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※このお話は、「ほやの章2」のつづきとなります。
「行ってきます」
気合を入れたかった、というよりは、背中にのしかかるような重い空気を払いのけたくて、大きくそう言ったのであるが、返事はいつもと同じだった。
「声をひかえなさい」
「五月蠅いとは思わないよ。うちらが元気にしているほうが、あいつも安心するって」
と、彼女は靴紐をむすびながら言う。
本当にそう思った。
にぎやかなことが好きで、おどけたヤツだった。でも寂しがり屋で、いつもだれかが家にいないと嫌がった。
空気を入れ替えるために、開け放たれた玄関に、通学途中の少女たちの声が聞こえる。
「ほら、この家、知ってる?」
びくり、と彼女の手が止まる。
「あー、例の事件の? 死んだんだっけ?」
「生きてるよ。退院して、家で面倒見ているんだって」
「大変だよねー。つーか、なんでそうなったんだっけ?」
「最初はいじめられてた、とかいう報道してたじゃん、マスコミ? でもさ、なんかちょっとちがうらしいよ。お母さんが言ってたんだけど」
「あんたのお母さん、本当によく知ってるよね。冬休みだけど、冬期講習、あたしと一緒のところでOKって言ってた?」
「ああ、いいとは言ってたけどねー。どうだろ」
話題が変わって、少女たちの声が遠くなるのがわかる。
彼女はふたたび靴紐をむすぶ手を動かした。同時にほっと息をついて、はじめて、自分が息を殺していたことに気づく。
気遣わしそうに、母親がうしろに立っている。
気を使って見送ってくれるつもりなのだろうが、それがわずらわしいとさえ思える。
こんな生活が、いったいいつまで続くのだろうか。
一年? 十年? それとも一生?
不意に、湿った温かい感触を頬に感じて、気づくと、○○が彼女の頬を、はげますように、ぺろりと舐めていた。
彼女は思わず笑みをこぼす。
「ありがと。しょげてる場合じゃないってね。それじゃあ、お母さん、行ってきます。あいつにもよろしく言っておいて」
言ってらっしゃい、と母は言った。
いつもより、ほんのすこし大きな声だった。
趙雲は、六時に目を覚ますと、台所で簡単な食事の準備をしながら、TVをつけた。
TVのニュースは、トップにイラク情勢、つづいて仙台で昨日も発生した少年連続殺傷事件の続報を伝えていた。
少年は仙台市内の高校生で、普段から学校をサボったり、暴走族の暴走行為に加わったりと問題行動が多く、その日も、テストをさぼって、仙台市内で遊んでいたらしい。
一番町のインターネットカフェで一人でいるところを目撃されたのを最後に、足取りが途絶えているという。
つづいてレポーターは、仙台ではこのところ事件が立て続けに起こっており、昨日も銀杏の木が一本、何者かによって盗まれたらしい、と伝えていた。
世界樹ユグドラシルを消失させたのは、レティクル。
そして、少年連続殺傷事件の犯人は、おそらく、あの吸血鬼であろう。
趙雲は、手にしていた布巾を思わずつよく握りしめる。
ヤツが、なぜ『英雄殺しの槍』を持っていたのだろうか。
上級のアトラ・ハシースでなければ、あの槍の所持はむずかしい。
威力のある武器は、霊格も高い。つまり、消費する霊力も甚大なのだ。
世に伝えられる怨霊の類いは武器をもたないものが大半であるが、それは、彼らの霊格が低く、武器を所持し、維持するだけの霊力を持っていないからだ。
吸血鬼は、アストラルでも・アトラ・ハシースでもない。
生死をめぐる世界のシステムから除外された者である。
しかし、『戦士の角笛』を吹いたために、この世界に派遣されているアトラ・ハシースを感知できるようになっているのだろう。
