ゆべしの章

※このお話は、「ゆべしの章8」のつづきとなります。

吸血鬼による霊具の攻撃がはじまった場合、これを凌ぐには多量の霊力が必要となる。
アトラ・ハシースは汎世界に呼び出される際に、受肉した状態で降臨する。
肉体は、魂を守る鎧であるので、霊具による攻撃には強さをほこる。肉体といっても、通常の人間のそれとはちがい、物理的攻撃につよい。回復能力も段違いであり、たとえば、ふつうの刃物による切り傷程度ならば一瞬にして回復するし、通常の人間ならば死に至る怪我を負っても、それが霊力による傷ではないかぎり、肉体は回復する。
肉体と名のつくものとはいえ、もはや通常の人間とは細胞レベルで異なる、質の違う魂の入れ物なのである。
アトラ・ハシースの肉体は、五感に束縛されたり、動きが制限されたりすることもない。肉体はあくまでアトラ・ハシースという強烈な意志のある霊力の塊を、わかりやすい形に納めているものなのである。
アトラ・ハシースの能力にはおのおの特長があり、攻撃だけに特化したもの、防御だけに特化したもの、ほかのさまざまな(言語を翻訳する、料理をつくる、などもある)特化された能力を持つ。
攻撃とひとくちにいっても、さまざまなタイプがあるが、アトラ・ハシースの場合、大きく分けて二つ。剣や銃で攻撃する物理的攻撃と、五大元素を利用して行う霊的攻撃である。
孔明の場合、風雨による攻撃が特化されているので、霊的攻撃(魔術的攻撃ともいうが、アトラ・ハシースは『人間』の魔術師とちがい、媒介を通さずに、直接、自然界の霊力と繋がることができる)が得意なアトラ・ハシースに分類される。
しかし、霊的攻撃に長けたアトラ・ハシースは、物理的攻撃に弱い。
そのため、物理的攻撃に対する防御の得意なアストラルを召喚し、これの補佐とし、防御をかためるのである。孔明の場合、攻守共にバランスのとれているアストラルであり、気心のしれた友を召喚したのである。
一方、物理的攻撃に長けたアトラ・ハシースは、逆に霊的攻撃に弱いため、霊力の防御につよい者をアストラルとして召喚する。組み合わせは、十人十色で、さまざまなパターンが考えられる。
アストラルは基本的に召還者アトラ・ハシースに服従する。アストラルの行動源である霊力の提供者がアトラ・ハシースである以上、自然とそうなるのだが。
では、アトラ・ハシースは、誰に服従するかといえば、これはアトラ・ハシースを召喚したヴァルキューレと、そして世界そのものに対してである。
いかに高い霊力を持ち、汎世界を自由に動くことができるアトラ・ハシースでも、やはりゲストであることには変わりはない。しかも扱える霊力の絶対量が広範であるがゆえに、周囲に与える影響が高くなる。
この高すぎる霊力供給力が、世界に悪影響をおよぼすのを防ぐために、アトラ・ハシースはその世界に滞在する際、世界そのものと契約するよう義務付けられる。
アトラ・ハシースが召喚されるということは、その世界が『危機的な状況にある』ということであるから、アトラ・ハシースは世界の崩壊を防ぐため、最善の努力をする義務を負う。その代わり、アトラ・ハシースは無尽蔵の霊力を世界から得ることができるのである。
世界(森羅万象のありとあらゆるものを動かす巨大なエネルギーの塊、と言い換えてもよい)とアトラ・ハシースの仲立ちをするのがヴァルキューレである。
ヴァルキューレは、世界から供給されるアトラ・ハシースへの霊力の流れを順当にするべく動くもので、いわばダムの番人である。
世界の霊力がアトラ・ハシースに行き過ぎないように、霊力の流れが滞りないように監視し、調整するのが役目なのである。霊力の流れの調整は、熟練したアトラ・ハシースでも、なかなかむずかしいものだ。局地的に霊力のバランスが崩れれば、世界に悪影響が出ることもあるのだから。
そのためのヴァルキューレが存在しており、ゆえに、世界の番人として崇められている。
ところが、この閉じられた世界には、ヴァルキューレがいない。
そのため、アトラ・ハシースは、仲立ちなしで世界と契約をむすぶ。
当然、霊力の供給のバランスは、自分でとらねばならない。
霊力の量が不安定な状態が、ずっとつづいてしまうのだ。

孔明の場合、あまりに状況が悪すぎた。
霊力が不安定な世界の状況に加えて、聖剣アスカロンによって、死んだ娘の肉体に受肉してしまった。
つまり、アトラ・ハシースが自分でまとうことのできる肉体とはちがい、脆く弱いふつうの人間の体に束縛されているのだ。
しかも肉体維持そのものに膨大な霊力が消費されており、得意の霊的攻撃が制限されてしまう。
物理的攻撃に圧倒的に弱くなっているなか、これをカバーしてくれるはずのアストラルも、霊具『英雄殺しの槍』により受肉してしまい、ただの人間になってしまった(呪具でもある『英雄殺しの槍』に攻撃された場合、アストラルのまとう肉は、通常の人間と同じものである)。
世界が閉鎖されてしまったため、新たなアストラルを召喚することもできない。
この状態で霊具の攻撃を凌げるかと問われれば、答えは否、である。
負けた場合、肉体は傷つき、『最上亮子』は真の死を迎える。
そして、アトラ・ハシースたる孔明は消滅という形で、世界を去ることになる。アストラルを置いたまま。
アトラ・ハシースは、アストラルよりも圧倒的に強い立場にあるため、召喚したアストラルに全面的な責任を負う。これを守れなかった場合、煉獄行きとなる。
世界が最高府によって閉鎖された状況では、たとえ孔明が消滅後、すぐにこの世界に戻ろうとしても、戻ることはできない。つまり、アストラルである趙雲に対しての責務を果たせなかったこととなり、煉獄行きなのだ。
まさに前門の虎、後門の狼。
相手は霊具『英雄殺しの槍』の所持者。アストラルを受肉させ、力なき者に落とす呪いを秘めた槍。不死の英雄をも倒した、矛盾した性質を持つ霊具だ。
存在するだけで周囲の空間をゆがめることすら可能な、呪われた武器である。
アトラ・ハシースでもない吸血鬼が、いったいどこからそんな物騒なものを手に入れたのかはわからない。わからないが、ふるうたびに大量に霊力を消費する凶悪な武器を、吸血鬼が隠し持っている、とみたほうが順当だろう。

