![]()
⑧
※このお話は、「ゆべしの章7」のつづきとなります。
昼休み3
孔明はふたたび私立千台栄華学院の屋上にもどってきた。
そうして、やれやれと息をつき、屋上の床に映える給水塔の影をみて、ぎょっとする。
だれもいなかったはずの屋上に、不在のあいだに、だれかが入り込んでいたらしい。給水塔の上でうずくまる人影は、ひとり。
「アコのウソツキ」
降ってきた声に、奇妙なものであるが、孔明は、ほっとした。
ヨーコだ。ヨーコはアコの仇とも言うべき娘であるが、いい意味でも悪い意味でも、天真爛漫で、表現はわるいが、ごまかしやすい。
「なんだ、いきなり」
歩いて、ヨーコの姿が見えるところまで後退すると、孔明が眉をひそめたことには、ヨーコは、たったひとり、膝をかかえて、タバコの煙をぷかりと青空に向けて吐き出しているところであった。
「さっきパソで調べたよ! 金魚草の花言葉って、『清純な心』ってのもあるじゃん!」
「そう、金魚草の花言葉はほかにもあるぞ。『おしゃべり・大胆不敵・欲望・図々しい』。好きなものを選べ」
「ヤダ。アタシを落ち込ませた代償に、お返しの花、なにがいいか選んでよ」
孔明は小首をかしげて、ヨーコの言葉を吟味する。
「花? 果物を投げる、というのはどうだ。昔のわたしの…いや、古代中国では、好きな男に果物を投げて気持ちを表現する慣わしがあった」
「アタシ、砲丸投げ、超得意! スイカとか?」
「…事故になるな。わかった、相手の男はどんなヤツだ?」
「ベッカムより美形」
「ふうん?」
アコ…孔明が疑わしそうに顔をしかめると、ヨーコは本気で顔を赤くして、給水塔の上から怒った。
「マジだからね! 今度、写真を見せてあげるから! そんとき、本当に美形だなって思ったら、アタシになにか奢ってよ!」
「ふん、悪いが美形というものには目が慣れているから、ちょっとやそっとじゃ感動せぬぞ。その美形に贈り返すのに、ぴったりな花というのか。性格は?」
「マジでそれ、いま流行りなの、今日のアンタの、その時代劇っぽい喋り方」
趙雲に指摘されたこともあり、ようやく孔明は自分が場にそぐわない話し振りであるがために、余計に周囲から浮いているのではないか、ということに気が付いた。
日本語はむずかしいものだ、と嘆息しつつ、孔明はヨーコに確認する。
「ヘンか?」
「超ヘン。花火を断るからだよ!」
「どういう論理だ。餓えた男ども同伴の夜の花火なんぞ、今後も断る」
「だーかーらー! みんないいヤツだっての。アンタ、慎重すぎ。きっとバーさんになっても、ずーっと男なしの人生だよ。せーっかく、イケメンばっか集めてきてやったのにさー」
屈託のないヨーコの物言いに、孔明は芯から呆れた。
「困ったヤツだな。もしかして、花火も、アコ…いや、わたしを励ますつもりで企画したのか? おおいに的外れだぞ。そうだな、この世界で判りやすく喩えるなら、インフルエンザの患者に向けて、狂牛病に感染した牛でつくった牛タン定食を奢ってやるようなものだ」
「アンタみたいな意地悪に、もう牛タン定食なんて奢ってあげないよ。まあいいや。性格? えーと、無口で、なんかアンニュイな感じで、憂いを秘めてる感じ。でも超やさしーよ!」
「『無口でだるそうで欝っぽい優しい男』? なめくじのようなヤツだな。よし、『紫陽花』」
「アコの反抗期。でも紫陽花は、いいじゃん? でも花屋にあるかな。買ってきてよ。ところで花言葉は?」
「『ほら吹き・あなたは冷たい』」
「ダメ! アコ、あんた、あとでひどいよ?」
「そんなに花言葉にこだわるなら、花言葉から選べばよかろう。なにがいい」
すると意外なことに、ヨーコは頬を赤らめ年頃のういういうしい乙女の表情を見せた。
「…一途に想っています、みたいな」
「では、アイビーだな」
「花じゃないじゃん。だいたい、うちの学校に、そこいらに生えているもの贈った、って思われちゃうよ」
「向こうも仏壇用だぞ。どっこいどっこいだ」
「ヤダ! ほかには?」
