登りつめた、立身出世の代表格でありますが、祀られているのが秀吉なだけに、同神社の御祈願の内容には一番最初に“出世開運”が最初に目につきます。ところで、豊臣家の家紋は桐紋であり、特に“太閤桐”というのが有名だと思います。元々、桐紋は皇室の副紋として格式高い紋章です。後醍醐天皇が足利高氏(のち尊氏と改名)に自身の名「尊治」の「尊」の字と副紋である「桐紋」を下賜され、尊氏は拝領した桐紋を吉良、細川、今川、山名などの各足利一門に分け与えたのを機に広まりました。
秀吉も同様に朝廷より桐紋を下賜されましたが、これを愛好するだけでなく多くの将士に分け与えて大いに普及させました。しかし、菊に次いで名誉ある桐紋なだけに、所望する将士が増え、そのうち盗用が出てしまう事態まで起きてしまい、これを機に秀吉は禁令を発し無断使用を禁じました。天正十九年に発した「菊桐禁止令」のことです。…まあ、義務教育上は登場しないので、覚えなくて良いでしょう。 また、同神社内には白玉神社と若永神社が境内社として鎮座されてます。元はそれぞれ別の場所にあったのですが、前者は明治十二年に、後者は昭和二年に境内社として遷座されました。
豊国神社を退出した後、桜門を渡って天守閣へと向かう前に、大阪城の正門、大手門と多聞櫓を眺めに行きました。…正確にいわば、チラ見程度でしたが。大手門は古くは“追手門”と書かれていたらしく、創建は1628(寛永五)年、高麗門様式だとのこと。修復・解体修理はあったものの、ほぼ旧時の姿をとどめているのです。 多聞櫓は、正式には大手口桝形多聞櫓と呼ぶらしく、京橋口・玉造口・桜門・極楽橋等にも多聞櫓があったのですが全て焼失してしまったため、現在大阪城内の多聞櫓はここしか現存していないそうです。
見物した後、引き返して桜門へ向かいます。桜門は大阪城本丸の正面入口にあたり、天守閣が真正面に拝めます。“桜門”という名称は、豊臣時代以来のだそうで、この付近に桜並木があったのでそのように名付けられたらしいです。 桜門をくぐりぬけると、いよいよ天守閣の面前に到着しました。手前の広場には観光客でいっぱいでした。 ところで、現在拝める大阪城は豊臣秀吉建築のものではなく、第2代将軍徳川秀忠主導の徳川幕府によって再興が成されました。大坂夏の陣の後、大坂は家康の外孫松平忠明に与えられましたが、すぐ後に幕領となり秀忠の手で再建工事が始まり、第3代将軍家光治世時に完成しました。現在秀吉時代の遺構は石垣一つも見ることはできません。が、昭和時代の再建工事の際、地中深くに秀吉時代の石垣が発見されたため、廃墟同然の秀吉の大阪城を土台にし、豊臣家の遺構が伺えないよう、その上から徳川幕府による再建がされたと思われます。また、同時に徳川幕府の威光を誇示するため、江戸城よりも大きく創建されたらしいです。 現在の大阪城天守閣は、ハイテク工事による改修が成され、その内部は完全なる博物館化しているため、ある意味では古きよき時代の名残が薄く感じられるのも否めないのですが、その外観は当時の面影を残したまま我々に歴史を語りかけているのです……、きっと。 |
| 平成18年2月18日(土) 京都 |
一日時間があったので、大学の友人N氏と久々に『歩行会』を発足させて京都を歩き回りました。今回は京都の今出川通付近を中心に行動開始です。毎度ココに記していると思うのですが、基本的には我々が観光をする場合、事前に行き先をあえて決めず当日の気分でおおまかな場所を決めて行動します。今回決めた方角は衣笠方面、鹿苑寺金閣へと向かう予定。道中で神社や寺院を見かけたら、あわせて観光するというミニアドベンチャー的感覚で行動開始です。尚、今回は“小”観光ではないため、小に修正線を入れてあります。特に意味ありませんが…