どういう引き合わせか、ヤツはアコに会い、そしてアトラ・ハシースの一人、孔明の気配をも察知した。
吸血鬼は、不死の呪いを受けているがために、吸血鬼たるのであるが、少年をこのように派手に血祭りに上げる背景には、おそらく自らの霊力を集める必要に駆られているからであろう。
それは、『英雄殺しの槍』を維持するためではないか。
アストラルは、自由に霊力を集めることができないため、アトラ・ハシースにより霊力を分けてもらうか、あるいはこの世界の住人と契約を結び、『ゲスト』になることで世界の干渉を避け、直接、自分で霊力を貯めるしかない。
一方の吸血鬼は、活動源は霊力ではなく、人間と同様に、ふつうの食事と睡眠だ。
ただし、呪いの呪いたるゆえんで、日光を嫌い、聖なるものには徹底的に弱い。
それらに対抗するには、彼らも霊力をあつめる必要があり、その手段が、アストラルと違って、忌まわしいことに、人の生気を吸い取ることなのだ。
すでに発覚しているだけで、十五人もの犠牲者を出している。
発覚していない死者もいるはずだ。これほど短期間に生気を狩っているのは、ヤツの言ったことが、本気だからではないか。
すなわち、黄金の魂を手に入れるため。
『英雄殺しの槍』でもって、ジャンヌを只人に変え、聖なる力を奪って、我が物にせんと考えているのではないだろうか。
やはり、『黄金の魂』…ジャンヌ・ダルクと早く合流し、彼女をも守らねばなるまい。
本来、守りにつくはずだった孔明がここにいる、ということは、彼女はいま、一人でいるはずだから。
長年アストラルとして過ごしてきたが、やはりパンというものに馴染めないため、趙雲は米を炊くと、冷蔵庫に入っていた肉を簡単に炒め、付けあわせでサラダを作ると、緑茶を淹れた。
深い緑色をたたえる湯飲みを見て、趙雲は嘆息する。
趙雲の時代は、茶というのは最高級品で、最上の薬でもあったから、21世紀の現代では、無造作に何処でも飲める、お手軽なものになっている、ということに、隔世の感を覚える。
そういえば、『死ぬ前』に、床に伏せっていると聞いたヤツが、大量に茶を抱えて持ってきたことがあったな、と思い出しつつ、趙雲は時計を見た。
七時。そろそろ起こさねばなるまい。
あのあと、家事分担について話し合い、とりあえず、家のことは趙雲に任せるとして、孔明は、アコを存続させるため以外に辛うじて余る霊力でもって、ほかのアトラ・ハシースを捜すことになった。
のこりの六人がどこに行ってしまったのか。
戦力が著しく低下しているこの状況をひっくり返すには、一人でも多くのアトラ・ハシースと合流し、連合して、レティクルたちに立ち向かうしかない。
趙雲は、アコ、こと、孔明の眠る洋室の扉を叩いた。
寝ぼけた声が聞こえてくる。
やれやれ、早く起きなければ遅刻だ。
相変わらず、朝には弱い。
意味不明の言葉がうにゃむにゃと聞こえてきて、それに応じるべく、趙雲は扉を開いた。
「早く起きろ。学校へは一時間かかるのだぞ。偵察もかねて、早く行く、といったのはおまえだろう」
孔明はそれになにか返事をしたようだが、はっきり言葉にならなかった。
趙雲は、初めてアコの部屋にまともに入ったが、いかにも少女らしい、地味であるがきちっとした部屋だった。
小物のたぐいは少なく、好奇心旺盛で読書家だったアコらしく、棚や机のあちこちに本が散乱している。
家具は白で統一されており、白い壁に、さまざまな映画のポストカードが貼られている。
おそらく、ドラマ性の高いポストカードをながめては、いろいろ空想を楽しんでいたのだろう。
そのさまを、趙雲はすぐに想像することができた。
