神の救いの御計画


アルミニアニズムとカルヴィニズムの比較



汝ら先には咎と罪とによりて死にたる者にして・・・神は汝らを生かし給へり。
 行いに由るにあらず、これ誇る者のなからん為なり。        エペソ2章


序論

 歴史を通じて、聖書の中には、三つの主要な救いに関する理解が見出される。第一のものは(いかなる福音的グループも支持しないものであるが)、万人救済説である。すなわち、神は全ての人間を救う事を聖定し、かつ、それを実行されると言う。本書では、この見解については考察しない。第二は、神は堕落した人間のある者を救う事を聖定し、彼らのために死にたもう贖い主によって彼らの救いを現実に達成するのである。第三は、神は、いかなる者をも救おうと聖定しなかった(ただ、神が人間の未来の悔い改めとか信仰とかいった良き業を予見した事は例外である)。また、キリストの死はいかなる特定の人間の贖いをも実際には保証しなかったし、ただ、すべての人類に救いの可能性を与えたにすぎない。本書でほ、第二、第三の見解のみを比較する。第二の立場の真理に関する詳細な聖書的証明は述べないが、将来においてこの目的のために「恵みの教理」という本を出版したいと望んでいる。
 これらの救いに関する二つの体系は、初期の教会にまでさかのぼる。カルヴィンとアルミ二ウスの死後、1619年より「カルヴィン主義」と「アルミニウス主義」という現在の名称を用いるようになった。一方のみが正当で、他方は神より栄光を取り去り、人間を高めようとする偽りの教理である。

「アルミ二ウス主義の五点」

1.人間の自由意志あるいは能力
人間の性質は堕落(罪)によって著しく影響されたが、人はまったく絶望的な霊的状態に捨てられたわけではない。神は恵み深く、すべての罪人に悔い改めと信仰の能力をお与えになるが、これをなさる時、人の自由を邪魔されない。罪人はみな自由意志を持っており、それの用い方によって彼の永遠の運命は決定する。人の自由は霊的な事柄について悪より善を選ぶという能力によって成立している。彼の意志はその罪深い性質の奴隷とされているわけではない。罪人は、聖霊と協カする力を有し、そして再生され、あるいは、神の恵みに抵抗し、そして滅びる。失われた罪人は聖霊の助けを必要とするが、信ずる事が可能とされる以前の聖霊による再生は必要としない。というのは、信仰は、人間の行為であり、新生に先行するものだからである。信仰は神に対する罪人の贈り物であり、それは救いに対する人間の功績なのである。


「カルヴィン主義の五点」

1.全的無能力あるいは全的腐敗
堕落(罪)のゆえに、人は自分自身によって福音を救いに至るまでに信ずる事はできない。罪人は、神の事柄に関しては死人であり、目は見えず、耳は聞こえず、彼の心は欺きに満ちており、かつ絶望的なまでに腐敗している。彼の意志は自由ではない。それは、彼の悪しき性質の奴隷なのである。それゆえ、彼は、霊的領域において、悪より善を選ぶと言う事をしないし、真に、できないのである。従って、聖霊は罪人をキリストのもとに導く事を助けるばかりでなく、罪人を生かし、かつ、新しい性質を与える再生が必要なのである。信仰は人が救いのために貢献する何かではなくて、むしろ信仰自体が、神の罪人に対する賜物の一部なのであって、罪人の神に対する贈り物なのではない。

2.条件的選択
天地創造以前の救いに至る特定の個人に関する神の選びは、神の招きに対する彼らの応答を神が予見されるという事に基づいたのである。神は、彼らの自由意志によって福音を信ずるであろうと予知した者のみを選ばれたのである。それゆえ、選びは、人間がためすところのものによって決定され、あるいは、条件づけられるのである。神が予見し、かつ、その選びが基づくところの信仰とは、神によって、罪人に与えられるものではない。 (それは聖霊の再生的力によって造り出されるものではなくて)ただ、人間の意志によってのみもたらされるものである。誰が信じるのか、そして、誰が救いに選ばれているかという事は、まったく人間に任されているのである。人が自分自身の意志で、キリストを選ぶという事を神が予知した者を、神は選ばれた。かくして、神による罪人の選びでなくて、罪人によるキリストの選びが救いの究極的原因なのである。


