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➆
※このお話は、「ゆべしの章6」、「仙台ゴールデンポークスの章3」のつづきとなります。
ご登校
「ふむ」
仙台駅前のバスプールまでやってくると、最上アキラ子の姿をとる孔明は、きゅうにふわりと体が軽くなった気がして、周囲を見回した。
アコの意識が一時期もどってしまった、ということがあったからか、それとも寝起きだったせいか、どうも頭に霞がかかったようになっていたのが、駅に来て、それが一気に晴れた。
なぜだかほっとして、孔明は仙台の青空を見上げる。
十二月の風は例年より温かく、すでに散って、なくなっていなければならない銀杏の葉は、今日も元気に黄金色に町を飾っている。
その下を行きかう人々の姿も、ブーツ姿の女性こそ増えたものの、重いコートを着ている者はすくない。
オレンジ色の仙台駅の上空にひろがる遠い青空のもと、仙台駅を利用する人々の群が出たり入ったり。バスプールの横にあるタクシー乗り場のにぎわいも、あいかわらずだ。
そして冬の観光シーズンにはすこし早い時期にもかかわらず、朝から観光客むけのバス、「るーぷる仙台」のりばに並ぶ、人々の列がある。
路面電車を意識したレトロなデザインのバスは、観光客だけではなく仙台市民にも人気があり、機会があれば一度乗ってみたいと話題になる。
バスガイドがいて、市内案内をしてくれるという内容のものではないが、それに乗れば、仙台の主要の観光スポットを外観だけでも眺めることができる。
駅前のパスプールは三つの島に分かれており、それでも仙台市を走るバスののりばが、すべてそこに集中しているわけではない。
仙台に縦横無尽に走るバス路線を把握するのはなかなか大変で、バスプール以外にも、LOFT仙台前のりば、さくら野百貨店前のりば、仙台東口のりば等がある。
高速バスになると、乗り場はさらに遠くはなれて、駅より歩いて十分はかかるアエルビルの向かい側になる。
まず仙台を移動するのにバスを利用するのであれば、仙台駅西口周辺にある主要ビルを記憶すると、わかりよいだろう。
私立千台栄華学院行きのバスは、「るーぷる仙台」のりばと同じ島にあり、地下鉄東西線の入り口のそばとなる。
決して方向音痴ではないが、『最上アキラ子』として当面は振る舞わねばならないのだから、目立つ行動は避けねばならない。浅野一子と登校するのは正解だった。一人なら、きっと迷っていただろう。
バスプールには、アキラ子と同じ制服をまとった少女たちが並んでおり、朝から雀のように、賑やかにおしゃべりに興じている。
しかし気になることには、少女たちの一部が、ちらちらと孔明のほうを気にしていることだ。
中身が変わったということで、思春期の少女特有の敏感さで、なにか違和感を感じ取るのだろうか。
……ありうるか?
「わたしは、なにかおかしいだろうか」
こけしのように素朴な風貌をした浅野一子に尋ねると、きょろきょろと細長い目で周囲を見回す一子は、孔明の質問に、あいまいな返事を返してきた。
一子と一緒にアコを迎えに来た、一子の弟は、
「それじゃあ、姉ちゃん、がんばれよー」
と謎の応援を残し、バスプールに到着すると、自らは小学校のほうへと歩いていった。
アコ…孔明としては、このまま、あの弟…浅野史朗…も一緒に高校に連れて行きたいくらいであったが、ここは我慢をして、こっそりと少年に使い魔をしのばせるだけに留めた。
使い魔というのは透明な蜻蛉で、一般人の目に触れることはない。
攻撃能力は低く、周囲を監視するだけとなるが、浅野志朗少年になにかあった場合、使い魔が、すぐに孔明に教えてくれる。
蜻蛉は高級使い魔ではなく、人語は喋れない。
さらに、融通が利かないので、ほんとうにちょっとしたこと…先生に叱られた、犬に吠えられた、などなど…でも知らせてくるのが玉に瑕である。
しかし、霊力が完全に揮えないいまの状況では、どんな些細なことでも把握できたほうが望ましい。
浅野姉弟は、いま、世界の母胎なのだ。
ヴァルキューレの張った、オーディンの結界によって守られているとはいえ、当のヴァルキューレが不在の状態では、いつ破られてもおかしくない。
このような危うい状況において、彼らについていたはずのアトラ・ハシース二人も、現在行方知れず。
しかも一子は、羅貫中のことはおぼえていても、陳寿のことは記憶になくなっている。
結界から飛び出したものは、記憶から削除されるようにプログラムされているのだろうか。
姉弟が、消えてしまったアトラ・ハシースを心配して、不用意にレティクルに遭遇しないように、あらかじめ細工したのであれば、納得いくのだが…
『陳寿…たしか父親が馬謖の部下だったな』
陳姓は多いので、すぐに名前と顔が一致しなかったが、馬謖の処遇を決めたときは、針の山の上を歩いているような心地で神経が張り詰めていたから、おそらく処罰した者の顔さえ見れば、思い出せるだろう。
陳寿本人とは会ったことがなかったが、いまもって霊界…アトラ・ハシースたちやアストラルたちの集う世界は、汎世界から離れて個別にあり、世界を守るために働くかれらのための休憩所として、『下宿先』と簡単に呼ばれている…において、故国の紹介パンフレットを、定期的に発行しているとは、聞いたことがある。
陳寿のパンフレットは、あいにくとアストラルを中心に人気が高いそうで、入手できたことはない。
たった五十年ほどで滅んでしまった国の記録だというのに(自分の国だが)、よくそんなにネタがあるものだと、感心するところであるが。
ちなみに陳寿の霊界における代表著作↓
『ちゃんとこの目で確かめてきましたシリーズ・邪馬台国最終結論』
『HOW TO 冷静な歴史書の書き方~我が内なる萌えとの戦い』
『諸葛孔明アンソロジー1~121巻(続刊)』
…孔明はどれも見たことがないが、かなり売れている、らしい。
「最上さん、怖くないの?」
と、一子がおそるおそる尋ねてきた。
「なにが?」
なにが、の続きに「だ」をつけてしまいそうになり、孔明は落ち着いて言葉を止めた。
「みんな、昨日の銀のキモイ偽キューピーのストラップとか、キーホルダーとか持っているみたい。あれって、襲ってこないかな」
一子が気にするとおり、バス停に並ぶ少女たちの手には、かならずといっていいほど携帯電話があり、それには千台ヨーコが配ったという、銀のヘンテコのストラップがついていた。
「みんな、どうかしているよ。どうしてあんなのを平気で付けていられるんだろう」
一子のぼやきももっともで、銀のヘンテコのデザインは、正直、どこにも魅力がなかった。
親指大の銀のヘンテコの首に、ピンク色の紐がついているというシンプルデザインだが、見ようによっては、ピンクの紐で絞首刑に処せられている、銀のヘンテコ、というふうに見えなくもない。
二人はまだ知らなかったが、ヨーコはこれを配るにあたり、
「このストラップのピンクの紐が切れたら、願い事が叶うんだよ」
と言っていたのだ。
無料なのだし、願いが叶うなら、ということで、彼女たちは銀のヘンテコを、携帯電話からぶらさげているのである。
「あれが配られたのはいつ?」
「昨日。最上さんはすぐに帰っちゃったから、しらないか。校門でさ、ヨーコと仲間があれを配ってたの。あいつら怖いからさ、なんか断れない雰囲気で、みんな受け取ってたよ。