京阪出町柳駅から真西へ走る今出川通を西進し、まず最初に訪問したのは堀川今出川交差点から東北東方面すぐのところにある、「白峰神宮」。知る人ぞ知る、球技全般の守護神がいらっしゃるという事で、芸能上達を目指す人に崇敬されています。平安時代、この地には蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅があり、その邸内に鞠の神である精大明神(せいだいみょうじん)が祀られて代々尊崇されてきました。神社に入って右手には「蹴鞠(けまり)の碑」があります。写真の碑の丸っこい鞠は「撫で鞠」と呼ばれ、この鞠を回すと“球運”が授かるそうです。参拝方法はHPや当神社に書かれてありますが、まず「精大明神」を二拝二拍手一拝の作法で参詣し、その後この撫で鞠を一回回すと球運が授かるとされています
(但し、回す時に手や指を詰めないよう注意)。スポーツ上達を願う方は是非に参拝に訪れればよろしいかと思います。
更に西進して次に伺ったのは、今出川智恵光院交差点を北へ上ってすぐ左の所にある「首途(かどで)八幡宮」。場所が平安京の大内裏の北東に位置するために王城鎮護の神とされ、「内野八幡宮」とも呼ばれていました。応神天皇、比売大神(ひめおおかみ)、神功(じんぐう)皇后が祭神として祀られています。当地には、平安時代の伝説上のっ商人、金売吉次(かねうりきちじ)の屋敷があったとされ、源義経が奥州平泉に出発する際に、道中の安全を祈願したことに由来すると言われてます。“首途”とは「出発」の意味で、これを由緒に「首途八幡宮」と呼ばれるようになったそうです。
この故事より、旅行の安全を祈願する信仰があります。「源義経奥州首途之地」と書かれた記念碑が同宮内に立ってあります。
ちなみに、同宮のシンボルとして、鳩があしらわれています。御守りや絵馬などには白い鳩の絵が描かれています。 智恵光院通の一筋西側を走る浄福寺通を今度は北へ登っていきます。北の方はちょっと一昔前のような景観を拝む事ができます。……が、個人的には電柱の存在がやはり邪魔です。何年か前に、京中の街並の景観を守る為に、電柱を廃し電線を地下に埋める計画があると聞いた事あるのですが、かなりの時間や経費、労働力がいるようでなかなか進展していないらしいです。
でもそれを言い出したら、道路のアスファルトも不要だということになるのでしょうが、そうすぐには実現されないでしょうね。今出川浄福寺交差点を北へ上り小さな十字路で右折すると、「雨宝院」という寺院があります。西陣聖天とも呼ばれています。山号を北向山とする古義真言宗の寺院です。平安時代初期、嵯峨天皇の御悩平癒を弘法大師(空海)が等身大の歓喜天像を造って祈願し、その功績によって大師は天皇の別荘であった時雨亭(しぐれてい)を賜り、雨宝堂(大聖歓喜寺)としたことに由来するとのこと。本堂の前にある桜は「歓喜桜」と称される御室桜と同種の八重桜で、開花時には根元から花をつけるそうです。勿論、満開の花が見れる時期ではない時に訪れてしまいましたが。
雨宝院のすぐ近くに「岩上神社」という社があります。私が今まで見た中で一番小さな神社かと思います。「岩神さん」として祀られている巨石があるのが特徴です。子供に化けて悪さをしたという伝説から、禿童(かぶら)石とも呼ばれています。元は二条堀川付近にあったらしく、後水尾天皇の女御である中和門院の御所に移したところ、怪異が起こるようになったので、真言宗の僧がもらいうけて、この地に岩神寺を建立し祀ったとされています。しかし、同寺は江戸時代に起きた大火により荒廃、明治時代にには廃絶してしまいました。現在は巨石のみが残されています。
浄福寺通を北上すると寺之内通にぶつかります。寺之内通を西進して最初の交差点を右折すると、少し先に「称念寺」という寺院を見つけました。同寺は「猫寺」として有名な所です。その起源は、1606(慶長十一)年、徳川家康の異父妹の子である松平信吉の帰依を得て、嶽誉上人によって開基された浄土宗に属す寺院です。当時の三世還誉上人の愛猫がある名月の夜、お姫様に化けて本堂の縁側で舞をまって、寺を興隆をさせた伝説によって、「猫寺」という愛称が誕生したそうです。境内にある老松はその愛猫を偲んで、伏した猫の姿になぞられて植えられたものらしいです。同寺では動物供養もなされているようです。ちなみに管理人は動物の毛がダメなので、生涯動物は飼うつもりは無く、動物供養とは無縁であります。
