平成17年4月29日(金) 教習所 |
私はAT限定ですが運転免許を所持しております。しかし、ここしばらくは運転することがなく、また今後は車通勤する事になるので、感覚を取り戻すために久々に教習所へ出向きました。場所は以前世話になった守口のトコなのです。今住んでいるトコから考えると寝屋川の方が近いのですが、守口の近所には大日交差点という大阪府内の一日の交通量第二位(約18万車/日、第一位は豊中市内の交差点で約21万車/日)があり、技能の腕を磨くには丁度いい場所なので、再度行く事にしました。 昨日教習所へ出向いて予約をしようとしたのですが、どうせしばらく通うのならと思い出し、だったらということでAT限定解除へと路線変更しちゃいました。AT解除は最低4日間でMT免許取得も可能ですし、ある程度勘も取り戻すことができますし。…ということで、早速今日から通っております。この連休中には取ってしまいたいですねえ。 教習が終って帰宅すると、突然頭痛に見舞われました。そういえば、朝からくしゃみが多かったので、まさか風邪ではと疑っております。今年のスギ・ヒノキの花粉のピーク時には何も炎症なかったのに…。思いっきり時期外れの体調不良みたいです。病の流行に遅れている(?)という事でしょうか。どうであれ、今はパソコンを打つ手が重い…… |
平成17年4月28日(木) 史上最悪 |
先日おきたJR福知山線の脱線事故ですが、とうとう死者が本日で100名を超えてしまいました。日が経つにつれてどんどん被害者が増えていくばかりです。特に先頭車両はマンションにぶつかって原形を留めていないせいか、事故発生以後現在も救助隊の作業が続いており、その作業の難しさが見てとれます。かなりのスピードでぶつかってしまったんでしょう。 そういえば、あるニュース番組でこんなことを言っていました。米国のニューヨーク・タイムズ紙(だったような気がする)の調査によれば、主要各国において列車が遅れていると感じるのは何分かという記事が掲載されました。それによると、例えば米国では6分、英国では5分というのに対し、日本は何と1分だとのこと。まさかとは思いますが、思い当たる節もなくはありません。何らかの事情で列車が1〜2分遅れて到着しても、車内アナウンスで「列車の到着が遅れましたことをお詫び申し上げます」といった感じで流れたりしますし。米英国の5〜6分というのは日本ではもう次の列車が来るような時刻です。改めて、日本の時刻ダイヤの正確性を意識する一方で、世界トップクラスの過密スケジュールさも感じさせられます。 問題の列車の運転手は過去にもオーバーランがあったそうですが、その後本人はまじめに頑張って取り組んだ結果本職に復帰したし、運転する事について多くの人の命を預かる身なのでこわいという風な発言もしていたそうです。色々なニュースでそう報道されていたので、恐らく本当のことなのでしょう。しかし、同じ失敗をまたしてしまったという責任を感じたが故に、遅れを取り戻すためにスピードを普段より出してしまったが故に、今回の悲劇となってしまったのでしょうか。運転手の方も亡くなられたことが本日わかったので、その本心を聞き出すことは叶わなくなってしまいました。ここまで被害が拡大してしまった事態が悲しくてなりません。 無事に命が助かった人はその人で今度は電車が怖くて乗れないというトラウマ等の二次被害が懸念されます。それを考えると本当に問題が解決されるのはもっと先の事なのかもしれません。 |
平成17年4月25日(月) JR福知山線大事故 |
本日JR福知山線(宝塚線とも)で脱線事故が発生しました。最初はあまり意識していませんでしたが、ぱっとテレビで見た時、ビックリしました。脱線した列車の前方が事故現場の近くのマンションに突っ込み、原形を全く留めていなかったのです。いわゆる、ペシャンコです。被害も時間が経過する度に、徐々に増加の一途を辿っています。原因はなんやったんでしょうね。 問題の電車は普段よりも少しスピードが速かったそうです。事故現場の前の駅ではオーバーランするというトラブルがあり1〜2分遅れたそうですが、オーバーランから駅に戻る時もバックにしては速いスピードだったので、乗客や発見者は違和感を感じたようです。また、何でも運転手は11ヶ月の新人(?)だそうで、もしやその遅れを取り戻すために普段より速いスピードを出してしまったのでしょうか。翌日になればもっと詳しい原因がわかるかもしれないですね。しかし、普段JR福知山線を普段利用している人にはとんでもない災難でしょうね。明日には完全に復旧できるのでしょうか。 |
