書記

平成18年8月期分

気まぐれ管理人の独り言の羅列板。
毎日汗だくでダシがとれそうですわ……



平成18年8月25日(金)  定期券
今日、我が生まれ故郷である守口市へまたまた行き、そのついでに京阪守口市駅で定期券を購入しました。同駅は近年、しばらく見ない間に東口改札付近を改装工事をし、綺麗になったんですわ。さすがは守口ですわ〜(故郷びいき)

定期券を購入してはっと気付いたのですが、定期券の色が変わってました!なんと黄緑色っぽいのです。また、少しですが、定期券に書かれている文字の大きさや配置も少し違ってました。京阪電鉄の定期券は確か白色っぽいデザインのやつです。私が初めて定期券を利用し始めた高校時代からずっと白色っぽいものだったはずです。先月自宅の最寄駅で購入した時は、定期券は高校時代からと同じく、変わらず白色っぽい券でした。

ひょっとして今月からデザインが変わったのでしょうか…。でも、そんな話は一言も聞いた事はありません。それともひょっとして守口市だけのオリジナルデザインなのか……?駅構内一部を改装工事した際に、定期券のデザインも改めたのでしょうか。ナンバーワンよりオンリーワンを選んだという事なのか…(?意味不明)。えー、京阪電鉄定期券を利用されている方々、皆々様の定期券はどないですか。他の定期券売場でも配色が変わってたりするんですかね…。何ぞ事情を御存知の方、こうではないかと妄想(?)を立てておられる方、良ければチラッと聞かせて下さい。まあ、重要な事ではないですがね……
ともあれ、ちょっと新しい発見をした気分になりましたよ。

余談ですが、駅に隣接していたコンビニはリニューアルされ、「Plug-in(プラグ・イン)」という、コンビニ+ドラッグストアという新しい形のコンビニに生まれ変わってました。また、プラグ・インの隣にはユニクロが新しく登場しました。関西初の”駅ナカ ユニクロ”となる第1号店だそうです。さすが、新しい事にどんどん挑戦しているという訳ですか。


最後に、全く関係ありませんが、私のHNをTRD→播磨小路に変えさせていただきました。プロフィールの所をチラ見して頂いた方はお気付きになられたかと思います。これ、何となく名前っぽく聞こえるでしょ?変更理由はソレだけです(笑)
今後とも、変わらず宜しくお願い致します。



平成18年8月22日(火)  管理人 vs 自販機
仕事場での休憩中の出来事です。
食堂の端の方に喫煙室があり、その隣に自販機が4台並んでいるのです。その自販機のうち3台はポリエチレン・テレフタラート製のボトル、略してPETボトル&紙製のパック、略して紙パックの飲料水が並んでいます。そして最後の1台は紙コップの飲み物が出てくる奴です、若干値段が安い(最低価格70円位)アレです。事件はこの紙コップの飲料水の並んだ自販機で置きました。

この紙コップの並んだ自販機の中から、私はカフェオレの飲み物を選び、お金を入れてボタンを押しました。大概の紙コップの並んだ自販機は、中で紙コップがおちてきて、次に氷やら砂糖やら飲み物が入れられ、完了したら取っていいですよ的な合図(ランプが消える等)があるのが普通ですよね。ここの自販機は小さな自動扉が付いていて、注文の品が完成したらその扉が開いて、中から注文した飲み物が出てくるのです。

しかし、この日は違いました。自販機内で準備がされている音はしますが、いっこうに待っても扉は開きません。……約2分待ちました、でも空く気配がありません。叩けばショックで出てくるのではないか…と思いましたが、周りの人に迷惑がかかるのでそこは抑えました。

やむなく自販機に隣接している売店にかけこんだのですが、店員は「担当外ですので、うちではちょっと……」とボソリ。自販機は自販機の担当がおるらしいのですが……。よく見ると、自販機の所に問題があった際の連絡先が書いてありました。しかし、管理人その時点で所持していたのは財布のみ。どうすることもできまへん。仕方なくそのまま仕事場へ戻ったのですが、その後しばらくして戻ってくると、いつの間にか直っていたのです!

