霧雨の朝に ![]()
私は梅雨が嫌い。 梅雨は寂しい。 雨に煙る公園。通いなれた町並み。コンビニで買うミネラルウォーター。あの信号を曲がったら、小高い丘の上のあの建物のあの部屋で いつも私を待っていた。 何日繰り返したろうか。
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一年ほど前から父はよく我が家へ遊びに来るようになった。 それまでは用事でもなければ滅多に来ることはなく、私が子供たちを連れて実家へ帰るのを楽しみにしている という感じだった。
それが最近では 昼頃突然電話がかかってきて、「きょうは何だか仕事をする気にならないんだよ。今から行くかなぁ」 などと言っては 家で採れた野菜や子供たちへのおみやげをかかえてやってきた。父は来ると必ず子供たちを連れて 買い物に出かけた。数本のビールと惣菜を買い、私が忙しく台所に立つとゆっくりと飲み始める。光平や淳平のジュースと乾杯し、とても楽しい様子で飲んでいた。 父は健康にだけは注意しろ と口癖のように言っていた。 私は体が弱くよく高熱を出した。慢性腎炎で 子供を産むことも出来ない と言われたこともある。 そのときのことをずっと心配していた。 「30歳を過ぎたら ちゃんと検診だけはしておけよ」 とよく言われた。 そしてまた、自分の健康にも不安を抱いていたようだ。 「おやじも胃がんで死んだんだ。 俺もがんで死ぬんだ」 とよく言っていたが その言葉には癌になる不安から解放されたい という気持ちがよく現れていた。 「とにかく 一度よく調べてもらって。」 と強く勧めた。 大抵、誰から言われても 大きなお世話だ といって取り合わなかったが、今度ばかりは本気で病院へ行く気にもなっていた。 だいたい、仕事をする気力さえ無くなってしまうくらいだから、体の不安は自分でもかなり感じていたのだと思う。
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発 病
最初に電話が鳴ったのは4月22日の晩だった。
熱が何日も下がらず 植山医院でレントゲンを撮った結果 胃の下部に潰瘍が見つかった ということだった。
「詳しく調べる為24日に総合病院で胃カメラを撮るように言われてきた」 と力ない声がした。 その か細いかすれた声は それ以上言葉にはならず不安で震えていた。
24日の晩、再び父からの電話。 胃カメラの結果胃がんに間違いない。一日も早く手術した方がよい と言われた とのことだった。 翌25日、私たち兄弟三人とおばあちゃんが父の枕もとに呼ばれた。 淡々とこれまでの経過と病状について語る父。 これも運命だと言う。会社も退職願を出し、仕事はすべて引き継いできた。人生60年悔いは無し という。 どこまでも気丈に冷静さを装うのは 弟たちに弱いところを見せたくなかったからだろうか。 男としての生き様を見せつけようとしていたのだろうか。 いや 違う。父は誰にも弱さなんて見せなかった。 カッコつけていた。 電話口で私に訴える不安や動揺、切れそうに細い声、小刻みに震える息使い そういうものはあまり感じられなかった。 あくまでも冷静に自分の病気を理解し、正面から病気に向かっている という様子だった。 4月26日は日曜日。一日中買い薬で高熱を抑え、27日に植山医院に点滴に行く。
その間に予てからお願いしてあった村山秀夫先生から電話が入る。村山先生は父方の親戚関係で、東大病院で教授をしていた麻酔科のお医者様。これまでも、父は何度か兄弟や知り合いのために最後の砦として村山教授に病院を紹介してもらったことがある。 この時父は本当に生命の危機とまだ死にたくない という必死の思いがあったのだろう。自分のために電話をした。「秀夫さん、今度は自分の番です」。 その電話の返事だった。「明日がんセンターの外来に行ってください。連絡はとってあります」
その日の夕方父を迎えに行き 入院の用意をして 私の家へ連れてきた。家に泊まるのはこれが最初で最後。 うれしそうだった。 コーヒーが飲みたいといい、サイフォンでコーヒーを入れると ほんの一口しか飲めないのだけれど 「うまいよ」 とまたうれしそうな顔をした。父が がんセンターを希望したのは 我が家から近いからだった。
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入 院
4月28日、がんセンター外来へ行く。血液検査、超音波、レントゲン と次々まわされ、結局、全部終わったのは夕方だった。 外来に人影はもうあまりなかった。静まりかえった廊下で待っていると、まず父が先生に呼ばれた。この時父は 「一日でも早く入院して 手術をして欲しい。」 とお願いしている。 その後、今度は私一人が呼ばれた。