思わずゆるむ頬を引しめつつ、ベッドの孔明を見ると、白いベッドの上で、のっそりと起き上がったアコの姿をした孔明は、目をしょぼしょぼさせながら、ぼんやりと周囲を見回している。
寝起きで、現状を思い出せないでいるのだろうか。
孔明はたしかに朝が弱かったが、いつもより反応が悪い。
アトラ・ハシースはアストラルより数段も上の霊格であり、持てる力もくらべものにならず、受肉していても、アストラルの状態と同等で、疲労は時間経過のみで回復するので、食事は不要。
五感は存在するものの、自在にコントロールすることが可能だ。
睡眠だって、人間ほどに必要ではない。
飢餓や疲労などの、身体的ストレスからは解放されているはずなのだが…
孔明は、何度か目をぱちくりさせたあと、じっと趙雲を見る。
なんだか悩んでいるように見えたので、思わず趙雲は尋ねていた。
「大丈夫か?」
「おはよう、子龍さん。あたし、なんで家にいるんだろう? 一緒にエスパルに行ったことは覚えているんだけど、いつ帰ってきたんだっけ?」
「……なに?」
「それに、どうしたのかな、子龍さんが、今日はやけに、くっきり見えるんだけれど」
趙雲は、ざっと血の気が引くのをおぼえた。
「おまえ、アコか?」
すると、話をしているうちに、頭がはっきりしてきたのか、アコは気味悪そうに言う。
「うん、そうだけど…どうしたの? 顔色わるいよ?」
趙雲は、かける言葉もうしなって、ひたすらぼう然とするしかない。
アコは目をぱちくりとさせて、それから、ベッドの上の自分の状態に気がついた。
「あ、ごめん、いまから着替えるからさ…いいかな?」
はっとして、趙雲はあわてて扉を閉めると部屋から出て行った。
すぐさま、扉越しに、アコからの、
「気にしてないよー」
と明るい声が聞こえてきた。
この調子は、まちがいなくアコのものだ。孔明のそれではない。
どういうことだ?
身体はアコのものだから、所有者の意識が、アトラ・ハシースをも圧倒する、ということなのか?
いや、問題はもっと深刻だ。
自分も受肉してしまった以上、ここにアコと共に住むことはできない。
趙雲は、すぐさまリビングへ行って、今朝の河北新報にはさまっていた、『不動産情報』をひろげ、五橋の手ごろな賃貸物件がでていないかを捜した。
この際、どんなあばら家でもいい。今日にでも移動できるところを捜さねば。
そうして、部屋の日当りや、プロパンか都市ガスどうか(プロパンと都市ガスでは、ガス代が倍もちがいます。プロパンのほうがメチャクチャ高いのです)、アコのマンションからの距離、などを真剣に検討していると、扉がひらいて、制服に着替えたアコが入ってきた。
TVも点けっぱなしに、河北新報のチラシを真剣に吟味する趙雲を見て、アコは小首をかしげる。
「なぜそのようなものを見ているのだ、子龍。もしわたしのこの身体を気にしているのならば、遠慮は無用だぞ。中身はわたしなのだからな。
なんだ、それとも水回りはやはり抵抗がある、などと言い出すのではないだろうな。ならば交替で銭湯へ行けばよいではないか」
声はたしかにアコのもの。しかしその口調は…
「孔明か?」
あらためて名前を呼ばれて、孔明は怪訝そうに眉をしかめる。
「そうだが、どうした、蒼い顔をして。只人の肉体に慣れないのか?」
「そうではない。身体は調子が良い。すこし重たく感じる程度だ」
ならよかった、と孔明は晴れやかに笑い、それから、小鼻をひくつかせて、台所のほうを向いた。
「よい香りだな。食事の用意をしてくれたのか、ありがとう」
「あまり期待するなよ。それより、さっきのあれは、寝ぼけていたのか?」
「さっきの『あれ』? なんのことだ? おや、ヤツめ、我らと対峙する前に狩りをしてきたのだな」