猫寺から寺之内通へ戻ってひたすら西進して、西大路通へ出ると少し北上した所に「わら天神」がありました。わら天神は正しくは「敷地神社」といいます。創祀時期は不詳。かつては北山の神と呼ばれ北山天神の丘にあったそうですが、足利義満の北山殿造営時に今の地へ移転したと伝えられています。当所は安産の神として有名で、藁(わら)の護符が授けられ、その藁に節があれば男の子、無ければ女の子が生まれるといわれています。「わら天神」の名称はコレにちなんでいるのです。
わら天神からほぼ北へ向かうと、当初目的地と設定していた「金閣寺(正しくは鹿苑寺)」に到着。金閣へ来るのはかなり久しぶりです。有名所なので、我々が到着した時、観光客がかなりいました。予想はしていましたがやはり有名所はすごいと思いました。外国人ぽい人も結構いました。文化の違いからか、かなり興味深げに見物しているようでした。「金閣寺」の名称で有名な鹿苑寺は1397(応永四)年に足利義満が造営した北山殿が起源で、彼の薨去後に禅寺となりました。通称の金閣とは舎利殿のことをいいます。寺名は義満の法号である“鹿苑院殿”から取って名付けられたものです。
同様に、義満の孫である足利義政が造営した銀閣寺の正式名称「慈照寺」の名も、義政の法号である“慈照院殿”から取って名付けられたものです。話を戻しますが、創建時の金閣は1950(昭和二十五)年に焼失してしまい、同三十年に再建が成されました。1層は和様寝殿造で法水院(ほうすいいん)、2層は和様武家造で潮音洞(ちょうおんどう)、3層は禅宗様仏殿造で究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれています。御存知と思いますが、2層と3層は漆の上から純金の箔が張られてあり、屋根は椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねた、こけら葺で、上には中国ではめでたい鳥としていわれる鳳凰が黄金に輝いています。
久々に訪れた金閣を十分満喫した後、金閣寺前から龍安寺、仁和寺へと延びる“きぬかけの路”を歩いてこの日最後に訪れたのは「等持院」。立命館大学の裏側に位置する寺院です。同寺は前から来て見たいとは思っていたのですが、なかなか時間がなくて断念していたのですが、今回ようやく訪問叶いました。閑静な住宅の中に同寺があるので、のんびり見て回れます。等持院は臨済宗天龍寺派の寺院で、禅宗十刹の第一位。1341(暦応四)年に足利尊氏が天龍寺の夢窓疎石を開山として、衣笠山南麓に創建しました。足利氏の菩提寺である等持寺の別院として建立されたのですが、
後に尊氏の法名「等持院仁山妙義」に伴って寺号を等持院と改め、等持寺も合併され、足利将軍家歴代の廟所となったのです。過去に幾度と災禍に見舞われたため、現在の伽藍は1818(文政元)年に三度目の復興がなされた際に建立されたものが中心となっています。境内にある霊光殿には、尊氏が念持仏として信仰していた地蔵尊を本尊とし、達磨大師と夢窓疎石の像が両脇に祀られており、歴代足利将軍木像(義量と義栄の像を除く)が徳川家康木像と共に両側に安置されています。家康木像は42歳の厄除けの霊験を受けたもので、石清水八幡宮豊蔵坊にはじめあったものですが後に等持院に移されて現在に至ります。教科書や資料集などで見かけたりする足利将軍木像の写真が生で見られたのです。初代尊氏から順番に見ていくとなかなか一人一人個性ある形していて面白いです。ここでは掲載できませんが、後日別記しようかと計画中です。
