風の吹くとき光の当たる場所

 

 

桜の花が咲いて散った。いつもと変わらぬ光景がそこには繰り返される。


公園で遊ぶ親子を見ながら、自分にもあんな時間があったなと心の隅っこで思う。やわらかい風が流れ、まっさらな空に透き通った雲が真綿のように軽やかに浮かぶ。
よくお弁当をもって公園へ出かけた。水場に足を浸し芝生の上で寝転ぶ。甘い匂いとぬるやかな湿度。肌にまとわりつくような子供の粘着的な体温の感触を今でもはっきりと覚えている。

毎月一回私はこの場所で季節の移ろいを感じることとなった。
犬の散歩をする女の子。
ダンスチームの学生はヒップホップに汗を流す。中央の芝生ではサッカーボールを追いかける中学生。遊具には小さな子供たちの駆け回る笑い声と、母親たちののどかなおしゃべりが新緑の葉ずれの音の中に溶け込んでいる。

 そんな休日の午後、幸せな時間の原風景を取り囲う細いランニングコースを私は走る。昨年私は走りはじめた。

 

今まで一度も考えたことは無かった。スポーツは嫌いではないが長距離は体育の授業以来やったことは無かったし、苦しいとか頑張るとかそういうことには近づかずに生きてきたわけで、これはまさに人生の転機と言ってもいいくらいの大決心だった。
でもひとは時にそういうまさかをやってしまうことがある。

私を突き動かしたもの、それは私の中にぼんやりと感じはじめた施すすべのない焦りのようなものだったかも知れない。こんな曖昧な言葉でしか説明できない人生の通過点。

   

 

 

 

3月には次男の卒業式があった。高校ともなれば小学校や中学校の卒業式とは違い出席する親も少なく、子供自身も親の参加をそれほど期待はしていない。
卒業証書授与式のご案内が送られてきたときも「別に、どちらでもいいよ」と素っ気ない反応だった。しかし私にとっては子供が一人前の社会人として認知され、親から精神的にも社会的にも離れていく自分への覚悟の日だった。
親よりずっと体格のいい高校3年生は父兄席からの拍手の間を何とも生意気な顔をして通り過ぎる。それだけでわたしは感無量になる。

卒業証書授与式というのは、親離れしようともがいている子供には自立へのパスポートを手に入れるようなもので、子離れできない親にとってはその引導を渡されるための儀式なのだ。大きな安堵感とともに何とも寂しい気持ちになる。
 

卒業の報告をしても「子供のことはおまかせします」という無関心な返事。ともに育てたという実感も無く、良くも悪くも関係ないという冷たさがそのときはどうにも我慢ならず感情の手綱が切れた。それはヒステリックに怒るとか暴れるとか・・・そういうことができたならもっとはなしは単純だったのだろうが・・・そういう直接的な行動ではなく、もうどうでもいいという投げやりな気持ち、ひとはいつでも孤独なのだということの再認識。

夫はなにひとつ変わってなかった。だけど、不安定な私の心は今までは聞き流すことのできたような言葉も行動も、我慢できたことも、コントロールできていた感情も、全部が崩れてしまって泣いて騒いで落ち込んだ。多分、わたしは子離れの儀式を、寂寞のおもいを夫と分かち合いたかったのだ。それを最後までわたしひとりに担わされたことへの憤懣がこんなかたちで爆発したのだと思う。

 

               *

 

 

4年間一緒に仕事をしたとても親しい友達がいた。ゴールデンウィークの過ぎたある日久しぶりに会って食事でもしたいと思いメールで誘った。「東京ミッドタウンへ遊びに行きませんか?」
彼女とはそうやって気楽に誘ったり誘われたり出来る仲。食べ歩きをしたり旅行に行ったり、私にとっては一番気を許せる友だった。
ところが返信は「生前は妹が大変お世話になりました」という信じられないもの。お姉さまからのメッセージだった。
少し体調を崩していることは知っていた。だから、4月の鎌倉は中止にして連中開けに会おうという約束になっていた。
ヘラヘラと全身の力が抜けた。携帯を握り締めたままその場にへたり込んだ。信じられなかったし、夢を見ているようでもあったし、悲しいんだけれど・・・・本当に悲しいのか、泣きたいのか、よく判らなかった。平静を装っていれば、このことは夢で終ってしまうような気もした。