孔明が教室から飛び出して、中庭にひとり残された浅野一子の前に降り立つと、愛用の銀の鎌を構えていたジルは、驚く様子もなく、不気味なほど澄んだ蒼い瞳を細めて、笑った。
「なぜだろう、一日しか過ぎていないというのに、ひどくおまえの顔がなつかしく思えるぞ。久しぶりだな、東照宮ではずいぶん世話になった」
吸血鬼は、ゆらりと長身をゆらめかせ、孔明に向きを直す。
「どうだね、解放された気分は。とはいえ、完全な解放ではなさそうだな。それでも、おまえは美しい。平凡な東の島国の娘が、どうだね、今日はまるで日輪のような輝きを見せている。おまえの理知的な双眸は、黒真珠よりも、なお神秘的だ」
「それはどうもありがとう」
「しかし、つくづく『少女』というのが惜しい。『力なき者』の肉体に封じ込められたご感想は? 風雨の魔術を使わせたなら、右に出るものはないとさえ言われた身が、あわれなことだ」
暮れかけた空からの淡い十二月の陽光を受け、ジル・ド・レイの金髪はきらきらと輝いた。ぱたぱたと黒いコートの裾がはためいている。その手にはにぶく光る銀の鎌。
まさに死神だな、と孔明は思った。
だが死神というのは、嫌われるものの、世界でもっとも公平な存在である。ところが、この死神は、あまりに気まぐれだ。なにを考えているのか、まったく読めない。
「律儀なことだな。世界がループを終えるまで、大人しくしていればよいものを」
孔明が言うと、ジルは肩を揺らして、尊大に笑った。

ジルは不死の呪いをかけられた吸血鬼であり、アストラルでもアトラ・ハシースでもない、死を迎えることのできない『人間』…『力なき者』なのである。
通常であれば、昨夜の東照宮での攻撃により、ジルの体はバラバラになっているか、でなければ、かなりの損害があったはずだ。
ところが、傷はほとんどなく、一日しか経っていないのに、ほぼ回復している。
また『狩り』をしたのだ。
吸血鬼の吸血鬼たる所以で、彼らは人から霊力を奪って補填する。体の回復に霊力が必要ならば、誰かから奪えばよい。
孔明は怒りに駆られたが、感情的になってはならないと、おのれを戒めた。
この吸血鬼は、単に血に飢えているのではない。狐のように狡猾で、狼のような残酷さを持っている。

慎重になる孔明に、ジルは目を細めて、歌うようにつづけた。
「ところでひとつ質問をさせてもらいたいのだが、よいかな?」
「なんなりと、元帥」
元帥とは、ジル・ド・レイが、フランス解放の功によりシャルル七世より与えられた、フランス軍最高栄誉称号である。しかし、元帥の名を冠して以降のジルは、ジャンヌを失い、暗い転落の運命に堕ちていくのであるが。
それを踏まえたうえでの孔明の皮肉に、嘲笑をうかべつづけるジルの頬が、一瞬だけ、ぴくりと強ばった。
「口はずいぶん達者なようだが、とても重要なことなのだよ。おまえの仕えた王(ロワ)の名において、正直に答えてくれたまえ」
「王(ロワ)ではない。皇帝(ランペルール)だ」
「Excusez-moi、東洋史には疎い。歴史が長すぎて、なにがなにやらだ。それはともかく、質問をしよう。昨日のおまえの攻撃、まさか、あれは、渾身の一撃ではあるまいな?」
今度は、孔明が顔色を変える番であった。
ほんの一瞬だけ、孔明の頬はぴくりと痙攣したのであるが、ジルはそれを見逃さず、勝ち誇ったように笑う。
「悪い質問をしてしまったようだ。そうか、やはりあれが精一杯だったのだな」
「わたしはおまえとは違う。自然界より、無尽蔵に霊力を受けることのできる身ぞ。いまのおまえは、我が一撃で負った傷を、なんとか回復させた程度であろう」
ジルは、肩を揺らしながら、まだ笑った。
「哀れなり、竜よ。もしもおまえがかつてのように、完全な状態であったなら、わたしがどれだけ力に満ちているか、はっきりわかったことだろうに!」
「なんだと?」
「たしかに、おまえによって負わされた傷は、回復がなかなか大変だったよ。雷電による火傷と切り傷、地面に叩きつけられたので骨も折ったし、内臓も弾けた。なんとか歩けるようになるために、そうだな、二人は狩ったかな。塾の帰りらしい、学生だったと思うがね、わたしの好みではなかったが、二人分の血をすべて頂いたので、応急処置にはなったよ」
「貴様…その二人は?」
「遺体は林に捨てておいたが、人目につきにくいところにあったから、見つかるまで時間がかかるかもしれないな。それも運命だ。諦めてくれるとよいのだが」

