すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、
神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
ルカ2:13-14
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
聖書の中で、御使いがあらわれるところが随所にある。神が御口を開かれるとき、それはある特別な目的のためである。また、御使いが現れるとき、それはある尋常ならざる場面である。
これは突然の出現だった。過去に例を見ない、もっとも栄光に満ちた光景だった。キリストのバプテスマの時も、天が開け、父なる神が語り、聖霊が鳩のように下って、キリストの上に来られたと聖書は記録している。しかし、天の軍勢が一斉に現れて賛美を歌うこのような出来事は、今まで決してなかった。ここには大きな理由がある。
@それは、神の子の受肉という驚くべき出来事のゆえである。神が人となられた。しかも、栄光をにつつまれて、神が人となったことがすべての人にわかるような仕方でではなく、貧しいおとめから、通常の出生という手段をとって、人知れず天からお降りになるというしかたをとられたのである。これは、栄光の神の御業を、かたずを呑んで見守っている御使いたちにとって驚くべきことだった。
Aそれは、また御子の受肉から流れ出る、滅ぶべき罪人に対する恵みの偉大さのゆえである。受肉は、神と人との間の唯一の仲介者となる唯一の手段であった。神の受肉によってこそ、神と堕落した人との無限の隔たりに橋が架けられる。神の受肉によってこそ、真の罪の赦しへの道が開かれ、受肉によってこそ、神との平和への道が罪人に開ける。
注意したいのは、御使いが、羊飼いに、しかも彼らの仕事中にあらわれたということ。羊飼いは、いつものように仕事していた。聖書の中で、神はよく、仕事をしている人のところに来ておられる。しかも、時は夜だった。野宿で夜番というのは、つらい仕事でもあろう。しかし、そんな時に神は御使いを遣わされた。私たちも人生のつらいときに、苦悩の夜に、神の栄光を見るということを心におぼえておこう。
御使いによる救い主の告知に続いて、「多くの天の軍勢が現われ」た。
「軍」である。軍隊がここで「平和」を宣言している。この軍勢は、他の御使いのことだろうし(9節「主の使い」→15節「御使いたち」)、すでに天に召されていた聖徒たちも混じっていたかもしれない。
天上での御使いの数は非常に多いということが、聖書にしばしば記されている(ヘブ12:22、黙示録5:11)。ここから慰めを受けよう。私たちは、この地上で、この国で、非常に少数派かもしれない。しかし、天上にはおびただしい数の御使いがいる。御使いの群れは私たちの味方である。御使いは、私たちの知らないところで私たちを助けてくれている。自分たちに味方してくれる火の馬と戦車が、しもべには見えなかったが、エリシャに見えたように、私たちの目も開かれるように!天の軍勢は「たちまち、・・・現われ」た。
演奏会などで、おびただしい数の聖歌隊員を舞台に登場させるには、そうとうな時間が要るだろう。しかし神は、突然、天の大群衆を出現させた。さらには、完全な調和をもって歌わせることができた。「神を賛美して」 そして、この賛美はあの羊飼いだけでなく、私たちの信仰を十分堅くするために私たちに示されたのである。
さて、御使いと天の軍勢の賛美は、救い主の誕生を輝かしく飾るものである。彼らがどのような表情でこの賛美を歌ったのかは想像するしかない。愛と喜びと力強さと真剣さを伴っていただろう。では賛美に注目しよう。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように」
実際は、ここにも、次の文節にも「あるように」に対応する動詞がない。だから、「栄光が神に」「ある」なのか、「あれ(あるいは「あるように」)」なのか、「帰せられる」なのかわからない。しかし、動詞がないことで、かえって神と栄光、地と平和が強く結びついているように思える。救い主の誕生(受肉)を神の栄光と結びつけている。この幼子の誕生は、神の栄光がほめたたえられるべき出来事なのだ、という。なぜか? 神の恵みとあわれみを具体的に示された出来事だからである。神は救い主を遣わしてくださった。神ご自身が人となられた。神ご自身が罪人の救いに具体的に乗り出された。神はへりくだる道をとられた。そのことは、何よりも神の栄光を示すのである。
「いと高き所に」、これは何のことだろうか。確かにこれは、天のもっとも高いところ、もっとも崇高なところで輝く神の栄光を称えているのであろうが、同時に、私たちの心のもっとも高いところ、心がもっとも感動し、喜び、愛するところで神の栄光を願い、それが支配すべきことも忘れてはならない。実際、天で神の栄光が輝いていても、私たちの心のもっとも重要なところで神の栄光がたたえられていないのなら、それが私たちにとって何になるのか。神の偉大さ、恵みを瞑想し、御霊の助けを祈り求めよう。
「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」
地上の腐敗のひどさを知っていた天の軍勢にとっては、「地には暴虐」ということばがふさわしいことをよく承知していたことだろう。しかし、「神の子が人となられたのなら地上に平和は実現する」と言っている。これはまず、神との平和のことを言っている。人が神に親しめないのは、人が堕落し、罪深くなっているからである。神の怒りと呪いを受けているからである。人の良心は、そのことを薄々気づいている。この心の平安のなさは、人間同士の緊張を生み、不信、疑い、争いへと結びつく。しかし、神があわれみある方として、ご自身をあらわし、キリストによって私たちの罪を取り消し、私たちの罪の責任を私たちに負わせることをなさらないとき、私たちは神と平和な状態にある。そして、父としての神の愛に支えられているとき、確信をもって神を呼び求め、神が約束された救いを安心してたたえるのである。心が神と和解してもいないのに、いくら人間同士の平和を作り出そうとしても駄目である。それは砂地に平和という家を建てるのと同じである。結局、神との平和の問題にもどってこなければならない。主イエスに結びつきなさい。
人が神との平和を持つとき、その人は実際的に平和になる。真の平和があるところに人間同士の平和もついてまわる。キリストはこの平和をもたらしてくださるお方である。彼は「平和の君」である。救い主の来臨によって、そして彼を信じて救いをいただいた者は、自分の心の中で、確かに暴虐が静まり、キリストの平和が広がったことを知る。
感謝なことに、その人は、主の「御心にかなう」人である。その人のうちに何か神がお認めになるよい点があるというのではない。神がご自身の主権的恵みによって、みこころをとめてくださったのである。神には「よきみこころ」がある。ノアのように「神の目に恵みを見出した」(文語訳参照)人は、天の軍勢とともに「地には平和」と歌うことができる。それならば、この天使たちの賛美に加わらないでよかろうか。
御子について、このような荘厳な証言があるのだから、救い主を信じないこと、彼を御使いとともにたたえないことは、いかに天の一致を乱す、ひねくれ者であり、きびしい罰に値するかということを覚えなければならないだろう。
クリスチャンたちが、心を合わせ、畏敬と喜びをもって神を賛美するわざに共に参加するとき、それは地上における天国でもある。これは、天と地の美しい調和である。天での賛美の前味である。そして、それはあの羊飼いたちに神の栄光を認めさせ、また私たちにも神の栄光を認めさせたように、ほかの人々に神の栄光を認めさせるようになるだろう。それならば、救い主により、信仰における一致をもって、声をそろえて神を賛美する、この尊いわざに参加しよう。
2005/12/25