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壊れたオルゴールのゆくすえ
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最後に会ったのは7月の終わり、連日の真夏日でその日も家を出るのを一瞬ためらうほど熱気がアスファルトをくゆらすような午後でした。 4人部屋の窓際で点滴に繋がれながら寝息を立てているあなたに私は何度も声をかけ、肩を揺さぶり起こしました。あなたは面倒くさそうに片目だけ半分開けて一回だけ頷きました。まるで話をするのも面倒くさいといったように、何を言ってもふんふんと軽くうなずくだけ、声も出してくれません。 しばらくはこちらの一方的な話しかけに頷くだけで、どこまで分かっているのか疑わしい様子でしたが、ベッドの足元で私が屈めた身体を起こした瞬間 デイサービスの職員の名前、ヘルパーさんの名前を順番に言ってから 入院した日から一切の飲食を断ってしまったのは
「孤独とは、最後まで自分の生き方を自分で決めて生きていくこと」 あなたはこの世の中の片隅の小さな存在でした
大人の女性の美しさが単に容姿ではなく、むしろ生きるための知力やものや金に惑わされない品性、だれもが気になって放っておけないようなそこはかとない可愛さなどと定義できるならば、彼女は間違いなく「美しい大人の女性」といえる。 色白で丸い顔、笑うとちょっと緩んだ入れ歯の間に残っている歯が2本。ショートカットの豊かな銀髪、太っちょな身体に割と筋肉質な手肢。 「ありがとうございます」とよく言うけれどそれほど謙虚でもなく、無口なくせに噂話がすき。 年金は一円の単位まで覚えていて入ると全部おろしたくなる。 コンビニは欲しいものが何でも手に入る夢の百貨店、そこでの買い物は何よりの楽しみ。パンとコーラとポテトチップスが何よりの好物。 そんな、純真なひと。 平成17年の夏、衝撃的な出会いをした。 民生委員さんから困った声で 『独り暮らしのおばあちゃんが転んで救急車で病院へ運ばれた。明日には退院と云われたが家族もいないので何とかして欲しい』・・・と困惑した内容の電話。当時、地域の相談業務についていた私は事情もよくつかめないまま翌日病院へ赴いた。 そこは救急指定病院だが何とも奇妙な光景だった。患者さんは高齢者ばかりで、みんな車椅子に乗せられて廊下に出されていた。看護師や医師をぼんやり目で追ったり、大声でなにか訴えようとしているおばあさん。車椅子に縛り付けられていて通りすがりの誰にでも声をかけるがみんな無視して通り過ぎていく。 ナースステーションで声をかけると若い看護師が病室の場所を指差して「ここをひだりに行って突き当たりです」と愛想なく教えてくれた。廊下の突き当たり、そこは3人部屋で彼女はいちばん入り口のベッドに寝ていた。差額ベッドというが、どうみても一般多床室と変わらない。 何だかすごいことに巻き込まれたなと思った。 太っていて病院指定のパジャマが着られないのか、継ぎ当てしてある浴衣を大きくはだけたまま被されていて、仰向けのままで何かしゃべっている。口からは食べかすがしゃべる度に無い歯の隙間から飛び出し、自分の頬のまわりに落ちていく。 「はじめまして」と挨拶したが聞こえていないのか、理解できないのか・・・ 「どこか働く場所はないですか・・・働きたい、どこか、働きたい」と、仰向けのまま身動きもせず、うわごとのように繰り返す。このまま退院して大丈夫なのだろか。私はナースに掛け合い、担当医に直接話を聞き今の状態では退院できるとは思えない、せめて少し動けるようになるまでと談判したが、骨折もしていないし病院としては医療的処置はもうないとまったく相手にされなかった。 白衣の天使はさっさと退院の準備をはじめた。洋服に着替えてくださいと渡されたビニール袋。救急車で運ばれたときに着ていた肌着とワンピースと靴が汗と便でベタベタになったまま、洗濯もせず、乾かすことも無く、無造作に突っ込まれていた。 「ええ!これを着せるのですか?」思わず大声で叫んでしまった。天使は当然のように 「はい、入院のときに着てきたものです」という。 