平成17年4月23日(土) ラーメン日帰りの旅・想定外編 |
夕方、久々に友人kojikoji氏と会いました。kojikojiといえば、約一月前くらいにスキーの際に右足を骨折した事で有名(?)なのですが、会ってみるとどうやらほぼ完治したようです。大事に至らなくて幸いです。ただ、まだ若干怪我したあたりに痛みがあるなど、“しこり”が残っていると見受けられます。私も中学時代に右足を骨折(正確には右足甲にヒビ)した経験があるだけに、完治までの苦悩が痛いほどよくわかります。しかし、色々話を聞いてみると、何と今回の骨折で3回目との予想だにしない発言が!そんなに骨折するとは、単に運が悪いのか、それとも体の骨が弱いのか、さっぱりわかりません……。とはいえ、さすがはkojikoji、こんな強烈な話題がケロリと出せるとは…只者ではありません。 何だかんだ言いながら、昨年冬以来の再会だったので、ラーメン屋で飯を食う事になりました。今回の目的地は奈良京終の「無鉄砲」というラーメン屋です。過去にも一度ここで書いたと思うのですが、私の食べたラーメンの中では最も“こってり”度数の高い、かなりの油チック(?)なラーメン屋です。kojikojiはまだ行った事がなかったので、この度案内することにしました。車を走らせること1時間以上、日が暮れた頃に到着しました。 ところが、普段付いている筈の明かりが消えたままなのです。不思議に思って店に近づくと、何と“閉店”との文字が!よく見ると、いつかわかりませんが閉店することになり、かわりに大阪大国町(だったと思う)に新店舗を構えるとの案内の紙が貼られていました。いたたた…これは予想外の事態です。まさか閉店になっているとは…。しかし、いつまでもココにいるわけにもいかず、無駄足の疲れを引きずったまま大阪への帰路の運びとなりました。代わりに向かったのは、お馴染み寝屋川の「一作」です。一作もそういえば久しぶりな気がしますねえ、個人的には。こってりラーメンを堪能して、帰路に着いたのでした。 |
平成17年4月22日(金) FM的AM |
昨日から今日にかけて深夜は久々に強風が唸っておりました。ぐおお〜(?)ってな感じです。いつものようにヘッドホンを耳にあてて深夜のラジオを聴いていたのですが、ヘッドホン越しに強風の音が聞こえてきます。相当強風だったようです。遠くの方でゴミ箱(?)が転がっている音まで聞こえました。他の地方ではどうやったんでしょう。 この時間のラジオはいつもナインティナインのオールナイトニッポン(ANN)を聴いてますが、ANNといえば今話題のニッポン放送が提供している番組です。最近ライブ○アと和解したとか何とかこうとか(あまりよくわかっていない)ですが、ナイナイも万一の事態に備えて、今やっているAMラジオが解雇されてもFMででもまたラジオをやりたいとの思いから、今日のラジオはFMチックな内容をAMでやるという前代未聞の企画を成したのでした。ちなみにFMっぽい人ということで木村カエラがゲストに招かれていました。 ところで、ANNのオープニングテーマ曲は古今変わらずハープ・アルバート&ティファナ・ブラスが演奏する“Bitter Sweet Samba”が流れています。今日はFMぽい放送という事で、この曲をFMヴァージョンに編曲したものがバックに流れていました。これがまたなかなかいい曲になっていてすごい良かったです。たぶん聴いた人にしかわかりませんが…。音楽担当の方がこの日のために特別につくられたんでしょう。そう思うと趣味とはいえ音楽に携わる人間としてはこういう才能も欲しいなあとちょっと思ったりしました。 そういえば、ラジオを聴いている間にキリ番到達されたようです。また細々とやっている記念曲作りでもしますかな。あくまで独学でやっているので、手際よくできないのが難点ですが…… |
