母への詫び状


   

1、いいわけ

 私は昨年の12月で44歳になりました。私にとってこの年齢はひとつの目標であり、願いであり、決意でもありました。私の母は25年前の1月に亡くなりました。交通事故死であったこと、わたしがその事故に大きく関わっていたこともあり、母のことについてはあまり記録として残してきませんでした。母のことを言えば必ず自分の後悔と深い悲しみと、母を取り巻く多くの人たちの非難と同情の声が私を苦しめるからです。

 いつかは母の生きた証を何かの形で残したいと思う半面、このまま自分の思い出だけで終わらせてしまっても良いのではないかという迷いもあり、母の年齢まで元気に生きていられたら書こうという決意に至っていました。母は43歳で亡くなりました。昨年一年間ずっと迷い、誕生日を過ぎても尚まだ書けないまま思いをひきずっていました。しかし、その迷いを言葉にしたことで決意が固まりました。これをやらなくては次へ進めない、いつまでも次の目標を見つけることもできないと気付いたのです。

 自分が今、こうして元気で充実した日々を送り、家族に恵まれ、何の過不足なく暮らしていけているからには、自分の責任として母の人生を残し、人生の後半につなげたいと思っています。

 

2、母のひととなり

 母はとても温厚な性格でした。控えめでひとの前に立つことを好まず、常に補佐役として動いていました。家では父を盛り立て、祖母を助け、いつも遠慮がちに生きていたような気がします。それが母の望んだ生き方だったのかどうか、それは別として。立場をわきまえて、でしゃばらないという点では完全に大人の女でした。決して社交的な性格ではなく、話がうまいなどということもありませんでしたが、不思議とひとが慕い集まってくるようなところがありました。ひとの悪口を言わないことと、話をよく聞いてくれるという母の性質は安心感を与え、ひとを引き寄せる力となったのだと思います。小さな世界ではありましたがたくさんの友がいました。

 うちの前を友人が通ると必ず声を掛けてお茶を出すような気さくさがありました。わたしは傍でよもや話を聞くのが好きでした。それはまさに子供にも理解できるほど身近で単純な話だったし、最後は必ず笑い話で終わるようなさっぱりしたものでした。しかし、そういう時間こそが、母にとって日常の楽しみであり、気を遣わずに伸び伸びとできるささやかな幸せの時間だったのだと思います。

 

 母は家の中で主導権を握ったことがありません。大きな決め事は父が行っていたし、家の中のことは祖母が主体的に仕切っていました。相談をされることはあっても、自分の意見を主張する姿は見たことがありません。父や祖母の片腕となり、黙って従っていました。しかし、その参謀的な母の立場はいつしか縁の下を支える大きな力となっており、家で一番必要な存在となっていました。

 父と祖母の不調和をとりもつのが母の役目でした。お互いが不満を母にぶつけてくるのです。母はどうにもならず、地団駄を踏んで悔し涙を流すことがよくありました。それでもすぐに気持ちを入れ替え、いつも通りの母に戻るのでした。私は母から祖母へ対する愚痴を聞かされたことがありません。だから、とても仲の良い嫁と姑だと思っていました。ただ、母と一緒に母の実家に行ったとき兄嫁と話しているうちに涙がこみ上げてきて、ワーワーと声をあげて泣き出したことがあります。兄嫁もまた、同じような苦労を抱えていましたから、一番母の気持ちを理解してくれる、こころ許せるひとなのです。

 母ははやくからパートに出ていました。主婦の仕事や責任、子供を見守る楽しみ、そんな自分のやりたかったことを、僅かな経済的自立と引き換えに祖母にゆだねたのです。私達兄弟はいつも祖母の部屋に寝て、本を読んでもらいました。学校から帰ると祖母の作ったドーナツ、甘辛だんご、蒸しパンなどのおやつがあり、それは当たり前の幸せでした。

 

 父は自分のやりたいことは何でもやる人でしたから、母はその度に父に振り回されていました。父の成功が母の喜びであったか、私には疑問です。男として、地位や名誉の野望を追いかける父と、安定した地味な生活を望む母。決して夫婦仲が良かったとは思えません。控えめな性格は気が利かないと言われ、正直さも要領が悪いと愚弄されました。それでも母は自分の使命のように父に遣えていました。特に、父が選挙に立候補した時の選挙事務所の取り仕切りは、本当に大変だったと思います。毎日百個のおにぎりをつくり、大鍋に料理を作り、翌日の準備、接待・・・それを30代の若さでやりのけたのです。そこまでやっても、感謝されたり、大事にされたりすることはありませんでした。母はいったいどこに自分の悲しみを流していたのでしょう。ひとりでずっとこらえていたのでしょうか。