と、孔明は、趙雲が広げた河北新報の、二面を後ろから覗きこみ、顔をけわしくする。
「レティクルといい、ヴァンパイアといい、二つの災厄に見舞われるとは、この町は呪われておるな」
「覚えてないのか? まったくなにも?」
孔明は、新聞記事を目で追っていたが、顔を上げると、気遣わしそうに趙雲の顔をのぞきこむ。
「なにがあった」
「おまえ、一瞬、アコに戻っていたぞ」
趙雲は、アコの部屋でかわした、アコ本人との会話を、孔明に話して聞かせた。
趙雲の顔に、さすがの孔明も顔色をわるくして、腕を組んで考え込む。
「わたしは、アコの記憶を共有しているが、アコはわたしの記憶を共有していない」
「待て。ならば、なぜおまえは、さっきのことを覚えていないのだ?」
う、と小さく詰まって、孔明は、自分の額に手を当てる。
どうにも見当がつかなかったときに、よくする仕草である。
目の前には、整然とならべられた食事…ご飯、たまごスープ、焼き魚、サラダ、福神漬け(まだあった)が並んでいる。
ほとんど食べ終わり、彼らは茶を飲みながら、芸能ニュースを流すTV番組をBGMの代わりにして、話し合っていた。
「どうもおかしいな。わたしは、あなたの最後の霊力でもって、アコの身体から解放されたものとばかり思っていたが、もしかしたらちがうのだろうか?」
「別の力があった、ということか?」
「そうとしか思えないだろう。偶然だとばかり思っていたが、アコがあなたを見つけることができたのも、その力が作用したのかも…」
と、孔明は、何かに思い当たったらしく、自分のスカートのポケットを探った。
そうして、ひとさし指の爪ほどの大きさの、紫水晶を取り出す。
「これじゃないのか? アコは、これをいつ手に入れたのか、まったく記憶にないのだ」
「だれかが、これをアコに渡したと? それと気づかずに?」
孔明は、深く肯いた。
顔を動かすたびに、さらさらの黒髪が規則ただしく揺れる。
「制服を着ているあいだは、紫水晶がそばにあったので、わたしが解放されていた。
しかし、寝巻きに着替えたために、紫水晶と離れてしまったから、わたしは封印され、ふたたびアコの意識がもどってきたのだ。
おそらく、わたしの解放をうながすためであったのだろうが、しかし、わたし自身の霊力が低くなっているために、解放が完全ではなくなっている。この紫水晶のおかげで、わたしの霊力は補完されている、と見るべきだろうな」
「だが、誰が?」
「レティクルたちにとっては、わたしが封印されたままのほうが、都合が良かったであろうから、おそらく、味方だろうな。しかし、ほかのアトラ・ハシースだというのなら、他に接触がない、ということが奇妙だ。
とすれば、世界の全体を見渡せる者、われらの現状を知る者。となると、ヴァルキューレだけだろう」
「ヴァルキューレか。レティクルの呪詛を受け、我らの前から消えてしまった。それが、なんらかの方法で、我らに接触を試みた、というわけか。しかし、いつ?」
「さあて、わたしが封印を受けていたから気づかなかったとはいえ、あなたまで気づかなかったということは、おかしいな。おそらく、それほどに彼女の力が小さくなっていた。だから気づかなかったのではないだろうか」
「ばかな。ヴァルキューレだぞ。女神の力が、そこまで押さえ込まれたというのか?」
声をあげる趙雲に、孔明は、よりTVに近い位置にあるソファに、崩れるようなかたちで身をもたせかけ、短く刈った髪の先を跳ねさせるように手の甲でかきあげた。
「驚くこともないさ。世界と我らアトラ・ハシースとの仲立ちである、ヴァルキューレが不在であるからこその、いまの混乱がある。
彼女は召喚したアトラ・ハシースの顔合わせをしなかった。それからして異例だが、面識もないまま、アトラ・ハシースは単独行動をし、さらに、個別にアストラルを召喚し行動した。