おいおい、どういう事だよこりゃ〜。ワシをからかっておるのか、この自販機は。後で同じ職場の年配の方に聞けば、この自販機は過去にも度々壊れているらしいのです。何なんだこの自販機は。もうええわ、この自販機ではもう買いまへん。



平成18年8月18日(金)  京都“小”観光 洛西編
また京都観光に行ってきました。観光といえばこの御方、大学の友人N氏と共に、今回は京都市西京区松尾をメインとし、渡月橋経由し嵐山へ出るというルートで行動をとりました。

阪急桂駅で友人N氏と合流し、嵐山線で一つ先の阪急上桂駅で下車。ここから、西方へ向う……との事でしたが、丁度集合が昼時というのもあり、同駅のすぐ隣に噂(?)の「阪急そば」の店があったので、コチラで腹ごしらえを。
品によってはお持ち帰りも可能なようです。

阪急そばを食べて小休憩をとった後、そのまま西へ足を進めます。
途中で出くわす山田口交差点の所には、何と交差点の角にコンビニが3つもあります!見にくい写真ではありますが、左から順にローソン(左)、サークルK(中奥)、セブンイレブン(右奥)…。きっとここでは熾烈な競争が繰り広げられているのでしょうね……と軽く思いながら、足を進めます。行き先は、苔寺鈴虫寺であります。名前くらいは聞いた事あるのではないでしょうか。

苔寺は通称であり、正しくは西芳寺(さいほうじ)といいます。臨済宗単立寺院、山号は洪隠山(こういんざん)。世界遺産に指定されている名刹です。本尊には阿弥陀如来が祀られています。行基第46代聖武天皇の命で建立した四十九院のうちの一つ、西方寺が前身です。建武期の兵乱で荒廃したが、松尾大社宮司の藤原親秀(ちかひで)が夢窓疎石を住持として迎えて再興、その際に、夢窓疎石が西芳寺として臨済宗に改め、修行の中心道場となったそうです。

西芳寺はその通称どおり、やはり苔に覆われたその庭園が有名ですね。但し、コチラの寺は、予約参拝制をとっておられる為、自由に訪問することは叶いません。私も友人N氏もその事実を知ったのはつい最近のことです。ですから、今回も外の門構え位は見ておこうとチラ見程度で済まして次の訪問地へ向ったのでした。

次の訪問地は鈴虫寺です。この呼び名も通称であり、正しくは華厳寺(けごんじ)といいます。臨済宗単立寺院、山号は妙徳山。コチラも世界遺産に指定されています。享保八年(1723)に鳳潭(ほうたん)上人が華厳宗の復興の為に創建しました。その通称どおり、寺内には一年中鈴虫が鳴いていることで有名です。

和尚さんの話によれば、本来、鈴虫は秋の季節にだけ鳴いているのです。鈴虫の寿命は僅かに百十日程、鳴くのは最後の二十日程度らしいのです。住職が鈴虫の妙音で開眼し、特殊な飼育法を研究して毎日孵化させているらしいのです。部屋内を一年中秋の気候にしているので年中鳴いているのです。通称、鈴虫寺という名称はここからきているとのこと。

コチラの特色としては、信仰寺院である、という事でしょうか。同寺の和尚様も言っておられますが、金閣寺や竜安寺などの多くの寺は、観光寺院なんだそうです。観光寺院は、参拝料を頂き、その後は境内を自由に散策できるのが主であるのに対し、信仰寺院は、参拝料を納めた後、寺内に上がり一杯の御茶と御菓子をいただき、その寺の和尚様の説法を聞くというスタイルなのだそうです。そんな話をした和尚様のいる鈴虫寺は無論後者の方に当たります。私もN氏も色々な寺社を巡ってきましたが、こういうスタイルの所は初めてです。我々も詳しくは知りませんがしかし、信仰寺院というものが本来の寺院のあるべき形に近いのだろうと思いました。考えれば、各地に色々な寺院が存在しますが、観光を目的として建立された訳ではないと思いますからねえ…。何だか貴重な体験をした気分でした。

