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安里屋ゆんた 「ああ私の愛しいきれいな人よ」
これは有名な沖縄民謡のひとつです。竹富島の安里屋(あさどや)のくやまという女性を歌ったもので、島役人がきれいな女性を次々と妾にとっていったのを、くやまという女性は最後まで断り続けたという話しが歌になったものです。
それが、本土調に詩が作り替えられました。
三、サー 田草取るなら 四、サー 染めてあげましょ
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夏の初めの清々しい季節。力強い日差しが川面にキラキラと光っている。 思わず目元に手を翳し、目を細める。吹上げる風は礼服の裾を大きく巻き上げた。 結婚の知らせはメールで届いた。昨年1月、弟の誕生日のお祝いメッセージを送ったのだが、そのお礼と一緒に付け加えてあった。 「良い報告です。今付き合っている人がおりまして今年には結婚も考えております」 その後に名前、住所、家族のことや仕事のことなどとても詳しく書いてあり、それはまさに彼なりの彼女への誉め言葉でもあり、私を安心させるために一生懸命綴った「品質保証書」ともとれた。 私と下の弟は六歳違い。だから、あまり一緒に遊んだという記憶がない。どちらかと言えばお守り役で、一緒に遊ぶときはいつも泣かさない程度に相手にしていた。トランプやゲームでは負け役になってあげたとか・・・。私たちが負けてあげなければすぐに泣き出し、見かねた母が結局最後はなだめることとなった。母は泣き虫な末っ子をとてもかわいがった。ほっておけないという感じで、遊びだけではなく、勉強もよく椅子を並べて一緒にやっていた。そうやって、いつも母にくっついていたという印象が強い。 中学の入学式に、竹色の訪問着を着た母と弟が並んで撮った写真は、やさしさの溢れる笑顔で包まれていた。しかし、この平凡でとびきりな幸せは彼が中一の時に「死別」というかたちで終わってしまった。 そして、中二になった春に、私も就職して家を出てしまった。一緒に暮らした時間は本当に短いのだが、いつも心の中で何故か心配な存在だった。中三の頃だった。或る日突然私のアパートを訪ねてきた。トントンとドアが叩かれ、開けると弟がちょっと気まずそうに立っていた。 「どうしたの。ひとりで来たの。何かあったの?」 「ううん、別に・・・」 でも、ひどく淋しそうな顔だったので、それ以上はなにも聞けなかった。 中学生の男の子が、来たこともない東京のこんな小さなアパートを手紙の住所をたよりによく探し出したものだと思ったら切なくて胸が痛かった。一緒に食事をした後、何も言わずに帰っていった。あの時、何が言いたかったのか?・・・今でも聞けないままである。 父と祖母との3人暮らしに潤った安心感などあるはずもなく、父は父で自由奔放な暮らしをし、祖母は祖母でトゲトゲした空気の中で自分のペースを崩さなかった。甘える場所も、相談する場所も無かったのだろう。 でも友達が多く、彼は友達の間で自分の居場所をみつけていった。穏やかでやさしい。自分の主義ははっきりしているが、排他的なところがない。だから先輩からも後輩からもとても好かれる。そんな中で、早くから精神的な自立ができたのだと思う。 結婚式は長瀞の宝登山神社。結婚式場でもなく、地元のひとが年に何回か式を挙げるだけのひなびた佇まい。俄かに設えられた式場に両家が並んだ。人数のバランスが少し不釣合い。こちらには親戚がいない。兄弟だけというところを、母の実家の叔父、叔母に頼んで出席してもらった。 親戚を呼べない理由は父が逝去したときに遡る。父の病を子供達三人で引き受けてしまったこと、精神的にズタズタになった長男(上の弟)の地を這うような苦悩から出た叫びは、叔父、叔母に対して無礼極まりない言動となり、以来絶縁に近い状況になっている。 結局誰もが、自分の正義を通してしまったわけで、その中で、何があっても変らずに愛情を傾けてくれたのがこの叔父、叔母ということになる。