つまり、まとまって行動しなければならない味方同士なのに、いつのまにか、互いに知らない顔ばかりになってしまったのさ。だから、わたしたちは只人以外の者に出会ったら、まず、敵か味方かを量らねばならなくなってしまった」
「おまえたちを召喚したヴァルキューレのブリュンヒルデといえば、神にもっとも愛された娘だ。相当な力を持っていたはずだぞ。ずいぶんなミスだな」
「しかし、彼女はちがう意味でも有名だからな。おそらくこれは、彼女自身に、何事かがあったのだ。でなければ、こんな事態は起こりえないだろう。
まったく、こんな事態はいままで聞いたことがない。味方の顔も居場所もわからない、彼らに与えられた使命も、その力も不明。わかっているのは、この世界が閉ざされているということと、わたしは死んだ娘の中に、あなたは呪いをうけて只人に、なのに敵のレティクルは元気旺盛で、仙台中にうじゃうじゃいる、と。最悪だ」
最悪だ、と言いながら、孔明は自棄になったのか、声をたてて笑った。
「笑い事ではないぞ。思うに、この世界は、そもそも『夢』であったのだろう? 汎世界に影響を与えない、独立した世界。
それが、作り手の想いが強すぎて、独立した…つまりは隔離されたものであったはずが、汎世界に強い影響力を及ぼすようになってしまった。要するに、汎世界の一つに組み込まれてしまった。そこがそもそも問題だった。
たとえば、最上アキラ子はもう死んでいなければならぬのに、この世界では生きている。この世界の『事実』に影響されて、この世界につらなるすべての汎世界の最上アキラ子も、『死んでいない』事に変化していく」
「アキラ子が死んでいない、といい切るのは、厳密にいうと事実とちがうのだけれどね、それは後で話そう。
レティクルたちがこの世界が汎世界に及ぼす影響を恐れ、時間軸をほかと切り離すことで、その影響を止めさせようとした措置は、おかしな言い方だが『正しい』と思う。
そうしなければ、彼らの未来も変わってしまうからな。彼らにとっては、2004年の仙台で、『最悪の日』は、どうしても起こってもらわなければならないのだ」
「だが、俺たちは、それを止めなければならない。『最悪の日』があるからこそ、この世界は生まれ、そして混乱が生まれたのだ。しかしどうあれ、『最悪の日』は阻止するぞ。そうでなければ、召喚された意味がない」
「わかっている」
趙雲は、白く細い指先で、紫水晶をもてあそぶ孔明を見た。
「ひとつ聞きたい。おまえはいまでも、この世界は消滅するべきだと思っているか?」
孔明は、手を止めて、顔を上げると趙雲を見た。
その姿は少女のものであるが、眼差しの澄明さは、一介の女子高生の持ち得ないものである。
「正直なところをいうよ。よくわからない」
意外である。孔明はひとつこうと決めた方針を、なかなか転換しないところがある。
だのに、白黒もつけず、曖昧に返答を先延ばしにした。
趙雲が驚いていると、孔明は、すこしはにかんだように笑いながら答えた。
「わたしは前回のループの際、あなたが消滅したと聞いて、恥ずかしい話だが、完全に理性を失ってしまったのだ。奴らの罠だと気づかずに、あなたの気配が消えてしまったのを、消滅したものと勘違いした。だからこそ、極論に走って、世界を消滅させようと考えたのだ。
わたしが時間を遡ったことを知り、ケルベロスの殺害を止めようと追ってきたラ・ピュセルと斬り合いになったとき、わたしを止めるため、ほかならぬケルベロスがわたしの腕に噛み付いてきた。
わたしと気づいたのだろうかね。記憶は『彼ら』に馴染むように、わざと記憶を消されていたはずだから、気づかなかったと思うのだが、必死な顔をしていて、とても悲しそうだった。