ね、襲ってくると思う? 弟なんてさ、あたしが昨日の話をしたら、全然信じないの。犬が逃げ出すのも結構あるからさ、作り話も、もっと大人っぽくしてくれなきゃ、とか言っちゃってさ。あの生意気坊主」
「いや、大丈夫であろう」
「へ?」
「ああ、大丈夫でしょう。攻撃命令は出されていないみたい」
「命令? だれから?」
「レティクル・クィーン」
「れーす・くぃーん? 菅生(すごう)の? ハイヒール履いて、水着を着てるひと?」
「レティクル・クィーン。銀のヘンテコの司令塔だ。きっと、昨日は偶然に君を見つけ、物のついでに襲ってきたのだ。羅貫中が、アトラ・ハシースとしての記憶を失くしていたのは、きつかったな。ともかく、奴らは君を監視して、様子を見ているのだよ」
「はあ…」
レティクルたちに、こちらのことはバレただろうか。
趙子龍と『最上アキラ子』が契約したことは知れただろうが、その最上アキラ子が、ほかならぬ聖剣によって封じ込められた諸葛孔明だということは気づかれただろうか。
彼らは霊力によってアトラ・ハシースを探知する。
アトラ・ハシースの霊力は異常に高いので、見つけるのはたやすいのだ。
なるべく霊力を使わないように気をつけなければ。
もちろん、霊査を受けた場合の防御は張っておくが、とくに学校には、あちこちにスパイがいる状態だと思っていいだろう。
考えてみれば、当然のことである。
アトラ・ハシースが浅野家を守っているように、レティクル側は千台家を守る。
そのために銀のヘンテコは配置されているのだ。
ストラップ、という形を取ってはいるが、あれも一種の霊力のカタマリなのだ(だからヨーコが言った「願いが叶う」という言葉も、あながちまちがいではない。この世で霊力にも勝る力は、人の願いの力、想像力である。肌身離さず身に付けていた場合、レティクル・クィーンの命令よりも、持ち主のそれに優先して、銀のヘンテコが感応する可能性は高いのだ)。
「あたし、なんだかさっぱりわけわかんないんだ。聞きたいことも山ほどあるし、なんというか、学校に呑気に行っている場合じゃないような気がするんだけど」
一子の言葉に、孔明は頭を振った。
「駄目だ。日常を変わらず過ごしてこそ、いかなる困難をも打ち破れる力が養えるというものだ。そう怯えるな。君はわたしが守るから、大船にのった気分でいるがよい」
「はあ…わかったけど…最上さん、もしかして、その喋り方が、いつものあなたの喋り方?」
「む?」
しまった。
孔明は、『昨日、時代劇のビデオを見すぎて、影響をうけてさー』という、用意していた言い訳を使おうとしたが、一子は妙に納得して、うんうん、と肯いている。
「やっぱりさ、むかし最上さん、自分で言ってたじゃん?
ヨーコたちに貧乏人、ってすっごく莫迦にされたときに、自分のお父さんの実家は、山形の由緒正しい旧家で、あんたたちみたいな成り上がりに莫迦にされる謂れはない! みたいに啖呵切ってたでしょ?
最上さんがあんなふうに怒るなんてめずらしいから、覚えていたんだけど」
「ああ、そんなこと…あったかな?」
と、孔明は、懸命にアコの記憶を手繰った。
この場合、イメージとしては、映像付きの記録帳をぱらぱらとめくっている図を想像していただきたい。
そうして、ふと、該当する記憶に行き当たる。
ヨーコがアコに無理難題を押し付けて、それに反抗したとき、貧乏人が生意気、と言ってきたのだ。
そうしてアコは、自分の父親の実家の話を持ち出したのだが、そもそもアコを傷つけることだけを主眼にしているヨーコの取り巻きたちが、それで納得するわけもなく、
「じゃあ、なんで奨学生なんてやってんの? だったら、親戚に学費を出してもらえばいいじゃん。こっちが調べられないと思って、嘘言わなくていいよー。ってか、もし本当だとしても、ボツラクしたんでしょ、ボツラクー」
と言い返してきて、さすがにアコは教室で泣いてしまったのだった。
「まったく、なんの遠慮もないというか、ひどい女だな、ヨーコ…いや、ヨーコの周りの女どもめ。それにしても、アコもあまりよい対処ではなかったが」
「アコ、って…なんか他人事だね。いいけどさ。
あたし、いままであんまり最上さんと話をしたことなかったから、新鮮だな。みんなになんか言われても、我慢するから気にしないでね。最上さんは命の恩人だし」
一子はまかせとけ、といったふうに胸を張るが、孔明は柳眉をしかめた。
「なんだね、君は。わたしといるのが迷惑なのか?」
切り返された一子は、アコの言葉におどろいて、傷ついたような顔をした。
「え、そういうわけじゃ…ってか、ほら、うちのクラスって、あれじゃん? 派閥とかすごいから、あたしが最上さんと仲良くすると、たぶんウチのグループも面白くないだろうし、ヨーコのほうも何か言ってくるだろうし」
「狭いクラスでも派閥があるのか。ふむ、となると、君も嫌な目に遭う可能性がある、ということだな。なるほど、さきほどから感じていた妙な目線は、それが原因か」
と、孔明は周囲の少女たちを見回した。
孔明は人の挙動に敏感なので、さきほどから、バスの列にならぶ少女たちの中に、これみよがしにひそひそ話をしている者や、あからさまに、じっと睨みつけている者がいるのに気づいていた。
記憶をどう辿っても、アコ自身が嫌われることはしていないから、一子とアコがいままでの派閥間の暗黙のルールを破ったことが原因で、周囲の顰蹙を買っている、というのが正解らしい。
「レティクルどもに警戒せねばならぬというのに、厄介な話だな。
まあ、こういったことは任せておけ。あえて言わせてもらうならば、こちらのほうが本職だ」
「最上さん、なんかコワイ…」
不敵に笑う孔明に、一子はたじろいで肩をすぼませた。
休み時間
アコの所属する二年四組の人数は、二十二名。
グループは三つに分かれており、千台ヨーコのグループが、もっとも多く十二名(昨日までのアコ含む)、浅野一子の所属するオタク系の少女たちは七名で、のこり三名は、どちらのグループにも付きたくないが、かといって一人だといやなので、とりあえずつるんでいる、という、いつもだるそうな三人組である。
このグループ間の付き合いは、同じ教室にいるというのに、皆無である。
体育のときにも家庭科のときにも、彼らが連合してことにあたる、ということはなく、むしろ互いに互いの悪口を言い合って、足を引っ張ることに終始している。
なぜそこまで深刻な状況になっているかといえば、ヨーコの、
「アタシの友だちは、アタシの嫌いな子と仲良くしたらいやだ!」
というわがままから、端を発する。
それまでは、あまり親しくない程度だったクラスメイトたちも、ヨーコの報復を恐れて、まったく交流しなくなってしまった。
ヨーコのいじめ(というよりは、ヨーコの取り巻きによるいじめ)を避けるために、その関心を別な子に向けさせようと、ちょっとでも他のグループと仲良くしそうな子に目をつけて、ヨーコに報告するのだ。
そして、お調子者のヨーコは、周囲に乗せられて、密告を受けて、さっそく吊るし上げを行う。
一度そんな目に遭った少女は、旧怨をわすれないので、別の少女が同じ立場に立ったとき、助けずに、復讐を決行する。
そんなことをえんえんと繰り返して、花の十代をこのうえなく重苦しいものにしているのが、アコのクラスの現状であった。