また寺院内には庭園があり、実際に歩き回る事が可能です。庭の中央には尊氏のモノと伝えられる墓があります。ちなみにこの庭園も夢窓疎石作だと伝えられています。
等持院を見回るともう日が暮れてしまったので観光はここで終了。そのまま競歩に近い徒歩で京阪出町柳駅まで一気に東進しました。等持院から出町柳駅までの所要時間1時間弱。帰宅後地図を見て今日一日の行動を追ってみると、単純計算で総移動距離は約16キロ。記憶の中では、興味本位で寝屋川香里園駅から宇治手前木津川まで歩いた総距離23キロに続く歴代2位に輝きました。……まあだからといって何もありませんが。 |
| 平成18年2月17日(金) 京都“小”観光 〜一条堀川編〜 |
前回に続き、短時間ミニ観光第2回。夕方頃に今度は近年ブームにもなっていた、清明神社へ行きました。清明神社といえば安倍清明、安倍清明といえば陰陽師です。何年か前にマンガや映画などでブームになってましたが。御存知だとは思いますが、安倍清明は平安時代の陰陽家、いわゆる占い師のような職をしていた人物であります。幼少の頃より非常に賢明で、特に天文学の道を深く極め、自由に操れる霊術を身につけていたとされています。成人となった後に天文陰陽博士として活躍、天皇の側近として仕え、数々の功績をたてられたそうです。 清明神社は清明の屋敷があったところとされ、活動の拠点となった場所だったとのこと。昔はかなり広大な敷地があったらしいですが、応仁の乱以後、豊臣秀吉の洛中整備、江戸時代の度重なる戦火によってどんどん規模が縮小されて社殿も荒廃していったそうです。その後、幕末〜戦前にかけて改修工事が成され少しずつ復興していき、さらに近年のブームにより全国区に知られるところとなったようです。詳しくは、現地訪問もしくはHPを参照ください。 清明神社で最初に目に付くのは、やはり「一條戻橋」でしょう。元は清明神社の南方約100mの場所にあり、現在神社の入口の近くに再現された橋があります。これは近年まで実際に使用されていたご親柱を用いて再現されたものだそうです。この戻橋は、あの世とこの世をつなぐ橋とされています。文章博士三善清行が蘇生した場所であり、源頼光の四天王の1人渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所でもあります。紫式部の著書『源氏物語』でも「行くは帰へるの橋」とも歌われており、歌舞伎などの舞台ともなっている有名な橋です。この橋の下に、一般の人には見えないという式神を、石棺に封じて隠したとされています。現在でも「戻る」というのを嫌って、入嫁や葬式の際の行列はこの橋を渡らない慣わしになっています。 残念ながら、撮影した写真が紛失してしまいました(泣)。また再度足を運んだ際に撮影してきます… |
| 平成18年2月15日(水) 京都“小”観光 〜伏見編〜 |
久々の更新となります。遅れてしまい申し訳ありません。まず最初に謝罪の弁をかけさせていただきます。
![]() 今週は今年なかなか叶わなかった京都観光を、暇や都合のいい頃に、短時間でやってしまうという、いわゆる京都“小”観光を強行しました。想像するにまかせますが、あまりに短時間なので1箇所だけ拝観して帰宅する(正確には、1箇所しか伺えない)という、観光とはいえないような行為をしてますが、今週はこんな事を何度か強行してしまいました。第1回目の本日は、今年未だ行けていなかった「伏見稲荷大社」へ直行しました。
伏見稲荷大社といえば、全国津々浦々散らばる稲荷社の総本山であり、商売繁盛の御利益があるとして有名ですが、その他の有名所といえばやはり「千本鳥居」でしょうか。管理人、今まで初詣兼寺社観光の中で毎年正月に訪れていた神社の一つですが、本殿へお参りしただけで、いつも「千本鳥居」のことを忘れてしまっていたのです。今回は今まで散々忘れていた「千本鳥居」にも遂に足を運ぶことが叶いました。