孔明は、一瞬、感情の波に捕らわれそうになり、あわてて、背後にいる一子に目を遣った。
冷静さを欠いているのは、状況の危うさが身に迫っているから、というだけではない。おそらく、アコに感情をつよく影響されているからだ。
肉体の所有者が最上アキラ子であるがゆえに、精神的な面の優位性もアキラ子にある、ということなのか? 
だとしたら、いまもっとも黙らせねばならない相手は、アコということになる。
落ち着くのだ。こちらを感情的にするのが、この吸血鬼の狙いなのだ。
こいつは今回のループのはじまりにおいて、『戦士の角笛』を吹いたがために、本人以上に、こちらの状況を把握している。
この永遠の殺人鬼がわからないことは、聖剣アスカロンによって隠されたラ・ピュセルの行方だけなのだ。
こちらの不利な状況をわかっていて、こいつは鼠をいたぶる猫のような気持ちで、このゲームを楽しんでいる。調子に乗らせて、逆に隙を狙うのだ。

「二人もの人を狩ってもなお、死に体だったおまえが、今日はずいぶん威勢がよいようだが?」
「調子付かせて喋らせよう、という魂胆はよろしくないな、La Chine de Dragon。それは美しさに欠ける。もっと知恵を見せてもらわねば」
「おまえの美学になんぞ、付き合ってはおられぬ。おまえを助けている者は、何者だ?」
すると吸血鬼は、芝居がかった仕草で、嘆かわしいといわんばかりに、片手で目を覆い、孔明から顔を背けた。
「なんてひどい質問だ。おまえは本当に、あの諸葛孔明か? それとも、愚昧な女子高生に、才能まで汚染されてしまったのか」
すると、ずっと孔明の背後で怯え、沈黙をつづけていた一子が、義侠心をみせて叫んだ。
「最上さんは、グマイなんかじゃないよ!」
「おやおや、麗しき友情だな。だが、わたしにはどうでもいい。世界の真実の一端すら知らぬ愚かな娘よ。そして東洋の竜は、乙女から離れ、なぜこの娘を守るのか?」
「それは逆にわたしが尋ねたいところだな。なぜおまえは、この娘を狙うのだ?」
すると、それまでほがらかと表現しうるほどに、唇から発せられる言葉とはうらはらの明るい表情を見せていたジルから、いっせいに笑みが消えた。まるで突風によって、蝋燭の火が掻き消えたような唐突さであった。
孔明の背後の一子が、怯えて息を呑むのがわかる。

「なぜ、だって? それをおまえが尋ねるのか。わたしは何度も繰り返しているぞ。我が望むのは黄金の魂のみ。ところがだ、忌々しきことに、この世界は、最高府によって閉鎖が行われたようではないか。
つまり、黄金の魂は、消滅しないかぎり、あるいは世界との契約を果たさぬ限り、いや、あるいはこの世界が消えないかぎり、この世界から解放されないということだ。
だが、消滅は駄目だ。とんでもない! 黄金の魂に敗北の歴史を刻むわけにはいかぬ! とはいえ、契約が果たされてしまえば、黄金の魂はまたも世界を救ったこととなり、彼女の位はますます高くなり、どんどんわたしから遠ざかってしまう! 
わたしが望むのは、黄金の魂とひとつになること! ほかには何も望まぬ! たとえ数万、いや数百万、数百億の人間がそのために犠牲になろうとかまうものか! だとしたら、答えは一つしかなかろう。この世界の消滅だ!」
夕暮れの日を浴びた銀の鎌を、ジルは持ち直して、凶悪な笑みを見せる。
「この世界を構築している、世界の臍を消してしまえばよい! ヴァルキューレの結界内にいるこの娘には手が出せなかった。だが、いまならば、役に立たぬアトラ・ハシース一匹しかついておらぬこの状態ならば、我が望みを達するは容易い!」
「ほざくな、この下郎めが! いかに制約を受けた身であろうと、我はアトラ・ハシースなる! おまえの思うままにはさせぬぞ!」

ざわり、と、高校の敷地内の空気が、巨大なひとつの塊となって、大きく動いたのがわかった。
孔明が風を集めたのではない。これは、レティクルたちが集結してきたのだ。
純粋で苛烈、巨大な敵意を感じる。これは、アトラ・ハシースが一部隊ほど集ったのと、同じほどの霊力に匹敵するのではないか。
これほどに集れば、どんなに鈍感な『力なき者』でも、その姿をはっきりと目視できるにちがいない。
ジルが、ふたたび笑った。それは、レティクルたちをはるかに凌ぐ、凶悪な意味のこめられた笑みであった。
「さて、どうする。あいつらを片づけてから、わたしと戦うかね。騎士道に則って、おまえが帰ってくるまで、この娘の命を奪うのは、待ってやってもよい」
「くだらぬ慈悲は無用ぞ」
孔明が答えるのと同時に、さきほどまで孔明のいた教室が、青白い閃光に包まれた。
あらわれた気配は二つ。面識のないアトラ・ハシースを召喚するのに時間がかかったが、これでいくらかマシになった。
見上げると、破れた窓のあいだから、見慣れた趙雲の顔が覗いた。
「どうなっている!」
「わたしは吸血鬼を倒す。あなたはレティクルを頼む!」
「わかった」
それだけで、すべての状況を把握したらしい。孔明が、とくに趙雲を好んで召喚するのは、趙雲自身の変わらぬ勘のよさに感服しているのと、自分の気が楽だからである。趙雲ほど、相対するときに、考え込まなくてよい相手はほかにない。