『おかしいな。なにがいけないのだろう』
自分では、ほぼ完璧に女子高生になりすましている、と思っている孔明であるが、どこかで違和感がにじみ出るのか、失敗の連続である。
まず、一時間目の古典の授業において、司馬遷の史記を朗読するに当たり、そのまま見事に音読して、周囲を唖然とさせてしまった。
孔明としては、周囲の少女たちに合わせて、だらだらと読んだつもりであったが、いつもの癖で、そのまま中国語で読んでいる自分に気付かなかったのだ。
とりあえずその場は誤魔化したものの、職員室で話題になってしまったらしく、次の数学の授業において、指されるはずが、
「最上…は置いといて、森」
というふうに、順番を飛ばされてしまった。
つづいて家庭科の被服の時間に、大好きな機織ができるかと期待していたら、ミシンだったのでがっかりしたものの、機械いじりは好きなのですぐに仕組みをおぼえて、ワンピース作りに取り組んだはいいが、さらにいつもの癖で見事な手際を見せてしまい、二時間の実習のうちに、あっというまに服を完成させ、おおいに教師と生徒たちの賞賛を受けた…ものの、目立ってはいけないという、そもそもの目的と真逆の結果を引き出してしまい、こうして一人で落ち込んでいるのである。
子龍ならば、もっと上手にやるのだろうな、と思いつつ…それでも女子高生になった趙雲などみたくもないところであるが…自分の不器用さをもてあまし、千台栄華学院の廊下をとぼとぼと歩いてみる。
落ち込んだときには、気がまぎれるので、歩くのがいちばんいい。
よく晴れた空に比して、校内は薄暗く、閑散としている印象があった。
女子高というのは、外部が夢に見るほど、美しい園ではない。
千台栄華学院もその例に漏れず、妙に豪奢な校門と、旧帝国ホテルをあきらかに意識したとおぼしき、重厚なデザインの校舎とはうらはらに、中は妙に埃っぽい。
そこかしこにあぶらとり紙の丸めたものが落ちていたり、紙パックの飲み終わったのが、そのまま窓の桟のところに置きっぱなしになっていたり…
廊下に人気はすくなく、どこか遠いところから、少女たちのにぎやかな声が反響してくる。
孔明が学んだ司馬徳操は、身辺の穢れは心の穢れ、といって、清掃を励行していたので、門下生たちは、よく掃除をしたものだ。
しかし、おなじ学び舎でも、千台家の経営する学校の、見た目は豪奢ながらも、内側は廃墟並みという状態は、そのまま利益優先、教育後回しの方針を繁栄している、千台家の内部の荒廃をあらわしているのだろうか。
『屋内と室内のけじめが、まるでなっとらん』
眉をしかめつつ、ふと見ると、掲示板のポスターに、こんなことが書かれていた。
『映画研究会、新メンバー募集 ともかく映画が好きな方、一緒に活動しましょう!』
手書きのポップに、映画雑誌から切り取った記事のコラージュが施された、なかなか凝ったポスターだ。
なぜか強烈に惹かれるものがあったので、記憶を手繰ると、鮮明にこの画像が思い浮かぶので、よほどアコは、これを熱心にながめていたにちがいない。
『これに入りたかったのか。バイトがあるので、諦めていたのだな』
家族を失い、日々を追われるようにして過ごしていた少女にも、ちいさな希望があったのだ。
いま目の前に広がる光景も、彼女の一部であり、孔明のそれではない。
アコの魂は辛うじてこの世に留まっているが、孔明が元の世界に帰った場合、一度滅んだ肉体を維持するあては、じつは、ない。
貴賎の別なく、人間の魂というものは、膨大なエネルギーのカタマリだ。
その膨大なエネルギーの代わりを、孔明の持つ霊力が果たしている。孔明のもつ霊力は、標準レベルを上回るものなのだが、アコの体を維持するためには、そのほとんどが消費されてしまう。
孔明がいなくなった場合、それほどの大量の霊力を、どうやって維持するべきか、この世界自体が類例のないものだけに、孔明も対策が浮かばないでいるのが現状だ。
孔明がなにより困っているのは、アコのことも、もちろんであるが、アコを助けると言い切った律義者が、それこそ全存在をかけてでも、その約束を果たそうとするだろうことが、いまから予想がつくからだ。
アトラ・ハシースは、召喚したアストラルに対して全責任を負う。
アストラルがなんらかの事情によって受肉してしまった場合、いかなる犠牲を払ってでも、ふたたび肉体の束縛より介抱し、元の世界へ戻さねばならない。もしそれが出来ない場合は、審判にかけられ、どこにあるのかよくわからない煉獄行きだ。
趙雲はそれを理解しているだろうが、孔明もその性格を知り尽くしているだけに、強いことを言いたくない。
問題は山積みだ。
さらに加えて…
「アコォ、あんた、花瓶の水を換えてなかったでしょ?」
おいでなすったか、と孔明は声の主に振り向いた。
千台ヨーコは、アコ(孔明)との距離をとりつつ、枯れた金魚草と花瓶を差し出してくる。
同じデザインにはちがいないが、一人だけ、あきらかに仕立てと生地のちがう制服を、勿体無くもだらしなく着崩して、髪を赤く染め上げ、髪を知恵の輪のごとく、ぐりんぐりんに巻いているヨーコである。
素材としては悪くない娘なのであるが、趣味がたいへんよろしくない。
もっと素朴で品のよい格好をしたほうが、ヨーコのもともとのよさが発揮されるだろうにと、孔明はいささか惜しく思った。
ヨーコはマスカラをぎゅうぎゅうに塗りたくった目を開いて、孔明に言う。
「まだ二日なのに、もう枯れちゃったじゃん! せっかく友だちからもらったのにぃ」
「では、自分で面倒を見ればよかっただろう。それに贈り物としての花で、金魚草とはいいセンスだな」
「は? な、なによ、あんた。その喋り方」
ヨーコはうろたえて後ろに引き下がる。おそらく一昨日の夜のことが記憶にあり、アコに警戒心を抱いているらしい。
なんだ、たわいもないな、と孔明は意を強くした。
そうして思い出す。
ヨーコ自体が問題なのではない。ヨーコを取り巻く環境が問題なのだ。
「金魚草の花言葉を知っているか? ずばり『でしゃばり・傲慢』だ。誰にもらったか知らぬが、嫌われているな。それに、その花、仏壇用だろう。スーパーのご奉仕価格で一束298円だ」
「え」
どうやら仏壇用、ということを初めて知ったらしい。
意外なことに、ヨーコは泣きそうな顔になった。
興味をそそられた孔明は、ヨーコに尋ねた。
「だれに貰ったのだ?」
「……ジギー」
「詩吟?」
孔明が小首を傾げると、ヨーコは顔を真っ赤にして反駁した。
「うるっさいなぁ! なんでアンタに答えなきゃなんないのっ!」
「まあよいが。ところで、一昨日は無事だったろうな」
「無事に決まってるじゃん! みんないいヤツばっかだもん。フツーに花火して帰ったよ!」
ふん、警察幹部の娘ということで、妙に智恵の回る連中が、やはり特別扱いしている、というわけか。
しかし、アコのばか、と呟き、しょんぼりするヨーコを見て、孔明は、ふと憐憫の情さえおぼえた。
アコがそうであったように、やはり孔明も、アコを憎みきれない。アコはヨーコが原因で死に至ったのであるが、ヨーコ自身に、アコを襲わせようという意図があったかどうか、それは疑問だろう。
一歩、ヨーコに近づこうとして、孔明はぞくりと背筋に戦慄をおぼえ、あわてて足を引っ込めた。
とたん、脂汗がにじみ出る。
なんだ、これは?