平成17年4月21日(木) 献血 |
また空き時間に献血しに行ってきました。もう通算31回目になります。今年に入ってからは5回目の献血です。私のいつも行っている血小板成分献血では、2週間後の同じ曜日から次回献血が可能になります。ただこれは一年に計12回までと決まっているので、そんなに何度も参加できませんが、何気に頑張って続けております。 献血の際に必要な献血手帳は10回ごとに新しい手帳に更新されるのですが、今日は30回を超えたので、新たな手帳に更新されました。遂にこれで4代目の手帳です。新しくなった手帳は使い古されてないだけに新鮮味があります。これを手にまた次回足を運ばせていただきます。 |
平成17年4月20日(水) ラーメン座談会・新天地編 |
今日は久々に大学のサークル仲間のがるさりす氏(以下、が氏)と飯を食いに行きました。飯の中身は無論、ラーメンですが。事の発端は、約一週間ほど前にがるさりす氏からのメールでした。が氏と会うのも思えば数ヶ月ぶりですし、今年に入ってからはラーメンを控えめにしていたので、両者とも久々の対面と相成りました。 しかし、約束の今日はあいにくの雨、しかも約束の時間に近づくほど雨足が強くなっていくので、雨のうっとうしさで軽〜くテンションも下がりがちです。そんな雨の中で自宅の近所までが氏が迎えに来てくれました。いや〜助かりマシタ。そのまま、今回向かったのは大阪外環状線(国道170号線)沿いにあった「来来亭」ていう所です。しばらく前に数年ぶりに再会した友人ヌルハチ氏と行った店です。いつもはが氏とラーメン屋に行く際は殆ど京都市内が多かったのですが、今回は私の地元の店に行く事になったのです。到着した時にはちょうど飯時なので、店内は客でいっぱいでしたが、運良くカウンターの席がちょうど空いていたので待つことなく着座できました。今日は運がよかったです。以前にも書いた通り、ここはこだわりとして、ネギの量や麺の細太など個人で決めることが可能なのです。当然こってり味でネギ多めで注文します。が氏と近況報告を兼ねた雑談を交わしながら、こってり味のラーメンに酔いしれました。大学の友人の中には、なかなか波乱万丈な生活をされている人もいるようです。人によって本当にいろんな人生がありますねえ…。 飯を食べた後、が氏にお願いして八幡市まで乗車させてもらいました。実はこの度、私は今までの郵便局を辞し、勤務先を某会社(詳しくは後日)へと変わることになりました。いわゆる転職になるんでしょうかね。その勤務地が八幡市某所となり、下見を兼ねて連れて行ってもらいました。ちなみにこの勤務地は八幡市の中でも少々田舎の方にあるので、今後は車通勤することに。ただ、ここしばらく運転していないので、公道に出ることにちと不安が……。またしばらく教習所で練習させてもらおうかな…。 |
平成17年4月18日(月) 聴音初期段階作品 |
久々に部屋の掃除をしていたら、懐かしいものが出てきました。それは私が小学生時代に作っていた、耳コピで作った楽譜です。古いせいか、何気に汚くなっています。小学生時代は当時流行っていたファミコンのゲームの影響を受けていたので、作品は全てマリオやドラクエなど、その当時のゲームBGMを題材にして作っていました。恐らく、耳コピを始めた頃の初期段階の楽譜だと思われます。とにかく音符がまん丸に黒く塗られ、今作っている楽譜と比べるとすごく強調されている風に見えます。いつ頃から耳コピを始めたのかは覚えてないのですが、小学生時代はピアノを習っていたので、楽譜の読み書き等を一通り覚えた頃という点と、当時遊んでいたファミコンのゲーム(ロックマン3、ドラクエ3など)の内容から推測すると、早くても小学2年時からゲームBGMを題材に耳コピを始め、小学3年生の頃にはそれを確立していたと思います。 何故にゲーム音の耳コピを始めようと思ったのか…。