その言葉はまだ退院させたくないと後ろ髪を引かれていたわたしの思いをすっぱり断ち切ってくれた。もう一秒もこの病院には居たくなかった。 「さあ、早く帰りましょうね」。動けない身体を起こして・・・向かいのスーパーマーケットでとにかく一番大きなサイズを、といって買ってきた洋服に着替えさせ・・・フラフラで三歩進んでは休憩を繰り返し、やっとのおもいでタクシーに詰め込み・・・そして、はじめて彼女のアパートへたどり着いた。 アパートの鍵を開けた瞬間・・・ことばを失った。まさにゴミ屋敷。どこに住んでいたの?というほど物で溢れていて座るスペースもない。床も畳も腐っていて歩くと床がフカフカと抜けそう。そこをゴキブリやら得体の知れない虫がぞろぞろうごめいている。壁や天井には蜘蛛の巣が張りめぐっていて、私は蜘蛛の巣にひっかからないように腰をかがめて部屋へ入った。 窓を開けたいがどこに窓があるのかわからない。家具は何もない。何もかも全部積み上げられている。プラスチックの衣装ケースには汚れた洋服が丸めて詰め込まれていて、その汚れも何年前のものかと思うほど古い。異臭で息が出来ない。何年放っておけばここまで汚れるのだろうか。 「掃除してないから恥ずかしいわ」・・・ いやー、その次元ではない! その膨大な荷物に中にはかつてはきちんと生活していたのであろうと思えるような電化製品がいくつも眠っていた。いつまで使っていたか、今使い物になるかどうかは別として。 冷蔵庫に冷凍ごきぶり、電気ポットの中に蜘蛛の巣、炊飯器に金槌・・・ 工業用ミシン、膨大な料理本。 これらの元気だった頃の生活の残像を垣間見ているうちにとても不思議な気持ちになった。同じ女としてどんな人生を歩んできたのか、いつから生活を諦めてしまったのか。彼女にとって生きるとはどういうことなのか。 それと同時に諦めてしまった生活をもう一度取り戻してほしいという思いが強く私を突き動かした。 ふと目を遣ると足元の山の中に錆び付いたオルゴールが転がっていた。かつては美しいメロディーを奏で、彼女もその音色に癒されるような生活があったのだろう。それからの落ちぶれていく永い時間の経過がひとも物質も再起不能な徹底したどん底へと押しやってしまったのだ。 それから私は彼女のことをオルゴールさんと呼ぶようになった。 オルゴールさんは話してみるとそれなりに年金があり、それで生計を立てていたことがわかった。近くのストアで食品を買って・・・あとはどうしていたのか想像もできない。ただし、家賃や公共料金の滞納もなさそうで、少ない年金を遣り繰りしてひとに迷惑かけることなくつつましく暮らしてきたという律儀さは伺えた。 まず、生活環境を整えて経済的な基盤をつくりこの生活から脱しなくてはならない。 病院の地域医療連携室に相談し2週間の社会的入院をお願いした。その間に、区の生活福祉課に出向いて生活保護の申請。事情を説明しても財産の無いことを証明するのは難しい。年金の残高が少し多いと云われ部屋の片づけをするからと、その金額を差っ引いてやっと認めてもらえた。 便利屋さんに頼んでアパートの片づけ。ごみ・・・ただし、これは私にそう見えるだけであってオルゴールさんにとっては財産・・・を選別しながら処分し、変わりに中古のテレビやガスレンジを入れてもらって、とにかく全部ひっくるめて8万円でお願いした。こんなとき、事情を飲んで無理を聞いてくれる地域の業者さんとはありがたい。同時に介護保険の申請。2週間はあっという間に過ぎていった。 やっと、何とか生活できる環境ができた。 新たな生活がはじまった。 8月の末オルゴールさんは退院した。いよいよ二人三脚での生活がはじまる。 介護認定の結果を待たずに介護サービスを開始。まったく社会から孤立して生きてきたオルゴールさんの生活習慣や生活志向を知るのは難しい。退院当日にベッドをレンタルし、ヘルパーさんに来てもらってプランの相談。オルゴールさんはまだしっかり歩けないうえに、ひとりにしたらまたすぐに元の生活に戻ってしまうことは目に見えていた。買い物も掃除もヘルパーさんに頼むしかない。