ヨハネ20:11-18


イエス・キリストは、過越しの祭りのときに十字架におかかりになって死なれた。そして、三日目に死から復活されたと、聖書は私たちに伝えている。自分の理性と経験に基づいて、復活を信じない人もたくさんいるが、私たちは、神のことばは私たちの理性と経験を導くものであることを知っているため、喜んでこの記録を信じる。また、キリストの復活を目にした人々の変わり様と、その働きの力強い影響力は、作り話として簡単に片付けるわけにはいかない。そして、キリストの復活を信じる私たちの大きな理由は、これを信じた私たちの内側に働く神の恵みを経験し、味わっているからである。 
過越しの祭りは、三月中旬から四月中旬の間に行われる(ユダヤ人は、今でもこれを守っている。私たちは、イエス・キリストが私たちの過越しの小羊であったことを知っている。だからキリストを信じて罪赦され、キリストを愛し、キリストの命令を守って生きる生活こそが、まことの過越しの祭りである。)。キリストが三日目によみがえられたということは、ちょうど今の時期に復活されたということになる。 
そこで、私たちはキリストの復活の朝の一場面に注目し、そこから教えと慰めと励ましを得たい。それは、マグダラのマリヤと復活の主の会話である。復活の主は、最初マグダラのマリヤに、ご自身を現わされた。 
マグダラのマリヤは、かつて「七つの悪霊」を宿していた。しかし、主のあわれみによって、彼女は救われた。それでマリヤは、自分の救い主をこよなく愛した。だから救い主の死は、彼女に大きな悲しみをもたらした。彼女は、愛する主のなきがらに対してできるだけのことをしようと考え、墓にやって来た。しかし、主の御からだがそこになかったことは、彼女の悲しみを増し加えた。 
「しかし、マリヤは外で、墓のところにたたずんで泣いていた。」(11節)
マリヤはキリストへの愛のゆえに泣いていた。マリヤがここに来たのは、イエスのからだに油を塗るためだった(愛は死んでしまったからだをも大切にさせる)。しかし、墓は空だった。それで彼女は泣いていた。「だれかが私の主を取って行きました。」と。しかし、実際そのことは彼女を喜ばせる出来事だったはずである。主のからだがそこにあったままだったら、彼女は本当に泣かなければならなかった。なぜなら、そのことは主の約束(マタ28:627:6320:19)が成就しなかったということであり、主の十字架のお働きは何の意味もなさず、彼女も他の人も、罪の中にいることになるからである。 
しかし、この涙は彼女の主への愛をあらわしていたのと同時に、主の約束に対する盲目をもあらわしていた。彼女は約束を聞いていたからである。確かにこの涙を不信仰と考える人もいる。なぜなら、主は死んで、三日目によみがえることを何度も予告しておられたから。しかし、私はマリヤを非難できない。マリヤは主の三日目のよみがえりの予告のことを、どれだけ悟っていただろうか。実際にそれが起こってしまうまで、その現実味はわからなかっただろう。 
1)  それは死というものの不動の現実のためである。死はすべてのものを飲み込んでしまうものとして私たちの前にそびえ立っている。死はキリストをも飲み込んでしまった。マリヤたちにとって、あとは自分たちの習慣にしたがって、主のからだを丁重に葬るだけだったのである。ここには、したがって、死という厳しい現実に服しているひとりの女の姿がある。 
2)  しかし、主の約束は、その不動の現実を打ち破るほどの力強いものだった。死からのよみがえりを信じるというのは、それほど超自然の事柄である。神の力を抜きにしてこの信仰はあり得ない。主が以前から弟子たちやマリヤたちに語っておられたよみがえりの予告は、私たちの世界での固定観念を、神の力によって打ち破る内容のものだったのである。 
「見ずに」、つまり聞いただけで、「信じる者はさいわいです。」と主は言われた。しかし、私たちはどれほどマリヤと違うだろうか。まだ現実となっていない主の約束を、どれほど信じているだろうか。あの聖霊によって語ったエリサベツのことばによって教えられよう。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ 1:45 
さて、御使いがマリヤに言っている。「なぜ泣いているのですか。」 そして、マリヤは答えた。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」と。 
これは、マリヤの推測を語っている。あるはずのからだがない。墓が空になっているというのは「事実」である。そして「誰かが取って行った。」というのは、マリヤが推測したことである。あるはずのからだがないということは、可能性として「誰かが」動かしたとしか考えられない。通常は! しかし、もう一つの可能性が残されており、彼女はそのことに盲目だった。それは、主のお約束どおり、死からよみがえる、死から起き上がるということである。 
この時、マリヤの後ろによみがえった主が立たれる。マリヤは「うしろを振り向い」ている。J.C.ライルは、その理由として四つの可能性を挙げているが興味深い。