「只人となったアストラルが、どれだけできるかな」
ジルが鼻で笑うのを、孔明は、余計なお世話だ、と笑い返した。
只人としても、趙雲の戦闘能力は優れている。状況判断能力においても、然り。
そして、頼みの綱は、もうひとりのアトラ・ハシースだ。
霊力を大量に封じ込めた石をいまだに所有しているというのであれば、これはレティクルには有効な武器となる。
孔明は、ジルから目を離さないまま、スカートのポケットに入ったままの、アメジストを握りしめた。
この石の霊力は優れている。
アトラ・ハシースとして上位にある自分の覚醒を促し、逆に、アトラ・ハシースの意識を眠らせて、最上アキラ子を呼び戻すことさえできる力を持っている。
いちかばちか。しかし、これ以上によい作戦は浮かばない。
やるしかないのだ。

「一子」
孔明は、ジルに顔を向けたまま、背後の一子に声をかけた。一子は、それまで花壇の縁に座り込んでいたが、孔明の呼びかけに、すばやく起き上がる。
「なに?」
孔明はジルに聞かれないように注意しながら、一子にささやいた。
「頼みがあるのだが、わたしがこれから、ある行動を起こす。すると、いま目の前にいる、気障なフランス産吸血鬼は、怯んで、おまえへの攻撃どころではなくなるはずだ」
「なにをするの?」
「それは秘密だ。じきに判る。おまえにしてほしいことは、わたしがその行動をしたら、すぐに『わたし』の手を引いて、逃げて欲しい。この近所にある、寺社か教会、聖なる力に護られている場所へと逃げるのだ。『わたし』はおまえに何か言うかもしれないが、それにまったく耳を貸してはならぬ。ともかく逃げる。よいな?」
「逃げるってのはわかったよ。この裏山を越えたところに、教会が在るから、そこに行く。でも、どういうこと? どうして自分のことをまるで他人みたいに言うわけ?」
「いまの時点では、詮索無用。助かりたくば、わが言に従うのだ。よいな? 逃げ切ったなら、わたしのアストラルもおまえを助けにやってくる」
「明日虎ル? なにそれ!」
「わたしの言うことはわかったな?」
「わかった。うん、言うとおりにするよ。最上さんは、いっつもわたしを助けてくれるもん」
よろしい、と肯いて、孔明はふたたびジルに集中する。孔明が攻撃態勢に入りつつあることを悟ったジルもまた、その痩躯にまとう禍禍しい殺気を、どんどん増していくのであった。



銀のヘンテコ軍団は、学校中からぞろぞろと、無言のまま集ってくる。
口がないので彼らは声を発することがない。列も乱さず、黙々と集ってくる姿は、理想的な軍隊そのものではないか。
彼らは欲に目がくらんで物品を横流しすることもなければ、恐怖をまぎらわせるために薬に溺れることもないし、ストレス昂じて女を襲うこともない。
だが、なんと不様でいびつな姿であろうか。彼らは純然たる死の贈り手。生きるものに、死を与えるためだけに存在する。喜びも悲しみも知らず、彼らは枯れ草を刈り取るように、無造作に命を摘み取っていく存在なのだ。
突き詰めていってしまえば、剣や斧、銃やミサイル、武器というものは、すべてこの銀のヘンテコ同様にいびつなものであるはずだが、武人である趙雲が嫌悪感をおぼえるのは、この銀のヘンテコ、工場での大量生産品とはいえ、人工生命体だ、ということである。
人を模してつくられた小人たち。彼らに心を与えなかった、彼らの向こう側にいる未来人たちの、欠落した倫理観が透けて見えて眩暈がする。
彼らは、いわば人造のアストラルだ。よくできたおもちゃの兵隊そのものである。レティクルたちは、こちらが本気になっているのをよそに、案外、ゲームでもしているつもりなのかもしれない。

「わらわは、こやつらに消滅させられたのじゃ」
と、趙雲の横にいるエリザベスが忌々しそうに言った。
孔明によって、教室に召喚された趙雲とエリザベスは、二人から一定距離を置いて、仲間たちが集ってくるのを整列して待っている、銀のヘンテコたちと対峙している。
エリザベスは一度、痛い目に遭っているため、銀のヘンテコから目を逸らさない。銀のヘンテコもまた、一度は消滅させたはずのアトラ・ハシースを、無表情な大きな瞳でじっと見つめている。