また、鈴虫寺には“幸福地蔵”と呼ばれるお地蔵様が居ることでも有名です。鈴虫寺の山門のわきに日本全国の中でも唯一わらじを履いているお地蔵様がまつられているのです。このお地蔵様は幸福を家まで運んでくれるといわれており、幸福地蔵と呼ばれています。仏様や地蔵様は皆どれも裸足ですが、このお地蔵様はわらじを履いて家の方まで願い事を叶えに歩いて来て下さるのだそうです。今一番お願いしたい願い事を一つだけ叶えてくれるのです。その際にコチラで売られている幸福御守が必要なのです。お願いの仕方はこちらの和尚さんが説明してくれるので、願い事をしたい場合は、和尚さんの話を聞きましょう。

鈴虫寺を出た後、松尾大社へ向うのですが、道中に月読神社というのがあったので立寄ってみました。月読神社は松尾大社の境外摂社で、祭神は月読尊。第23代の顕宗(けんぞう)天皇三年(487)に創祀されました。祭祀は壱岐県主(いきのあがたぬし)の先祖が務めたといわれています。ちなみに祭神月読尊は壱岐県主の祖らしいです。元は桂川の河浜にあったようですが斉衡三年(856)に現在地に移ったと伝えられています。古くより疱瘡(ほうそう)の神とされていますが、安産の神ともいわれており、本殿に向って右側にある月延石(つきのべいし)は安産石の名で知られています。

余談ですが、同神社内には何故かがいたのです。茶色の鶏一羽に黒色の鶏三羽が放し飼い状態で。動物に慣れた友人N氏は早速鶏四羽に近づいていきました。右側の写真の撮影後、写真左方よりN氏が鶏四羽とおたわむれ(?)のひと時をお過ごしになられました。N氏によれば、TVの番組で、鶏をあり得ない向きに体を曲げてやると全く身動きしなくなると言ってた、といい、さっそく実践されていたのです。すると四匹ともピクリとも動かなくなったのです!それを見た管理人、あまりの動かなさに驚き、N氏に元に戻すよう促し、N氏は了解して元の体に戻し、元に戻った鶏は何事もなかったかのような顔つき(?)で境内を歩き回っていました。しばらく見守ること数秒後、再度N氏が近づいて鶏とおたわむれのひと時をお楽しみに……以下省略(笑)。

何故この神社に鶏がいるのか原因は不明でしたが、このことがきっかけで我々は同神社の事を鶏神社と呼ぶことになりそうです………神様、スイマセンm(_ _)m
ちなみに、神社を出た後のN氏の顔は、いつも以上に満喫しきった顔つきをされていましたとさ(笑)。

月読神社からしばらく北へ進むと、松尾大社に到着です。祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。大宝元年(701)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の盤座(いわくら)の神霊を勧請して社殿を造営したといわれています。平安遷都後、賀茂社と共に王城鎮護の神となって、「賀茂の厳神(げんしん)、松尾の猛霊(もうりょう)」と並び称されたのだとか。

同神社の本殿は、応永四年(1397)に建築、天文十一年(1542)に大修理が行われたもので重要文化財。両流造(りょうながれづくり)と称されている珍しい形式なのです。

余談ですが、一部の本(例;京都・観光文化検定試験テキスト等)によると“まつお”でなく“まつのお”と書かれています。でも、最寄にある阪急松尾駅やインターネット等ではは、読みが“まつお”となってます。“”の有り無しは何か理由あるのでしょうか、少々気になるところではありますが……

また、この神社は古くから酒の神として信仰を集めていることで知られており、境内の霊泉「亀の井」の水を醸造の際に混ぜると酒が腐らないと伝わっております。また、境内にある亀の石(撫で亀さん)をなでれば、健康長寿の御利益があるといわれています。
管理人、健康長寿になりたいだけに、ものすごく撫でて撫でて、撫で回しましたよ(笑)

尚、コチラでは、亀は鯉とともに松尾大神の使いとされています。ふと思ったのですが、亀の石やら亀の井など、亀に因んだものが幾つか見かけました。ひょっとして、酒を盃につぐうつわのことをいう“かめ(甕・瓶)”と“亀”をひっかけていたりするのでは……と考えたんですけどね。答えはわかりませんですけど。