それは現在のように、TVゲームのBGMを扱ったサウンドトラックや楽譜が当時まだ売られていないと思ったことがきっかけです。もしかすると、音楽専門店へ行けばあったのかもしれませんが、当時の私はそんな事もまだわからないので、探したり出るまで待ったりするくらいなら、メモ感覚で自分のわかるように紙に書き残せばいいと思いついたわけです。気に入ったゲームBGMを自分の手で鍵盤で弾きたいという欲があったので、思考から実行に移すまでに時間はかかりませんでした。これが耳コピと音感能力鍛練の始まりです。 ちなみにこの楽譜を見ると、題材に選んだゲームジャンルはドラクエやロックマンなどのRPGやアクション系(特にドラクエ)が大半を占めます。これらは音楽がループするので、放っておけば延々と同じ音楽が流れるので、頭にインプットしやすいのです。それに比べて、マリオやアトランチスの謎などは制限時間が設けられているので、一定時間になるとプレイヤーが死んでしまい、音楽がストップしてしまいます。また、残機が減るのでゼロになるとゲームオーバーでやり直しになってしまうので、手間がかかるためにあまり題材に選んでなかったのかもしれません。これらは一度作業放棄しているのですが、その後、高校時に完成させました。この頃になると、昔に比べて能力も技術も向上しているので作業がやりやすかったのと思われます。 見つけた楽譜のものを試しにMIDIとして作って聴いてみました。………おもいっきり不協和音です。実は臨時記号(♯,♭など)の付け方が一部間違っていたのです。…まあ耳コピ始めた頃のものなので、間違いがあるのは否めないのですが。でも、今手掛けている楽譜と見比べてみると、始めの頃から徐々に成長しているのだなあと実感できます。思えば、耳コピ始めてから現在でもう10年以上になります。「継続は力なり」という言葉がありますが、それが身をもって体験できていると思います。耳コピをやっていることで、己の音楽技術と音感能力の向上に貢献してくれました。現在は耳コピではなく作曲に移行していますが、今回見つけた手作り楽譜は自分の音楽の原点と成長の兆しを垣間見させてくれる、懐かしき思い出の品となってくれました。 ―――というのは言いすぎですかねえ……(汗 |
平成17年4月15日(金) ヒノキ花粉 |
知らない間に花粉がスギからヒノキに変わったようです。街中では相変わらずマスク装備の方々が多いのが目に映ります。早いとこ治まってほしいものですが、まだ暫らく我慢しなければならないようです。花粉症の方には困った季節です、本当に。 以前テレビで見たのですが、花粉症というのは日本特有でなくヨーロッパ等でも起こっている症状なのです。……が、世界で最も深刻なのが我が国日本だそうです。統計によると、日本は感染率が約20%と世界のどの国よりも最も多いらしいのです。第2位はヨーロッパの某国(国名忘れた)で約10%くらいで、日本が飛び抜けて高いのです。戦前より前には花粉症の人はほとんどいなかったのに、何故にこれほど増えてしまったのか…。その原因の一つに戦後の高度経済成長期の大量の植林が考えられています。この植林で植えられたものが、スギやヒノキなのです。スギやヒノキは成長が早く、丈夫で、家屋の建築材料に適しているなどの点があるためです。日本の住宅は木造建築ですから、木々を伐採してそれらを材料にします。自然保護の点から考えると丈夫で成長が早いスギやヒノキに注目されたのかもしれません。しかし、その結果、後世に花粉症という問題に悩まされることとなってしまったのです。 管理人は幼少時の健康診断でスギ花粉に対して陽性反応が検出されたことがあります。要するに、スギ花粉に反応して症状が出ます、みたいなものです。事実、小学生低学年時には花粉に悩まされておりました(無論、花粉以外の病気にもですが)。この対策として、私は漢方薬を利用していました。普通の医院で処方される薬品ではあまり効果がなかったので、そんな中で唯一効き目のあった漢方薬を服用し続けていました。おかげで、小学校卒業時にはすっかり治っておりました。漢方薬はいわゆる薬草で作られていますから、自然が引き起こす病には自然もので対処するのが、やはり効果があるのかなというのが私の感想です。