まさか。レティクルが守っているとはいえ、相手はただの人間なのに。
「ヨーコ、おまえ、なにか持っているか?」
「はあ? 見れば分かるでしょっ、金魚草だよ! アコのばか! アンタ、なんだってそんなに威張り口調なの! 超かわいくない! っつーか、これ、枯れたの直して!」
「無茶苦茶言うな。あとでスーパーへ行って、買ってきてやるから我慢しろ」
「やだ! ジギーのくれた、これがいい!」
ヨーコが叫んだ途端、ヨーコの全身から、強烈な波動が押し寄せてきた。
もちろん、通常では目に見えないものだが、それは波のように、廊下いっぱいに押し寄せてきた。
孔明はあわてて霊力でもって、波動の来襲を防いだ。防護された周囲一メートルのまわりを、ヨーコの波動が流れて、やがて遠ざかり、薄まって消えていった。
消えていく波動を見送りつつ、孔明は冷や汗を流した。
まともにこれを被っていたら、強烈な催眠術にかかったように、ヨーコの意のままになるしかなかっただろう。
霊力がこれほど弱まっている状態であれば、たとえアトラ・ハシースとはいえ、ヨーコの支配下に置かれたにちがいない。
ヨーコは霊具を持っている。それも、ソロモンの指輪クラスの強烈なものを。
だが、それとて使用者に強烈な負荷をかけるものだ。
事実、ソロモン王の治世は繁栄をきわめたが、その晩年は指輪によって心身を蝕まれ、判断力を狂わされ、王国を滅亡においやる一端となったほどなのだ。
そんなものを用意できるとしたら、それはヴァルキューレか、レティクルかのどちらかだ。
もちろん、状況から考えれば後者だろう。
その事実は、孔明をさらに暗然とさせた。
レティクルたちは、ヨーコの人格はどうでもよいのだ。ヨーコの心身が蝕まれようと、肉体が活動していればいいのである。
なんの修行もつんでいない、ただの人間が霊具を持ち続ければ、最悪の場合、発狂する。
それを知っていて、身に付けさせているのだから。
孔明は、ますますもって、ヨーコを単純に敵と見なすことができなくなった。
これもまた、救わねばならない魂のひとつだ。
「なに、アコ? あんた具合わるいの?」
妙な具合だ。アトラ・ハシースが人間に体の具合を心配されるとは。
ヨーコが怪訝そうに、近づいてこようとする。
が、おもしろいことには、やはりヨーコもアコに近づけず、一歩あゆみ寄ろうとして、すぐさま電流にでも触れたように、足を引っ込めた。
「……あんた、ヘン!」
「互いにな。警告するが、しばらくわたしに近づくな」
「言われなくてもそうするよ。なんかアンタ、怖いもん。でも、金魚草はなんとかしてよ」
「わかった、そこに置いて行け。あとで持っていく」
「スーパーで買ってきたのを、取り替えただけのじゃ、イヤだからね!」
わかっている、と孔明が頷くと、ヨーコは慎重に廊下に花瓶を置いた。
廊下にほかに生徒がいないのが幸いだ。
学校の廊下で、西部劇もかくやの、妙に緊迫した場面が展開している。
「置いたよ! アンタ、絶対になんとかしてね!」
そう言って、ヨーコは逃げるようにして、ぱたぱたと廊下を駆け去っていく。
孔明は素早く周囲にだれもいないことを確かめると、双眸を金色に輝かせ、ヨーコの持っている霊具の正体を探った。
しかし、防御が施されているらしく、なにも追跡することができない。
「やれやれ」
孔明は目をふたたび戻すと、だれにも感知されなかったことを確かめてから、ヨーコの置いていった金魚草を手に取った。
あわれな金魚草は、くったりして、いかにも死を思わせる枯れ方をしていた。ドライフラワーにもならない花なので、通常ならば、手の施しようがないだろう。
ラ・ピュセルがいれば、早いのだが、と思いつつ、孔明は金魚草をなだめるように、その花を何度か手で撫ぜた。
やがて、花は勢いを取り戻し、ふたたび瑞々しい花を開かせた。
詩吟だかなんだか知らぬが、その男が、ふたたびこの花が枯れる前に、あたらしい花を贈ってくれればよいのだが。
昼休み
廊下で教師とすれちがったアコは、ほかの少女たちに倣って、軽くぺこりと頭を下げてみたが、なにがおかしいというのか、教師はぴたりと足をとめ、怪訝そうに眉をしかめると、わざわざくるりと一回転をし、アコ…つまりは孔明を見て、うーむと唸った。
「最上、おまえ、なんかあったか?」
「べつに」
これは孔明が少女たちの会話から聞きかじっておぼえた、あいまいかつ、相手をやんわりと遠ざけることのできる、便利な表現である。
しかし教師は、納得しかねる、といったふうに首をかしげる。
「ならいいんだが、なんか今日のおまえ、目がちがう」
「寝不足なもので」
「寝不足っつーか…なんかなぁ、目が怖いんだよ。目に力がありすぎ。なにか、そんなに張り切ることでもあったのか」
「べつに…」
目は嘘をつけないという言葉があるように、たとえ外貌が最上アキラ子のままだとしても、双眸の表情は孔明のまま、というわけである。
孔明は目に特長がある。優美で中性的な容姿のわりに、侮られることが少ないのは、澄明な双眸に、太陽にも似た光明が宿っているからだ。龍の双眸である。只人が見て、たじろぐのも無理のない話なのであった。
とはいえ、ますます、目立ってはいけない、という、当初の目的から遠ざかり続けている。
『明日から、眼鏡でもかけるか?』
そうこうしているうちに、購買部のラッシュに乗り遅れた。
私立千台栄華学院には食堂がない。そのため、昼の購買部はたいそうな賑わいになるので、四時間目が終わったらすぐに一階の購買へ走らねば、目当てのものは買うことが出来ない。
昼の弁当くらいは買ってくれ、と、にわか同居人にいわれ、出掛けに五百円のお小遣いを渡された孔明は、素直にてくてくと購買に行ったものの、出遅れてしまい(とはいえ、昼間の買い物ラッシュの勢いに、買い物下手な孔明が勝てるはずもなかったのだが)一番人気ということで、期待していたお目当ての焼きそばパンにはありつけず、仕方なくぶどうパンと、お好み焼きロール、それから自動販売機で買ったいちごジュースで我慢した。
それらを抱えて、浅野一子を捜しに行ったが、当の本人が、教室からすまなさそうな顔をして、出てくるところに行き会った。
一子は遠目から見ると、こけしが制服を着て、無表情のままうろうろしているように見える。
「あ、よかった、最上さん、探しにいこうと思ってたんだ。お昼なんだけど、悪いけど、一緒に食べれないや」
「そうか」
「う。そうあっさり言われると、逆にすごく罪悪感が…ごめんね、うちのグループが、どうしてあたしが最上さんとずっと一緒にいるのか、知りたがっててさ、あ、もちろん、みんな前から最上さんと仲良くしたかったんだよ?
