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論理ではなく情緒

久しぶりに、蔵書から「徒然草」を引っ張って見てみました。

古文を読んでみるのですが、なに言ってるのかさっぱり分からんし、「ほんと昔はよくこんな ものを読んだなあ」と思ったんですが、実は僕はこの本が嫌いなのです。

だいたい、家の中にこもって窓の隙間から覗き見して、 「あれはおかし、あれはあわれ」とか言って、 品評してるなぞ兼好(けんこう)なのになんて不健康!まあ、お上手。 いや、そうじゃなくて、おかしいでしょ。 こんな不健全なものが日本の古典なんて恥ずかしい!外に出ろ!行動しろ!って思うわけです。

しかし、外に出ろ!ってのはもちろん変わらないんですが、 前にも紹介した藤原さんのこれを読んでみて、ふうむ、と思ったわけです。

これを勝手に要約して書いてしまうと、 つまり「日本人は論理より情緒を大切にしなくてはいけない」ということで、それはつまり、 「あ〜なって、こ〜なって、こうだから、こう」ではなくて、 「う〜ん、いい感じ。う〜ん、やな感じ。」でいこうよ、ってこと。

それは思考の放棄だ!堕落だ!と階級的鉄槌を振るいたくなるところですが、 「ああなるほど、きっとそうなんだろうなあ、論理より情緒だよね」と最近思わざるを得ません。

もともと僕は、「強い人に限って案外もろいのよね〜」とか、 「よくできたシステムほど壊れやすいよね〜」とかってしたり顔で言う人間には 殺意を覚えるわけですが、それはなぜかというと、もろいのは強くない人だからで、 よくできたシステムは壊れないからです。

「案外もろい」人はただ強く見せているだけで、「よくできたシステム」はよくできている ように見せているだけで、そこにあるのは、考えの浅さ、読みの浅さ、根本の弱さであり、 どんな場合にもその欠陥を露呈することなく、論理的にパーフェクトであることが 強さであると僕は思うのです。

でも、残念ながら、論理的であるということには限界が見えるということなのです。 そして、その論理だけでいくと、判断を誤る、ということなのです。

例えば、その誤った論理だけの考えでいくと、幼稚園から英語を勉強させて、英語の話せる国際人を たくさん育てたはいいが、外人に「オー!ニッポンの宗教はなんですか?」なんてバカ面で 質問されたときに、「オー!神様と仏様ネ!」などとバカ面で返答し、 「オー!ニッポン人なんで二つも神様あるね?おかしいね?」などとバカ面でさらに返され、 外人風に肩をすくめて、日本人風の苦笑いを浮かべるなんてことが起こるのではないかと、 思うのです。

で、情緒で考えるというのは、ただ感覚でいくということではなくて、その感覚を磨く為に 日本の古典、例えば徒然草を読んで、その美的感性を磨こうということです。 そして、その美的感性が磨かれれば、電車で化粧をしたりとか、道端で座ったりとか することはないだろうと思います。そして、それは日本の恥の文化とも通ずるものなのかと 思います。

そして、藤原さんは、こう言っています。「敵にしてはいけないのはアングロサクソンです。 彼らは相手をやっつけるのに、100年計画すらたてるほどです」なるほど!そんなずっと 論理でやってきた連中と、議論しても勝てるはずはない。やっぱねえ勝てないところは あるよ、実際。でもあいつら言ってることがおかしいこともよくあるよ、なんとなくだけど。

03.07.27

あとがき:
つまり、こういうことです。思考するのに、論理に頼ってもダメだし、情緒のみでもダメ。 2つを駆使すること。 情緒のみで論理が欠けた場合は、論理的後付けをするよう努力すること。 論理だけで違和感が残った場合はその理由を考え、 最終的にその違和感が間違いと分かった場合は感性を是正すること。 論理を是正するのは簡単だが、情緒を是正、向上することは極めて難しく時間がかかる。 そのためには、幼児時代からの教育か、痛みを伴う経験をするしか術はない。

あとあとがき:
さらに言えば、論理と情緒を使い分けることが、経験的、統計的に確率が高いことが判明すれば、 それが論理的であるとも言えるだろう。 子供の幸せのため、子供の権利、自由を勝ち取った結果、学校崩壊を招いている現状や、 みのもんたにココアが体にいい、と言われてココアばかり飲んだ結果、糖尿病になっている人、 健康オタクになればばるほど不健康になっていく人を見ると、同情を禁じえることができません。


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