巷で話題の女子高生のミニスカは憂うべき事態であります。我々は一刻も早く、この ミニスカにより衰退せんとしている日本国を救出しなくてはなりません。 などと書いてみたが、そんなことは別に思っていない。ミニスカで衰退するような 国家ならばさっさと衰退すればよい。ただ、最近、朝の通勤時間が 早くなった関係で、女子高生のミニスカというものをよく見かけるようになって、 何かを考えずにはいられず、 以前、raspberry park で紹介されていたこのサイトを再度、訪れてみた次第。 それにしても、ミニスカについて語るのに、 こんな言い訳をわざわざ書かなくてはいられない自分がかえって恥ずかしい。 こんな前置きに言い訳を上塗りしている自分がさらに恥ずかしい。 さて、この文章を見ていると、なんとも正義感というか、社会のために!のような 論調で大変に素晴らしい。主張されていることも全くその通りで、反論の余地は御座いません。 特に、
ところがミニスカートは、一応はそのような機能を負っているにも関わらず、丈が短く、下方に開いているために、「下着を見ることの禁止」を侵犯したいという欲望を掻き立てる。もちろん、これは必ずしもスカートをめくりたいという欲望を意味しない。丈の長いスカートに比べて、その中に下着が何かの拍子に見えてしまうかもしれないという予感を与えるという意味である。それに加えて、丈の長いスカートでは隠されているはずの脚線が露わになっているという点で、見る者に対して既に禁止を侵犯をしているかのような印象も、同時に与えている。 あたりの分析は、あまりに鋭く、アッパレである。その通り!拍手!パチパチ。 と、誉めてみたが、このような文章にはきっと説得力がなんもないのだろうな、と思う。 このような分析には、意味がないのだろうな、と思う。 社会にどんな悪い影響を与えているか、をいくら説いても、それが自分の不利益になることが 分からなくては彼女らは説得できない。しかし本来は、理由を説明できなくとも「悪いものは悪い」 と年寄りが言えるのが日本社会だったのだが。 女子高生がミニスカな理由は、まず「流行」があるのだろうが、では、なぜその流行が生まれ、 今でも続いているのかを考えてみると、それはつまり、「愛」が足りないからだと思う。 ミニスカによって、男性その他からうける視線は、それが例えスケベーなものでも、 一時の「寂しい」を埋めてくれるものであるし、 見苦しい自分が注目をされる自意識を満たしてくれるものである。 例え、それが「うわ!なんだこの太い足は。見せるなよ!」という男性の視線だったとしても。 一時の「寂しい」を埋めてくれるのは、携帯電話という薄倖なツールもそうだし、 こういった個人サイトもそうである。しかし、もちろん、そのような手っ取り早い「愛」は 海水を飲むが如くで、どんどん喉が渇き、さらに「愛」を渇望するようになる。 そう、ミニスカの女子高生は「愛」のデフレスパイラルに陥っているのである。 結果、ますます求めても満たされない「愛」に振り回されるか、自分に集まる視線に 冷めてしまって「愛より金」とか「男はみんなバカ」といった極端な哲学を持つことに なる。あんまりねー、目先のことばかり見てるとろくな事がないね、という見本である。 ほんとうは、ミニスカで「愛」を得るのでなくて、その存在自体で「愛」を得られると いいのだけれど。 しかし、実は、それよりも僕が心配するのは、男子高生のほうで、若かった頃を想像してみよう。 中学生、高校生の時分に、あんなミニスカが周りをうろうろしていたら、どうするべ? だって、中学生、高校生の時分って結構すごいときだよね、そんなときに、 あんなミニスカが周りをうろうろしていたら、いや、色んな意味でムリっす。 最近の若い男の子が去勢されているのは、馬人参状態で青春を過ごし、 欲望をムリに制御することに慣れたからなのか?逆に、「女よりビジネス」とか 「女はみんなバカ」とか極端な哲学を持つことになったからか? で、結局、結論は子供を「愛」で満たしてあげよう、子供に「恥」を教えよう、 子供はバカだから「自由」とか「権利」とか取り上げて強制させよう、ということに なるのだけれど、それにしても、この節操のない世の中に子供を放すってのは大変なことです。 03.09.12 |