抗生物質は多用し続けると、モノによっては耐性菌ができて効果がなくなる恐れがあるので、できるだけ薬に頼らず、自分の免疫機能に頼るのが身体にはいい気もするのですが…。 ともあれ、薬は人によって効果が違いますから、いかに自分にあったモノが見つかるかが早期回復へのポイントだと思っております。しかし、油断は禁物。蛇口をゆるめて滴下された雫をコップに溜め、それが溢れた時、突如花粉症にかかると例えられています。今は何ともなくても、たまりにたまってあるラインを超えた時、突然症状が出るらしいのです。かかっている人はもちろん、かかっていない人も対策を講じておく必要があると思います。 |
平成17年4月12日(火) 武田信玄射殺説? |
2日前と同様に、例の本から面白記事をピックアップしてみます。今私が一番はまっている本なのです。今後もこの本から面白記事を引用するかもしれません。 今回は、“甲斐の虎”と呼ばれた甲州の猛者武田信玄に関する事です。一般には病死とされているのですが、鉄砲で撃たれた「射殺説」もあるらしいのです。 室町幕府第15代将軍足利義昭を中心とする織田信長包囲網に呼応し、その一翼を担った武田信玄は上洛途中、浜松城北方の三方原(みかたがはら)で徳川家康を破って三河に進出。徳川方の野田城を包囲しましたが、その最中に信玄は発病。上洛する予定を変更して北上し、長篠城に一ヶ月以上滞在したのですが、回復の兆しがないため帰国する途中、天正元(1573)年4月12日、伊那(いな)郡駒場で死去したのです。 甲斐武田家の信玄・勝頼2代にわたる事績・合戦・軍法などを記した軍学書『甲陽軍艦』では死因は「膈(かく)と云(いう)煩(わずらい)なり」と書かれているそうです。「膈」とは胃癌のことを指します。ところが、徳川方や北条方の史料では武田信玄が野田城を攻めている時に鉄砲で撃たれた「射殺説」が載せられているようなのです。例えば、北条方の史料『北条記』には「不慮鉄砲に当て(あたって)」との記述があるとのこと。無論、武田方はこれらの風聞を否定しています。でも、“火のない所に煙は立たない”と言いますし、ひょっとするともしかしたら……と考えることもできます。果たしてどちらが正しいのでしょうか。 |
平成17年4月10日(日) 今日は何の日 |
新しく日本史系の本を購入してしまいました。その名は「真説の日本史365日辞典」、項目を365日に分割し、一年の“その日”に起きた出来事の中から、意外と知られていない「真説」を紹介している本です。他には“その日”に何があったかがわかる「今日は何の日」と題された項目、その日が「誕生日」「命日」にあたる有名人も2人ずつピックアップされています。だいたいその一日分を1ページにまとめてあります。但し、明治5(1872)年12月2日以前の出来事は旧暦表記にされてありますが。せっかくなので、この本で本日4月10日に何があったかを見てみましたので紹介しましょう。 4月10日には有名な「日光東照宮」が完成した日であります。御存知のように、日光東照宮は江戸開府の立役者徳川家康を祀った神社です。家康は駿河久能山に葬られた後、一周忌を期して日光山に改葬されたのが始まりです。元和3(1617)年に本社と拝殿以下が完成した後に神霊を遷座。朝廷から「東照大権現」の宣命と正一位の神階を受けました。更に寛永11(1634)年に3代将軍徳川家光の命で大造替(だいぞうたい)が開始され、わずか17ヶ月後の同13年4月10日に完成。正遷宮式が行われました。 ところで、いまの本殿、陽明門などは数回修復は受けているものの。このときのものです。造営奉行は秋元泰朝(やすとも)、総指揮は幕府作事方大棟梁甲良宗広(こうらむねひろ)、建物の彩色や壁画・天井画は幕府絵所狩野探幽一門。造営資金は金568,000両、銀百貫目、米一千石。工事に携わった人数は延べ450万人以上で、多い日には数千人の大工や彫物師が働いていたそうです。さすがは権力者ならではの為せるワザという感じでしょうか。 また、「今日は何の日」の項目には、他に何があったか簡単に紹介されています。例えば、聖徳太子が皇太子となり第33代推古天皇の摂政として国政参加したのも593年同月同日です。現明仁天皇陛下の皇太子時代に現在の美智子皇后陛下と結婚式を挙げたのも1959年の同月同日です。「誕生日」をこの日にもつ人は、近年逝去された映画評論家の淀川長治氏(1909)、「命日」がこの日なのは、歌舞伎役者の祖と言われる名古屋山三郎(1603)などがあります。こういう知らなかった事実を辿るのもなかなか面白いです。 |