2.無条件的選択
天地創造以前の救いに至る特定の個人に関する神の選びというものは、まったく神ご自身の主権的意志にのみ基づくものである。特定の罪人に対する神の選びは、人間の側における信仰とか悔い改めとかいった応答あるいは従順を神が予見される事によるものではまったくない。むしろ、神が、ご自身の選ばれた各個人に信仰と悔い改めを与えられるのである。これらの行為は結果なのであって、神の選びの原因なのではない。それゆえ、選びと言うものは、人間の中に予見されるいかなる良き性質とか行為によって決定されたり、条件付けられたりしたのではない。神は、主権的に選ばれた者を、聖霊の力を通して、キリストを喜んて受け人れるまでに導かれるのである。かくして、罪人がキリストを選ぶのではなく、神が罪人を選ばれるという事が、救いの究極的原因なのである。

3.普遍的贖いあるいは一般的贖罪
キリストの贖いの御業は、すべての者の救いを可能にしたが、実際には、何びとの救いをも確実にしなかった。キリストは、全人類のため、各個人のために死んだのであるが、ただ、彼を信ずる者のみが救われるのである。彼の死は、罪人が信ずるという条件下で、神が彼らを赦す事を可能にしたが、しかし、現実には、何びとの罪をも取り除く事をしなかった。キリストの贖いというものは、もし、人がそれを受け入れる事を選ぶ時にのみ有効性を持つものとなるのである。
3.特定的贖いあるいは制限的贖罪
キリストの贖いの御業は、選ばれた者のみを救うために計画されたものであり、かつ、彼らのための救いを現実に確保したのである。キリストの死は、ある特定の明確な罪人たちの罪のための身代りの刑罰であった。キリストの贖いは、ご自身の民の罪を取り除くだけでなく、キリストに結合する信仰を含む彼らの救いに必要なすべてのものを確保したのである。信仰という賜物は、聖霊によって、キリストが死んてくださったすべての選民に確実に適用されるのである。それによって彼らの救いは保証されたものなのである。

4.罪人は有効的に聖霊に抵抗できる
聖霊は、福音の招きによって外的に召されるすべての人を内的に召される。彼はすべての罪人を救いに導くために、彼のできる事のすべてをなさる。しかし、人間は、自由であるので、聖霊の召命にうまく抵抗できる。聖霊は、罪人が信ずるまでは、彼を再生する事ができない。すなわち、信仰(それは人の功績である)は、新生に先行し、かつ、それを可能にする。かくして、人間の自由意志は、キリストの救いの御業の適用において、聖霊を制限するのである。聖霊は、ご自分の導きを許す者のみを、キリストに引き寄せる事ができるのである。罪人が応答するまでは、聖霊はいのちを与える事ができない。それゆえ、神の恵みは、不可抗的ではなくて、人間によって、しばしば抵抗され、邪魔される事が可能であり、実際に、そうされている。


4.聖霊の有効的召命あるいは不可抗的恩恵
福音を聞くすべての人になされる救いへの外的一般的招きに加えて、聖霊は、選ばれた者を確実に救いに導く特別な内的招きを与えられる。いかなる区別もなくすべての人に与えられる外的招きは、しばしば、拒否されるのであるが、選ばれた者に対してのみなされる内的招きは、拒絶されず、必ず、回心に至るのである。この特別の招きという方法によって聖霊は、不可抗的に罪人をキリストに引き寄せられる。神は、救いの適用の御業において、人間の意志に制限されたり、その成就のために人間の協力に依存したりは、なさらない。聖霊は憐れみ深く選ばれた罪人が、協カするように、信ずるように、悔い改めるように、そして、自由に喜んでキリストのもとに来るように働かれる。それゆえ、神の恵みは不可抗的なものである。神が与えようとしておられる人々への救いの成就という事に関して、失敗というものは決してあり得ないのである。


5.恵み(救い)の状態から落ちる事があり得る
信じ、かつ、真に救われた者も、信仰を維持しそこねることで彼らの救いを失い得る。(註:すべてのアルミニウス主義者が、この点で同意しているわけではない。ある者は、信者は、キリストにあって永遠に安全である。すなわち、罪人がひとたび「決心」をするならば、再生されているのであるから、決して失われる事はない、というのである。)


