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感想文 「聖書の中の友情論」曽野 綾子 (著)

最近、マイブームがふたつあって、ひとつは、「多分」って言葉。このサイトでもムヤミに 多用しています。

「多分〜だと思います」などと言うと、仕事中なら上司とかに 「どっちなんだ!きちんと確認しろ!」と怒鳴られるであろうし、 デート中なら彼女とかに「優柔不断で頼りないわ!」って愛想を尽かれると思います。

そこで、「多分・・・」と言っておきながら、「〜です!」とか「〜ですね」とか 「〜なんです」とか断言してしまうところが個人的にウケてまして、気に障る人がいたらごめんなさいね。 でもとにかく、よく分からないけれども、その分からないことにスカしているのも格好悪いし、 頭ごなしに、違う!って言い切るのも違う気がするし、それだったら今言える範囲で、 これだけは間違いない!って断言してしまおう、といった雰囲気ですね。

もうひとつのマイブームというのは、「あなたは〜とおっしゃるかもしれませんが、、」 とかの言い方で、これも最近このサイトで多用してます。 それはこの「聖書の中の友情論」からのパクリです。例えばこの本の始まりはこんなんです。

『キリスト教の話などすると、正面切って反対などなさらないまでも、うっすらと 皮肉な笑いを浮かべて、でも少しも嫌がらずに、私の話を聞いて下さる寛大なあなたが、 聖書では「友情」のことをどんなふうに考えているか、とお聞きしてくださいましたことに、 まずお礼申し上げます。』

まず、とても素敵なはじまりですね。さて、素敵な気分になって頂いたところで、 この機に乗じて僕も簡単では御座いますが、 さらっと友情論を語ってしまおうかと思います。

いい友情        悪い友情

左のふたりの人に、そこはかとなく漂っている友情が「いい友情」ですね。 目指すものが共通のふたりには、その目指すもののベクトルの間に、自然と友情が 漂うものなんですね。もし、一見、ふたりの目指すものが違うように見えた場合でも、 その先にあるものが同じならばやはりそこには、いい友情が漂うのですね。

このいい友情には、時間も距離も関係なく、久しぶりでもすぐに昔の友情が 復活します。また、ふたりが一緒にいなくても、お互いの心にほんわかと温かく、 あるいは熱い塊として友情が存在しています。

また、右のふたりの人にある強い情が「悪い友情」です。 ベクトルがお互いのみに向いていて、お互いを知ることや、お互いに仲良くすることに 心が砕かれます。もちろん、仲良くすることはいいことですが、その目的に対して、 直接的に行動を行っていくと、そこに生まれるものは、あまりいいものとは言えません。

この悪い友情の先には、例えば、しばらく連絡が取れなかったという理由だけで その友情がなくなったり、彼、彼女ができたという理由だけで、友情がなくなったりします。 それは、お互いがベクトルを向けているしか、その友情を維持するすべがないからです。 また、お互いのベクトルの方向のずれ、強さのアンバランスがちょっと生じたときにも その友情の危機は訪れます。

もし、あなたがいい友情を長続きさせたいと思うのであらば、左の友情を視野に入れると それは叶えられます。このようなことは、多分、恋人や家族との愛情にも同じように言えることです。

愛情は、その性質ゆえ、右の悪い友情のような形式をとる傾向があります。 もしそれをよく持続したいのであらば、左の「いい友情」の形式に少しずつシフトしながら、 バランスをとっていくことが、よい戦略です。それを実行することはとても難しいことですが、 そもそも友情とか愛情なんてものは、難しくて一筋縄ではいかないものですから、 あなたも今日からやってみるしか仕方ありません。

03.06.29


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