あと、残念ながら、本物の亀は見かけませんでした。もし見かけたなら、再度N氏によるおたわむれの儀(?)があったかもしれないですがね(汗)

松尾大社を出た後、嵐山へ行こうとの事で、阪急嵐山線に乗って向いました。阪急嵐山駅から渡月橋を目指して歩くと、道中左手に法輪寺というお寺を発見したので立寄ってみました。
法輪寺は真言宗(五智教団)、山号は智福山(ちふくざん)。本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)で、通称「嵯峨の虚空蔵(こくぞう)さん」と呼ばれています。通称は、本尊の虚空蔵菩薩に因み、記憶を増す求聞持法の本尊であることから、智恵を授けると伝えられています。

また、本殿へ向う途中に、電電宮がありました。電電宮は、その名から想像できると思いますが。電気や電波の安全を祈願するところです。鳥居のすぐ近くには、護持会会員御芳名と書かれた看板が掲げられていたのですが、眺めてみると、やはり電気や電波に関わった会社の名がずら〜っと見られました。

私は以前携帯のトラブル(単に故障しただけ)に遭ってますので、同宮を見つけた際、立寄らずにはいられませんでしたよ(笑)。二度と携帯のトラブルに遭わぬよう、同時に電気・電波のトラブルに遭わぬよう、少々の賽銭を納めて祈願させていただきました。

法輪寺から少し北方に歩けば、遂にあの渡月橋とのご対面であります。
この辺りから急に観光客の人の賑わいが多く感じられます。川沿い付近から亀山公園辺りを暫らく散策していると、気がつけば夕方にさしかかりました。
夕方なのであまり時間も残ってませんが、天龍寺付近をぶらついてました。ちょっと足を止めて見物してたのが、嵐山オルゴール博物館です。見事なまでに色々なオルゴールがずらっと並んでます。曲目を眺めてみると、最近ヒットしたような邦楽とか、クラシックとか色々あります。
そういえば、小学校か中学校の何かの授業(たぶん家庭科)でオルゴールを作った覚えがあります。純粋にオルゴールの音色だけに触れるのはその時以来、もう10年以上ぶりな気がします。ん〜何となく懐かしい感じがします。

他にも、京福嵐山駅すぐ近くに、美空ひばり記念館があったのですが、もう時間がなかったので入館はしませんでしたけど。
また、嵐山界隈から少し歩いた閑静な住宅地の中に安倍清明の墓がありました。清明といえば、近年ブームだった陰陽師で有名な人物であり、堀川一条付近にある清明神社も人気の観光スポットのようです。まさか、こんな所に墓があるとは……

日も暮れてきたので、この日最後の〆として訪れたのは、最近よくご縁のある(というより見かけたらつい見物に行ってしまう)天皇陵であります。清明の墓からすぐ近くの所にあったその天皇陵、陵の主は第98代長慶天皇、そして隣にはその皇子承朝王の墓も並立してました。

失礼ながら、長慶天皇はどちらかといえば歴代の中でも影の薄い中に含まれると思われます。そもそも、学校で習った覚えありませんからね…。
同天皇の在位時は、室町時代の初期、南北朝動乱がまだあった頃。とはいえ、南朝の衰退が極度に進んでおり、皇室財政も逼迫し、即位の儀礼も行われた形跡がないらしいのです。そのため、古くから即位説と非即位説の両説があり、正式に皇統に加わったのも大正時代の終り頃なのです。こういう事情によって、天皇の生涯と事績については現代にまで伝えられるところが少ないようなのです。私も正直、名前しか知りませんから……

また、同天皇陵の向って右手にその皇子承朝王の墓があります。この墓を見るまで、同天皇に皇子がいたなんて知りませんでした。ちなみに、写真を見比べてみるとお気付きになるかと思いますが、写真中央の小さな黒門の所にある、手前の石段の段数天皇と皇子だと違うんですね。天皇は3段、皇子は1段上るように造られています。天皇と皇子というランクの違いが垣間見えた、そんな瞬間でした。身分高位の者ほど上位に造られる、天皇と皇子では天皇の方が位は上ですから、天皇陵が皇子の墓より高位置となるように造られたのではないでしょうか。

