ずんだの章・真プロローグ

2004年12月4日午前0時 仙台

おかしい。

角笛からその赤い唇を離した瞬間から、彼は異変に気づいていた。

おかしい。おかしい。おかしい。

この繊細な世界が、音をたてて軋んだのが、彼には感じ取れた。
もちろん、黙示録にあるような劇的な変化はない。
『イナゴ』のようなわかりやすい怪物があらわれて、人々を怯えさせることもなければ、封印が解かれて、世界が天変地異におそわれることもなかった。

仙台のもっとも高いところにある、NTTドコモ東北ビルの通信塔のてっぺんで、彼は夜闇に沈黙をする、仙台のネオンを見下ろした。
見た目の変化はなにもない。
ライトアップされた黄金の並木が眼下にある。
終わらない12月が、ふたたびはじまったのだ。
女王の思惑は打ち破られ、ラグナロクは『なかったこと』にされた。

最初は空虚さに流されそうになったものの、次第に彼の中で感動が高まりつつあった。
偉大なる魂は、またも世界を救ってみせたのだ。
眠りに沈んだ街に住まう人々のうち、だれがその事実を知るだろう。
だれも知らない。自分だけだ。やはり、黄金の魂を理解できるのは、同じ黄金の魂をもつ自分だけなのだ。
黄金は、けして血に穢れることはない。
彼自身、そのことをよく自覚していたので、中世の力なき司祭どもが振りかけた呪いなど、すこしも気にしていなかった。
実際には、彼が切り裂いた一千人ものあわれな少年たちの魂が、呪いとして彼に付きまとっているわけであるが、彼は一顧だにしなかった。
永遠の月日を呪われて彷徨う身を、もてあましたことはない。
永遠に彷徨う身を、むしろ自分で祝福さえしてみる。
こんな自分であるからこそ、黄金の魂の息遣いを敏感に察知し、どこまでも追いかけることができる。通常の肉体を持った身では、できないことができるのだ。

12月がくりかえされる前の、いちばん最初に、世界の番人が『戦士の角笛』を吹いたときから、彼は時空の彼方より、黄金の魂の復活を察した。
世界は彼を『ウィルス』として侵入を拒んだが、もとより呪われて不死身の人間に敵などいるはずがない。
彼は黄金の魂をもとめ、世界の番人がいるこの街にやってきた。

黄金の魂はいた。

その可憐な姿を見たときに、彼の魂はしびれ、とめどなく涙を流した。
言葉は出ず、ただひたすら泣いた。
五百年の長きにわたって、閉ざされてきた厚い雲がようやく晴れて、太陽が光明を落としたようなものだ。
彼は水に飢えた砂漠の旅人のように、黄金の魂に救いをもとめたが、白百合のごとき姿から発せられた言葉は、意外なものであった。

「あなたにふたたび頼みがあります。世界を守るために、わたしを殺してほしいのです」

彼は戸惑ったが、黄金の魂の意志は固かった。
と、同時に、黄金の魂の発した言葉は、思いもかけない甘美な陶酔を彼に与えた。
マシュクール城の自室で、何度も思い描いた行為を、実際におこなうことができるのだ。
皮肉なことに彼は、その言葉に、初めて心から十字を切った。
神はいる。
黄金の魂は、おそらく彼のそんな倒錯した想いを知っていたのだろう。知っていて、彼を救うために、血なまぐさい願望を昇華させるために、あえてそんなことを頼んできたのだ。
彼は壮絶なまでの優しさに感動し、同時に、もうひとつの願望が、またさらに膨らむのを感じた。
どうしても、黄金の魂とひとつになりたい。