とはいえ、介護保険で出来る掃除には限界があり、捨てきれない荷物や家具の無い部屋では片づけもままならず、ヘルパーさんにはボランディアに近い仕事までお願いし大変な迷惑をかけてしまった。 気が付けば夢は儚き荷物の中 掃き出しの空 風わたり 週2回はデイサービス、一番の目的は食事の確保と入浴すること。本人の意思というより生きるために今出来ることをとにかく始めるしかなかった。 頑固で、ひと嫌いで、社会性も持ち合わせていない偏屈者かと想像していたが、話してみるとそんなことはなく遠慮がちで礼儀正しい女性。ヘルパーさんともすぐに慣れ、デイサービスでも食事や入浴に大満足、そして体操や歌、ゲームなど何でも積極的に参加できるすばらしい能力の持ち主だった。 介護認定がおりると結果は要介護3。これさえはっきりすれば安心して介護サービスが使える。まず、デイサービスを週2回から4回へ、車椅子を借りてヘルパーさんと買い物にも行ける。年金以外に生活保護のお金が入るようになりお金の心配もなくなった。 するとオルゴールさんはどんどん生活能力を呼び覚ましてきた。自分で洗濯をするようになり、ご飯を炊いて魚を焼く、味噌汁を作る。本人曰く、掃除はきらいだけれど料理は好き・・・うーん、大きくうなずける。 だけど、安心してはいけない。本人に任せたら炊飯器の中はドロドロになったご飯、鍋の味噌汁は真っ白にカビの膜、なぜか冷蔵庫に洗い物が入っていたり、電子レンジの中からカビのはえたジャムが出てきたり・・・その度にきれいに掃除して、ヘルパーさんにもそこのへんのチェックをお願いして・・・やっぱり最低限の生活も維持するのは難しい。 オルゴールさんは太りすぎていて、それもうまく歩けない原因のひとつになっていた。なにしろ食べるのが大好き。しかもコーラとポテチとパンという若者なみの嗜好と食欲。何とかしなくては! デイサービスでは機能訓練で歩行練習強化。リハビリは嫌い〜と云うがPTにしっかり指導してもらう。成果もだんだん現れてきて、車椅子からシルバーカー、杖歩行とどんどん歩けるようになった。 オルゴールさんの80年 オルゴールさんの生活暦は未だによく判らない。8人兄弟の8番目、独身で結婚暦はなく、40歳ごろ故郷の釜石から友達に呼ばれて東京へ出てきた。ジャイアンツの選手の寮で賄いの仕事をしていたそうだ。 若い頃は港で仕事をして、たぶん漁師さんが獲ってきた魚を裁いたり、市場に出したり、海草を干したり、そんな仕事ではないかと思う。その頃、港にときどき来る役人さんに恋心を寄せていたことを随分後になってから聞かされた。・・・ ジャイアンツの賄いをしていたころが一番元気で楽しかった時期らしく、長島さんや王さんをはじめいろんな選手のはなしもよくしてくれた。大きな鍋で選手の食事をいろいろ作ったのだと、その頃の話がいちばん詳しく繰り返し聞かされた。そしてジャイアンツのうたをよく歌っていた。 それから洋裁も仕事もしていたらしい。工業用ミシンはそのためで、本人の着ていた洋服も手縫いのものが多かった。布や糸が多量にあって、糸はクッキーの空き箱にマシュマロのように並べられていて、裁ちばさみは宝物のようにピカピカのまま箱にきちんと収められていていた。こういうのを見つけるとまた切ない。 「ねんきん特別便」が届いて社会保険庁に問い合わせてみると東京へ出てくるまで地元で国民年金に入っていた可能性があり、それを確認するためにそのときの住所が知りたいとのことだった。本人に聞いても詳しいことは覚えてなく、生保ワーカーさんを通して戸籍を辿っても、今は地名も変わってしまってその場所はどうなっているのかわからない。 何度聞いてもオルゴールさんは「身内は誰もいない」というのだが、本当は兄嫁にあたるひとがいるのではないかと思える出来事があった。ヘルパーさんのはなしだと、新しい生活がはじまってからしばらくの間、毎日ポストを気にして見ていたそうだ。 間違いなく何かを待っている風だった。 「入院したことを兄嫁に知らせたからお見舞いを送ってくるはずだ」というのだ。それは毎日毎日・・・2ヶ月くらい続いたそうだが、いつしかそれもしなくなった。このとき、はっきりと身内はいないと確信したのだろう。