「注文の多いことだな。白バラでいけ。『私はあなたにふさわしい』。どうだ、完璧だろう」
「いいけどぉ、バラっていま、結構安くない? もっと高いのがいい。カトレアとか? カトレアって、花言葉はなに?」
「『優美な貴婦人』」
「アタシじゃん! それにする!」
「あのな、こういう花言葉をもつ花は、男から女に贈るものだぞ。だから金魚草(図々しい)なのだ」
「うるっさい! いーもん。花屋のカトレア全部買う! よっしゃ、決まり。今日は許してあげる」
「恒久的に許してほしいものだな。しかし、おまえ、いつもタバコなんぞ吸っておるのか」
「そうだよ。知らなかったっけ? やめようと思うんだけど、一人になったときに、何していいかわかんなくってさー。携帯でメールするのも、『一人になる』のとちょっとちがうじゃん? なんつーか、人間関係をぜーんぶ清算したくなるときってない? で、一人でなにをするかっつたら、あたしはあんたみたいに読書とか嫌いだし、ほかに思いつくっていったら、タバコくらいしかないしー」
「詰め将棋とか、もうすこし健康的なものにすればよいではないか。肺は黒くなるわ、歯は黄色くなるわ、日本人がタバコを吸う姿は、子供が無理してつっぱっているようにしか見えなくて、いまいち格好悪いわで、どうにもならぬぞ」
「アコの健康志向。まえにあんたが本屋で『わかさ』を立ち読みしてたの、知ってるんだから。今日のあんた、ほんとうに生意気」
「そうか? 言わせてもらえば、今日のおまえが、よく人の話を聞いているように感じるがな」
しかしヨーコからの返事はなく、ますます屋上に白い煙が増えていくばかりである。
「では、一人になりたいところを邪魔したな。わたしはもう行く。そろそろ五時限目なので、おまえも早く用意をするのだな」
そうして屋上から出ようとすると、ふたたびヨーコの声が下りてきた。
「あんたが真面目なのは、親にそう言われたから?」
孔明は足をとめ、ふたたびヨーコの姿が見える位置にまで戻った。
ヨーコはアコの姿を見ずに、青空と、給水塔から見えるであろう仙台市街を、いつになく真摯な顔をして見つめている。
「だれに言われたからでもない。そうすることが、わたしの理想や良心に叶うからだ。わたしはわたしの心が喜ぶことをする。それが善行かどうかは、ほかのだれかが勝手に判断すればよい」
「ふーん。なんかじじむさいけど、カッコイイーじゃん。哲学ってやつ? ダンディズム? そりゃ、オジサンだけか。そうなんだ。前の『お父さんが言ったから』は、やめたの?」
「やめたというか」
別人なのだが。
孔明は、アコの記憶をぱらぱらとめくりつつ、ヨーコに挑発されるたび、アコが断りの台詞として言っていた『お父さんが言ったから』を確認していた。
以前にもタバコを吸っているところに行き会い、一緒に吸わないかと言われて、『お父さんがタバコは体に悪いって言ったから、吸わない』と断っていた記憶に行き当たった。ふむ、これか。
「まあ、お父さんが言っていたから、というのもあるな。先人の知恵には耳を傾けるべし」
「今日のあんた、本当にヘン。いいけどさ…先人ね、うちの親父もそんなこと言うけど、先人だろうが誰だろうが、ぜんぜん人の話を聞かないの。サイアクな男だよ。あんたのお父さんはいいよねぇ」
「アコの…わたしの父を知っているのか?」
「あれぇ、言わなかったっけ? うちの親父、遺跡とかの発掘が趣味で、アマチュア考古学者やってるんだよ。あんたのお父さんも仲間だったんでしょ? よく飲みに誘っても、娘と女房が待っているから、とかいってすぐに帰っちゃうんで、おもしろくない男だー、なんて親父が言ってたからさ」
そうだったのか、と孔明はアコの記憶を探って見たが、たしかに父親は休日に趣味のあつまりに出かけていたが、アコ自身は、さほど興味がなかったようで、記憶がうすい。
ちょうどそこで予鈴が鳴ったのだが、ヨーコはというと、まったく動こうとしない。
「サボるのか?」