今回洛西の観光はここで終了しました。余談ですが、この後は友人のがるさりす氏も加わって、3人で焼肉の儀式(要するに晩飯に焼肉を食べる事)が行われました。



平成18年8月16日(水)  五山送り火
京都の夏の風物詩とでもいいましょうか、京の闇夜を彩る「五山送り火」を見に京都は下鴨方面へ行ってきました。言わずもがな、毎年飽きもせずに見に行っております。京阪出町柳駅を下車し、いつもの観覧場所まで行ってスタンバイ。ちなみに、管理人がいたのは出雲路橋の橋上でスタンバッてました。何処だか御存知でしょうか。

五山送り火というのは、毎年8月16日に実施される盂蘭盆会の魂送りなのです。元は、松明の火を空に投げて霊を見送る習俗から山に点火するようになったとも言われてます。室町時代以降に始まったといわれていますが、諸説あり詳細は不明です。

午後8時東山・大文字山の「」(大文字)の字から順に、午後8時10分には松ヶ崎西山・東山の「」「」、午後8時15分には西賀茂船山の精霊船ともいわれる「船形」、大北山大文字山)の「」(左大文字)を灯します。また、嵐山の北方、嵯峨鳥居本の曼荼羅山では午後8時20分に「鳥居」が灯されます。

余談ですが、杯や盆に大文字の「大」を写して飲むと、病気にならないとのいわれがあるらしいですよ(京都・観光文化検定試験テキストより参照)。私はした試しないでございますが。

午後8時、東山・銀閣寺の背後の山に大きく「」の字が点火されました。徐々に大の形に灯っていくのがいいですね。カメラ(携帯)のシャッター押し捲りですよ。 10分後、ちょっと移動すると「」「」の字が見えるのですが、私のいる賀茂川の左側からでは、低い山に文字が灯っている且つ民家や大木が邪魔となって、全体を拝む事が出来ず上半分しか眺めることはできませんでした。でも、出雲路橋から「船形」も拝む事が出来ました。

未だに見た事がないのは、嵯峨方面の鳥居です。京阪電鉄一本で東山の「大」が見える所まで行けるため、アッチの鳥居の方はまず向う事がないんですよね……。昔は、京都にそびえる高層ビル的な建物に、そこの人の御好意によって屋上まで上らせていただけ、全部の文字が拝められたと聞いたことあるんですがね。今の時代、そんな好意的な所はまだあるのでしょうか。来年の為に情報があれば伺いたいものですけど。



平成18年8月12日(金)  残念!
第45回吹奏楽コンクール」(関西吹奏楽コンクール予選)・高校の部A組が本日行われました。私の母校も今回出演するという事になり、私も嬉しい限りです。しかし、大阪府大会予選で金賞を獲得した学校等が、一同に横並びで上を伺う形なのですから、非常に厳しい戦いなのであります。事実、どの学校も上手なのです。よく審査員の方は審査できるな〜と思ってしまいます。…というか、審査員はプロの方ですから当たり前です(汗)

結果から申せば、私の高校は残念ながら銅賞との結果に。しかし、私としては、ココ迄選出されるだけでも大変な訳ですから、十分快挙な訳です(前と何だか同じこと書いてる気がするが)。現役生等には、次回も今回よりも更に上位を目指して日々努力を重ねていってほしいと思っております。先輩からの“送る言葉”(?)でした。

結果の一部はまた別項で紹介したいと思ってます。



平成18年8月4日(金)  京都“小”観光 東山月輪編
大学の友人N氏と、今回は東福寺泉涌寺へ行ってまいりました。大概の有名所は制覇したと思ってましたが、探せばまだまだ訪問していない所はたくさんあるものです。