  a.彼らとの会話を続けたくなかったので、彼らに背を向けた。
  b.後ろで足音が聞こえたから。
  c.後ろに立った誰かの影が墓の入り口にのびたから。
  d.彼女と話していた御使いたちの仕草が目にとまって。    ---------※1 
「すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。」そして、主も同じように尋ねられた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
これは、キリストのよみがえりの後では、適切な質問である。キリストがよみがえったのに、「なぜ泣いているのか?」 私たちの身代わり人であり、保証人であられるキリストは、苦しみを受け、私たちの罪のために死なれた。それによって、私たちの罪は赦された。そして、キリストはよみがえられたのに、「なぜ泣くのか。」 
カルヴィンは「これは非難と慰めとの混じり合った言葉である。」と言い、「マリヤの時宜を得ていない涙を非難しながら、同時によろこびの気持ちをまじえて『キリストはよみがえったのだから、泣く理由は何もない』と言っている」と述べている。※2 
一方、マリヤは、主が目の前におられるのに泣いていた。これは盲目による涙だった。ハガルは、井戸が近くにあるのに、目が開かれるまでわからなかった(創世記 21:19)。あるいは、絶望と悲しみのためだったのかもしれない。しかし、これは私たちの経験をよくあらわしている。私たちは、時々、「実際にはそれが私たちの手の届くところに、いや、時には自分の右の手にあるのに、それがないと言って、なんとしばしば悲しむことだろうか。私たちの生涯で恐れることの三分の二は、全然起こらず、私たちの流す涙の三分の二は、無駄に流されている。」(ライル) 信仰と忍耐を求めて祈ろう。試練の時、苦しい時こそ、主を見上げ、主に助けを求めよう。 
「人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」と主は予告しておられる(ルカ 21:26)。私たちの心は、恐れれば恐れるほど、嘆けば嘆くほど正常さを失っていく。私たちは、時代の流れを見るとき、これからどうなっていくのだろうと思わされる。しかし、こういう時こそ救い主の忠告を心にとめよう。主は言われた。「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」(28) 落胆して下を見るより、詩篇記者とともに「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」と告白しよう(詩篇 121:1-2)。 
しかし、マリヤは、あんなに主を身近に知っていたのに、なぜわからなかったのだろうか。涙でよく見えなかったか、よみがえりの主の姿は以前と違っていたか、盲目にされていたかのいずれかだろう。しかし、これは、私たちの霊的経験をよくあらわしている。主は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と約束しておられる(ヘブル 13:5)。しかし、何としばしば私たちは主のご臨在を悟れずにいて、「主はどこにおられるのか」と、うろたえ、落胆することだろう。 
しかし、主の一言がマリヤの目を開く。それは「マリヤ」との呼びかけだった。マリヤはそこで、主だと悟って答えた。「ラボニ(「先生」)」と。 
よい牧者は「自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」とある。たましいの大牧者イエスのこの声は、マリヤの心の中まで入り込み、彼女の目を開き、彼女の思いを目覚めさせ、彼女を感動させて、たちまち彼女がキリストに心をささげるようにしている。私たちの救い主のまねきも、これと同じだった。主が私たちを名指しで呼んでくださったので、私たちは主に従う者となった。 
マリヤは「ラボニ」と心をこめて答えた。彼女の思いは感動で一杯になって、ただこの一言をやっと発することができたのだろう。そこには驚き、喜び、敬い、忠誠心、愛などが一杯詰まった一言である。 
さきほどまで、きびしく辛い現実に服して泣いていた女が、一瞬にして変えられた場面である。それは、よみがえりの主との交わりと通してであり、主からの一声によってであった。この後、マリヤは弟子たちを奮い立たせるために遣わされて行く。そして弟子たちは世界中の民を奮い立たせるために遣わされて行った。そして、私たちのもとにも福音が届けられた。 
キリスト教は、キリストのよみがえりに基づいている。そして、それを信じて救われたあなたは、今度は人々を奮い立たせるために遣わされる。復活の主を信じるあなたに、もう涙はないだろう。そこにあるのは、「マリヤ」との呼びかけに「ラボニ」、「信じます、従って行きます。」と応答する、力強く、よみがえらされた信仰があるだろう。 
 2005/03/27
1:「ライル福音書講解ヨハネ4」(聖書図書刊行会)P.385
2:カルヴァン新約聖書注解W ヨハネ福音書下(新教出版社 山本功訳)P.618