孔明が尋ねると、ヨーコは肯定の返事らしい、うー、という唸り声のような声をあげた。
師走の青空のもと、町をぼんやりと眺めながらタバコをふかす姿は、それ以上の質問を拒むところがあったので、孔明はヨーコを置いて、自分は教室に帰った。
放課後
アコの班はそうじ当番ではなかったが、HRが終わると同時に、無性に箒が握りたくなり、孔明はみずからそうじを手伝った。
箒が握りたくなったのは、アコがそうじ好きであったからで、アコというのは、押し付けられて毎日教室のそうじをしていたというだけではなく、生来のきれい好きだったようだ。しかし実行するのは孔明なので、いまひとつ綺麗にならず、クラスメイトたちに、今日のアコは、やっぱり調子がおかしい、という印象を強くつけただけに終わった。
ヨーコは、六時間目が終わって、ショートホームルームの時間になってようやくひょっこりと顔をだし、教師がなにも言わないことをいいことに、平然と携帯電話で着信やメールを確認し、それから、とりまきたちとなにか話をするでもなく、ぼんやりしている。
ヨーコが戻ってきた途端、ヨーコが持っているだろう霊具の気配で、全身の毛が逆立つような、緊張した感覚がよみがえってくる。
ヨーコも、こちらの気配をなんとなくではあるだろうが、察しているだろう。だから居心地がわるく、サボりを決め込んでいたのかもしれない。孔明はそう推理した。ヨーコに、妙に活気がないのが気にかかる。
ちりとりと箒で、最後の土埃の山を、いかに床から多く回収するかで四苦八苦していると、突如として、ざばりと水をかけられた。
水の匂いをかいでみたところ、バケツの水をかけられたらしい。霊具を持つヨーコに集中していて、背後に気づかなかった。……ウカツ。
「あー、ごめん、アコ。危ないって言ったのに、ゴミばっかり見てて、聞こえなかったんだ?」
言いつつ、ヨーコといつもつるんでいる少女のひとりが、笑いながら近づいてきて、濡れたアコの制服を、乱暴にぐっと掴み上げた。
「ごめんねぇ、なんつーか、なんなの、今日のアンタ、誰に口利いてるわけ? 聞いてて、超ムカツク。でさ、手が勝手に動いちゃったの」
ここでアコであれば、ささやかな抵抗として、言い訳をごにょごにょして、ひとしきり罵声を浴びたあと、ようやく解放される、というパターンであったのだが、孔明は、ぴたりと澄明な眼差しを少女にまっすぐ向けた。
男女問わず、自分にはさして実力もないくせに、権威を振りかざす人間というのは、どうしてこうも共通して醜いのだろう、とウンザリしつつ、言う。
「しつけのなってない手だな。切り落としてしまうがいい」
「は?」
「なるほどな、ヨーコは、あれはあれで無邪気な娘だが、それにつけ込んで、おまえのような人間が集って、好き勝手をしているわけか」
「ああ?」
ならず者のように凄む少女であるが、百軍の長であった孔明からすれば、すこしも恐ろしさなどない。むしろ、こんな小さな社会のなかで、ヨーコの(つまるところ、ヨーコの親の)威を借りて、威張り散らして悦に行っている少女が、哀れに思えた。
こういった娘は、学生を辞めたら、社会でも強い者に迎合し、家庭に入っては夫の会社の権威に迎合し、子供の学歴に迎合し、そうして自分にはなにも付加価値のないまま、それでも自分は特別なのだと根拠もなく誤解をしながら、退屈な人生を終えるにちがいない。
平凡であることは立派なことだが、空疎な平凡というのも実在し、まさにいま、この娘の過ごす日常とその果ての未来が、それであった。
「アザレルのところへお行き」
「はあ?」
「ユダヤの伝説だ。アザレルは神に背いた堕天使だが、地の果てにつながれていて、人間の災厄を引き受けてくれる親切者なのだ。ユダヤ人は、飼っている山羊を一匹選んで、自分たちの災厄をそいつに移して、アザレルに向かわせるために野に放った。それがスケープゴートという言葉の語源だ」
「あんた、くりぃむしちゅーの上田? なにウンチク語ってんの?」