5.聖徒の保持と堅忍
父なる神に選ばれ、キリストによって贖われ、聖霊によって信仰を与えられるすべての者は永遠に救われている。彼らは、全能の神の力によって信仰のうちに保たれ、かくして、終りまで忍び通すのである。


「アルミニウス主義」によって
救いというものは、(先導する)神と(応答する)人間の努力の結合によって達成され、かつ、人間の応答は、決定的要因である。神は、すべての者のために救いを備えた。しかし、その備えは、自己の自由意志によって、神と協カする事を「選び」、かつ、恵みの提供を受け入れる者にとってのみ有効となる。重大な点に関しては、人間の意志が決定的な役割を果たすのである。かくして、神ではなくて、人間が救いの賜物の受領者がだれであるかを決定するのである。


「カルヴィン主義」によつて
救いというものは、三位一体の神の全能の力によって達成される。御父は、民を選び、御子は、彼らのために死に、聖霊は、選ばれた者を信仰と悔い改めに導き、福音に喜んで服従するようにさせる事によってキリストの死を有効にされる。この過程のすべて(神の選び・贖い・再生等)は、神の御業であり、ただ、恩恵のみによるのである。かくして、人間ではなくて、神が救いの賜物の受領者がだれであるかを決定するのである。

  ドルト会議で「否決」された。

1610年、アルミニウス派によってオランダ教会に公認のために提出されたこの教えの体系は、1619年に聖書的ではないという理由で、ドルト会議において否決された。


  ドルト会議で「再確認」された。

この神学の体系は、1619年のドルト会議において、聖書にある救いの教理として再確認された。当時、この体系は、アルミニウス派の提出した五点に関して答えるために、「五要点」として、系統立てられた。それ以来、「力ルビニズムの五要点」として知られている。




カルヴィン主義とアルミニウス主義の相違

 この二つの体系は、神について、人間について、罪について、救いについての二つの異なった概念を提示する。パッカーは、ジョン・オーエン(1616〜1683年)の贖いについての書物の序文において、二つの体系を対照している。「両者間の相異は、主に強調点に関するものではなく、内容に関するものである。一方は、救いをなす神を宣言し、他方は、人間をして、自分を救い得るようにする神について語る。一つの立場(カルヴィン主義)は、失われた人間の回復のための聖三位一体の三つの偉大な行為(御父による選び、御子による贖い、聖霊による召命)を、同じ人間各人に向けられるものとして、かつ、彼らの救いを確実に保証するものとして教える。他の立場(アルミニウス主義)は、各行為に異なった意味(全人類は贖いの対象である事、福音を聞く者は召しの対象である事、聞いて応答する者は選びの対象である)を与え、なお、これらによって人間の救いが確証される事を否定する。このように、二つの神学は、まったく違った用語で救いのご計画を理解している。一つは、救いを、神の業に依存するものとし、他方は、人間の業次第とする。一方は信仰を神の救いの賜物の一部とみなし、他方は救いのための人間の功績と認める。一方は、信ずる者の救いについてすべての栄光を神に捧げ、他方は、いわば、救いの「装置」(方法)を製作した神と、信じてこれを作動する人間との間に、誉れを二分する。」
 アルミニウス派よりの五点に関して出されたカルヴィン主義的救済論の五点についてパッカーは次のように述べている。「カルヴィン主義の五点については、分離して各々に論じられるが、実際には、分離不能なのである。それらは相互依存的である。もし一点を拒否すれば、全部を拒否する事になる(少なくとも、ドルト会議においてはこの事を意味した)。カルヴィン主義においては、救済論には、唯一つの点しかない。それは、神が罪人を救うという点である。神が --- 三位一体なるエホバ、父、子、聖霊、三つの人格は、主権的な知恵とカと愛をもって、選民の救いを達成するために御業をなされ、父は選び、子は贖いによって父の意志を成就し、聖霊は再生の業によって父と子の目的を遂行される。救う --- 撤頭撤尾、すべてをなさる。すなわち、人間を罪における死の中から栄光におけるいのちにまで導く事を含むのである。計画し、贖いを成就し、かつ、伝達し、召命し、保持し、義とし、聖化と栄光を与えて下さる。罪人を --- 人は神の目の前に、有罪であり、汚れており、絶望的で無力である。神の意志(みこころ)を行うために、いかなる手助けもできず、より良き霊的状態への改良も不能である。神が罪人を救われる --- この告白の力を次の事柄によって弱めてはならない。三位一体の御業の統一性を分裂させる事によって、あるいは、救いの達成を神と人間とに分割する事によって、また、人間の側に、決定的要素を帰する事によって、あるいは、罪人の無能力性を和らげる事によって、かくして救い主と、救いの賛美を分つ事を許すような事をしてはならない。そして、これこそが、アルミニウス主義が否定し、「カルヴィン主義の五点」がその救済論において確立を目指している一点なのである。すなわち、罪人はいかなる意味においても、自分自身を救い得ないのである。救いは撤頭撤尾、はじめから終りまで、まったく、過去においても現在においても未来においても、主のものなのである。栄光がとこしえに神にあるように。ア--メン。」(ローマ11:33〜36)