手早く、間違いのない、きらびやかで誰もが納得するようなパック商品の式場を選ばないあたりも弟と彼女らしいところであるが、このために何倍もの時間と労力を要し、とても新婚旅行まで手が回らなかったと言っていた。 弟の結婚を喜んだのは祖母も同じだった。一番長く近くにいて、三十歳を過ぎても、三十五歳を過ぎても全く結婚の気配のない弟に「早くいい人を探せ。いい人はいないのか?」と言葉にできたのは祖母だけで・・・。あんなナイーブな子によくもまあ、あんなにはっきりと言えたものだと、内心ハラハラしながら見ていたのはわたしの方だった。 弟は彼女を連れて祖母の居る老人ホームへあいさつに行った。祖母の脳みそはもう萎縮してしまって、不透明な葛餅に包まれているようなもので、久しぶりに会う弟をすぐには分からなかったそうだが、しばらく話しているうちにだんだん靄が晴れるように鮮明になってきて、帰るころにははっきりと弟が来た意味を理解してくれた。彼女にも、精一杯のお礼とお願いをしたのだろうと、あのいつもの口癖が甦る。 私たちは祖母を結婚式に連れて行くという計画を立てた。 「大丈夫、私が朝迎えにきて、車椅子を借りて連れて行くから。おばあちゃんは家族だからね。トイレだって、食事だって私に任せて!」と、覚悟を決めて言ったものの、その式場は坂の上で玉砂利の庭、階段もいくつもあってとても車椅子で行ける場所ではなかった。 彼女をはじめて我が家に連れてきたのは二月の初め。気取ったところがなく、とても自然体で落ち着きのあるひと。五つ年下だが、しっかりしていて可愛くてお似合いのふたり。 気合いが入りすぎて、この時ぞとばかりに大量に作った夕食を全部食べてくれて、そんなところも気遣いとやさしさを感じた。 二月にはあちらのご家族と顔合わせの食事会があり、六月には結婚式と順調に話は進んだ。 披露宴は長瀞の川沿いにある長生館。田舎にあって精一杯洒落た場所という素朴なホテル。 ふたりの後ろは一面のガラス張りで、新緑の山と、川の流れ、ときどきライン下りの船が行き、鳥がさえずる。雄大な自然の祝福を一身に受、これ以上のスチュエーションはないと言えるほどの鮮やかな「新しい息吹の祝膳」。ふたり共通の趣味という沖縄の民謡「安里屋(あさどや)ゆんた」を弟の三線に合わせて唄った。 式に連れて行けなかった祖母のために近場で食事会でもやろうという計画は結局実行できなかった。夏を堺に祖母は急速に衰弱していった。食に対する執着が増し、卑しいほどによく食べたが、身体は栄養を受け付けず、意識が薄れ緊急入院の後スッと亡くなった。急変の話を聞いて弟たちは前日に駆けつけている。生の限界線に立った祖母が最後に言った言葉は、お嫁さんに向かって「よろしくね」だったそうだ。 告別式の前夜、私たち姉弟三人で祖母の安置してあるホールに泊まらせてもらった。三人で一晩過ごすなんて何年ぶりだろう。子供の頃、私たちは祖母と同じ部屋に布団を敷いて寝ていた。まさに川の字である。あれから何年・・・。祖母が引き合わせてくれたとしか思えない。 一晩中、寝ないではなした。いや、怖くて寝るなんて出来なかった。曾祖父の代くらいからのことは何となくよもや話に聞かされていたが、上の弟はよく知っていて、複雑な先祖のルーツを辿って今に至るまでの『家』について話した。今は誰も住んでいない家だが、誰もが自分の生まれた家を敬愛し、愛着もあるし未練もあるし、そういう気持ちに変りはない。
それにしても、弟からのメールを見た瞬間何であんなに涙が出たんだろう。隠し様もなく、大粒の涙はすごい勢いで噴出してきて、夫や子供に大騒ぎで報告した。「嬉しい」と、「良かった」と、「偉いね」と、何度繰り返したことか。 今まで、なにひとつしてあげたこともない私がそんなに喜ぶ権利も無いのだが。 式の終わった晩、上の弟からメールが届いた。 「今日は本当によい結婚式でした。
2005年7月
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