一方の趙雲は、破れた窓の外を気にしていた。
孔明は吸血鬼を倒すといったが、可能なのだろうか。
そも、昨日、孔明の雷電により、退治こそできなかったものの、相当の怪我を負ったはずの吸血鬼が、ほぼ完全な状態に回復している、ということが問題だ。
状況は、思っていたより、ずっと厳しい。
この場合、最優先されるべきは、浅野一子の安全確保。浅野一子と弟の史朗の存在が無事であればこそ、この世界は保っているのだ。
世界を守るために召喚されたアトラ・ハシースが第一にしなければいけないことは、彼女をヴァルキューレの結界によって守られている自宅に帰すか、あるいは別の、吸血鬼の近づけない聖なる場所へ連れて行くか。
だが、その場合、吸血鬼と銀のヘンテコを同時に振り切らなければならない。それが不可能なので、孔明は子龍を召喚したわけだ。
おそらく、孔明が頼りにしているのは、おのれではあるまい、と、勘の良いところで趙雲はすぐに察した。
孔明が頼りにしたのは、隣にいる白いホロゴースト、エリザベスである。彼女の持つ霊力の塊…つまりは全身に帯びている宝石を武器に、浅野一子の安全が確保されるまで戦うしかないのだ。
生身の身とはいえ、戦う術は心得ている。両手足がもがれてもなお、戦うだけの覚悟はできていた。
だが、孔明はどうだ。最上アキラ子の肉体を維持しなければならないために、使用可能な霊力はわずか。そも、アストラルは、アトラ・ハシースを守るのが役目ではないか。明らかに危機が迫っているとわかっていて、放っておいてよいものか。

かつてのジル・ド・レイは、幕屋に座っているだけで、戦功を得てきたというタイプの武将ではない。彼自身も優秀な武人であり、勇猛さにおいては、並ぶものがなかったという。敵の攻撃にひるむことなく、率先して突撃するラ・ピュセルを、ともに馬を駆って守った。
吸血鬼と戦うべきは、戦闘に慣れている、こちらではないのか。

「いつまで窓の外を気にしておるのじゃ」
銀のヘンテコをきつくにらみつけたまま、エリザベスは鋭く言った。
「わらわも召喚された理由はわかっておる。こやつらを抑えるためであろうが」
いいざま、エリザベスは指に填めていた、大きなブラックオニキスの指輪を趙雲に投げた。
「邪気をはらう炎の力を込めてある。そなたのよきように使うがよい。ただ、その石は独占欲が強い。そなたが窓の外ばかり気にしていると、嫉妬して、そなた自身を焼いてしまうかもしれぬ」
「物騒な女のような石だな」
「だから集中せよ。そなたのアトラ・ハシースを助けたくば、な」
いいざま、エリザベスはぶるりと身を震わせた。
「怖いのか」
エリザベスは、蜂蜜色の巻き毛に縁どられた勝気な横顔に笑みを浮かべた。
「ふん、もとより消滅寸前の身ぞ。こやつら人工生命体なんぞ、いまさら恐れぬ。わらわが震えたのは、この気配。そなたのアトラ・ハシースの気配じゃ。これほど圧倒的な力を見せれば、仙台中の小人どもが集ってくるぞえ」
「あいつ、霊力を全開させているのか?」
エリザベスは、ああ、と気づいたように合点した。
「そうか、そなたは只人になってしまったがゆえに、霊力を測れなくなってしまっているのであったな。これは凄まじいぞ。わらわも多くのアトラ・ハシースと会ったが、これほどの霊力をあつめることができるのは、ごくわずかじゃ。賢者ソロンにも匹敵しようぞ」
「賢者ソロン…会ったことが?」
「一度だけじゃ。エジプト人というのは、どうも我らと違う空気を吸って生きているような気がしてならぬ。ことばを多少交わしたのであるが、まったくもって意味がつかめなんだ。その点、そなたはわかりやすくてよい。これは誉めてやっておるのじゃ」
「それはありがとう、陛下。ところで、この武器はどうやって使う。かざして使うものなのか?」
すると、それまで銀のヘンテコに視線を向けていたエリザベスは、そのつぶらな瞳を趙雲に向けた。
「そなたのアトラ・ハシースは、そなたのために、石を用意することはなかったのか?」
「石ではなく、いつも俺の好む形の武器を、完全な状態で用意してくれていたからな」
それを聞くや、エリザベスは細い眉をしかめて、鼻を鳴らした。
「甘えておるのじゃ。そも、アトラ・ハシースはアストラルに霊力を提供する際に、おのれを守る報酬として、武器となる霊力の塊をともに与える。
それをアストラル自身が精錬して、武器に鍛え上げるのが一般的であろう。それが、すでに精錬されたものを与えられていたというのか」
「そのほうが、早いし、アトラ・ハシースが精錬した武器のほうが、威力が高いと言うので、任せていたのだが」
「ふん、たしかにアトラ・ハシース自身が精錬したもののほうが、威力は高かろう。しかし、その分、アトラ・ハシースの霊力がどれだけ消費されると思う? アトラ・ハシースの手間暇を省くためのアストラルであろう。アストラルに気を使うアトラ・ハシースなんぞ聞いたことがない」
その言葉に、趙雲はつよい反発をおぼえた。

アストラルの組合なんてものができるほどに、アトラ・ハシースとアストラルの関係は、強者と弱者に陥りやすい。最高府主導により、なんども改善がなされてきたが、いまもってエリザベスのような言葉を平気で吐くアトラ・ハシースが大勢を占めているのが現状だ。
万民の魂のなかで、それこそ大河の一滴のごとくアトラ・ハシースになれる魂は限られているが、とはいえ、精神的に完全に進化したものではないのである。

