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表現すること 枯渇すること

28才になりました。

先週末は、銀座でお酒を飲んで(銀座は美人が多くて驚きました。)、 銀座の銭湯で汗を流して(ここ。 偶々その日は無料でした。)、 コンビニからスーツを宅急便し、 東京駅からブルートレインに乗って福井まで行って(車掌さんが起こしに来てくれました。)、 久々子湖というところで(「くぐしこ」と読みます。)、全日本社会人選手権というボートのレースに 出場して(敗者復活戦で負けてしまいました。)、 雨に降られながら日焼けして(あんなに曇っていたのにあんなに日焼けしたのは、 やはり原子力発電所の陰謀なのでしょうか。)、魚を食べて (ついでに言うと、焼き魚からカニから刺身からブリからなんでも食べました。)、ウナギを食べて (ウナギは2500円もする松を頂きまして、いつもの燃費のよい食べ方ではご飯ばかり 減りまして困りました。)、車で帰ってきました(例によって事故渋滞に巻き込まれました)。 ふー、疲れたけど楽しかったです。

さて、久しく休ませて頂きました。決して、名古屋人にきしめんで足を引っ掛けられて転んで、 ういろうの角に頭をぶつけて、味噌煮込みうどんのように、とろとろしてたわけではありません。 なんか書けなかったんですね。 糸井重里さん曰く、「書きたいことがあるのに、なにを書いていいか分からない状態」という やつです。

つまりですね、文章を書くのに限らず、表現というのに必要なのは、ふたつだと思うのです。
ひとつは「なにを言いたいのか」、もうひとつは「どう表現するのか」。

「なにを言いたいのか」だけの人の言葉は誰も聞きません。 ただ頑張ってるなあ、不満があるんだなあ、何か訴えたいんだなあ、ということが伝わるだけです。 どなっているだけのロック歌手のようです。 よって、聞いている人にその表現を理解するという苦痛を乗り越える努力を強制します。

一方、「どう表現するのか」だけの人の言葉は聞くのは心地よいのですが、何も残りません。 TKこと小室哲哉さんの書く歌詞のようです。お!いいねえ、うんうん、そうそう、で? なにが言いたかったんだったっけ?といったことになります。しかし、多少残念ながら、 このように「何も言いたくない」ということが、むしろ、求められることは多いです。 きっと、個人でやっている方の日記サイトも、多くがこの戦略です。

さて、僕の場合は、「言いたいこと」は結構たくさんあってまだまだネタは尽きないんですけど、 「どう表現するのか」あたりが難しいわけです。 この「どう表現するか」は表現技法とか文章のテクニックももちろんあるんですけど、 それだけではなくって、何か目に見えないエネルギーのようなもの、 特に文章の最終的な表現の仕方とか、文章の展開はそのエネルギーによるテンションが 必要になるわけです。

これって、どーも表現を続けていくと枯渇していくもののようなんですよ。 個人サイトをしている人には、なんとなく分かって貰えると思うんですけど。

今度公開される「永遠のマリア・カラス」 という映画の中に、こんなシーンがあるらしいんです。 マリア・カラスという人は フランスのオペラ歌手なんですが、 声が出なくて歌えなくなって、苦悶するんです。そして、 マリア・カラスは一人、かつての自分の全盛期に出したレコードを聞きながら、 歌う真似をするんです。

きっと彼女は昔の自分の姿を想いながら、こんな風に思ったのでしょう。 「こんな風に歌えたならどんなに嬉しいだろう、でも はじめから歌えなかったらどんなに幸せだっただろう。」と。

マリア・カラスの美声が出なくなったのは、ただの病気とか怪我だけではなく、きっと、 表現することによるエネルギーの枯渇から、引き起こされたものだったのでしょう。 これは、あれほどのアルバムを作っていたミュージシャンが、CDを発売する度に、 だんたんとマニュアル通りのエネルギーのないアルバムになっていくことと 同じと思うのです。

マリア・カラスほどの人やミュージシャンと、こんな極小サイトを運営する 自分を比べるのは恐縮なんですが、 そんな、表現の枯渇の片鱗を味わったここ最近でございました。

03.07.15


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