平成17年4月7日(木) 祝・献血回数30回 |
今や己のライフサイクルの一部と化した献血に、夕方にまたもや協力して参りました。以前にも何度かここにも書いているので、もう全ては話しませんが、成分献血のため約1時間要します。いつも通り行きつけの献血ルームに足を運ぶと、平日にも関わらずいつもよりかなりの人でごった返していました。提供者層は割と若い方が多く、どうやら友人・知人らと一緒に来ている感じの人たちが大半のようです。かなりの人がいるため、いつも以上に自分の番が来るまで待たされる事になりました。そのため献血終了が受付が終る数十分前…。一時間半くらいルームに居たと思います。かなり時間かかってしまいました。 ところで、個人的な話で申し訳ないのですが、本日をもって献血回数が遂に30回に到達いたしました。んーずいぶん提供してきたものです。初めて献血したのが確か平成13年の梅雨時だったと思います。もう献血続けて約4年になろうとしています。今後もできるだけ協力していきたいと思います。 献血30回を迎えたということで、献血ルームの方から私に記念品が贈呈されました。記念品は造形作家の手で作られたガラス器でした。実は日本赤十字社では、継続的に献血の協力をした方々への感謝の意を表するために、その功労に対して記念品を贈呈して表彰する制度があるのです。記念品贈呈に関する表彰には、「献血者顕彰規程」と「表彰制度」の2種あります。まず前者ですが、献血回数が10・30・50回に到達した人と50回到達者で以後50回到達した人にガラス器の記念品贈呈がなされます。また50回以上到達者で満60歳を迎えた後に献血された方には感謝状の贈呈もあります。一方後者の方は、献血回数70回以上の献血者や活動年数15年以上の献血団体や推進団体などの方を対象とした有功章や感謝状などが贈呈されます。おおまかに分けると、主に個人を対象としたのが前者で、主に団体を対象としたのが後者という感じがします。ここまできたら、もう64歳まで続けたいですね(献血は最高69歳まで。但し、血小板成分献血の場合は最高で64歳までと決められている)。 |
平成17年4月6日(水) ナノカーボン |
私の好きなスポーツは、「水泳」と「バドミントン」です。「水泳」は小〜中学時代に近所のスイミングスクールに通っていました。同スクールでの最高位は確か2級で、記憶が確かならば、“選手”扱いの前の前の級だった気がします。“級”は25級から始まり昇級するごとに数字が減り、1級の上に確か“選手”という扱いの級があったと思います。私の最高位は2級でしたから、当然四泳法(バタフライ・背泳・平泳ぎ・クロール)は軽く泳げます。が、ここ一年以上は御無沙汰なので恐らくかなり腕は落ちてます(笑)。一方の「バドミントン」は中学時代に所属していたクラブであり、先の水泳と共に成長期の私の心身鍛錬に役立ってくれた、切っても切れないスポーツなのです。 さて、何故こんな事を書いているかというと、今日、駅の売店で購入した日本経済新聞の消費欄の項目中に、バドミントンラケットの新商品が“ニューフェース”として紹介されていました。そうです、今までのはコレの話の“マクラ”なのです。ん〜長い。 紙面によると、ヨネックス社はナノカーボン素材を採用したバドミントンラケット「NANO SPEED(ナノスピード)8000」を本日より発売するそうです。この「ナノ」とは10億分の1の単位(n)、「カーボン」とは原子番号12の炭素原子(【C】=Carbon)のことを指します。