「おまえのような、アストラルを使い捨て戦力としてしか見なさないアトラ・ハシースが後を絶たぬから、アトラ・ハシースへのアストラルの規則は厳しくなったのだ! 聞こうと思っていたのだが、おまえのアストラルはどこへ行った?」
「……召喚したにもかかわらず、答えなんだ。ウォルシンガムめが」
「生前の怨みがあるのだろうよ。まして、今回も使い捨てにされるとわかっているのであれば、召喚されても答えまい」
「女王の命令に服するのが、臣下としての勤めなのじゃ!」
「限度がある! ところでこの武器、只人である俺でも使いこなせるものであろうな」
すると、ウォルシンガムの陰険ケムシ、などと悪口をぶつぶつ言っていたエリザベスは、目をきょろりと動かして、言った。
「それは、そなたの精神力の見せ所であろう」
「…なんだ、それは」
やれやれ、というふうにエリザベスは肩をすくめる。
その細肩の向こうには、ぞろぞろと集ってきた銀の小人たちが、沸騰点が越えるのを待っていた。つまり、集った数が、エリザベスと趙雲と対決するのに十分と判断すれば、一斉に襲い掛かってくるつもりなのだ。

霊力の大きさが量れないのが幸いしているなと、かえって度胸をきめて、趙雲は思った。
エリザベスがさきほどから、やたらと口を動かしているのは、恐ろしくないと虚勢を張っているものの、やはり恐ろしいからだ。
銀のヘンテコは、個体ではまったくたいしたことがないが、集団となると、アトラ・ハシース一人分くらいの霊力を発揮する。
しかも、教室いっぱいにあつまり、廊下にさえあふれ返っている。これだけの銀のヘンテコが集れば、いったいどれだけの力となるのか。

エリザベスは、自分の腕輪となっていた瑪瑙を取り出すと、こうするのじゃ、といいつつ、しばし意識を集中させ、やがて、ほの白い炎を帯びた剣を出現させた。
「聖剣ほどの力はないが、剣はやはり手に馴染む。このように、おのれの使いやすい武器を思い浮かべ、石に思念を反映させ、変化させるのじゃ。やってみるがよい。そろそろ、やつらが攻撃を仕掛けてこようぞ」
「使いやすい武器を思い浮かべ…石に思念を反映させる?」
趙雲は、エリザベスがしていたように、ブラックオニキスの指輪に意識を集中させ、脳裏に武器を思い浮かべた。
槍。もっとも使い慣れた得物である槍が欲しい。
ぼおっ、と炎が立ち上る音がして、手に、その全身が赤い炎に包まれた槍があらわれた。不思議なことに、炎に触れても、熱さはまったくなく、火傷を負う気配もない。
陽がだんだんと闇をふくませており、教室内部も暗くなってきた。そのなかで、槍は力強い炎をまとい、銀の小人たちを威嚇している。
夕闇の果てに、銀の波がさざめいているように見える。あわれな人工生命体ではあるが、やはり命は命。どんな生き物にも、神秘的なまでに美しく見える瞬間がある。
だが、これは、最後の輝きとなるであろう。
「待っているばかりでは味気なかろう」
「ふむ、では行くかえ」
趙雲は、手にした炎の槍をぶん、と威嚇するように振り回した。重さも調度よい。霊力が測れないとはいえ、銀のヘンテコたちが、炒られた豆のように、殺意を漲らせて活発になっていくのが空気でわかる。
ざわり、と銀の波が揺れるような動きを、小人たちが始めるまえに、趙雲とエリザベスは攻撃を開始した。


「最後にひとつ聞きたいのであるが」
孔明のことばに、ジルは満足そうに笑みを浮かべた。白皙の秀麗な顔に浮かぶ笑みは、なにも知らなければ、十分に魅惑的なものである。
ジルには、生まれ持った愛嬌がある。相対する者を、おのれの味方に引き入れる術を生まれながらに会得している男だ。この笑みで語りかけられたなら、たいがいの子供たちは付いていく。
ジルは天性の狩猟者なのだ。獲物を油断させる術に長けている。気品ある恵まれた容姿も、武勇の才能も、狡猾な頭脳も、すべて狩猟のために用意された道具にすぎない。
「最後に、か。殊勝でたいへんよろしい。答えよう」
「おまえは、レティクルたちと連合しているのではないのか?」
「連合? なんのために?」
「レティクルの目的は、この世界の消滅。そしておまえも、この世界の消滅を願っている。目的は一致する。そして、呪具『英雄殺しの槍』を手に出来た理由。レティクルと連合したから…ちがうか?」
孔明が決め付けると、ジルは、肩を小刻みに揺らし、鳩のようにくぐもった声で笑った。
「おもしろい、おまえは本当に面白いな。ヴァルキューレが、おまえを黄金の魂の守りのために召喚した理由がわかる。おまえくらい慎重で疑い深い者ならば、性急にことを運びたがる黄金の魂を、抑止できると考えたのだろう。だが、見当ちがいだ。残念だな」
「そうか…安心したよ」
ジルとレティクルが連合していないのであれば、どちらか一方が弱まったとき、助けがあらわれて、こちらが不利になる、という危険がないことがわかった。
孔明は、ジルの細められた蒼い瞳を、まっすぐ見据えた。この男の、人をまるで器物かなにかのように見る目線が気に食わない。
この男は、肥大した貴族主義の癌である。おのれ以外のものを生き物と見なしていない。
改心する見込みはない。すくなくとも、自分には無理だ、と孔明は思った。
ラ・ピュセルであれば、この男を変えることが出来るのだろうか。変化を求めるからこそ、吸血鬼はラ・ピュセルを望んでいる? 
呪われた吸血鬼、世界のありとあらゆる生き物のなかで、もっとも嫌われるもの。