東洋の裕福な島の、妙に狭苦しい建物のなかで、彼は黄金の魂に命じられるまま、殺戮をおこない、そしてとうとう黄金の魂の白い咽喉元を掻き切った。
そのときのことを思い出すだけで、全身をつらぬくような快感をおぼえる。
しかし残念なことに、血の海に沈む美しい白い姿を眺めたい、という願望は果たせず、触れることもできないまま、黄金の魂は去ってしまった。
彼はとてもがっかりしたが、これで終わりではない。
黄金の魂は、もうひとつの重要な役目を彼に与えていた。
時間の呪いをかけられ、追放されてしまった世界の番人の代わりに、アスカロンで過去に戻る扉をつくって、『戦士の角笛』を吹くこと…

彼は命令を忠実に守った。
反発したこともすくなからずあったけれども、黄金の魂が本物だと認めたときから、彼は一度もさからったことがない。
黄金の魂が『殺せ』といったので、殺し続けてきたのだ。
黄金の魂が『殺すな』といわなかったので、戦争が終わってからも、ずっと殺し続けてきた。

『戦士の角笛』を吹けば、スモッグに覆われた星のない夜空に、ヒエロニムスのみた幻視のように、偉大なる魂たちが降臨する壮大な光景があらわれるのでは、と想像した。
しかし、拍子抜けするほどに、なにも起こらなかった。
風が吹き、世界が一瞬だけ、揺れたようにおもえた。
それだけ。
彼はがっかりしながらも、どこかに黄金の魂の復活の気配をかんじていた。

だが、不吉な予感もする。
彼の勘が呼びかけてくる。
おかしい。黄金の魂の気配がうすい。
太陽ほどの存在感を大地に示す、あの強烈な気配を感じ取れない。
黄金の魂は隠されてしまった。
本来ならば、この角笛は、神の娘が吹くものだ。
男で、しかもかつては肉体を纏う身であった自分が吹いたことで、なんらかの齟齬が生じたのではないか?
短気な彼は、角笛をこのまま地上に落として、ばらばらにしてやりたい衝動にかられたが、こらえた。
そんなことをしたら、黄金の魂は悲しむだろう。
あせるな。消えたのではない。隠れたのだ。きっと捜すことができる。

彼は夜空のどこかにいるであろう、崇拝する者に呼びかける。
君はギリシャ神話のフェニックスさながらに、ふたたび灰から、つまりは絶対的な死から甦った。
黄金は死なない。穢れない。我が永遠の伴侶。
今度こそ、君を守りきり、そうして真の望みを果たそうではないか。

だが、その前に、やるべきことがあるようだ。

彼は夜闇に逆らうように輝く黄金の髪をなびかせつつ、眼下にうごめく銀色のカタマリを見下ろした。
不様なけだものどもめ。忌まわしき世界の破壊者よ。
彼は胸のうちでつぶやくと、愛用の鎌を手に、通信塔から地上めがけて跳躍した。
その距離、およそ150m。
蝙蝠のようにコートをはためかせ、彼は狙い済まして、敵にぶつかっていく。
彼は生まれながらの狩人であり、怖じることをしらない、勇猛な戦士であった。
甲冑を着ていた頃から、彼は突撃行為を好んだ。
逃げも隠れもしない。その堂々とした姿は、イギリス人たちを怯えさせ、幾多の敵を打ち破った。

銀色のけだものは、まだこちらに気づかない。
全身にすさまじい重圧と風を感じながら、彼は笑った。敵ともいえない連中だ。
銀の小人たちが彼に気づいたときは、すでに三匹の首を刎ねていた。
驚く彼らの首を、無造作なまでにつぎつぎと狩っていく。
小人たちは天空からあらわれた敵の襲撃にうろたえながらも、なんとか抵抗しようとするのであるが、体勢を立て直す前に、鎌の切っ先が首を刎ねた。
いかなる抵抗も、素早い行動も、彼の前では無駄なことであった。
抵抗をやめて、蹲り、身を隠そうとする小人がいたので、彼は腹をたててその身体を蹴り飛ばすと、命乞いをするように手をかざす小人をさんざんおいつめてから、いまはぴたりと閉ざされているガラス張りのNTTドコモ東北ビルの入り口に小人を追いつめて、たっぷり恐怖をあおってから、最後にあっさり首を刎ねた。

