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アメリカは結局なにがしたかったのか?

戦争がとりあえず終わって、流行に敏感な僕としても、もう戦争は終わってしまっていて、 もちろん大変で肝心なのは、イラクという国をこれからどう再建していくのか! ってことなんですが、誤解を恐れず今は過去形で書いてしまいます。

アメリカが戦争を始めたときも、「とりあえず反対!」みたいなことを書いたのですが、 僕としての考えもまとまってしまったので、今回はちゃんとアメリカに反対しようと思います。 で、参考になるのは、 「ネオコンの論理」という本への池田信夫さんの書評で、この 中にこんな一文があります。

『ネオコンは、もともと米国の左翼が挫折する中で生まれたものであり、軍事力によって(米国独立)革命を世界に輸出する発想は、伝統的な保守主義よりもレーニンやトロツキーに近い。』

左翼からネオコンが生まれたかどうかは、ちょっと僕には分かりませんが、 ネオコンがレーニン、トロツキーに近いというのはなんとなく納得がいきます。 そこで、この文章では次のように展開します。

1.レーニン、トロツキーなどの共産主義のどこがダメだったのか?
2.超右派と言われるネオコンがなんで共産主義に近いのか?
3.で、結局アメリカはなにを勘違いしたのか?

1.レーニン、トロツキーなどの共産主義のどこがダメだったのか?

共産主義っていうと、「ほほえみ主義」という印象の人が多いかもしれませんが、 それは3世代前の日本共産党が、革命はすでに時代錯誤、と判断して民衆ヨリに路線変更した結果です。 でも、革命を掲げる過激派も、現在の日本共産党もその基本精神は同じで、「みんな仲良く」です。 争い事はやめて、みんな仲良くして、お互い競争もやめて、平和で平等で、 そうすれば素晴らしい楽園になるよ、みんな一緒に住もうよ、というものです。

そこで、みんなが平等で仲良くやるための国家を実験的にロシアに作ってみたのですが、 それは失敗に終わります。それがなんで失敗に終わったのか、と考えてみると そこにはふたつの誤算がありました。

誤算のひとつは、「民衆ってのは、期待していたほど論理的でなかった」ということです。 実際、民衆ってのは食うに困らなければ一生懸命働きません。 みんなが武器を持たなければ平和なのに、誰も武器を持っていないとついつい拳銃を 持ちたくなります。拳銃を手に入れれば、いっきに大きな力を手にいれることができるからです。

結果、一生懸命働かないから競争力がなくなっていって、 貧しくなって、心が荒んで、平和でもなくなりました。 機会平等でなくて、結果平等になってしまった挙句です。 みんなが協力して一生懸命働いて、お互いに武器を持たなければ、みんなが幸せになれるのに 民衆にはそこまでの想像力がなかったのです。 でも、民衆にそこまで期待するのは、全員が釈迦になれ!と言うが如き実現性のないものでした。

誤算のもうひとつは、「エリートは、自分で思っているほどエリートでなかった」という ことです。 共産主義は平等がモットーだからエリートはいないはず?おっしゃるとおりですが そんなことは起こり得ません。みんなで決めるなんてことは実現不可能です。 結局、共産主義は基本的にトップダウンになりました、全員平等を建前にして。 トップが全権を握って、みんながトップの命令に従って、 一致団結すればみんなが幸せになれる、というものになったのです。 五カ年計画とかいうのを昔習ったでしょう。あれはトップが決めた方針にみんなで 従うためのものです。

このトップダウンのシステムはもちろん、上手くいきません。 トップは自分が思っているより先が見えていなくて、しかも間違えるのです。 そして、トップに安住したトップはたいてい堕落の一途をたどって、独裁者になります。 みんな不幸になって、だけど独裁者は言うことを聞かせようと、恐怖政治に陥ります。

ふたつの誤算を通して考えてみて分かるのは、共産主義は現在では現実性のない白昼夢で、 現世で実現するものとしては、いささか無理があったということです。 平等は決して幸せへの道ではなく、武器のない平和はたった一人に簡単に壊されるモロいものだったのです。 夢の中では素晴らしい世界でしたが、 現世でのその存在価値は、権力に対するアンチテーゼとして、 つまり平和と平等を愛する聖人としての発言に限られています。

次回に続きます。

03.10.02


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