こんな男でも、『人間』であったときに、たった一度だけ、激しい恋に落ちた。
その恋が残酷な結末を迎えたとき、この男の内側にある破壊衝動をせき止めていた堤、良心は、あとかたもなく壊されてしまった。
彼は理解ができなかった。
なぜ、神の声を聞いたはずの少女が、魔女として無残な死を迎えなければならなかったのか。
国王が彼女を救おうとしなかったのか。
世界が、神が彼女をすくわなかったのはなぜなのか。
彼にはもう、ありとあらゆるものを憎悪し、醜く殺す以外に、おのれの中にある激しい衝動を抑えることができなくなってしまったのだ。
彼女は、彼の内側にある炎のごとき激情を知っていたのか。
知っていてもなお、彼女は彼を信頼し、戦士の角笛を吹かせた。
彼女の見せる、仲間への絶対的な信頼は、孔明とてひるむほど純粋で、清らかなものだ。
彼女の心の中には、老若男女の別、いや、それどころか、人も天使も悪魔も、存在の区切りが存在しないのだ。

「謝らねばならなかったのだがな」
孔明は、最初のループで見た、黄金の魂の悲しそうな顔を思い浮かべ、胸を痛めた。彼女を守るためにも、この世界の要である、一子を守らねばならない。

ジルが、一歩こちらに足を踏み出す気配を捉えるや、孔明は素早く、ポケットで握りしめていた紫水晶を取り出し、手のひらに載せた状態で大きく呼ばわった。
「当山真孔君の名において命ず! 石よ、真の力を解放せよ!」
とたん、手のひらの石は命令に答えるように、星のように凄まじい光を放ちはじめた。
ジルが、雷電をもはるかにしのぐ、強烈な白い光の向こうで、狼狽しているのが見える。光はまるで紫水晶からの解放を喜ぶように、大気で踊っているようにさえ見えた。

銀の小人たちは、霊力に反応して集ってくる。
アトラ・ハシースたる孔明が、窓の外に投げられた一子を救うために霊力を使ったので、彼らはそれを探知し、孔明を目指して集ってきた。まるで灯火につどう蛾のように。
ならば、銀の小人たちを振り払うにはどうしたらよいか。

音にならぬ、空間が軋む音が聞こえたような気がした。
石の力は、孔明が想像していたよりも巨大なものであった。紫色の小さな石は、流れ星が手のひらで輝いているようである。闇に溶け込もうとする空に反抗するかのように、中庭を白く照らし出している。
紫水晶はもともと、魔除けの石。当然、そこに籠められていた力も聖なるもの。紫水晶から放たれる聖なる力に、吸血鬼たるジルは、まるで金縛りにあったように動けないでいる。
いや、動けないのであろう。不老不死、食事をせずとも飢えることがなく、人を狩り、群れることなく、アトラ・ハシースのように汎世界を漂って、永遠の生を孤独にさまよう者。
その吸血鬼が、唯一、畏れるのが、聖別された物なのだ。
「さらばだ!」
孔明は、たじろぐジルに対し、いまや中庭全体を大きく照らし出す光を放つ紫水晶を投げつけた。
まるで雷が手のひらから天空に向けて、逆に落ちていくかのようなすさまじい光である。その光の束を、投げたのだ。
石は、孔明の意志に答えるかのように、まっすぐと、まぶしさのあまり、手で顔を覆う吸血鬼の脳天を直撃した。
とたん、獣じみた悲鳴が、中庭に響き渡る。
まるでマンドラゴラの声のようだ。最後に聞く声が、こんな気味の悪いものだというのは運がない。あとは、きっと彼が、そして彼女が上手くやってくれるだろう。

任せた。

心でそう呟くと、孔明は容赦なく襲ってくる、眠気にも似た闇の奥に、意識を沈ませていった。


「え? 任せる?」
アコは目を開き、声の主を探した。聞き覚えがないのに、なぜか懐かしい、不思議な声だった。
そして、いま目の前にあるこの光景はなんだろう。
自分は学校の中庭におり、目の前には金髪の外国人が立っていて、それが両手で頭を抱えて、激しくのたうちまわっている。しゅうしゅうと音を立てて、煙が頭からのぼっている。
アコが驚いたことには、その男の頭部は、まるで親指の腹で粘土を押しつぶしたように、ぐにゃりとひしゃげているのである。
立って呻いていられるのが不思議なくらいだ。普通なら、もう死んでいる。
死んで…アレ?
「最上さん!」
背後より、ぐっと腕を引っ張られ、アコは我に返った。
振り返ると、浅野一子が、がくがくと笑う自分の膝を懸命に励ましつつ、アコの手を引いて、逃げようとしているところであった。
「あれ、浅野さん? どうして? わたし、そういえば」
東照宮にいたんじゃなかったっけ? でも、ここはどう見ても学校の中庭。そして、潰れた頭を抱えて苦しんでいる男は…
アコがうろたえていると、痛みにのた打ち回っていた男が、顔を覆う手をゆっくりと外し、憎悪に満ちた顔をアコに向けてきた。
その悪魔じみた顔は、忘れもしない。
「いつかの殺人鬼!」
警察! 平塚八兵衛を呼ばなければ! いや、それよりわたしの味方、アストラルはどうしたの?
「最上さん! 早く、逃げよう!」
ぐいぐいと、懸命に一子が手を引っ張ってくる。
たしかに危険な状態だが、アストラルが無事かどうかを確認しなければ。そういえば、東照宮で、アストラルが助けにきてくれて、この殺人鬼と戦って…怪我をしたのじゃなかったっけ? ちがう? どうして記憶が飛んでいるの?