京阪東福寺駅で合流して、まず最初に向ったは京都五山の第三位東福寺。臨済宗東福寺派大本山、山号は慧日(えにち)山。九条道家が九条家の菩提寺の創建を願い、延応元年(1239)に仏殿を建立、寛元元年(1242)には聖一(しょういち)国師を開山に迎え、天台・真言・禅の三宗を兼修。「東福寺」という寺名は、奈良の二つの大寺院からとられています。規模を東大寺に、教行を興福寺になぞらえようとの念願によって造営されました。月輪山を背にして大伽藍を持つ寺院となり、俗に「東福寺の伽藍面(がらんづら)」といわれたそうです。

14世紀前半に全焼したものの、15世紀前半に再建され、明治14年(1881)に火災で仏殿・法堂などを焼失した他は、三門をはじめ中世に遡る建築物がなおも現存しており、当時の威容を今に伝えています。三門は創建当時の建造物が焼失した後、応永32年(1425)に再建され、以来現存最古であり国宝。

ちなみに、写真の通天橋一帯は紅葉の名所として知られています。秋の紅葉に染まった東福寺・通天橋を是非御覧になっては如何でしょうか。


続いて、東福寺内から細道を抜けて大通へ出て、伺ったのは、泉涌寺です。
泉涌寺は、東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に佇んでいます。真言宗泉涌寺派総本山で山号は東山(とうせん)。皇室との関わりが深く、「御寺(みてら)」とも呼ばれています。

パンフによれば、天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来するそうです。法輪寺と名づけられた後、一時仙遊寺と改称されましたが、建保六年(1218)には当時の開山である月輪大師俊じょう(「じょう」の字が出せないので平仮名)がこの地に大伽藍を営み、この時境内の一角に清水が涌き出た事に因み、寺号を泉涌寺と改めたそうです。
大師は若くして仏門に入り、仏法の奥義を求めて中国の宋へ渡り、帰国後は戒律の復興を計り、当寺を律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として大いに隆盛させました。


仁治三年(1242)、第87代四条天皇が没し、寺内に御陵が造られて以来、歴代天皇の御陵(月輪陵・後月輪陵)が営まれるようになり、皇室の香華院(菩提所)として篤い信仰を集めるようになりました。「みてら御寺)」と当寺が呼ばれるのはこの為です。

境内には、仏殿舎利殿をはじめ、第38代天智天皇以降の歴代皇族の御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍を配しています。

また、楊貴妃観音堂に安置されている聖観音像は唐の玄宗皇帝が楊貴妃を偲んで香木で造らせたものと伝える宋伝来の像で、楊貴妃観音像(重要文化財)と呼ばれています。御存知のように、楊貴妃といえば世界三大美女の一人に数えられていることで有名ですね。
同観音は長らく秘仏で100年に1度しか公開されなかったというくらいなので、彩色が剥落せずに残っています。現在は自由に拝観でき、美人祈願や縁結びの御利益があると言われているようです。

また、泉涌寺のすぐ北側の参道を登っていくと、途中から小高い山上に延びる道がありその先に御堀河天皇観音寺陵、参道を更に奥へ進んで行くと終点の所に孝明天皇後月輪東山陵があります。英照皇太后陵後月輪東北陵)が孝明天皇陵のすぐ近くにあるようなのですが、門から先に進めないので拝見できません。

余談ですが、N氏と観光に勤しんでいる中で、過去にも幾つか天皇陵を見かけた事があります。
観光していてふと感じた、我々の天皇陵に対する共通認識(そんな大それた事ではない)は、
  • 参道が砂利(若しくは小石)道である、

  • 陵の脇に宮内庁と書かれた看板(天皇・陵墓名等が記載)がある、

  • 同庁の事務所(小屋?)が陵の手前にある、

  • 陵の手前が広場となっており、鉄製と思われる黒格子の小門がある。奥は白い鳥居があり、
    その背後に緑の木々で覆われた山或いは丘がある(建物で覆われ拝見できない所もある)、

  • 陵の白鳥居や小門に対して、参道は概ね直進若しくは直角に曲げられて造られている、

  • ……等などです。多くを拝見していないので、自信はありませんが、若し観光の際に見かけられたら、一度拝見に伺ってみては如何でしょうか。



    戻る