本殿の裏の方へ向かうとその「千本鳥居」がお目にかかることができました。テレビや本などでも見かけた、あのずら〜っと並んでいる鳥居です。鳥居の柱の部分を読んでみると、建立年月日と名前が彫られています。商売繁盛の神様がいらっしゃるため、企業名や会社の重役の名が連なった方々の名がたくさん見かけられます。古いのでは石の鳥居で幕末くらいの年号が彫られてあったりします。明治時代の建立であれば、旧字体の「曾」の字が使われてたりします。おお〜歴史の勉強になりますわあ。
ところで、実はあの鳥居はお金を出せば自分の名前や企業名を入れて奉納することが可能です。勿論、大きな鳥居は相当なかなりの額がかかるようですが、手持ち可能なくらい小さな鳥居は一万円もかからない値段で奉納出来ます。その際に筆で自分の名を入れ、決められた所へ奉納します。…ちょっとうろ覚えな点も否めないので、詳しくは一度確認してみて下さい。千本鳥居を通りすぎると奥社奉拝所に到着します。その右奥には“おもかる石”があります。予想した重さより軽ければ願いが叶い、重ければ難しいというお試し石です。こういう占い的なものは、女性客にすごく人気があるようですね。私が伺った時も観光客で群がってました。
左手には稲荷山の方へ向かう鳥居があり、さらに道が続きます。その先には新池(熊鷹社)、三ツ辻、四ツ辻へと歩きました。この辺りまでは割と平坦な道が続きますが、四ツ辻からは稲荷山を上り下りするような道が続いて一周できるようになっています(詳しくは同大社HP参照)。一周するのに最短でも30分はかかります。ちなみに稲荷山の最高峰は一ノ峰(上之社神蹟)という所で標高233メートルあります。ここまで向かうのにかなりの階段をひたすら上ります。私の体験の中では、鞍馬に匹敵するくらいの坂や階段を上るので、体力の無い人はかなり辛いかもしれないです。
最後に余談ですが、伏見稲荷大社の神紋は「抱き稲紋」です。私が思うに、諸説ある“稲荷”の由来の一つであるとされる、稲の生ったところ、つまり、「稲生り→稲荷」からきているのかもしれないですね。稲紋は、身近なところでは、穴あき五円玉に描かれている“水に稲穂”紋がよく知るところでしょう。神紋は我々でいうところの家紋みたいなもんです(たぶん)。管理人家の家紋は柊をあしらった紋で、「丸に抱き柊」紋というやつです。自分の家の家紋が知りたくなったら、手っ取り早く確認する方法としては、自分の(直系の)先祖が眠る墓地に行けばわかります。墓石に紋が彫られていますからね。ちなみに、日本の家紋に関心を持った欧州の某ブランド会社が、自社のロゴマークに家紋をモチーフにしたマークを作ったというのは有名な話です。 |
| 平成18年2月12日(日) 第16回ハローフェスティバル | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私の生誕地である大阪府守口市で守口市民音楽コンサート「第16回ハローフェスティバル」が催されました。私が以前守口市に住んでいた時は毎年音楽を聴きに行っていたんですが、転居してからはとんと御無沙汰で久しぶりに故郷の演奏会に足を運んでみました。同コンサートには、私が嘗て通っていた中学校の吹奏楽部も毎年登場していました。ちょっと昔話すると、私は中学卒業後も恩師や後輩らに会いに、よく母校訪問してました。暇があれば週一のペースで母校に行ってましたね、確か。近年はお世話になった恩師が転勤なさり、知っている先生がいなくなったのと、全国各地で起きていた不審者による事件のせいで自由に母校訪問も叶わなくなりましたが…。 さて、本題に戻すと、バドミントン部所属だったので、てんで中学の吹奏楽部とは縁がありません。でも、同級生の友人がいたのと、顧問が面白教師だったので、結構卒業してからも友人と度々母校訪問しては恩師と談笑したり後輩とだべったりしてましたね。でもそのおかげで、年の近い後輩は元部員の先輩のような待遇をしてくれてましたが。