「待って、子龍さんは? どこへ行ったの?」
「いいから! 早く逃げるの! もー! 本当に言うとおりになったっ!」
一子は悲鳴にも似た声をあげて、アコの手をさらに強く引っ張る。
アコは訳がわからないながらも、一子の迫力に押される形で、中庭から逃げるべく走り出した。
「どこへ行くの?」
「裏山の向こうの、教会! あんまり喋らないで! あたし、走っているときに喋ると、転ぶから!」
たしか、一子は運動神経0だった。たしかに転びそうな走り方だと納得し、アコは大人しく後に従った。
訳がわからない。訳がわからないのに、パニックを起こさず、どこか当然のこととして受け止めている自分が、気味が悪い。
わたしは、さっき、あの殺人鬼が苦しんでいる姿を見て、なにか重要なことを思い出さなかっただろうか。
「浅野さん!」
「なに? 話しかけないでってば! 裏山へ行く階段、もうすこしだよ! だいたい、逃げろって、あなたが言ったんでしょーが!」
「そうじゃなくて、ねぇ、なにかいま、聞こえなかった?」
「殺人鬼が追いかけてきているんじゃないの?」
アコは一子に手を引かれながら、ちらりと背後を振り返った。
しかし、吸血鬼は追いかけてくる気配がない。眩暈をこらえている人のように、ひしゃげた頭を何度も何度も振っている。
「ちがう。女の子の声だった! 悲鳴みたいなの!」
「聞こえないよ! いいから、早く走って!」

だが、一子の苛立ちをさらに刺激するかのように、だれもいないはずの校舎に、少女の甲高い悲鳴が響き渡った。
それは、はっきりこう言っていた。
「マジで、だれか助けてー!」
「この声…ヨーコだよ!」
良くも悪くも、アコはヨーコの声を忘れない。まちがいなかった。
もしもアコが孔明の記憶を共有できるのであれば、孔明が鍵を開けた屋上に、ヨーコも入り込み、タバコを吸っていたことを思い出したであろう。そして、SHRのあと、ヨーコはまっすぐ帰らず、ふたたび屋上に向かったことを想像できたはずだ。
「ヨーコなんてどうでもいいよ! ほらぁ、あいつ、追いかけてくるよ! 早く走ってってば!」
「よくないよ! 助けて、って言ってたよ!」
「だからなに! こっちだって、助けて欲しいのに!」
アコは、ふたたび吸血鬼のほうを振り返った。銀の鎌を片手に、ゆらゆらと動いてはいるものの、まだどこかショック状態から抜け切っていないというふうで、追ってくる気配はまったくない。
「あいつ、追いかけてこれないんだよ、あれだけの怪我だもん! ヨーコを助けてからでも逃げるの、遅くないよ!」
「遅いよ!」
「じゃあ、離して! わたし一人で行く!」
「だめっ! 無視! あなたが何を言っても無視!」
さらに強引に引っ張ってくる一子の手を、アコは力づくで引き離した。
「ごめん、浅野さんは逃げて! わたしも、あとから行くから!」
そう言うや、アコは踵を返していましがた通り過ぎた、屋上へ通じる階段のある扉をくぐった。とたん、廊下に、ヨーコの悲痛な声が聞こえてきた。
「ヨーコ! いま行くからね!」

なんのために。

耳朶の奥で、どくん、と鼓動が跳ね、遠い記憶の向こう側より、問いがあらわれた。それは、意識の泉から湧き出るように、自然とアコの脳裏に響いた。
「なんのためって…ヨーコが助けを求めているんだもん。助けてあげなくちゃ!」

なんのために。

無機質な問いは、さらに続いた。それは、アコの精神の奥の奥から、重く冷たく響いてくる。
「友だちだから…とかだと思う! いや、そうだ!」

なんのために。あの娘は、おまえの命を奪った者。

全身が、射抜かれたような痛みが、体の内部から沸き起こり、階段を駆け上ろうとしていたアコは、おもわず足がつんのめる。
だが、手すりにしがみ付くようにして、膝を打つ寸前で、体勢をととのえた。
スカートからのぞく自分の足を見る。膝を打たなくてよかったなと思うのと同時に、奇妙に思った。
東照宮では、銀のヘンテコに跳ね飛ばされて、あちこち切り傷を負ったはずだが、それがきれいになくなっている。
やっぱりあれは夢だったのだろうか。でも、この現実は、なに?
最初に目を覚ましたときに、頭の半分潰れた吸血鬼を見て、とても重要なことを思い出し、納得したのは、なんだったのだろう。

そのとき、ふたたび屋上から階段を駆け下りるようにして、ヨーコの悲鳴が聞こえてきた。
なにがどうなっているのか判らないけれど、助けなくちゃいけない。
ヨーコはたしかに自分をいじめる子だけど、こっちだって黙って耐えてきたのは、一人になるのが怖かったからじゃない。親にチクられて、奨学金を打ち切られるのが怖かったからじゃない。あの子が、どこか嫌いになれなかったからだ。

思い出せ、思い出せ。そして引き返せ。おまえはふたたび、ちがう形で死

「うるさいっ! ごちゃごちゃ言わないで!」
アコは力の限り怒鳴ると、わんわんとこだまになって階段に響くおのれの声を聞きながら、ふたたびヨーコのもとへと、階段を駆け上りはじめた。

※次回、「ずんだ&ゆべしの章1」につづきます…

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