でもヨーコのことがあるじゃん? だから気にしてて、ごめん、最上さん本人抜きで、みんなで話すってのもおかしいかなと思うけど…」
女同士の派閥というのも、ややこしいものだな、と思いつつ、孔明はしょんぼりする一子に言った。
「気にするな。思う存分、話し合いをするがよかろう。なんにせよ、はじめが肝要だからな。疑問点は残さぬようにせよ」
「ハ、ハイ。そうします…」
「うむ、それと一子、おまえが逆にそのグループから浮き上がってしまうのであれば、それはそれでよろしくない。わたしのことは気にするな。この世界においては、最上アキラ子よりも、やはり君の方が優先されるべきなのだ」
「はあ…よくわからないけど、気を使ってくれてるんだよね、ありがとう。でも、帰りは一緒に帰ろうね」
「今日は五時限目までだったな。うむ、正面玄関で待ち合わせるか」
「うん、なんか変わったらメールで教えるね」
言いつつ、一子は教室に戻っていく。
メールで教えてくれるまでもないのだが、と思いつつ、孔明は弟の志朗につけたのと同じ、使い魔の蜻蛉を一子に派遣した。
蜻蛉自体の霊力は微量である。
ヨーコがあちこちに銀のヘンテコを配ってくれたおかげで、逆に、微量な霊力であれば、探知しにくくなっているのだ。
銀のヘンテコはレティクル星に移植した人々がつくりあげた、感情のない、レティクルの工場における大量生産品である。
それ自体に感情はなく、判断能力が低いために、強力な想念武器を通してでないと、動かすことが出来ない。
その想念武器がレティクル・クィーンであり、感情のない銀のヘンテコと、素材は同質ながら、高い知能と能力が与えられている。
クィーンはいわば、霊力の増幅器であり、本星からの命令を銀のヘンテコに送信する。
ならば、クィーンを退治すればよかろう、という話になるが、これがうまくいかない。
というのも、クィーンはアトラ・ハシース並みの強力な霊力を保持しており、うかつに攻撃をかけることができない。そのうえ、女王蜂のように、大量生産可能な銀のヘンテコに守られているのだ。
実は、彼らについてわかっていることは、これしかない。
未来の人間界(基本世界)において、宇宙への進出をはじめた人類のうち、レティクル星に移住した人々が、高い技術でもって、想念武器の開発に成功した、という話は、アトラ・ハシースたちの間でも話題になったが、彼らの活動はつねに穏便であった。
ところがヴァルキューレが『夢の世界』を作り上げたとたん、彼らは突如として攻撃を仕掛けてきたのである。
つまり、アトラ・ハシースたちがレティクルたちと対峙するのは、今回が初めてなのであった。
現段階で推測できる、銀のヘンテコに下されている命令は、
アトラ・ハシースおよびアストラル等、自分たち以外の『ゲスト』の探知と攻撃、その消滅。
聖剣アスカロンの探索。
千台家の守護と浅野家への攻撃。
世界樹ユグドラシルの探知と破壊。
…である。
もちろん孔明の見立てであるから、別の命令も下されているかもしれない。
銀のヘンテコが、自分たち以外の霊力を探知できるように、アトラ・ハシースたる孔明も彼らを探知することは可能だ。
とはいえ、彼らは、霊力を探知したとしても、その大きさを計測することしかできない。
そこがアトラ・ハシースにとって有利なところである。逆に、アトラ・ハシースは霊力の質と量を瞬時に解析できる。
つまり、銀のヘンテコに気づかれない程度に霊力の出力を抑えてしまえば、学校中に散らばった銀のヘンテコにうずもれて、かえって敵から感知される心配がないのだ。
逆に、孔明は銀のヘンテコがどこにいるのか、その数と、個々の霊力を把握できる。銀のヘンテコの探知能力は、周囲1メートルに過ぎないから、霊力を最小に抑えて探知をしていれば、彼らを避けつづけることも可能なのだ。
彼らは強い霊力に惹かれて集ってくるので、もともと霊力の高い場所…たとえば聖域とされる神社や、古くから祀られている自然岩など…に、意味もなく集っていることもある。
たとえば、もし孔明がなにかのはずみで霊力を強く発揮した場合、銀のヘンテコはそれに惹かれて集ってきてしまうのである。
いまのところ、学校中にばら撒かれた銀のヘンテコが動き出した気配はない。
アコのフリをしている(つもりの)孔明は、なるべく一人になりたかったので、校内をしばらくぶらぶらしたあと、屋上へ上がった。
屋上への鍵は掛かっていたが、これは霊力を使わなくても、ピン一本で簡単に開いた。
大工仕事が好きな孔明は、数百年と代わらぬ形状の錠前ならば、簡単に開けることができる。
鍵がかかっていたお陰で、屋上にはもちろん、だれもいない。
十二月の冷たい風が吹きつけてきて、孔明は両手を広げ、その勢いを楽しんだ。
そうして、すこしでも、自然界から霊力を補充するのだ。
現代人から見れば、突き抜けたような美しい青空が広がっているように見えるのであるが、孔明から見れば、仙台の空は煙っている。風に、どこか化学薬品の匂いが混ざっているような感覚がある。海辺にひろがる工業地帯の煙が、ここまで届いているのだろうか。
やれやれ、と一息ついて、給水塔のてっぺんにのぼると、そこに座って、時計がわりの携帯電話を傍らに置いて、食事を楽しんだ。
お好み焼きパンとぶどうロールであるが…。
「マズイな」
一口食べただけで、孔明はお好み焼きパンを食べるのをやめた。ハンパに玉子の味のつよすぎる惣菜パンである。ぶどうロールのほうは、外れようのない味なので、これは食べることができたが、お好み焼きパンはどうしても駄目であった。
やはり、お好み焼きはお好み焼き、パンはパンであるべきだ、と考えていると、携帯電話がメールを受信した。
送信者は見覚えのないアドレスで、迷惑メールの類いかと思いつつ、開いてみると、そこにはこうあった。
『217』
「…なんだ、これは」
217とは、マンションの部屋番号か? それとも金庫の番号か?
送信者がわからないので、なんとも推理しようがないが、ただの迷惑メールではなさそうだ。
217について考えながら、飛ばした蜻蛉の送ってくる映像を確認した。
映像を見るのは、映写機のようなものは必要なく、瞑想をする必要もない。
ただ飛ばした蜻蛉と想念を繋げるだけで、蜻蛉の見た映像が、まるで自分が目にしているかのように、脳裏に鮮明に浮かぶのである。
浅野志朗のほうは、青葉区内小学校対抗ドッヂボール大会の選手の補欠に選ばれたらしい。教室の後ろにずらりとならぶ名簿を見て、得意そうだ。
給食に酢豚が出て、中に入っていたパイナップルが食べられないといって、となりの子に頼んで食べてもらっている。デザートは杏仁豆腐。なかなか豪勢だ。
小学校のほうには、まだ銀のヘンテコの気配はない。小学生が喜びそうなデザインではないから、当然かもしれないが。
一子のほうは、さきほどの言葉どおり、仲良しグループに、アコのことを懸命に説明している。
さすがに銀のヘンテコのことは口に出せないので、犬がいなくなったのを一緒に探してもらった、とうまくアレンジしているらしい。
アコはこのグループ内では評判がよく、一子のたどたどしい説明に納得して、もしヨーコたちがなにも言わないのであれば、一緒のグループに入れてあげよう、と話が決まりつつある。
彼女たちは持参の弁当を食べているが、食べ終わったら、みんなで読むために、占いの雑誌や、映画雑誌が置いてある。
なるほど、アコにも、この娘たちのほうが、趣味もそうであるし、性格的に合いそうだ。
蜻蛉の映像を操作して、同じ教室にいるはずのヨーコを探ったが、これはやはり弾かれて、見ることが出来なかった。
ヨーコに付いて、気になることがある。
ただこちらが弾かれただけではなく、ヨーコも、こちらが怖い、と言った。
つまり、風の霊具を持つこちらと、相性の悪い霊具を持っている、ということだ。その霊具の属性は、火ではないか?