カルヴィン主義的救済論の聖書的証明

1.霊的に死んだ人間。罪と悪魔の奴隷であり、無力なもの等。
重要な聖句:汝ら先には咎と罪とによりて死にたる者にして、この世の習慣に従い、空中の権を執るつかさ、すなわち不従順の子らの中に今なお働く霊のつかさに従いて歩めり。我等も皆先には彼らの中におり、肉の慾に従いて日をおくり、肉と心との欲するままをなし、他の者の如く生れながら怒りの子なりき。されど神は・・・我らを生かし給えり(エペソ2:1-5)。

創世2:16、6:5、伝道9:3、エレ17:9、マコ7:21-23、ヨハ3:19、6:44,65、8:34,44、ロマ3:9-12、5:12、6:20、8:7-8、Tコリ2:14、テト3:3 等。


2.父なる神の選び、予定。人間の応答(行い・業)に条件づけられないもの(神の主権という教理の一部)。
重要な聖句:神を愛する者、すなわち御旨によりて召されたる者のためには凡ての事、相働きて益となるを我らは知る。神はあらかじめ知り給う(特別の選んでおられる愛をもって認めてくださる)者を御子の形にかたどらせんとあらかじめ定め給えり。これ多くの兄弟の中に、御子を嫡子たらせんがためなり。またそのあらかじめ定めたる者を召し、召したる者を義とし、義としたる者には光栄を得させ給う(ローマ8:28〜30)。

出33:19、申10:14-15、ヨブ42:1-2、詩115:3,135:6、イザ14:24,27,46:9-11,55:11、マタ11:27,24:14,22,24,31、マコ13:20、ヨハ15:16、使徒13:48,18:27、ロマ8:33,9:10-24,10:16,11:4-6,28、Tコリ1:27-29、エペ1:4-5,12,2:10、Tテサ1:4-5,5:9、Uテサ2:13-14、Uテモ1:9、ピリ2:13、Tペテ1:1-2、2:8-9、黙13:8,17:8 等。


3.選民(キリストの民、羊、花嫁、教会「我々」)を贖うキリスト。
重要な聖句:汝その名をイエスと名づくべし。己が民をその罪より救い給う故なり(マタイ1:21)。善き牧者は羊のために生命を捨つ(ヨハネ10:11)。

ヨハ6:35-40,10:11,14-18,24-29,17:1-11,20,24-26、ロマ5:8-10、使徒20:28、ガラ1:3-4,3:13、エペ1:3-12,2:15-16,5:25-27、テト2:24、ヘブ9:12 等。

ローマ5:18、ヨハネ1:29などの「すべて」とか「世」という言葉の用法は、万人救済説を信じない限り、すべての個人を意味する事はできない。上記のほかの聖句に示されたごとく、キリストの死と贖いは限定されたものである。聖霊の目的は、キリストの死が、選ばれたユダヤ人のみでなく、選ばれた異邦人をも含む全世界のためであった事を強調する事であった。キリストは、地獄にいる者たちの罪を贖うことはできなかった。もし彼らを贖われたのであれば、罪の代価は支払われており、彼らに対する罪の告発はあり得ないことになる。