ケルベロスは、気づいていたとしても、わたしではなく、彼女を選んだと思う。
ケルベロスの目を見たとき、わたしは自分の行動に疑問を持った。
悲しみが、この世界を産んだのだ。
悲しみにもいろいろ種類があると思うが、この世界の基礎となった悲しみは、深い愛情から生まれている。だからこそ、基本世界にまで影響を及ぼしうる世界に、成長したのではないか。レティクルたちが危機をおぼえて、攻撃をしかけてきたのではないか、と」
「俺としては、おまえがこの世界を守るほうに、考えを変えてくれたのなら嬉しいがな。俺がきっかけで、ラ・ピュセルと剣を交えることになったのだというのであれば、一回目のループが、アトラ・ハシース側の全滅などという、無残な結果になったのも、俺のせいだということになる」
「それを言われると弱いな。事実もろくにたしかめず、頭に血をのぼらせて、時間を遡ったわたしがいけないのだよ。しかし、その口調でいけば、もし、わたしが再び、ラ・ピュセルと反対の立場を取るならば、あなたは彼女側につく、ということかな」
孔明に、なかばからかうように問われると、趙雲は、顔をゆがめて答えた。
「すっかり完全調子だな。心配したものを」
孔明は、明るくけらけらと笑っていたが、ふと、笑いを引っ込める。
「笑い事ではないのだよな。あなたは受肉して、アストラルではなくなったのだった。この世界が消滅すれば、あなたの存続も危うくなる」
孔明は、しばらく言葉を切って、じっとテーブルの上を見つめていた。
うっとうしいほどに明るいレポーターの声が、TV画面から響いてくる。
孔明は、にぎやかなTV画面を、眺めるとはなしに眺めながら、言った。
「あなたのことだから、きっと喜ばないだろうとは思うが、これだけは言っておく。
世界が消滅するということは、この娘の存在も消滅し、わたしも解放される、ということだ。そうしたら、わたしは、霊力のありったけをこめて、あなたを別世界に転移させる」
「それは」
「嫌だと言ってもつれていく。子龍、この世界は、あなたの故郷ではないのだ」
「俺はもはや、故郷というものにこだわるモノではなくなっている。俺がこだわっているのは、最上アキラ子のことだ」
「なぜ」
「なぜか、と問うのか。単純な話だ。俺は、この娘に、かならず助けてやると約束をしたのだ。この娘を助けるということは、世界を助けるということだろう」
孔明は、あきれて、まじまじと趙雲の顔を見る。
「相変わらず、あきれるほどに律儀だな。病気だぞ」
「なんとでもいえ。これだけは変えられぬ。それと、俺も言っておくが、おまえがこの世界を消滅させるべきと、少しでも考えているのであれば、俺はおまえの考えが完全に変わるまで、どんなことでもするつもりだから、覚悟をしておけ」
趙雲がそう言うと、孔明は顔に皺を寄せるどころか、むしろ晴れ晴れとした笑顔で応えた。
「まあ、それはそうだろうな。あなたと付き合うということは、なかなかに覚悟がいるから、それはよくわかっているよ」
TVでは、『本日の占い』コーナーが始まっている。
そろそろ登校の時間だな、と孔明がぽつりとつぶやくタイミングを見計らったように、ピンポンと呼び鈴が鳴った。
孔明と趙雲は、おもわず顔を見合わせる。
「子龍、アコは、朝はだれかと登校していただろうか」
「ここ数日は一人だったはずだが…千台ヨーコだろうか」
ならば、と立ち上がる趙雲を、孔明は抑えた。
「待て。自分がアストラルではない、ということを忘れるな。第一、女子高生が一人暮らしをしているはずのマンションに、あなたが出て行ったら、どんな噂が立つと思う」