孔明とヨーコが初めて一対一で対峙した休み時間のあと、金魚草を文字通りもとにもどして、花瓶にさして、ヨーコの机のうえに置いていたら、
「これじゃ、あたしが死んだひとみたいじゃん!」
と顔は怒っていたが、それでも嬉しそうだった。
アコが感じていたように、もしかしたらヨーコは、ほんとうにアコを友だちだと見なしているのかもしれない。
それなのに、ヨーコを利用する周囲はそう見ないで、アコに狼藉を働こうとしたのだろうか。
なぜ、犠牲になるのが最上アキラ子だったのか。守ってくれる大人も、庇ってくれる友もない、弱い者であれば、だれでもよかったのか。彼女の生活、人格、それまで送ってきた人生すべてをないがしろにして、踏みにじるようにして…
『現実世界』の、アコを襲おうとした少年たちのことを思ったとき、さすがに怒りで体が震えたが、孔明は感情的になりすぎる、おのれを戒めた。
あまり感情の波に攫われると、前回のループのような失敗をしてしまうかもしれない。いや、それよりも悪いことに、『堕ちて』しまう可能性もある。
霊格というのは、ひとたび成長したら、そのまま、人の子が大人になるように、成長する一方のものではない。
霊格は、日々の努力によって保っているものであり、気を抜けば、たやすく落ちるところまで落ちてしまう。
厄介なことには、アストラルやアトラ・ハシースが『堕ちる』と、アトラ・ハシースがアストラルに、アストラルが人間になる、という単純なものではなく、世界に害を為す『悪霊』にまで堕ちる(そも、肉体自体は呪いではないから、彼らが『堕ちる』と受肉する、という考えもナンセンスな話なのだ。彼らはあくまで人間から昇格した存在であり、その成長と進化は、人間とはまったく異なるのである。従って、肉体を纏う生き物である人間が、生きたままアストラルになる、ということは、ありえない。ごくわずかな例外を除き、死を経ずに霊格が上がったものは、人類の歴史上、いない。キリストでさえ、死を経験しなければ、ふたたび聖霊に戻ることができなかったのである)。
アトラ・ハシースたちが『堕ちた』結果、生じた『悪霊』は、すなわち『堕天使』と説明したほうがわかりよいかもしれない。
そのために、アストラルやアトラ・ハシースに関するルールは厳しい。
アストラルを召喚できるアトラ・ハシースに厳しい責任が科せられており、ルールを守れなかった場合、煉獄に閉じ込められるという罰も、アトラ・ハシースの『悪霊』化を防ぐため、という噂もあるほどだ。
さらに噂だと、煉獄とやらは、最高府の給湯室の冷蔵庫の中らしい…
風がぴゅうと吹いて、孔明の髪を撫ぜて行った。
世の中が変わり、環境が変わり、風の色さえ変わっても、人の心は変わらない。
この世界は、ヴァルキューレが『虐げられた魂』のために作った『夢の世界』であるが、その夢にすら、現実世界の怒りが、そのまま投影されている。
そこかしこで溶岩のようにくすぶったエネルギーがうごめいていて、ちょっとした突破口でも構わずに、一斉に吹き出すのを待っているようだ。
吐き出す先はどこでもよく、相手がどんな思いをしようと関係がない。相手を傷つけることよりも、自分がエネルギーを抱えてくすぶっているほうが苦しいと、みんながみんな、思っているのだ。
『息苦しいものだな』
アコが思春期の少女だから、アコを取り巻くのも思春期の少年少女たちだったから、というものではあるまい。
大人も子供も関係なく、いまの世の中が、そういう風潮の中にある。
現実世界に行って、『どこか夢の世界に行きたい』とつぶやく者を、この世界に連れてきたら、きっとがっかりするだろう。
ここにも争いはあり、苦しみもあり、悲しみがある。
喜びだけの甘い夢の世界などない。
ヴァルキューレは、それを知っていたので、スパイス程度の悲しみと苦しみだけしかない世界を作らなかった。
そのために、現実世界のコピーに過ぎなかったものが、コピーではなく、別個のオリジナルとして、エネルギーを持ち始めた。
もしかしたら、ヴァルキューレは、最初からこうなることを予想していたのではないか…
ふと無性に話をしたくなり、孔明は目を閉じた。
風と自分を同化させるのである。すべての感覚を無にして大気に溶け込ませ、魂を風に乗せる。
あとは純粋に、思うまま動けばいい。
昼休み2
『妙なことになった』
と、趙雲は、若林区六丁の目の一区画にある、印刷会社のそばにあった、小さなコンビニエンスストアの前のベンチで、渡された地図を片手に、いささか状況についていくことができずに戸惑っていた。
若林区は、仙台駅から太平洋側に向けて広がる、一大工業地帯を中心とした地域であり、仙台らしい見所はなにもない。観光パンフレットにも、若林区方面の案内は、すっぱり割愛されているほどである。
古くから或る農業地帯に、ねじこむようにして高速道路が走り、その周辺を、工場と工場をむすぶ巨大バイパスが走る。
大型トラックが、仙台港からの荷物を運び、周辺には、ドライバーを当て込んだ全国有名チェーンの店や、パチンコ屋が並ぶ。
市民の生活の気配が薄く、ひたすら産業色が前面に押し出されている区域が若林区である。さすが東北の要所たる仙台だけあり、大手企業の物流センターや工場も集中しているのだが、その大半が、若林区にあるのだ。
。
なだらかに整地された見晴らしの良い平地に、ぽつぽつと海原に浮かぶ島のように、巨大な建物が並んでいる。車の量は多いものの、きれいに整備された歩道に、人がいることが稀である。
趙雲がコンビニエンスストアのベンチに座って、往来を眺めていても、目の前を行くのは車ばかり。もちろん、車の中に人はいるのだが、その姿がはっきり見えないことが、なにか空疎さを感じさせて、落ち着かない。
まったく見慣れぬ地図を片手に、コンビニエンスストアで買ったシロイシパンの『仙台ゴールデンポークス応援・特製豚まん』(野球ボールの形をした豚まんだったりする)を一口食べて、口の中の違和感に思わず顔をしかめた。
マズイ。
「やはり工場の大量生産品というのは、口に合わないだろう」
「まったくだ」
「おむすびにすればよかったのだよ。わたしのほうも、お好み焼きパンが口に合わなくて、困っている。やはり、パンはパン、お好み焼きはお好み焼きだな。学習した」
趙雲はぎょっとしてベンチの隣を見た。
ついさっきまで白いホロゴーストがぴたりとくっついて隣にいたのだが、いまは、ほかならぬ孔明が隣にいて、お好み焼きパンの処分について、頭を悩ませている最中であった。
「いつ来た? さっきか?」
うん、と気のないふうに肯く孔明に、趙雲は眩暈すらおぼえた。
コンビニエンスストアの監視カメラが、こっちを向いていなかったか、往来の車のなかで、こちらを注視しているものがないかどうかを確かめる。
とりあえず、安全だ。
「おまえ、状況が判っているか? この世界全体が敵地のようなものなのだぞ。たやすく風に乗るな。だれかに見咎められたら、どうするつもりなのだ」
「ちゃんと周りをたしかめてから降りてきたよ。風に乗るくらいならば、さして霊力は必要ないから、レティクルたちも気づかなかっただろう。その地図は?」
「俺に飛ばした蜻蛉はまだ確認していなかったのか」
「呼ばれなかったし、あなたのことだから、問題はなかろうと思って、あえて見ていなかったのだが…おや、髪を切ったのか」