4.選民を召される聖霊。再生(新生)とその結果としての回心(信仰・悔い改め・聖化等)を与える事。
重要な聖句:されど母の胎を出でしより我を選び別ち、その恵みをもて召し給える神、御子を我が内に現してその福音を異邦人に宣べ伝えしむるをよしとし給える時・・・(ガラテヤ1:15〜16)。

エゼ36:26-27、マタ11:25-27,13:10,11,16、ヨハ1:12-13,3:3-8,27,5:12,6:37,44-45,64-65,17:2、使徒5:31,11:18,13:48,16:14,18:17、ロマ1:6-7,8:30,9:16,23-24、エペ2:1-5,4:4、Uテモ1:9、ヤコ1:18、Tペテ2:9,5:10、テト3:5、黙17:14。


5.聖徒の堅忍と保証。重要な聖句:ローマ8:28〜39。

イザ43:1-3、エレ32:10、ヨハ3:16,36,5:24,6:35-40,47,10:27-30,17:11-12,15、ロマ5:8-10、Tコリ1:7-9,10:13、エペ1:5,13-14,4:30、コロ3:3-4、Tテサ5:23-24、Uテモ4:18、ヘブ9:12,15,10:14、Tペテ1:3-5 等。



参考図書目録
【日本語】
ローレン・ボエトナー カルヴィン主義豫定論(長崎書店;小峰書店)
予定論(要約)(いのちのことば社)
古書店で極稀に入手可
       〃
マルチン・ルター 奴隷意志論(聖文社 ルター著作集 第一集 7)
注解書(聖文社 ルター著作集 第二集)
古書店で極稀に入手可
入手可
ジョン・カルヴァン キリスト教綱要 等
古書店で入手可
ルイス・ベルコフ キリスト教教理の要約(日本キリスト改革派四国中会)
改革派神学通論(活水社)
入手可
古書店で稀に入手可
アーサー・W・ピンク 神の主権、他
聖書から受ける益(聖書真理刊行)
十戒(いのちのことば社)
このHP参照
与野伝道教会で入手可
同社でコピー版入手可
ジョン・マーレー キリスト教救済の論理(小峰書店)
古書店で稀に入手可
J.I.パッカー 伝道と神の主権(いのちのことば社)
同社でコピー版入手可

【英語】
Boettner, Loraine THE REFORMED DOCTRINE OF PREDESTINATION
Luther, Martin THE BONDAGE OF THE WILL, Commentaries, etc.
Calvin, John INSTITUTES OF THE CHRISTIAN RELIGION, etc.
Hodge, Charles SYSTEMATIC THEOLOGY, Commentaries, ets.
Berkhoff, Lewis SYSTEMATIC THEOLOGY
Pink, Arthur THE SOVEREIGNTY OF GOD, etc.
Murray, John REDEMPTION ACCOMPLISHED & APPLIED
Packer, J.I. EVANGELISM & THE SOVEREIGNTY OF GOD
Williamson, G. I. THE WESTMINSTER CONFESSION OF FAITH (STUDY MANUAL)

神の自由で主権的な恵みの教理を信じる他の著者は以下のとおり:アウグスティヌス、ジョン・オーウェン、ジョン・バンヤン、マシュー・ヘンリー、ジョージ・ウィットフィールド、ジョン・ギル、トーマス・グッドウィン、ジョナサン・エドワーズ、トーマス・ワトソン、チャールズ・H・スポルジョン、ホレイシャス・ボナー、ロバート・ホールデーン、J.C.ライル、J.グレイシャム・メイチェン、B.B.ウォーフィールド、アブラハム・カイパー、マーティン・ロイドジョンズ、ジョン・ストット 等。


贖いにおける神の主権的恵みの教理の反対者は以下のとおり:ペラギウス、エラスムス、ジェームス・アルミニウス、ジョン・ウェスレー、チャールズ.G.フィニー、ドワイト.L.ムーディ、R.C.H.レンスキー、L.S.シェイファー、ヘンリー・シーセン、ビリー・グラハム、ジョン.R.ライス、ビル・ブライト、ジャック・ハイレス 等。

    

Scripture Truth Publications
聖書真理刊行
1978
本ページは発行者の許可を得て掲載しております。