「これがおまえの兵士か。せめて戦略を練ったらどうだ」

言うと、柘植の木の植え込みのあいだに、ぼおっと幽霊のような姿をあらわしている銀色の女は、声をたてて笑った。
「すこし始末した程度でいい気にならないことね。おまえが死なない戦士であるならば、わたしの兵士はけして費えることのない兵士なの。消えた数だけ、すぐに兵士がこの世界に転送されて補充される。無限の軍団よ」
彼は眉をひそめた。
だからこそ、世界の番人は、通例を無視してアトラ・ハシースたちを呼び寄せなければならなかったわけだ。
しかも、聖剣マスターを中心に、世界でも屈指の『調整者』ばかり。
並みのアトラ・ハシースでは、太刀打ちできないと判断した、というわけか。
「ふたたび過去に戻ってきてしまったようね。だけど、今度は勝手がちがうのではなくって?」
「それがどうした」
誇り高い彼は、けっして己のあやまちを認めない。
心ではそうだと納得しても、言葉ではけっして屈さないのだ。

とはいえ、彼はじわりと染みが浮き出るように、焦りをおぼえていた。
自分は、失敗したのではないか。
たしかに殺したと思ったこの銀の女を、殺せていない。
時間はたしかに遡ったけれども、この女の記憶は、『打ち捨てられた未来』のままではないか。

「完全に戻れたのは、わたしだけのようね。角笛を吹いたのがおまえだったということが、わたしにとっての幸運だった。おまえの邪な心があまりに強すぎて、最強の聖剣マスターは聖霊によって姿を隠されてしまった。聖霊というものは、本当に融通がきかない。おまえが神を憎む気持ちがわかるわ」
「俺は神を憎んでなどいない」
「負け惜しみかしら? どうでもいいけれど。さて、最初からすべてやり直しというわけだけれど、今回はわたしのほうが圧倒的に優位のようね。今度こそ、『ケルベロス』を殺し、世界を破壊する。それまでに、おまえが彼女を見つけられるといいわね。健闘を祈っているわ」
あからさまな嘲弄に、彼は眉をひそめて武器をかかげたが、銀の女王はふたたび声をたてて笑った。
「また殺すの? いいわよ、やって御覧なさい。ただし、あなたの彼女がこの世界に存在するかぎり、わたしは死ぬことはない。意味は…わかっているでしょう?」
「だが、痛みを与えることはできる」
酷薄なつぶやきを発し、彼が女王に近づこうとすると、女王は陽炎のようにすがたを揺らめかせ、消えた。
だが、はっきりと声は聞こえる。
「痛いのは好きではないの。何度も首を切られるのはごめんだわ」
腹立ちまぎれに、彼は鎌を空でふりかざしたが、手ごたえはなにもなかった。
「残念だったわね。でも、呪いというものは、そういうものよ。あとは頑張って、四散したアトラ・ハシースたちの残りを集めることね。そうしたら、もしかしたら、彼女を見つけることができるかもしれない」
「彼らがどこに行ったのか、知っているのか?」
「知っていたとしても、教えると思う?」
その言葉は、ビルにあたる風にまぎれて、次第に聞こえなくなっていった。

彼女が言っていた。
聖剣マスターは今回、自分を含めて、三人いたはずだ、と。
呼び出されたアトラ・ハシースは全部で7人。
この世界は巨大な器であり、アトラ・ハシースを受け入れるために、わざわざ世界そのものを変貌させる許容力を持っている。
つまり、変貌した黄金の魂を完璧に隠してしまうだけの力をもともと持っている、というわけだ。さらにそこに聖霊の力が加わったのならば、探索はいよいよむずかしくなろう。

しかし、それがなんだというのだ。
黄金の魂をふたたび見つけだす。どんな手を使っても。

このつづきは「ゆべしの章1」となります。

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