夏へのあこがれ
台風とフェーン現象の猛烈な暑さも通り抜け、雨の季節もいよいよ後半となった。どんよりとまつわりつく湿った空気も、息苦しいほどのねっとりとした雨の午後もそれほど嫌いになれないのは、紫陽花がその季節を愛しているからだろう。紫陽花はむらさきのパレットを一斉に開き、そのむらさきから広がる無限の色合いに私はいつも圧倒される。どの枝も違う色の花をつけ、同じ枝でもひとつひとつ花の色は違うし、一つの花でさえ花びらの一枚一枚が微妙に色を変えている。それが赤であっても青であっても黄色であっても、紫陽花に限っては全部むらさきという一色に還元されていく。−あの美しい色をしているところは花弁で本当の花はその真ん中の小さい黄色いのだということを最近知った。
雨の季節が嫌いでないもうひとつの理由は、その後にくる夏休みというすばらしく楽しみな時間が待っているからだ。夏休みとはお盆休みとか旅行のためのちょっと長い休みではなくて、子供の時にだけ与えられたあの退屈と孤独が心地よく混じりあった、果てしない期間のことだ。この長い休みは大きな出来事を期待させる。絵日記の宿題も自由研究も楽しいことでいっぱいになる予感がした。しかし実際はそんな輝かしい出来事が突然ふりそそぐことはない。楽しみといえば学校のプールに通うくらいだった。私が子供のころは今のような大型のプール施設なんて無かったし、あってもそれは遠くてとても子供の私がひとりでいけるような場所ではでかった。学校のプールは毎日開放していたし、友達もみんな楽しみを求めて集まった。だからスイミングスクールに通っている子なんていなかったけれどみんなよく泳げた。潜りを競い、ビーチボーイズまがいのシンクロをまねし、水の中ではイルカのように自由だった。まっすぐのコースラインも、コンクリートの硬い壁も、波と光でゆらゆらと揺れてやさいく子供を誘いこんだ。そこでまた明日の約束をし、遊びの約束もした。プール上がりに、炎天下で干されたぱりぱりのバスタオルで身体を拭くときの気持ちよさは忘れられない。太陽の光の匂いとプールサイドを吹く風の匂いが入り混じり、それはまさに夏休みの匂いそのものだった。
昼下がり、畳の上にゴロンと寝転び遠くに水の流れる音をきき母の気配を感じた。「冷やし汁」が昼の定番だった。「冷やし汁」を作るとき母は大きなすり鉢に炒ったゴマをたくさん入れてガリガリとすりつぶした。庭にシソの葉、茗荷を採りに行くのは私や弟たち子供の仕事だった。ごまと味噌の入ったすり鉢にきゅうり、長ねぎ、しその葉、茗荷をいれ最後に水と氷を大胆に入れて出来上がり。これをうどんやご飯にかけて食べる。今ならダイエットに注目されるかもしれない。カルピスは夏に断然おいしい飲み物で祖母によくつくってもらった。お客様にも出せるちょっとおしゃれで贅沢な飲み物。
カブトムシを採るために前の晩に裏のかしの木に蜜をつけ、翌朝見に行くとたいがいカブトやクワガタが何匹か来ていて、その木のまわりには何人もの男の子たちがあつまっていた。オオクワガタは男の子たちの憧れで、何よりの宝物だった。
そして花火大会が夏の終わりを告げた。八月最後の日曜日、裏の河原で毎年行われた花火大会。土手に出ると、頭の上に火の粉が降ってきて、本当に火がつくのではないかと半べそをかいたことがある。そして、最後の仕掛け花火は富士山やら華厳の滝やら見事な模様を次々と夜空に描き出し、華々しく夜空を彩った。花火大会の終わりとともに夏も夏休みも全部終わった。
ひまわりは大好きな花だ。紫陽花とひまわりは気性が似ている。気品とか可憐とか繊細とかそういう花に求められるデリケートなイメージはない。しかし、絶対的な存在感と驚くほどのプライドがある。思わず顔を近づけて匂いをかぎたくなるような愛嬌はないが、そこに咲いていてくれるだけで季節は絶対的な社会的認知を得られる。紫陽花なしに梅雨は語れないし、ひまわりなしに夏は絶対語れない。紫陽花は雨に塗れていっそう色彩が際だち、どこの家の庭にも大きな花をつけ咲き誇っている。ひまわりのしゃきっと背筋をのばして堂々とした姿は夏の優等生。だけど9月のひまわりはいじらしく虚しい。疲れた顔をしてうなだれているひまわりを見るとはやく抜き取ってあげたくなる。
「季節で何が一番すき?」と訊かれると迷わず「夏」と答えてしまうのは、こんな遠い日の思い出が今でも繰り返されるのではないかという期待がどこかにあって、何年もそれを待ちつづけているからなんだと思ったりする。わたしの夏へのあこがれは、あの太陽の輝きと孤独と退屈と期待と二度と繰り返すことの無い幼い日のあの輝かしい時間へのあこがれなのかもしれない。