「オレは〜〜をリスペクトしています」
こんなことをナウなヤングのトレンドリーダーが言っているのを聞いて、
びっくりしてしまってから随分経ちましたね。僕は、 でも考えてみると、このリスペクトという言葉には深い含蓄があるようです、 ただ英語で言ったほうがかっこいい、という以外にも。 尊敬というと、小学校で「僕の私の尊敬する人」といった題名で書かされた作文。 ただ心なく父母を尊敬する、ただ心なく学校の先生を尊敬する、ただ心なく働く人を尊敬する、 ただ心なく水戸黄門に頭を下げる。 そんな心ない尊敬する人と戦い続けた尾崎豊という反抗の時代を経て、 若者たちがみつけた新たなる尊敬の念、それがリスペクト。尊敬と呼んでは、 彼らがリスペクトしている人に対して、ださいイメージを押し付けるようでかえって失礼。 リスペクトとは、それは決してつくられた尊敬の念でなく、ただの憧れではなく、 その人のありのままの業績とか人格とか感性に対して、YESと言うこと。 それは決して自分をへりくだって言うのではなく、対等な立場でリスペクトと言う。 こんなことを書いて何が言いたいかというと、新しい言葉には、新しい意味があるということ。 確かにロンドンブーツの番組に出てくる子達の日本語のかっこ悪さにはヘキエキしますが、 そこに、何かこれまでとは違ったものを表現したい、という気分は伝わってきます。 齋藤孝明治大学教授の「 声に出して読みたい日本語」以来、古きよき日本語を見直そう、といった空気が ありますが、言葉とはそもそも、常にちょっと前のものを否定しながら、時代の新しい考えと共に、 変化し続けるもの。そのながれゆく流行の中で、中にはいいものもあったでしょうが、 ”祇園精舎の鐘の音”もかつては否定された一時期の言葉に過ぎないのです。 特に、日本語はその性質からして、カタカナなどを駆使して他を取り入れやすく変化しやすいもの。 だから、カタカナ語を日本語に読み替えよう、といった活動もあまり意味をなさないし、本来の 日本語などというものも存在しない。日本語の文法を厳密に定義することも不可能。 それは、つねに移ろいゆくもので、基本というものが抜け落ちているものであるのだから。 よって、古きよき日本語も所詮は流行の一時期を取り出しているに過ぎなく、 「根性」「協力」「努力」といった今は否定された言葉も、最近の若者が好んで使う「侍」とか の言葉もただの一過性のものに過ぎない。「侍」などはかつて、特にひどく否定されたもので あったのだから。 最近になって、戦争、北朝鮮、かつての日本語の復興、自らを否定し続けた反動などによる 右傾化が日本にきているようですが、じゃあ本来の日本ってなんだ?と、 日本の歴史をずっと追っていくと、あまりにいい加減、 あまりにおバカ、あまりに気分屋加減にがっくりします。 でもいいんですよ、それで。そうやって移ろい漂って、上手くいったりいかなかったりしてきたのが この国であって、それがウリ。このミーハーさは例えばヨーロッパやらイラクには真似できない。 占領してきたアメリカのマッカーサに「妾(めかけ)にして下さい」って言った日本売国女子が たくさんいたらしいですけど、その生命力に頭を下げましょう。 まじめで、勤勉で、ミーハー で、場当たり主義。 それを武器に戦っていくのがこの国の真のナショナリズムなんですね、実は。 仕方ないです。頑張りましょう。 03.06.08 |