最後の糸が切れてしまったのだ。 百歳までここで暮らしたい! オルゴールさんは病気もしたことない・・・多分。というより、病院へ行ったことがない。介護保険を申請するために初めて近所のクリニックへ連れて行った。デイサービスはいつからか週6回、つまり月曜日から土曜日まで毎日通所し日曜日だけ休みとなった。それは職員より多くセンターへ来ることになる。ヘルパーさんは毎日から週2回になって、掃除と買い物、通院や公共料金の支払いなどをお願いした。 オルゴールさんは朝もちゃんと起きて支度をする。食パンにジャムをつけて朝食を済ませ、時間までには玄関に出てデイサービスの車が来るのを待っている。遅れたことは一度もない。お風呂に入る日にはタオルや着替えなどの支度をして、帰ったら洗濯をする。 案外とおしゃれなひとで、ネックレスやブローチを忘れない。 これはもう見事な再生ぶりだ。 でも、いつまでもこの暮らしが続くわけでもないだろう。私はいつもこの暮らしが続かなくなった後の暮らし向きを心配していた。今のうちからオルゴールさんの今後の生活については本人とよく話し合っておかなくてはならない。 「オルゴールさんはこれからどんな風にくらしていきたいですか?」と聞くと 「わたし毎日楽しいよ。デイサービスが一番楽しい。毎日行きたい。あと二十年はここで暮らしたい」と、身体を揺らしながらまたもや少女のような無邪気さで希望に満ちた返事が返ってきた。 「そうねー、あと二十年だと・・・百二歳だよ!わたしも定年になっちゃうけれど、それまでこうしていられたらいいわね。でも、もし病気になっちゃって、歩けなくなったりしてデイサービスに行けなくなってしまったらどうする?」 「ああー、そのときは施設に行きます。そいういところでお世話になりたい」とどこまでも前向きなオルゴールさん。 こういう将来の人生設計を迷いも無く言えるっていうのはすごいことなのです。今までもこれからも、ずっとオルゴールさんは人生の全部を自己判断、自己責任で生きていくってことなのです。 昨年の夏は記録的な猛暑だった。連日の真夏日。 オルゴールさんの生活スタイルは窓もカーテンも開けず、電気もつけず、じっとテレビの前に座っている。テレビを見るときは必ずイヤーホンで音が外に漏れないようにと気を使う。私が訪問すると電気を点けてくれる。これを慎ましいというのか、生活力の低下なのか、ただのズボラなのか・・・ とにかく、この暑さでどうなってしまうかと心配でたまらない。エアコンなんてもちろんない。オルゴールさんはいらないと言ったけれど私が我慢できなくて生保ワーカーさんに相談しエアコンを入れることができた。生保ワーカーさんは「お金があれば入れてください、こちらでも対策を考えていたところです」とのこと。じつはオルゴールさんはこのとき結構お金が溜まっていた。そして、この時も地元の電気屋さんにお願いして安く、早くという無理を聞いてもらって、二日後には取り付けてもらうことができた。ついでに、ゴキブリの入り込んでしまう冷蔵庫を新しいものに買い替え、掃除機も買い、今までにない文化的な生活になった。 春には不動産に掛け合って腐った床の張替えとたたみの入れ替えも済んでいた。鉄筋アパートは私の目からも構造建築法違反と判るほど床下が低く、通気性が悪い。あと二十年暮らすと思えばこれくらいやっておかなくてはならないだろうとの考えからだ。 おかげで夏は快適に過ごすことができた。少し体重が減ったのは甘いものを控える自覚が出来てきたことと生活が整ってきたからだと思っていた。 秋になってめずらしく風邪をひいたようだった。高熱が出て動けなくなってしまったのだ。こんな時でもオルゴールさんは気丈に「大丈夫です」と、決して泣き言を云わない。ひとりで寝かせておくより、デイサービスに来てもらったほうが様子もわかるし安心だというデイサービスの配慮で、デイサービスで養生しながら皆に見守られてだんだん元気になった。 こういうところがとっても人徳のあるひとなのだ。頼まれなくてもみんなが放っておけないようなひとを引き付ける魅力の持ち主。 ダウンコートが欲しい オルゴールさんにとってお出かけといえばショートステイへ行くこと。