む、と顔をしかめる趙雲を座らせ、孔明は玄関ののぞき窓から、外を見た。
すると、そこには、見も知らぬ制服姿の小学生六年生くらいの少年が立っていた。
うすい茶色の髪に、同じように薄い茶色の瞳をした、色白の素直そうな少年である。
念のため、チェーンを外さないまま、孔明は応対に出る。
「だれぞ…ではない、どちらさま?」
「あの、最上さん家ですよね? あなた、アコさんですか?」
「そうですが」
それを聞くと、少年は、やれやれ、とつぶやいて、踊り場から身を乗り出して、外に向かって叫ぶ。
「ねえちゃーん! いるよ、最上さん!」
「怒鳴るな! 朝からご近所迷惑だろうが!」
と、自身の言葉とは矛盾した声が、地上よりかえってくる。
おや、この声は。
孔明は、玄関から出て、少年と同じように、踊り場の手すりより、地上を見下ろすと、マンションの前の道路に、自分と同じ、純白のブラウスに学校指定の黒のニット、黒のプリーツスカートに黒のニーソックスといった出で立ちの浅野一子が立っていた。
一子は、さきほどの威勢はどこへやら、孔明が顔をだすと、「あ」とちいさく言って、照れているのか、顔をそむけてしまう。
ふと、孔明は深い感慨におそわれた。
浅野一子を姉と呼んでいる。
すると、自分の隣にいる、この少年こそが…
「いやあ、参りましたよ、朝からパシリに使われるんですからー。うちの姉、ああ見えて内弁慶なんで、自分で来られないんですよー」
と、声変わりのしていない少年は、舌足らずながらも、大人びたことを言った。
思わず孔明は笑みをこぼす。
「ぼく、浅野一子の弟で、史朗っていいます。K杉山小学校の六年です。コレ、制服ですけど、うち公立なんですよ。いまどきダサいとか思いませんか?」
浅野史朗は、ぺらぺらと自己紹介をするが、制服云々は、少年独自の意見というよりは、K杉山小学校の生徒たちのおおむねの意見を、なんとなく大人ふうに背伸びをして語っている、というふうであった。
「あ、ぼくのことより一緒に学校に行ってやってくれます? 昨日から最上さん、最上さんって、チョー、うるさくて」
一子は、宮町で銀のヘンテコに襲われたさい、一人で逃げてしまったことを後悔していたのだ。
それでアコに連絡をしようとしたが、アコの家の電話番号がわからず、携帯番号も知らなかったので、朝になって迎えに来たらしい。
孔明は、一緒に行くから、と史朗少年に言って、登校をする準備をするために、一度、部屋に戻った。
「世界の臍が、向こうから会いに来てくれたよ」
そのひと言で、勘の良い趙雲は察したらしい。
「浅野家の姉弟か?」
「最上アキラ子の身を案じてやってきたらしい。良かったよ。霊力の乏しい、いまのわたしでも、そばにいてくれる分には、彼らを守ることが出来るからな
。さて、わたしはそれでは学校に行く」
「うん…気をつけろよ、いろいろと」
「ありがとう。あなたも…」
とコートを羽織りつつ趙雲を振り返った孔明は、声をたてて笑った。
「ひどい顔だぞ、子龍。そんなに心配することはない。女の身になったのは初めてだが、それはそれで、いろいろと楽しみなのだよ。
女子高生というものが、どういう生活をしているのか、実地で知ることができるのだからな。なにかあったら、すぐに呼ぶ」
呼ぶ、とはこの場合、携帯で知らせる、という意味ではなく、ダイレクトに霊力でもって、縮地の術でもって呼び寄せる、ということだ。
「浅野家の姉弟だけじゃない。最上アキラ子も守ってやってくれ。この娘は、十分過ぎるくらいに、運命に痛めつけられている」
「わかっているよ。それじゃあ、行ってくる」
孔明はそういって、最上アキラ子として、マンションから出て行った。
※このつづきは、「ゆべしの章6」になります。