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神は死んだ

「ワタシ、会話にニーチェを引用する人ってはじめて」

僕がニーチェを読んだ理由はここにあります。
でも非常に残念なことですが、いまだに、こう言って股間を 熱くしてくれた婦女に出会ったことはありません。

確か漫画「ツルモク独身寮」の田畑さんも、図書館勤務の彼女に好かれようと、 図書館に通いまくってニーチェを借りていましたね。

でもせっかくそれじゃあ悔しいので、多分ニーチェの一番有名な言葉「神は死んだ」について書こうと 思います。

解釈は2とおりあります。キリスト教の神が死んだとする。あるいは、キリスト教の 神以外が死んだとする。

キリスト教の神以外の神が死んだ、ってのはこういうことです。
神はほんとはたくさんいるんです。つまり多神教の「千と千尋の神隠し」の世界ですね。 そんなところで、キリスト教の神がひとり、「オレだけが神だ!」と言ったんです。 そしたら、他の神様がバカにして、大笑いして、笑い過ぎて死んじゃったんですね。

で、どちらに解釈しても同じことですね。神はひとりではなく、それぞれの内にあるって ことです。だから簡単に言えば、自分で考えて、自分で決めて、自分で責任を取れと、 まあそういうことです。

じゃあ、なぜニーチェはキリスト教を非難したか?

実は、非難していたわけではないのです。彼は、キリスト教をひとつの初期のステップとして、 考えています。それはつまり子供の教育のような、道徳のようなものです。 僕の考えでは、子供とは、ひとつの社会性のない病気の状態です。よって、教育という治療とリハビリが 必要です。

ニーチェは、らくだ → 獅子 → 赤ん坊 と変化する、と言っています。

「らくだ」とは、子供の道徳の状態、キリスト教信者の状態を指します。あ〜しなさい、こ〜しなさい、 あれはいけません、これはいけません、てなもんです。さしずめ、背中に荷物をたくさん 背負って、先の見えない砂漠を、水なしで黙って歩き続けるようなものです。

「獅子」になると、背負っていた荷物を振りほどいて、自分の思うがままに生きるように なります。しかし、まだちょっと視野が狭いようです。ときに周りのものを破壊したりする 粗相があるようです。

「赤ん坊」ってのはちょいと分かりにくいですが、孔子のこんな状態です。 「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を越えず」(論語より)つまり、好きなことを したいようにしていたら、それがとても良いことであった、という状態。 環境ビジネスで金持ちになった上に表彰もされた、みたいな。 獅子のような破壊的なところはなくなって、ちと創造性が出てくる状態です。

キリスト教ってのは、元来ローマの奴隷のための宗教ですから、あんまり頭が良くないわけですね。 だから、好きなようにしろ!なんて言ったら滅茶苦茶になっちゃうわけです。だから、 あれはダメ、これはダメって教えなきゃいけなかったんですね。

でももうさあ、僕たち奴隷じゃあないんだから、いい加減そういうのやめようよ、ってわけです。 しかもさ、そんな理想ばかり言って、できっこないじゃん。敵の為に死ね、とかさ。ムリムリ。 あいつバカだもん。原罪とか言ってさ、あなたは生まれながらに罪人です、とかって冗談じゃねえ、つーの。 なんで自分を責め続けて生きなきゃならんの。あんたに言われたくないしさ。 オレは自分の考えで生きるの!ちゃんとするからさあ。キリストの神?あいつなら死んだよ。

ってなわけです。(長くなっちゃった、ごめんよ)

03.05.30


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