 私は母が家を出て行ってくれないかと思っていた時期があります。子供の目からも母の生き方は不憫で、見ていることにも耐えられなくなってしまったのです。しかし母は私の反抗的な態度を怒りました。何にも心配しなくていいんだと言ってうっすらと笑いました。私の反抗はもろく崩れました。何日もそのことで悩んでいた私のとり越し苦労だと言わんばかりに、母はあっけらかんとしていました。

3、母から教えられたこと

 私は母から口うるさくお説教をされたという覚えがありません。母はいつも私の話をよく聞いてくれました。そして対等に扱ってくれました。夕食の後、いつまでも台所に残り母と話をしました。そこで学校の話をし、受験の相談をし、流行の話をしました。母は我が子を特別は目で見ることはありませんでした。父や祖母が過剰に誉めたり、他人に自慢したりすることを嫌っていました。だから、母の評価は公正で、等身大の自分を確認することができたのです。

 それから、母はひとに頼みごとをすることを嫌いました。「ひとを自分の便利に使ってはいけない」とよくいいました。母自信もバイクに乗っていましたが、車の免許を取りずっと自分の便利の範囲を広げました。そのお陰で我が家の生活もずっと循環がよくなりました。父の帰りを待たなくても買い物に行けるし、親戚へ行くときも、駅まで送ってもらうときも、いつも母の運転でした。自分がひとの為に動くことにはいとわないひとでした。

 欲しいものは作る、というのが母の基本でした。子供の頃はスカートやワンピースなどたくさん作ってもらいました。それも、一晩か二晩であっという間に縫い上げてしまうのです。いろいろなものを工夫して使うとか、節約の楽しさとか、生活に根付いた知恵をたくさん教えられました。

 

4、1980年正月

 私は証券会社への就職が決まっていました。春までの約束された自由な時間に夢は膨らみ、浮かれ気分で足元を見失っていました。卒業までに少しでもお金を貯めたくて、家族との正月を過ごすこともなくアルバイトに励んでいました。今思えば、何故そんなに焦って大人になる準備をしたのか判りません。真っ暗になって遠いバス停からひとりで帰ってくることを母がどんなに心配していたか、思いも及ばずに。

 家では七草がゆが炊け、家族の帰りを待つばかりとなっていました。母はたまたまその日車の調子が悪く、自転車でバス停まで私を迎えに来てくれました。「なあんだ、今日は自転車なの。さむーい」。私は母の背中にかじりつきました。広い通りを渡り、渡り終わる直前に車のライトがパッと私達を照らしました。

 そこで時間が止まりました。私の記憶は途切れ、母は翌日病院で死にました。

  父も弟たちも、祖母も悲しみに暮れ、その悲しみは日を追って深くなるばかりでした。私は罪の意識に気が狂いそうでした。世間の無責任なうわさ話も家族を叩きつけました。家族みんなが歯をくいしばって迎えた春でした。

 

5、ピエロステップ

 3月の中ごろ、私は退院しました。ちょうどそこ頃ディスコが流行っており、同じ年頃の看護婦さんからアバのレコードを貸してもらいました。弟は学校でおぼえてきたステップを教えてくれました。台所の広いたたきで、兄弟3人踊りました。何度も何度も、キャーキャー騒ぎながら、まるで子供のように頭の中を真っ白にして、汗を流しながら踊りました。祖母は涙をためながら、でもニコニコといつまでも3人の騒ぐのを見ていました。あの日、3人が泣かないためにはこうするしかなかったことを3人とも判っていました。

 4月、わたしは家をでました。

 

6、詫び状

 母は今の私よりはるかに大人でした。両足をしっかり地に付け、いつもものごとを正しく判断できる人でした。自分の立場をしっかりわきまえ、ひとに尽くせる人でした。今の私の生き方は、母のそれとは大きく異なり、愉しく生きていくための追求ばかりしています。家族も子供も全部自分の懐に抱え込み、仕事を手に入れ、趣味に興じ、欲しいものを全て手に入れています。もちろん時代の違いもあります。築いた家庭環境の違いもあります。しかし、もしこの時代に生きていたら、もう少し人生はたのしいものと思えたことでしょう。

 いつも夢に出てくる母は、割烹着を着て洗濯物を干しています。晴れ渡った空に太陽がまぶしく、竿いっぱいに洗濯物を干しながら鼻歌を唄っています。

 

  平成17年1月