外科医・須田先生のはなし。 状態は非常に悪いです。胃がん から始まっていますが、肝臓がもう二倍以上も腫れていて ほとんど働いていません。 もう手術する段階ではありません。 今が一番いいときでしょう。 入院はしてもしなくても どちらでもいいです。 ただ、入院しなければ一ヶ月もつかどうか。 入院しても 半年は保証できません。 とにかく 遅すぎる。
その言葉を理解するために、大きく深呼吸した。 あまりにもはっきりと語る須田先生の様子に 事の重大さを知り、言葉をなくした。 もう 気休めの一言も言える状態ではない というこ、そこまでしっかりと家族は認識しておかなくてはならない程の最悪の状態である ということだけは 張り詰めた空気の中に感じた。 感じてはいるが 理解したことをどう先生に伝えたらよいのか判らなかった。自然に涙が溢れでた。 その涙は ただ父を思う悲哀の涙ではなく、胸に突き刺された刃の傷み、息も出来ない苦しさ、宿命への恨み といったぶつけようの無い怒りの涙だった。
こんな重大な話を私一人で聞かなくてはならない自分の運命を抱えきれず 崩れそうだった。先生の話が終わるまでになんとかこの涙を止めなければと ギュッと目頭に力を入れた。もう 父の顔が見られなかった。目を合わせたら心の中を全部見透かされてしまいそうだったから。
入院の準備を済ませ病室へ向かう。父はやっと ホッとした顔をした。ベットにつくとすぐに点滴がはじめられた。 顔色もだんだん良くなってきた。安心感からなのだろう 元気も出てきて食事も大体食べられた。 しかし、初めての入院という心細さは隠し切れず、私が帰るときには目に涙を溜めていた。
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闘 病
入院して何日かは それまでの苦しみから解放され 同室の方達とおしゃべりも楽しめた。食事もおいしく食べることが出来た。 そんな時は先生の誤診だったのではないか、大げさに言ったのではないかとも思いたかった。 父には奇跡が起こる、私が起こしてみせる絶対に。いつもそう思っていた。
しかし、やはりそんな日は長くは続かなかった。高熱がぶりかえした。 「この熱が気に入らねえ」と繰り返した。熱を下げるためにいろいろな薬が使われた。しかし、何日も続けるうちに幻覚が現れた。夢を見ているように突然旅行の話をしたり、もう何年も会ってはいない親友の幸島さんの話をしたりした。幸島さんとは学生時代からの友で滅多に会うことは無かったが 「親友というのは、お互い いい時は何にも言わなくても いざ困ったときには本当に信頼して助け合える友のことだ。そういう友をつくりなさい」 と言っていた。父にとっては一番の友といえる。
毎日、朝晩6時に飲む小粒の薬は痛みに良く効くありがたい薬だったが・・・。 肝臓の痛みからも解放され、一見 回復の方向に進んでいるようにも思えたが、それはモルヒネだった。
入院して数日後、担当医の赤沢先生から父へ 「家族の方に話があるから呼んでください」 との話しがあった。「家は家族といっても三人の子供しかいません」 という父の言葉に釈然としない赤沢先生の表情が見て取れた。 入院したことは誰にも話してなかった。退院して元気になってから報告すればいいんだ と言っていた。 頑なに三人だけでいいと言い張った。 そして、その日父と私達三人は別室にあつまった。
内科医・赤沢先生のはなし。 病気は胃がんです。手術はしないで薬で様子をみましょう。 抗がん剤ですから副作用はあります。吐き気、下痢などですが人によって異なります。 その効果をみて手術をするかどうか決めましょう。 父の心の動揺が大きくて、途中で休憩を入れながらの話だった。 すぐに手術が出来ないことはショックだった。 それは 死の宣告 に等しかった。 「肝臓が痛くて どうも 胃がんだけでは無いような気がするんですが」 という父に 「肝臓にも少し移転がみられます」 といってくれた。
5月7日、はじめての抗がん剤が注射された。 透明な液体は他の点滴と何の変わりもなく見えたが、その容器だけがアルミ箔で覆われていて、それだけで異様な恐怖を覚えた。副作用はすぐに現れた。翌日病院へ行くと ベットの上で体を丸めて うめき声をあげていた。 やっとの声で 「どうしょもねえ、どうしょうもねえ」 と身の置き場をなくして泣いていた。 下痢と吐き気で身体がバラバラになってしまったようだった。 この日が最悪の日だったかも知れない。 抗がん剤の恐ろしさを思い知らされた。その副作用が消えるのに 何日か要した。それでも 土・日に弟達が病院へ来るころには随分調子を取り戻していた。起き上がって話も出来た。 誰か来ると 父はシャキとした。弟達が来るのを心待ちにしていた。 次はいつ来るのか、今日は何日かと 何度となく聞いた。しかし もうカレンダーを見てもその意味さえ分からなくなっていた。 そうして 一進一退を繰り返し 徐々に体力は衰えていった。