お出かけ用の靴とか服とかバッグとか用意してあって、ショートステイに行くときは思い切りのおしゃれを惜しまない。だって、ショートステイにはとってもやさしい若い職員さんがいて女性利用者はみんなその職員に「恋する乙女」なのですから。これも職員として大切な素要なのだと思う。 ショートステイから帰ってくるとその報告がいつも楽しい。 「〇〇(呼び捨て)が来ていた。あのひとこれなのよー(人差し指をくるっと折り曲げ・・・泥棒のしるし・・・)ひとのものを何でも鞄にいれてしまう。わたし見てたんだから。わたし、あのひときらいだわー」と云ってぷいっと横を向く。 そうかと思えば「あそこの職員さん、夜中に睦んでいた〜。ああいうのわたし好かない〜」なんて、まさに井戸端会議さながら。 この刺激がオルゴールさんにはたまらなく楽しいのだと思う。 何の欲もないオルゴールさんだが、昨年の冬「わたしも綿の入っているフカフカした、皆が着ているようなコートが欲しい」と言ってきた。「ええ、どういうの?」と話をきくと流行のダウンコートのことだった。それを買ってきて欲しいと頼まれた。私は大きいサイズの洋品店へ行き15号のダウンコートを買った。オルゴールさんは喜んで、やっぱり「ああー、これこれ。ありがとうございます。今度ショートステイに行くとき着ていきます」と本当に嬉しそうに笑った。 ダウンコートの季節も終わり、春が来て桜が満開になり、神田川のお花見では万遍の笑顔で得意のポーズをとった。こういう小さな行事も人一倍楽しめるのもポジティブに生きていくための重要な才能。そして、次なる楽しみは5月のショートステイだった。 オルゴールさん倒れる 4月中ごろ、オルゴールさんは何だか元気の無い様子。食欲がなくて食事が摂れなくなってしまった。食事を残すなんてことは今まで一度も無かったので職員もただ事ではないと感じた。 ヘルパーさんから電話が入り「家でお腹が痛いと苦しんでいるのだがどうしたらよいか」とのこと。すぐに訪問し、車椅子に乗せて行きつけのクリニックへ連れて行った。 経過を話すと「流行の風邪でしょう。お薬を出しておきますからこれで様子をみてください」と3種類の薬を出された。しかし、翌日デイサービスの迎えにいくと真っ白な顔をして「夕べ何回も吐いた。お腹もまだ痛い」と苦しそうだった。 日曜日も挟んで、そんな我慢を3日ぐらいさせてしまった。そして4月17日、デイサービスで腹痛はただごとではなくなり、往診を頼み、ドクター判断でそのまま救急車を呼び病院へ運ばれ入院することになった。 その日のうちに検査、レントゲンを撮ると小腸はガスが溜まっていて真っ白に映っていて、腸閉塞だといわれた。腸液を出して減圧すれば痛みがとれると説明され、そのために鼻から腸までチューブを通す処置がされました。 ストレッチャーに乗せられ不安そうな顔で私を見つめる。思わず手を取り 「大丈夫よー、終るまで待っているから。心配しなくてもこれで痛いのも治るからね」とまるで子供を励ますように言ってしまった。オルゴールさんは 「はい」とひとこと。何を言ってもどうにもならないところに来てしまったことを分かっているかのように。 検査室からはオルゴールさんの嫌がって騒ぐ悲鳴と看護師さんのたしなめる声が交互に聞こえてきてこちらまで身体がカチカチに緊張した。 検査室からストレッチャーに寝かされたまま出てきたオルゴールさんは、鼻から長いチューブが挿入され、濁った腸液が袋に流出している。もう騒ぎ疲れてしまい、あまりもの恐怖体験からショック状態を起こし、ぐったりして全身の力が抜けてしまったようだった。 それからというもの、まったく意欲がなくなり、何を話しても「ハイ」としか言わなくなってしまい、起き上がる気力もないようだった。このとき、オルゴールさんは生きることのすべてを諦めてしまったのだと思う。 その後の検査で横行結腸にできた大腸癌だとわかり、すぐに手術をする必要があるとの連絡が病院から入った。そして、5月の連休明けに手術は行われた。 開いてみると病巣は思ったよりも大きく、周辺の臓器にまで癒着していてすべてを取り除くことはでなかった。