「おまえたちにとって、最上アキラ子というのは、まさにその山羊だったのだな。鬱憤晴らしにはちょうどよかっただろう」
「なに言ってんの?」
「だが、たいがいにしておけ。わたしはあまり度量が広くない」
孔明は、自分の制服を掴み上げる少女の手にそっと触れた。
そうして、一瞬だけ、霊力を解放して、少女の体に微量の雷電を放つ。少女が、ちいさな悲鳴をあげて、手を離した。
「な、なに、アンタ、いまの? 静電気」
しかし孔明はそれには答えず、あえてにっこり笑って言った。
「今度は、火傷だ」
少女の顔から血の気が引くのがわかった。
いささか噂になるかもしれないが、日常において、超常現象を語るものは奇異の眼で見られがちだ。
まして経験者はたった一人。騒ぎになる可能性は薄いだろう。
『雑巾臭くなってしまったな』
バケツの水をかけられた制服の匂いをたしかめつつ、孔明は、ある程度まで身なりを整えるべく女子トイレへと向かった。
アコの持っていた安いコロンでなんとか匂いはごまかし、教室に戻ってくると、なにやら空気がおかしい。
ヨーコは帰ってしまったのか、姿はないのであるが、教室の中央で、さきほど孔明に水をかけた少女が、浅野一子とはげしく言い争いをしているのであった。
孔明が戻ってくるなり、一子の仲良しグループのひとりが、めざとく姿を見つけて、こちらへ飛んでくる。
「最上さん、どこ行ってたの? あなたのせいで、たいへんなんだから!」
どういうことだ、と首をかしげると、少女は興奮しているのか、一気にまくしたててくる。
「さっき、シマノに水をかけられたでしょ? それを見ていたイッコが怒って、あなたがいなくなったあと、シマノに謝れって言ったの。でも、シマノとイッコって、もともと国語の模擬テストの偏差値争いしてて、仲悪いじゃない? で、謝る、謝らないになって、いまめちゃくちゃ喧嘩になってるの」
イッコ、こと一子は、白い面貌を、いまは鬼の面のように真っ赤にして、シマノという、ヨーコの取り巻きの少女と対決している。
シマノという少女は、両腕を腰にあてて、威圧的に声をはりあげた。
「つーか、あんたのそのオタクっぽい容姿とか、意味なくデカい声がマジむかつく! アコが怒るならともかく、なんであんたが突っかかってくんの? おかしくない?」
「おかしくないっ! ずーっと、ずーーーーーーーーーーーっと我慢してみてたけど、もう我慢できないよ! どうしていっつも最上さんばっかり苛めるの! 人を苛めるやつって最低! 超低脳って感じ!」
どうやら、最初の要因はアコでも、それぞれのつもり積もった反感が、ここで爆発した、と見るべきだろう。
ばちばちと火花の散るような空気の中、意外に口達者なところを見せる一子と、意外に気圧されている雰囲気のシマノという少女…制服をきっちりと着こなしている一子とは対称的に、髪をぐりんぐりんにパーマで巻いて、素顔がわからないほど派手なメイクに、ぎりぎりの丈まで詰めたスカートという出で立ちの少女であった…を見た孔明の最初の印象は、喧嘩が下手だな、ということであった。
喧嘩だろうがなんだろうが、かわされる言葉に意味がなければ、無駄な傷つけあいになってしまう。
自分が勝つために、つよい言葉を並べただけでは、本来の主張が見えなくなってしまうのだ。相手には、本来届くべきでなかった言葉だけが心に残り、遺恨だけが募っていくという悪循環にはまる。
とはいえ、自分が原因なのだ。止めるべきだろう。
割って入ろうとする直前に、一子が言った。
「どうせ、家とかバイトとかのストレスとかを、ぜーんぶ最上さんにぶつけてるだけでしょ! そういうのって超幼稚!」
「な」
それは言ってはならぬ、と孔明は暗澹と思ったが、遅かった。
不意に、ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
少女たちの喧嘩に気をとられてしまって気づくのが遅れたが、つよい霊力の気配を感じる。
ちかくにレティクル側のアトラ・ハシースがいるのか?