そんな中、私達兄弟は父のことを親戚(父の兄弟)に知らせるべきかどうか 何度となく話し合った。みんな父のことを一番に考え、慎重に最良の選択を考えているはずなのに 何度話しても意見は一致しなかった。 考え方の違いは、家族観の違いだった。厚い壁を感じた。 そして皆一番言いたい一言は飲み込んでしまう。言葉を選び、傷つけあうことの無いようにと お互いに気遣う。 父が口癖のように言っていた 「兄弟三人、どんなことがあっても仲良くしていかなくてはいけない」 という言葉は三人とも心に焼きついている。
ターミナル
6月15日、朝から寝たきりだった。毎日私が行くとすぐに歯磨きをし、水を飲む。それを楽しみにしていた。しかし その日はその気力もないようだった。
「今日はお父さんが眠ったら足をギュっと抑えていてくれ。 それでないと引っ張って行かれちゃうんだ あの世に・・・」
「今 おばあさんが二人そこにきてなあ、金と銀の糸できれいな飾り物を作っているんだ。二人とも 本当にいい人でそこに座って一生懸命作っているんだ。 だけど、それを作るのには200年もかかるんだ。 そして、それは絶対に貰っちゃあダメだ。 それを貰うと あの世に行っちゃうんだ」
それでも頭がはっきりしている時には、「治ったら旅行に行こう。きれいなアクセサリーなんかいっぱい売っているところに行って なんでも買ってやるよ」 などと言った。 この日から父は個室へ移った。個室に移る時にも 「長男に相談してな」 と全部自分のお金で入院しているのに そんな気遣いをした。 個室は北側の日の当たらない部屋で、辛うじて中庭の樹木が見えるだけだった。しかし、父はとても喜んでいた。静かでいいといった。 一人で清々する とも言った。その日から父は変わった。自分を取り繕うための一切を捨てた。 もう誰のことも言わなかったし、家の心配もしなくなった。子供に帰ったように我がままだったが、私と二人でいるだけで安心という感じだった。看護婦さんたちにもとても感謝していた。いつも ありがとう と言った。血液がうまく採れず何度も針を刺されたときでも、「これはわたしのせいですから」 といった。「私は我がままですから すみませんね」などと言って看護婦さん達をなかせた。「そんなこと言わないでください。ごめんなさいね」 どの看護婦さんも とても親切でやさしかった。
最後の日、病室に入ると五,六人の看護婦さんが父の周りを取り囲み 何か測定器を取り付けていた。血圧が朝から下がってきていますので輸血をします。あわただしく空気が流れた。 意識はまだしっかりしていた。光平と淳平が来ていると錯覚している。 父はこの時 死を予感したのだろうか。私の顔や髪をゆっくりとさわり 何度も撫で回し 私の涙を指でふき取りながら 「いら泣くんじゃあねえ」 とだけ言った。少し笑ったような、少し戒めるような やさしい親の顔だった。あとはずっと手を握っていた。 弟達が駆けつけてきた。そして順番に手を握り徐々に意識が遠のいていった。 しゃべらなくなり、うなずくだけになり、握った手の強さでしか意思の伝達が出来なくなり、、やがて昏睡状態に陥っていった。
死 別
途切れ途切れだった呼吸の 息の止まっている時間がだんだん長くなり とうとう息をしなくなってしまった瞬間、みんなじっとみつめていた。まだ誰も死を認めなかった。当直の先生が蘇生のための心臓マッサージや電気による心臓への刺激など 何度も繰り返した。私は先生の手が止まらないようにと祈った。しかし二度と息を吹き返すことは無かった。絶望の涙が噴出した。
平成4年6月19日。身体から全ての管や針は取り除かれ、やっと自由になれた。痛みからも解放された。でもそれが命と引き換えだったことが悔しい。家族の悲しみとは別に 病院は死んだ人をいつまでもそこに置いておくわけにはいかない。お迎えの車の手配は手際よくなされた。実家では父を迎え入れるための準備がすすめられ、私は弟と父の荷物を車につめた。もう夜明け前だった。白々と明ける空に、梅雨時の重たい雨交じりの空気がひんやりと冷たかった。
勲 章
通夜も告別式も、父の無念をあらわすように 激しい雨が降っていた。
告別式も終わり、私もいつもの生活に戻りつつある ある日、勲六等單光旭日章が送られたことを新聞で知った。この勲章が父の60年間だったのか。 ずっと走りつづけた 人生だった。最後まで現役を降りず、倒れるまで 自分の好きなことをやり、楽しみ 頑張り 最後まで男の生き方にこだわった人だった。
平成 4年7月末日