翌日私は初めて彼女の家を訪ねた。それは話に聞いていたような瀟洒な新しい家。突然の訪問にご両親を驚かせてしまったが丁寧に私を招き入れてくれた。彼女は自分の部屋で・・・ついこの間会ったときと同じ笑顔で笑いかけてくれた。その前には使い慣れたシガーケースやキラキラのライターなど私の見覚えのある品々が並んでいて、新しい携帯も腕時計もパソコンも、これからの生活を楽しむための品々が主人を失って収まり場所をなくしていた。

 

                     *

 

夏には長男が家を出て行った。あまりにもあっさりと、暗くなる前に子供たちが家へ帰っていくように、用意された場所がはじめからあったかのように出て行ってしまった。そのときのことは「未完のものがたり」で綴ったが、あれからときどき彼女とふたりで訪れるようになり夫や私の誕生日には彼女がケーキを買って届けてくれたり、こちらからもふたりの生活を応援するべくおみやげを持たせたりとこれからの成り行きを見守ることとなった。

結局、自分が必死で営んできた時間は言わずもがな、自分のための自己満足のための暮らしだったのだ。無償の愛と言いながら、実は大いなる代償を求めていたと認めざるを得ない。自分が今苦しいのはその自己矛盾を認めなくてはならないからなのだと気付いた。

 

               *

 

夫は人間ドッグで胃のポリープが見つかった。生まれて初めての胃カメラで検査の前はかなり緊張した。こういう時、最悪の事態というものを想像してしまうのは年齢からしても仕方ないことだろう。平気な振りをして茶化すようなことばかり言っていたが、結果が出るまでは不安でたまらなかった。

家族が死のみぎわにさらされる恐怖は経験しているし、仕事でも毎日そのように相談にものっているはずだが、一瞬でも今ここで夫を亡くすと考えたとき、とてつもない闇に放り出されたような孤独がかすめた。

ひとりじゃ生きていけないという今まで一生懸命に隠していた弱さを露わにされた思いがした。

 

               *

 

社会問題についても、厚生年金問題は直接自分にも関係していた。過去の納付履歴を調べてみると半年間抜けている時期がある。調査を依頼したが、3ヵ月後に届いた報告書は「間違いないことを確認した」という内容だった。社会保険庁の問題はもう悪質な犯罪、国民を侮った前代未聞の詐欺事件と言える。賞味期限問題であれほど騒ぐほどの正義感があるのなら、社会保険庁問題ももっとマスコミが問題にするべきだと思う。まず関係者全員の処罰をするべきなのに誰もそれを言わないのはおかしい。これだけではなく省庁の体たらくは目に余るものがあり、お金に支配された人間の浅ましさには呆れるばかり。

自分の国さえも信じられず誇りももてない。

 

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暮れになって体調をくずした。左肩から左胸一帯にかけて痒みと痛み。小さな赤疹が広がった。大晦日から元旦にかけてが最悪で、熱感を伴い言いようの無い気持ちの悪さだった。12月に生理が止まってしまったことも気になっていて、それとの関係があるのか、悪い病気なのかとネットで検索したが、ぴったりくる病気も見つからなかった。

妊娠を疑った瞬間、わたしは選択的中絶を考えた。今から産んだら自分の人生設計はまったく変わってしまう。しかも、この年齢での出産は生まれてくる子供へのリスクも高い。正当化する理由をどんなに並べても空しく、自分のエゴだけでどこまでも自分勝手な選択を平気でする人間なのだ。

病気は「帯状疱疹」。疲れやストレスからくる免疫力の低下と言われた。

特別疲労やストレスは感じていないと思ったが、一年を振り返るとやはり自分も脱皮の苦しみがあったのかと思い納得することにした。

 

               *

 

そんなこんなの、認めたくない自分の内面を見直す作業は精神的に厳しいことだと実感している。

困難を乗り越えるために神様がマラソンとめぐり合わせてくれたのだと思う。
何の信仰も持たず、心の寄る辺のないわたしが無の境地になってひたすら走ることは、自分の中の信仰に近い。それは孤独との闘い。
その孤独と闘っているとき他の何もかもをそこに置き換えることができる。走り続けることは様々な孤独を乗り越えること。その苦しさが心の曇りをクリアにしてくれる。
孤独から逃げられないのならば、矛盾から目を逸らすことは出来ないのならば自分からその苦しみに向かい乗り越えるしかない。
 

仲間の励ましがあり、大会参加という目標があり、新しい世界は魅力的に輝いている。

そして、もうすぐ一年が過ぎる。

 

2008年年1月

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