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実例2


2才から3才の間に、神のことでおどろくほど影響を受けた子どものこと。
その生と死の短い記述。





 この子は、まだちゃんと話せなかったころから神さまを求めて叫び、よいことを教えてもらうのを非常に強く願いました。

 この子は、家族の祈りをせずにベットに寝かされるのにはまんができず、両親がその務めをおこなうよううながし、自分をおささげする心でひざまづき、しかもその務めが終わるまで疲れたようすなどみじんも見せることなく、非常な忍耐と喜びをもって続けるのでした。そしてこの子が祈りにくわわっているときほど喜んでいるようすは、他にはありませんでした。

 この子は家族の祈りの時だけでは満足できず、しばしばあちらこちらのすみに行って、ひとりひざまづいて祈るのでした。

 この子は神のことばの説教にしろ、朗読にしろ、聞くことを非常に喜びました。

 この子は、神のことについて何か学ぶため、学校に行くのを好みました。この子は読んだことをよく心にとめて、家に帰ってからそのことを熱心に語るのでした。この子は自分の本を喜び、こう言うのでした。「お母さま、ぼくは今日、とてもいいことを学びました。ちょっと本をとってきて聞かせてあげるから、少しまっててくださいますか。」と。

 この子は成長するにつれて、次の世界のことにますます心がうごかされるのでした。それは、もしこの情報を、その忠信さが疑いようのない人から受けたのでなかったら、とうてい信じられないほどのものでした。

 この子はすぐに聖書を読むことを学び、大いなる敬いと、やわらかい心と、うめきをもって読み、涙を流してむせび泣き、読めなくなるまで読むのでした。

 この子がひとりで祈るときは、よくはげしく泣きました。

 この子は、しばしば、自分の心の悪さのことで不満をもらし、自分というものが腐っていることで、また実際の罪のことで、大いに嘆いているようでした。

 この子は、神のことについて、その年にしては不思議とも言えるくらいの広い理解をもっていました。

 この子は、しなければならないことをしている時に、その思いがあちらこちらにさまようことに、またその心を神さまや、しているお手伝いにいつも定めていることができないことに、また神さまへの愛がいつも決まってわき上がらないことに、たいへん苦しんでいました。

 この子は、自分の心を見はりつづけ、自分のたましいのさまざまな動きに注意していました。この子は自分の心があまりにもむなしく、愚かで、霊的なことに励むことがあまりにも少ないと、よく不満をもらすのでした。

 彼は成長するにつれて、その知識と経験が日ごとに成長していきました。彼のものごしは非常に天的、その話しは非常にすぐれ、実際的で、それを聞いた人をおどろかせるようなものでした。

 彼は祈りの中で、神さまにとてもしつこくせがみ、懇願し、祈りの中でそのような議論を用いるのでした。そのような議論が、こんな子どもの心に入るなど不可能なことだと考える人もいたほどです。彼は乞い求め、いさめ、泣くので、時々近所の人たちの耳に入らないわけにはいきませんでした。それは、となりの家のひとりにこう叫ばせたほどです。「あの子の祈りと涙は、私を地獄にしずめる。それによってあの子は、私が祈りを怠ったり、私のうすっぺらな祈りを罪に定めているから。」と。

 この子は、わるい仲間のことをとても恐れていました。そして、そのようなものから守られるように、また神さまを不愉快にさせることを楽しむような人たちを好んだり決してしないように、よく神に求めていました。この子が、悪いことばとか、主の御名が軽々しく使われたり、誓ったり、どんなきたないことばでも聞くときにはいつでも、それはこの子を震え上がらせ、すぐに家に帰って泣くようにさせるのでした。

 この子は、うそを心の底からひどく嫌いました。

 この子が間違いを何か犯したときには、容易にそれを悟り、どこかの隅に行って、隠れたところで涙を流して神のゆるしを求め、そのような罪に勝つ力を求めるのでした。この子には、彼をよく見まもり、その寝室のドアのところで聞いたひとりの友だちがいましたが、私はこの話しをその子から聞きました。

 このような罪をまた犯したいと思うかとたずねられると、この子は自分の心は悪いからと言って決して約束はしませんでした。それでもこの子は、神さまのお恵みによってもう犯さなければいいと思う、と泣きながら言うのでした。

 この子が主の日に家に残されるようなときには、その日のどの部分も、必ずといっていいほど、むだに過ごしたり遊んだりしないで、祈ったり、聖書を読んだり、教理問答書を学んだりして忙しく過ごすのでした。

 他の子たちが遊んでいるときに、この子は祈っているということがよくありました。

 ある時、ある人がキリストのご性質や、職務や、そのすばらしさについて、そしてこの方だけが私たちの罪のために満たすことができ、私たちのために永遠のいのちを勝ち取ってくださったことについて、またその他の偉大なあがないの奥義について、この子とお話しをしました。この子は、救われるしかたで、それらを理解したようで、その話しを非常に喜びました。

 からだのよみがえりのことが語られると、この子はそれを認めましたが、教会の墓地にほうむられたのと同じ弱いからだがもう一度よみがえるということをとても奇妙に思いました。しかし、彼は深く感動して、神さまにはできないことはないと納得しました。その当日、この子は死の病にかかりました。

 この子がはじめ病にたおれたとき、友だちがこの子に、よろこんで死んでいけるかどうか尋ねました。この子は、次の世界で自分がどうなるかを思うと恐ろしいから、よろこんで死んでいけない、と答えました。「どうして」と他の人が言いました。「あなたは新しい心のために、へりくだった誠実な心のために祈っていたじゃない。私はそれを聞いたよ。あなたは心から祈ってなかったの。」と。

 「心から祈ったと思う。」とこの子は言いました。

 その後間もなく、同じ人がもう一度、よろこんで死んでいけるか、と尋ねました。彼は答えて言いました。「もうよろこんで死んでいける。ぼくはキリストのところに行くんだもん。」と。

 ある人がこの子に尋ねて、もしあなたが死んで去っていったら、あなたの妹はどうなるのか、と言いました。この子は、「主のみこころがなりますように。」と答えました。

 この子はしだいしだいに弱くなっていきましたが、快方に向かうのを待ちながら、たいへんな愛らしさと忍耐をもってふるまい、そして最後にはその霊を喜んで主にゆだね、「主イエスさま、主イエスさま」と主の御名を呼びながら、そのふところに心地よく眠り、死んでいきました。確かこの子が6才くらいの時だったと思います。




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