しかし、異様な気配を感じているのは、孔明だけではなく、その場にいた少女たちも同じようである。
怪音がしたわけではない、風が生暖かくなったというわけでもない。
空気の質が、どろりとした悪意に満ちたものに、一瞬にして摩り替わったのだ。
「なんだろ、熱くもないのに、汗がでてこない?」
少女たちは、不安そうに周囲を見回しながら、襟元を外し、机から下敷きを出して、なんとなくぱたぱたと仰いでいるが、実際に、その熱の感覚を説明するとしたら、それは高熱にさらされて、なにをしても体が冷えなくて、苛立っているときと同じものであっただろう。
ねっとりと絡みつくような不快な気配は、教室中をそこかしこに取り巻いている。同時におぼえる生身に細かく切りつけてくるような、これは視線? 複数の?
孔明は気づいた。
教室中の、ヨーコが配った銀のヘンテコのストラップが、それぞれ、鈍い光を放っている。
そうして舌打ちをした。
アコの肉体の維持のために、おのれの霊力が極端に抑えられていることは承知している。
しかし、ここまで霊査能力が落ちているとは思わなかった。
シマノは、一子に言われたことばに体を震わせながら、まるで校庭を何周もしてきたかのような荒い息をして、はげしい目線で一子を睨みつける。
もはや悪意どころではなく、そのまとう空気は、殺気そのものである。
一子は地雷を踏んだのだ。すなわち、シマノの心にあまりにも踏み込みすぎた。
「落ち着け。一子とて、芯からそなたを愚弄するつもりで言ったのではない!」
孔明が割って入ろうとすると、逆効果であったらしく、するどくシマノは叫んだ。
「うるっさい! あたしのことも何も知らない癖に、ゆるせない! 死んじゃえ!」
とたん、教室のあちこちで小さな竜巻のようなものが巻き起こった。
それは、おのおのに散らばった、銀のヘンテコから発せられるものである。
やがて竜巻はひとつの大きな渦と成り、シマノを取り巻いた。
当初、ちいさな竜巻は、誰の目にも見えないものであったのだが、それが合体した時点で、周囲を激しく巻き込み、机の中の物だけではなく、掲示板やカーテンまでもが取れて、ごうごうと唸り声をあげて、宙を舞い始めた。
教室にいた少女たちは恐慌にいたり、悲鳴をあげて蹲るが、ありとあらゆるものを吹き飛ばし、巻き起こる竜巻は、止む気配がない。
一子はすっかり度肝を抜かれ、蒼白な顔をして、突如として目の真に現れた竜巻、そしてまちがいなく自分に向かってくるものに、全身を強ばらせている。
風は、不意に蛇によく似た姿となり、一子めがけて一斉に襲い掛かってきた。
一瞬であった。
一子は体を吹き飛ばされ、風圧でガラス窓を突き破り、中庭へと放り投げられた。
教室の位置は三階にあたる。
これほどの勢いで、地面に打ちつけられたら、確実に死ぬ。
孔明はすばやく窓辺に駆け寄った。動きのあまりの早さに、常人には一瞬で窓辺
に移動したかのように見えただろう。
もはや、レティクルの攻撃を気にして、霊力を抑えている場合ではない。
浅野家の人間は、なにがあっても絶対に守らなければならない。彼らこそが、この世界の要だからだ。彼らになにかあれば、世界は瓦解する。
脳裏に、一瞬、悲しそうな顔をした乙女の顔が浮かんだ。
奇妙な事態に、思わず苦笑が漏れる。最初のループで、斬り合ったのは、やはりまちがいであった。
この世界は守られるべきもの。その出自が尋常ではないことはわかっているが、かといって暴虐のままに潰させてよい生命などない。
夢の世界であろうと、彼らはここで苦しみや悲しみと戦い、日々を生きている者たちなのだ。