でも母校の後輩が出演しているといえども、私は卒業して約10年にもなりますので、当然の如く知人らしき人は皆無でした。観客席にも同級生らの顔は見かけませんでしたね…。 さて、本日のプログラムを拝見してると、市内の学校はほとんど他校と合同演奏で出演しています。個人的推測では、少子化による部員不足若しくは他校との音楽による交流の一環、或はその両方かもしれませんね。 ちなみに、オープニングは守口市・門真市消防組合消防音楽隊による演奏で始まります。そして、エンディングには出演者全員による合同演奏をしてコンサート終了となります。これだけは毎年決まっていたと思います。 以下は、出演団体と演目です。誤字脱字あらば申し訳ありませんm(_ _)m
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| 平成18年2月5日(日) ラーメン巡り日記・再開編 |
古巣の友人コア氏と守口で再会して、ラーメンを食べに行きました。今回は沿線沿いにある「びっくりラーメン」へ行ってみました。地元にあるのに一度たりとも行った事がなかったんで、ちょうど良かったです。しかし、別のラーメン仲間と話した時、たぶん好かない味かもしれんと言われた事があります。何のことか…と思って食べてみると、答えがわかりました。 管理人は結構こってり味好みなのですが、同店のラーメンはかなりのあっさり味的風味だったのです。話をしていた友人もこってり味好みなので、こってりに舌が慣れてあっさりは物足りないとの判断なのです。私もこってりばかり食べている為か、今回のあっさりラーメンは物足りない感が否めませんでした。 こうやって、色々なラーメンを食べて個人的感想をチラッと掲載したりしてますが、あっさりでも全く問題ない人もいるので、ラーメンの好みに関しては御自身の舌で確かめてもらうのが一番でしょうね。あまり、管理人を参考にしないで下さい(汗) …余談ですが、食べたラーメン、麺がまだ十分茹でられておらず、堅かった気が…… |
| 平成18年2月3日(金) 噂の真相 |
| 先週、初めてスキャンダル的パパラッチに騒がれた、ナイナイのO氏(今更意味ないが、個人的好みでワザとイニシャルにしておく)。昨日の木曜25時から放送のオールナイトニッポンで全ての真相を激白なされました。ラジオでは、高いテンションのテレビとは異なる、ほぼ“素”の状態で話をするので、同氏の本音が聞けるわけです。録画セットに放送必聴ものでしたね、コレは。……ま、私は毎週録音しながら聴いてますけど。 先週、O氏がフ○イデーに激写されたという事で、リスナーである私としては、どんな内容なんだと気になり読んでみました。…思えば、管理人、この雑誌を読むのは初めてですねー。テレビで芸能ニュース見れたらそれでええ的な性格ですから。 リスナーとしては、今後の展開が気になるところですが…。また何ぞあればラジオで言ってくれるでしょう、たぶん。 |
| 平成18年2月2日(木) 献血40回達成 |
| いつものように、暇をみつけて京橋で献血してきました。何故かわかりませんが、ここで献血するのが常連化してきています。特に何を話すなんてこともないのですが、遂に献血総数が40回となりました! どうなんでしょう、回数としてはかなりのものなんでしょうか。自慢してもいいくらいの回数なんでしょうか。といっても、自慢しようがありませんが…… あと10回献血すると、献血総数50回となり、記念品授与がなされます。過去に10回、30回の時にガラス細工の器みたいなのを拝受いたしましたが、50回目となるとどんなものなんでしょうか。順調にいけば、今年度末に贈呈してもらえそうな勢いです。 更に頑張って献血提供すると、70回目になると、その功労に対して有功章の表彰があるそうです。管理人の目標としては、当面は50回としていますがどんどんハードルを上げていきたいですね。 |