この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒 4:12)
宮で男をいやし、集ってきた人々にイエス・キリストと、そのよみがえりのことを大胆に説教し、民に悔い改めを迫っていたペテロは、民の指導者、宗教のリーダーたちに捕らえられ、彼らの真ん中で尋問を受けた。
ペテロは、からだのいやしがイエス・キリストによってなされたということから、突然、霊的なまことの救いのことに話しを移している。話が飛んでいるように見えるが、彼はそれが語りたかったのだ。「私はきびしい質問攻めと、仕打ちを受けるだろうが、まことの救いの道を知らないこの人々に証する機会が与えられているのだ。たとえ彼らが聞かなくとも、このことは言わなければならない」と。
ここでは、「救い」が強調されている。ペテロの主張の根底には、「人はみな救われなければならない。救われなければ滅びる!」という、おごそかなバスの音色が響いている。
ペテロのこのことばは、自分を取り調べる民の指導者たちに語ったものであるが、おそらく彼はこのことばを全世界の、救われていないすべての人に語りたかったに違いない。
我々はみな、もともと罪の下にいるものである。我々はもともと、まことの神を敬わず、求めることもせず、神のみこころに逆らいどおしの生活であった。神を求め始めてから、神のみこころを知った今、我々に明らかにされる真理の一つは、我々が罪人であり、罪人以外の何者でもないことである。神のあわれみにより救われるのでもない限り、我々は間違いなく、神の永遠の怒りとのろいのもとで滅びるだろう。
しかし、キリスト教を理解しない、民の指導者たちに対して語られた、このペテロの弁明の言葉は、そのような立場の我々、「罪のために、神の怒りとのろいを受けるにふさわしい我々」に、幸いな悟りを与えることばである。
T.この否定的なことばに注目しよう。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
あなたは、このことに反対するかもしれない。「なんと排他的な宗教か」と。ある人々は、なんでも受け入れる寛容さが、もっとも高い美徳であると信じている。そのような人は、このようなキリスト教の主張を非難するだろう。「なんと排他的な」と。しかし聖書は言う。「この方以外には」というこの真理のないところには、「救いはない」と。
あなたは言うかもしれない。「キリストによらなくても、自分を克服して、難行苦行をすれば救われるのではないですか?」「でも、キリストによらなくても、悪事をやめれば救われるのではないですか?」「キリストによらなくとも、律法を忠実に守れば救われるのではないですか?」「秘跡に与っています。償いをしています。多額の献金をしています。」「バプテスマを受けましたから。福音的な教会に所属していますから。」「あの有名な牧師先生の教会ですから。正しい教理を信じていますから。」
キリストによって救われるかもしれないが、律法によっても救われる、あるいは、いくらかは自分の力で、いくらかの自分の美徳をもって、行いもいくらかはあって、自分のいくばくかの義によって、儀式律法によって、他の被造物によって、み使いによって救われる、というのは、キリストの十分さを知らないか、救いというものを知らないかのいずれかである。
しかし聖書は言います。「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と。
「救い」とは何か。単なる災難や苦しみからの救いではない。平安な生活を得ることが救いではない。死からの救いではない。地獄からの救いでもない。もちろんそれらをみな含んでいる。しかしそれらはまことの救いの枝葉に過ぎない。まことの救いを持っていなくても、災難や苦しみから救われたり、平安な生活を送っていることがあり得る。
まことの救いとは、罪からの救いである。「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださるかたです。」罪の力(サタンも含む)から、罪の咎(罪責)から、罪の汚れ(悪)から、罪の結果から(神の怒り、のろい、地獄から)の救いである。このようなことからの救いとして、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
このことばは、キリスト「のみ」によって救いがあるということである。キリストに目を向けなければならない。キリストにより頼みながら、他のところを見てもだめである。それはキリスト「に」たよることとはならない。
U.この否定的な弁明のことばのもとにある、肯定的な土台について考えよう。「この方以外には、だれによっても救いがない」ということは、「この御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていない」ということは、「この方」に救いが「ある」、ということであり、「私たちが救われるべき名として」イエスの御名が「人間に与えられて」「いる」、ということである。
神がもし、「だれによっても救いはありません。」と宣言されていたとしたらどうだろうか。我々は、ただ絶望し、裁きの日を恐れつつ待つしかない。しかし、神は「この方以外には」と言われた。「この御名のほかには」と言われた。神は怒るべき相手に、滅ぼすべき相手に、救いを備えてくださったのである。「イエス」という救いの道を。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ 14:6)
これは、キリストという「御方」そのものによって「救われる」ということである。キリストの恵み、その優れたご人格、神としてのご性質、そのへりくだり、そのあわれみ、そのみ業(特に十字架の死、流された血、復活)、そのとりなし、その知恵、そのことば、その正しさ、従順さ、すなわちキリストというお方の全存在にこそ「救いがある」。この方は、「主」「イエス」「キリスト」である。
この方は救うことができる! この方はあなたを、罪の力(サタンの束縛)から、罪の責めから、自分にしみついた罪の汚れから、罪の結果である神の怒り、地獄、永遠の刑罰から、確実に救うことができる。
したがって、あなたの救いのために、キリストという全能の救い主がおられる。どんな罪人も救われる。どんなひどい罪も赦される。どんな汚れも洗われる。キリストは決して、ご自分に来た者を捨てられない。
あなたはこの、あわれみ深く、力ある方にたよればよいのである。御手を開いて招いておられるキリストの真々中に、すべてをゆだねればよいのである。そのとき、あなたはすばらしい救いを経験することになるだろう。