思わず孔明は手を伸ばし、趙雲の髪に触れた。
「おかしくないか?」
趙雲の言葉に、孔明はいささか意地悪く笑った。
「おかしくないよ。さては、妙に注目をあつめてしまうので、戸惑っているのだろう。見栄えのよい男の贅沢な悩みだ。多少は我慢するがいい。蜻蛉をずっと見ていれば、面白いものが見られたかもな。残念だった」
「らしくもなく遠慮したな。まあ、現状から言うと、就職が決まって、午後からすぐに仕事なのだ。いままでつとめていたドライバーが、急に連絡が付かなくなったとかで、歓迎をされた。パンフレットを見るか?」
と、趙雲は、小鳥遊宇宙にもらった書類袋から、会社のパンフレットを取り出した。
A4サイズの会社案内を孔明に渡した。
そこには『株式会社 GPP(ゴールデンポークスプリント) 伊達ハムグループ100%出資会社』とあった。
「仙台ゴールデンポークスのオーナー企業系列の印刷会社だな。食品関係のチラシやお歳暮のパンフレット、クリスマス用品、お手拭から箸袋、特製クラッカーまで…従業員総数33名。
『仙台のご家庭に伊達ハムからの素敵なお知らせをお届けすることを旨に発足した会社です。伊達ハムグループのHP作成も、当社で行っており、これからますます発展が望めます』。
なるほど、よさそうな会社だ。よいところに潜りこめたな。ドライバーなら、煩雑な事務仕事もないだろうし」
「日本語は、喋るのは容易だが、書くとなると怪しいからな。
ところで、身分証明書をもらうためにアストラル専用HPにアクセスしたのだが、重要なことがわかった。アトラ・ハシースの、三人の消息がわかったぞ」
「本当か?」
孔明の驚きと感心の半ばする表情を見て、趙雲は満足しつつ、とはいえ、口にしなければならないのは暗い話題のため、表情を引締めて、つづけた。
「残念ながら、悪い知らせだ。聖ゲオルギウスは消滅し、もうこの世界にはいない。
そして、味方だと思っていたメアリ・スチュワートは、レティクル側の作ったアトラ・ハシースだった。ヴァルキューレの召喚したのは、従姉のエリザベスのほうだ」
「冗談だろう、あれほど高名なドラゴンバスターが、たやすく消滅するものなのか?」
「俺もそれは不思議に思ったのだが、聖ゲオルギウスがなんらかの事情で、霊力がおまえのように抑えられていた状態で、レティクルの猛攻を受けたのなら、消滅してもおかしくない」
「わたしのように、この世界の住人の肉体に封じ込められていた、ということか?」
「わからん。しかし、消滅したということは、それに近い状況だったのではないかな。あるいは、聖剣アスカロンを使えない立場にあったのかもしれない」
「聖剣が手元になかった、あるいはこの世界の維持のため、あえて鞘から抜くことができなかった。徒手空拳のため、ろくに抵抗ができず、消滅した、と…ふむ、筋は通るな。
しかし、どこで、これほどの情報を仕入れてきた?」
「アストラル専用ホームページの管理人が情報通だったんだ。代わりに、もとの世界に戻れたら、体験記のためのインタビューに答える約束をしたが」
「メアリ・スチュワートが敵側だった、というのは意外だな。で、もうひとりのエリザベスはどこにいるのだろう?」
「いや、さっきまでいたのだが」
と、趙雲は周囲をくるりと見回した。
作業服姿の男たちが、近所の工場からコンビニに入っていくのを横目に、白いホロゴーストを探すが、気配はどこにもない。
「どこかへ行ってしまったようだな。あれもえらくお転婆で、ちょっと気になる人間がいると、好奇心にかられて付いていってしまうのだ。
俺が面接しているあいだも、人に姿を見られないことをいいことに、給湯室のお菓子を勝手に食べたり、パソコンの電源を勝手に落としてみたりと悪戯をしていた」
「アトラ・ハシースなのに、受肉していないのか?」
「レティクルによってループ発生直後に攻撃を受け、消滅させられたが、霊力のおかげで、かろうじてホロゴースト状態になって留まっているのだと。メアリ・スチュワートを倒すのが条件で、彼女は俺たちに協力してくれるらしい。
具合のいいことに、彼女の能力は霊力補充に特化されている。消滅以前に貯めておいた霊力を石に変えているのだ。これは武器になるぞ」
「加えて面食いというのなら、あなたの得意とする女人ではないか」
と、笑う孔明を軽く睨んで牽制しつつ、趙雲は言った。
「意外とおまえと話が合うのではないかな。ちょこまかしたところや、ヘンに大胆なところはよく似ている」
「イギリス一の賢女と同列にしてくれたのだ。誉め言葉と受け取っておこう。しかし、ゲオルギウスに加えてエリザベス女王と、大物がつづけて消滅となれば、最高府も黙っておらぬだろう」
「その通りだ。まずいことに、最高府が動いて、この世界の封鎖が行われた。つまり、これ以上、アストラルもアトラ・ハシースも召喚は不可能だ。
あらたなヴァルキューレが派遣されない限り、俺たちはレティクルと、残りのアトラ・ハシースだけで戦わねばならないということだ」
「…状況は予想以上に悪いな。最高府が動いているにもかかわらず、あらたなヴァルキューレが派遣されないということは、最高府内でも、この世界の処遇に対しての意見が真っ二つに分かれている、ということではないか」
「それも考えられるが、レティクル自体に、俺たちの予想の付かない、なにか大きな問題があるのかもしれない」
孔明は、うーむと唸りつつ、前かがみの姿勢で、ちょうど膝の上にほお杖をつく姿勢で、虚空を睨みつける。
「どうした、気になることでも?」
「いや…あらたにアストラルを召喚できない、というのは痛いな」
「そうだな。いまは一人でも多く仲間が欲しいところだが」
「そうではない。実は、明日、古典のレポートを提出しなければならないのだ」
「ふん?」
「お題は『源氏物語についての考察』。漫画でもなんでもよいから読んで、感想文を書けということなのだが、このような切羽詰った状態において、のんびり感想文など書いてはおられぬ。ならば、専門家を召喚して、代筆を頼もうと思っていたのだ」
「作者の紫式部か? 感想文どころか、第三部を書き始めるかもしれないぞ」
「いーや、本居宣長だ。源氏物語に学者として本格的な考察をはじめたのは、本居宣長が最初なのだよ。ヤツならば喜んで原稿用紙千枚くらいの感想文を書くにちがいない。それが召喚できないとなると、目論見がはずれてしまった。困ったな。すでに召喚されていたアトラ・ハシースが、わたしたちの知らないアストラルを召喚してくれていた、なんてことはないだろうか」
「……おとなしく実力で勝負するがいい。そちらは順調のようだな。あれからアコが出てくることはないか?」
「ないな。こちらの記憶をアコと共有できれば、校内はアコ、校外はわたし、というように役割分担を出来るだろうが、わたしの千八百年分の記憶を一気に流し込んだら、アコは確実に発狂するからな。記憶の一部だけを共有させることができたらよいのに」
「あの娘の今後のために、おかしな真似はしてくれるなよ。一つ尋ねるが、おまえ、まさかその口調で、ほかの者としゃべっているのではあるまいな?」
「問題あるか?」
孔明が怪訝そうに首を傾げるのを、趙雲は大きくため息をついて答えた。
「ほかにも、なにかしているだろう? ……なぜ目を逸らす」
「まだ昼なのだ。これから挽回するとも。そこで頭を抱えることはないだろう?