情けないことだが、はるか年下の乙女のほうが、ずっとそのことをわきまえていたようである。乙女に再び会うことができたなら、謝らなければなるまい。
会う機会があれば、だが。
一子が、落ちていく姿が見える。
「飛廉!」
鋭く叫ぶと同時に、中庭の下流に停滞する空気がゆらりと動いて徐々に集り、透明な青白い炎につつまれた翼のある、きらきらと輝く長毛の、鋭いくちばしと怪物の姿をとった。
そうして、大きな翼をはためかせ、するどいくちばしを大きく開き、落ちてくる一子を捕まえる。
神鳥飛廉の姿はだれにも見ることができないから、ほかの者たちには、落ちてくる一子が宙で、まるで忍者のように体勢をととのえて、重力の法則に抗うようにして、急に速度をおとして、地面に降り立ったように見えたかもしれない。
気高い神獣は、三階の教室から身を乗り出す孔明のほうをちらりと見て、勤めがおわったことを知らせるように、ばさばさと大きな翼を羽ばたかせると、一階のそれぞれの校舎から、一子を案じてあつまってくる生徒や教員たちにちらりと目を向け、やがて空気に溶け込んで、消えた。
一子は、ショック状態から脱け出せず、ぽかんとしたままである。
一子の無事をたしかめた孔明は、すぐさま振り返ると、こちらも茫然自失の態をしめしているシマノを振り返った。
そうして、舌打ちをする。銀のヘンテコは工場の大量生産品で、霊力増幅器の助けがなければ、行動はむずかしい。
だが、霊力増幅器が発するのにちかい、大きな感情のうねりに素早く反応する。
ヨーコが配った、銀のヘンテコのすべてが、シマノに集りつつある。
そして、霊力を解放した孔明の気配を察知し、ありとあらゆるところにいる銀のヘンテコが、一斉攻撃を仕掛けてくるにちがいない。
「あたしじゃない! あたしじゃない!」
熱にうかされたように、恐怖と不安で目を見開いたまま、叫んだ。
孔明はシマノを安心させるように、大きく肯いた。
「そうだ。お前のせいではない。負の感情を持つことは恥じるべきものではない。それを利用しようとする者こそ恥じ入るべきなのだ。だれもおまえを責めぬ! 一子は無事ぞ。落ち着くがいい」
だが、シマノの耳には、もう誰の言葉も届かないようだ。顔を両手で覆うようにすると、シマノは甲高く叫んだ。
「あたしじゃないっ!」
とたん、ふたたび教室の空気が、まるで粘土を押しつぶしたかのように、ぐにゃりと歪んだ。
孔明は素早く移動すると、シマノの前に立ち、左手を、その額にかざした。ひとにはだれしも第三の目というものがある。
目、といっても喩えで、霊感や虫の知らせなど、五感以外で人が受け止める外界からの情報を、受け止める部分である。
目のある部分に左手をかざし、孔明はシマノに言った。
「眠れ! そして忘れるのだ!」
ばちっ、と白い電光が左手を中心に走り、同時に、恐怖のあまり人形のように目を見開いたままであったシマノは、無言のまま、その場に崩れ落ちた。
とたん、シマノに集ろうとしていた、銀のヘンテコの気配が、行き場を失い、ざわざわと凶悪な苛立ちをこめて、動きだす。
孔明は、巻き起こった風のせいで、爆弾が爆発したかのような、めちゃくちゃな有様の教室の床にへたり込み、机と椅子が複雑なパズルのように組み合って、ひとつのオブジェのようになっている横にいる、さきほど事情を説明してくれた娘に言った。
「早く学校から出るのだ。他の者にもそう言え。早く」
「は?」
「ヨーコの配った銀のストラップも全部外して置いていけ。そして、なるべく学校から離れるのだ」