直径0.7nm(ナノメートル)の大きさで炭素原子を結合させたナノカーボン素材を「フラーレン」といい、これをフレームの上部とシャフトに使用。軽量ながら強度を強めた「同7000」の改良タイプなのです。シャフトを15%軽量化し、この分の重量をフレームとグリップに移動させることで、ヘッドがきく設計になったとのこと。フレームには新素材「ソリッドフィールコア」を内蔵しており、がっちりした打ち応えだそうです。学生や社会人の上級者向けで、お値段は何と驚き(?)の24,150円!うーん、個人的にはすごく興味がそそられますが、今のマイラケットもまだまだ現役で使えるので買い替えることはないですね。 ちなみに、私の愛用しているラケットは「Carbonex 8 DX」と書かれています。購入してもう10年以上経つので、正式名称はコレであるのか覚えておりません。購入以来、網状に貼っているガットは切れる度に張り替えても一度もラケットは買い替えておりません。ノーベル平和賞を受賞したマータイ氏がお気に召した言葉を借りれば、まだ使えるのに買い替えるのは「モッタイナイ」ということです。……あまり例え上手くないか(汗)。…というわけで、皆さんモノは大切にしましょう。 |
平成17年4月4日(月) 法王死去 |
第264代ローマ法王のヨハネ・パウロ2世が現地時間2日夜(日本時間3日未明)にバチカンの居室で死去なされました。享年84歳。在位26年。法王の遺体は3日に在バチカン外交団などに公開されました。4日からはサンピエトロ大聖堂に遺体を安置し、一般の弔問も受け付けるそうです。 一方、法王庁は15日後から20日後までの間に、80歳未満の枢機卿で構成する法王選挙会(コンクラーベ)を召集し、枢機卿の互選による新法王の選出を進めるそうです。…すごいですねえ、264代も続いているんですか。ものすごい歴史を感じさせます。我が国の天皇家も古来より万世一系で途絶えることなく続いている(当代今上天皇で第125代目)というのもすごいですけど。 今更ですが、以下、簡単に法王の情報を書いておこうと思います。 ヨハネ・パウロ2世――本名カロル・ボイチワ。1920年にポーランドで生誕され、同国南部のクラクフ大司教、枢機卿を経て1978年10月に第264代法王に選出。イタリア人以外の人がローマ法王として選ばれるのは450年ぶり。在位26年は歴代法王の中で3番目の長さ。10億人を超えるカトリック教徒の最高指導者として東欧革命を精神的に支え、冷戦終結の陰の立役者に。訪問した国の数は約130カ国、率直な平和への提言を説いて回り、中東和平、宗教間の対話などにも取り組まれた。2003年のイラク戦争でも米英に最後まで武力行使の自制を呼びかけた。 |
平成17年4月1日(金) 卯月 |
4月に突入しました。4月を「卯月」という言い方もあります。暦の上では、4月〜6月は“夏(立夏〜立秋の前日)”に属します。ただ、これは昔の話です。これらは明治以前の月日(太陰暦)のことで、現在の太陽暦とは若干ずれがあります。旧暦になおせば今はまだ3月に相当すると推測されます。新暦が採用されたのは1872(明治5)年のことです。今迄の太陰暦を廃し、同年12月3日を明治6年1月1日としたのです。ただ「立夏」や「夏至」などの節気は昔から変わっていないので、月日だけがずれたと考えればいい訳です。 ところで、昔は4月1日といえば、更衣(ころもがえ)の日なのです。勿論、現在は6月1日になっていますが。昔はこの日から装束(しょうぞく)・調度(ちょうど)などをすべて夏のものに改めたのです。ちなみに冬のものに改めるのは10月1日です。これは古今変わらずでしょうか。 さて、4月といえば、やはり“桜”のシーズンでしょうね。そろそろ桜が満開になる時期が刻一刻と迫ってきています。私は花見はあまりしませんが、散歩やジョギングで桜のある所を通るといつもと違う景色で気持ちがいいと思います。以前住んでいた近所の公園は縦に長い形をしていて、この時期になるとあたりが桜でいっぱいになります。だから、ちょっと散歩するのにちょうどいい感じなのです。そのうち久々に戻ってみようと思います。 |