大腸の塞がった部分だけを取り除くという対処的な手術となった。あとは進行の様子だが、本人に生きる意欲がまったくなくなってしまい食事もリハビリも拒否しているので、このままでは在宅復帰は不可能との先生の話をわたしはひとりで聞いた。そして、次の転院先を探してくださいとの通告を受けた。 オルゴールさんの孤独とは、私たちの想像では到底追いつかない深い深い闇なのだと思う。自分を待っていてくれる家族が誰もいない。損得もビジネスも抜きに心から回復を願ってくれるひとが居ない。そのことを誰よりも判っている。だから、生きる意味がない、希望がないのだ。 本来なら、オルゴールさんのような病状の場合は退院して在宅で十分生活できるケースなのだと思う。確かに病気はもう治らない。けれど、医療的な治療が何もないのだから家族に見守られながら緩和ケア療法で最後まで在宅で看取るケースはよくある。でも、オルゴールさんにはその選択肢はない。 生きることうつらうつらと白昼夢 何を求めて泣き雲のもと 新しい医療保険制度のもとでは入院は3ヶ月、そのあとは退院するか、施設に入るか、別の病院へ転院するか、そのどれかを選択しなくてはならない。けれど、オルゴールさんの場合は退院することは不可能、施設入所も末期癌で保証人もいない状況では受け入れ先は簡単には見つからない。転院先の病院を探すしかない。療養型病床を持った病院、つまり治療のためではなくこのまま病気の経過を見ながら療養を続けるための入院ということになる。 転院の日は朝からの雨、生保ワーカーさんに一緒に病院へ来てもらいオルゴールさんと三人で福祉車両に乗って新しい病院へ移った。 このとき初めてオルゴールさんと生保ワーカーさんは顔を合わせた。実は今年4月にワーカーさんの担当地域の変更があって、このワーカーさんは始めてオルゴールさんの担当になったのだ。 これまでの経過、ケアマネの立場、オルゴールさんの予後にかける思い等を時間の許す限りしゃべった。そして、預かっていたすべての財産と責務と、これからの一切を引き渡した。 私が一番判っているとか、私が一番心配しているなどという思い上がりはきっぱり断ち切った。 オルゴールさんは今後在宅に戻る可能性がなく、保護のお金で家賃を払っている以上、アパートは引き払わなくてはならない。そのことを生保ワーカーさんは丁寧な言葉で説明したが、理解できたかどうか。私はオルゴールさんの枕元に顔を近づけてもう一度聞いた。 「オルゴールさん、いま何を言われたか分かった?」すると、泣きそうな声ではっきりと 「うん、わかったよー、わかったよー」とうなずいた。 「オルゴールさんが帰ってくるまでに部屋を綺麗にして待っているから。元気になったら新しい部屋でまた生活できますからね」 胸が詰まって、このことばを言うのが精一杯だった。本当に、何もかもを喪ってしまったのだから。 7階の窓際の明るい部屋です。窓の外には小学校の校庭が見下ろせ、多くの木々と子供たちの駆け回る姿が見下ろせます。また、ここで3ヶ月。 それでも最後まで見届けさせてほしい ヘルパーさんの3年間にわたる記録が手元にある。そのひとつひとつの記録が思い出となってよみがえってくる。本当にいろんなかたの力を借りた。わたしひとりでは到底出来ない仕事だった。いつも周囲のひとたちの力を借り、何と言ってもオルゴールさんの明るく飄々とした、そして自立の精神をしっかりともった生き様があってオルゴールさんは最後の3年間を思わぬ運命に翻弄されたのだ。 わたしにとっては素晴らしい出会いだった。オルゴールさんとの思い出は一生忘れることができない。人生とは、生きるとは、強さとは、孤独とは・・・住み憂いこの世を生き抜く処世術。いろんな意味で勉強になった・・・などという言葉では思いが軽々しくなってしまうけれど、感謝の気持ちでいっぱい。 それより、何よりも今思うことはオルゴールさんがもう一度鮮やかな再生を果たして戻ってきて欲しいという願い。 この先、オルゴールさんのゆくすえを最後まで見守るひとりとして。 2008年 7月
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