「へ? でも」
と、力が抜けたままでも、気丈に反論しようとする少女に、孔明は鋭く決め付けた。
「早くしろ! あれはもともと、身近な霊力に反応し、うごくもの。憎しみや恐怖といった、強い負の感情を受け、霊力増幅器を通したのと同じ作用となり、やつらは行動をはじめたのだ! じき、わたしにめがけて襲ってくるにちがいない。ここは戦場となるのだ。巻き添えを喰いたいか!」
「く、くいたくない! でも、なんのこと?」
「いいから行け!」
事情がわからないであるから、ぐずぐずしているのを責めることはできない。仕方なく孔明は、わずかに霊力を解放し、娘の目を見据えた。
「我が目を見よ!」
ぽかんとしている少女たちが、一斉にこちらを向く。孔明は双眸を金色に輝かせ、そこから強い光を放った。
『我が言に従え!』
とたん、少女たちはぼう然とした表情のまま、ゆるゆるではあるが、行動をはじめた。少女たちは、泣いていたものも、怯えて必死にどこかへ電話しようとしていたものも、一斉に立ち上がり、無言のまま、自分たちが持っていた銀のヘンテコのストラップを捨てて、ぞろぞろと教室を出て行く。
まるで訓練を受けた兵士のように、廊下に出るなり、何事かとほかの教室から集ってきた少女たち、教員たちに、はやく学校から出るようにと告げている。
これでいい。
少女たちが床に捨てて言った銀のヘンテコが、ぴくぴくと、陸に揚げられた魚のように、小刻みに震えている。
派手に霊力を使ったのだ。肉体的には脆弱なアトラ・ハシースが、その守護であるアストラルをそばに置かない状態で、一人でいるこの状況を、逃すはずもなく、一気にやってくるにちがいない。
聖ゲオルギウスさえ、その攻撃をしのげなかった。
ゲオルギウスは、真正のドラゴンバスターだった。つまり、龍たる自分を制する者、アトラ・ハシースとして上位にあるものだったのだ。
それでもレティクルに負けた。聖剣アスカロンを持っていたにもかかわらず。
さらに加えて、孔明は、霊力が通常の半分以下に抑えられ、持っている霊具を使用すれば、消滅覚悟の状態である。
勝機は少ない。
だが、やらねばならぬのだ。
孔明は決意をあらたにすると、一子の様子を見るために、ふたたび窓より、中庭を見下ろした。
「な」
心臓を掴まれたような思いがした。
さきほどまで、一子を取り囲んでいた少女たち、教員たちの姿は掻き消えていた。おそらく、孔明の霊力によって誘導された少女たちによって、みな学外に避難したのだろう。
だが、一子だけがぽつりとその場に残されて、その隣には、一人の男、黒衣の、うねる金色の髪を、徐々に色あせる青空のもと冠のように輝かせた、吸血鬼が立っていた。
「青髭! なぜ!」
こんなときに? やつは、まさかレティクルと結んでいるのか?
背後では、徐々に銀のヘンテコが、結集してくる気配がある。
窓辺と、校舎を交互に見て、青髭の狙いを考えた。
なぜ一子に用があるのだ? 奴の狙いはラ・ピュセルのみのはず。一子と接触する意味は?
考えている間を与えずに、かつてはフランス軍最強の騎士として、悪魔のように勇猛果敢で残虐ぶりをおそれられた男は、とてもその本性を伺わせることのない優美な微笑を浮かべ、一子に近づいていく。
その手には、銀色に鈍く光る、鎌がある。
もはや迷っている場合ではない。
残りの霊力がどれだけであろうと、全力で戦うしかないのだ。
「子龍! 来よ!」
叫びつつ、孔明は窓の桟に足をかけ、宙に乗り出すと、そのまま地面へと降り立っていった。
※次回、「ゆべしの章9」につづきます…