ところで、気になることが三つある。その前に聞きたいのだが、体調に変化はないか?」
「おかげさまで、どこにも故障はない」
「そうか? ならばよいのだが、あのマンションから離れて仙台駅に来たとたん、体が急に軽くなったのだ。朝、アコが出てきてしまったのが原因で、だるいのかと思っていたのだが、あなたはなにも感じなかったか?」
「アストラルが受肉した状態では、ふつうの人間と一緒で、ちょっと霊感が働く程度になっているのを忘れないでくれ。
それに、この地図を見てわかったのだが、マンションの側のJR新幹線の線路の向こうは、新寺といって、空襲後、仙台の寺院を四十も集中的にあつめた地区がある。
寺院も世俗化されたとはいえ、さすがに四十も集れば、それなりの防御の力を持つだろう。それではないのか」
「でも昨日は、なにも感じなかったのだぞ」
「昨日は吸血鬼と戦った後だったので、霊力もぎりぎりだったはずだ。だから、かえって、気づかなかったのだろう」
「ならばいいが、なんだろうな。あそこに帰りたくないと、本能が言うのだ。こういうときの直感は、意外に当たるからな。もしなにか気づいたら、教えてくれ」
「わかった。いまの時点では、俺よりお前のほうが世界のあらゆる事象について敏感になっているはずだからな。金さえあれば、あのマンションに帰るのではなく、別に家を借りてやりたいところだが」
「わかっている。財力の問題だな。それと二つ目だが、さっき、奇妙なメールが届いた。なにも文言がなく、ただ数字の『217』とあるのだ。だれからだと思う?」
「それか。俺だ。間違えて送信したのだ。気にするな」
「…なんだ、217って」
それは、と言いつつ、趙雲は書類袋から、筆記用具とメモ、契約したばかりのプリペイド式携帯電話を取り出した。
「今朝、計算してみたのだが、今の状態では、俺たちの食費は、正月までに三万円だ」
「一人につき?」
「二人で三万円。今日が十二月七日なので、のこり二十三日を、一人につき、一万五千円で過ごさねばならん。単純に割れば、一食につき、ひとり217円でやりくりしなければならないのだ」
「半田屋にさえ追い返されるな…」
ちなみに半田屋とは、仙台発祥の、おふくろの味を基本とする、バイキング風セルフサービスの定食チェーンである。
豚汁ならば150円なので、なんとか食べられないこともない。
「そういうわけで、しばらく自炊中心だ。外食はしない。とりあえず、俺が働いて生活費を稼ぐが、これとて贅沢をするためのものじゃない。万が一に備えての貯金だ。しばらく贅沢は敵だぞ」
といって、趙雲はめずらしく、意味ありげににやりと笑ってみせる。
「なんだ」
「いや、おまえ、こういう、金銭的にぎりぎりの生活をしたことがないだろう。あらたな境地を学ぶ、いい機会だろうと思ったのさ」
「……なんでそんなに嬉しそうなのだ。毎食217円がなんだ。水も電気もある生活で、ちょっと食生活がひもじくなるくらいで、わたしが凹むものか。だいたい、もともと食事に興味はない」
孔明はつんとすまして言ったものの、食事に興味はないとはいえ、それでも少量ながら、口にするものは高級品ばかりであったという、おのれの食生活の贅沢さに気づいていない
「それはともかく、残りのひとつはなんだ?」
「そうそう、これがいちばん肝要なのだが、千台ヨーコと接触したのだが、どうも霊具を持っているようだ。霊査しようとしたが、撥ねられた」
「只人に霊具? 発狂してしまうぞ」
「レティクルどもめ、危うい結果を知りながら、本来の守護対象に、恐ろしいものを平気で渡す連中なのだ。一度、レティクル星とやらを見に行ってみたいな。きっと、とても素敵な場所にちがいない。ヨーコが霊具を持っている以上、こちらもうかつに手が出せぬ」
「ヨーコ自身は、どこまで自体を把握しているのだろう」
「あの様子では、なにもわかっていないのではないか。あの娘、どうやら好いた相手がいるらしい。それに、あの娘はアコに対し、本当に友情をおぼえているフシがある」
「友を、なにゆえ売るような真似をする?」
「本人は、本当に花火に行くつもりだったらしい。事実、あのあとちゃんと霊屋橋で花火をしたというのだから呆れるではないか。
あの娘自体が問題ではない。あの娘に寄り付く人間に問題があると見た。霊具があるので接近することはむずかしいが、意外にこれが突破口となるかもしれないぞ」
「ヨーコを味方にするつもりか?」
「そうだ。そも、この世界の対立は、千台家と浅野家からはじまる。千台家の最重要人物であるヨーコをこちら側に引き入れてしまえば、たとえ悲劇が起きたとしても、未来が変わる可能性がある。どうだ、前向きかつ建設的。ようやく諸葛孔明の本領発揮というふうではないか?」
「自分で言うな、自分で。まあともかく、やれそうなことはやってみてくれ。でも無茶はするなよ。その体は、あくまで最上アキラ子のものなのだからな」
「わかっているよ。それより運転は大丈夫か? できるのか?」
「ボックスカーを運転することになるが、戦車が運転できれば、たいがいは大丈夫だろう」
「戦車? 戦車って、キャタピラのある? それ、わたしが以前に召喚したときの話か?」
「なんだ、忘れたのか。砂漠の鉄道をダイナマイトで破壊しまくったやつがいて、移動するのに駱駝か戦車しかない。おまえが駱駝は臭いから嫌だとわがままをいうので、戦車を調達して、移動しただろう」
「……あったかな、そんなこと。どうもこの娘の体に受肉してから、記憶が曖昧なのだ」
「ふん? アスカロンの影響かな。キャタピラの振動が合わないといって、酔ったのも覚えていないか。まあ、ともかく信号どおりに動けばいいのだ。まずいことになったら呼ぶ」
「日本は、左側通行で、信号が赤になったら止まれ、黄色になったら慎重に進め、青になったら進めだぞ」
「黄色も『止まれ』だ。たぶん五時には終わるだろうから、遅くなったら連絡する」
「わかった。いろんな意味で気をつけろ」
そうしてベンチから立ち上がると、そろそろ戻るといって、周囲にだれもいないことを確かめてから、ふたたび体を風に溶け込ませる。
その姿の輪郭がまずぼやけ、次に朧な影となり、そうして風にまぎれて、すべての姿が見えなくなる。
趙雲は、孔明の姿がすっかりなくなってから、おまえのほうが心配だ、とつぶやいてみたが、もちろんそれは、誰に届くこともなかった。
※次回、「ゆべしの章8」につづきます…