ゆべしの章

C

※このお話は、「ずんだの章3」のつづきとなります。

遅ればせながら、アコの事情を知った、ゆべし屋の店主が、どうしてはやく相談してくれなかったのだ、と言って、アコに、しばらくバイトを休むようにといった。
ゆべし屋の店主は、アコの家庭の事情をよく知っていたので、その代わり、とアコにささやかなボーナスをくれた。
ありがたくそれを受け取って、アコはどこか悲しい気持ちになりながら、夕暮れの駅ビルを、気晴らしにひやかす。
ボーナス、と、黒のマジックで書かれた茶封筒のなかには、二万円が入っていた。
これは、しばらく大切に使わなければなるまい。
考えてみれば、店としても、連続殺人鬼にねらわれているかもしれない売り子を雇うのは、イヤだろうな、とアコは思う。
もちろん、ゆべし屋は純粋に善意でボーナスをくれたのだ。
だが、善意に疑念を持つようになっている、自分が、とてもいやだった。

仙台の街は、日ごとにクリスマスにむけて、きらびやかに飾られていく。
その一方で、アコの財布はきびしさを増していく。
未成年者が世の中をたった一人で渡っていくのは、たいへんなのだ。
田舎だからといって、仙台は物価が安いわけではない。
とくに冬場は、流通の関係で、野菜が高騰する。
生活用品の値段の安さに関しては、関東のほうが安いし、豊富だ。
タイムセールで、百円均一になった野菜を、ピクルスにすべく買い込んで、それから、雑貨店のおおい、エスパルの三階フロアへ上がる。
そうして、贅沢にデザインの凝った文房具などをひやかして、地味にガムテープを購入。
なぜにガムテープか、というと、アコの老朽マンションの窓の隙間をふさぐために、ガムテープは必需品なのである。
このガムテープ、粘着力が高すぎて、たまに壁を傷める原因にもなるが、枕元に置けば、とっさのときに武器にもなる…かもしれない。

店内には、にぎやかなクリスマスソングが絶えず流れ、どこもかしこも、赤か緑。
この時期、カップルも増えるように感じるのは、気のせいだろうか?
「やかましすぎて、耳が痛いな。クリスチャンも少ないくせに、なんだってこんなにクリスマスで盛り上がれるのだ」
と、不機嫌そうに、となりのアストラルは、ぼそりとつぶやく。
それでも、往来の動向に、目を配ることはわすれない。
かすかな波動でもよいから、見失った召還者を捜そうとしているのだろう。
アコは、長いマフラを口元でぐるぐると巻いて、口の動きを隠している。
そうしていれば、自分以外には姿が見えない、アストラルと会話している不自然さを、カバーできる。
ただし、自分の姿が不自然ではないかどうか、アコは中国雑貨『大中』のミラーで確認する。
ヴィクトリア朝ふうの、豪奢な装飾の家具などに憧れるアコには、『大中』であつかう、チープでにぎやかな雑貨は好みではない。
しかしとなりのアストラルは、店頭に並べられた、あまり表情のかわいくないパンダのぬいぐるみを、しげしげと眺めていた。
そういえば、蜀という国は、現在の四川省、パンダのふるさとである。
「せっかくボーナスももらったんだし、一個、買う?」
とアコがたずねると、趙子龍は、苦笑した。
「ちょっと懐かしくなっただけだ。それにこいつら、愛らしい姿をしているが、暴れだすと、やっぱり熊だぞ。もっとも、俺はひるむことなく、勝利をおさめたが」
熊と戦って勝ったのなら自慢話になるが、パンダと戦って勝ったという話は、弱い者いじめにしか聞こえないのはなぜだろう。
「それより、鏡を買うのではないのか?」
そうじゃないよ、と答えつつ、アコは癖のない自分のおかっぱ頭を軽く整えた。

本来ならば、となりに映るはずの趙子龍の姿は、やはり鏡には映らない。
半透明で、アコのほかには、だれも見ることのできない人物であるが、これで普通の人間で、鎧などではなく、それなりの服を着たら、かなり人目を引くにちがいない。
「子龍さんって、いくつだっけ?」
「アストラルに年齢はない」
「まあ、そう言うだろうと思った。最初に生まれた年から起算するんじゃないの? そういえば、いつ生まれたんだっけ、あの本には載ってなかったようだけれど」
「うむ、たしかあれは霊帝の御世…」
「あの、西暦でおねがいします」
アストラルは、西洋の暦はわからぬ、といいつつも、律儀に、文房具屋にかざってあった、オシャレな電卓に向かおうとする。
その背中が妙に情けなく、あわててアコは止めた。

「おまえ、俺と話をしていて、退屈にならないのか?」
「退屈なんてしないよ。むしろ、いちいちカルチャーショックかな。それに、あなたこそ、二千年近く昔の人なのに、二十一世紀のいまを見ても、平然としているよね。
あれはなんだ、これはなんという道具だ、とか言って驚くかと思ったのに、まったく、そんな素振りみせないけれど、どうして? 電卓も使い方を知っているみたいだし。今朝は、TVでニュースをチェックしていたよね」
そうして、TBC(TBS系列)の朝の番組「グッディみやぎ」の人気天気予報コーナー『教えて!斉藤さん』を見た彼は、アコに折り畳み傘をもっていくことを勧めたのであった。
結局、降らなかったけれど。
「二千年近く前、という表現には誤りがある。俺は死んで以降、ずっと世界を見守ってきた。死後にすぐに多くの人々から祀られた霊、というのは、つよい力を得ることができるのだ。
おかげで、俺は人としての意識が自然に溶けてしまうことなく、アストラルに昇格することができたのだ」
「なんだかわからないけれど、やっぱり仏壇は、一家に一台、ってこと?」
「仏壇や祭壇がいくら立派だろうと、中にいる霊がお粗末では話にならぬ。結局、生きている間に、どれだけのことを為せたか、それが肝心なのだ」
「生きているあいだ、かあ」

両親が死んでしまってから、アコは、一人が多くなり、自然と、空想にふける時間が多くなっていた。
もともと感受性のきわめてつよい少女であったのだが、相談できる友もなく、学校ではいじめられる日々で、脳内で創作する世界は、日々、精度を上げて、リアルな物に昇華していった。
そのために、アコは自分が、現実を生きているのかどうか、不安になるときがある。
自分は、ほんとうに生きているのだろうか?
そうして、となりの霊体をちらりと見る。
霊が霊を夢想する、などということは、ありうるだろうか?

「好奇心というものは必要だぞ」
と、話はまだ終わっていなかったらしく、趙子龍は言った。
アコは、なんとなく、いつも覗く、新幹線のりばに入り口をもつ、エスパルの本屋に足を運んでいた。
趙子龍は、あふれる雑誌のかずかずをながめつつ、語る。
「俺がおそらく、この世界で戸惑うことがすくないのも、俺をよく召還するやつが、好奇心がつよくて、なんでもすぐに学習してしまうからだと思う」
「感化される、ってこと?」
「いや、もっと直接的に、召還者と、召還されたアストラルというのは、五感を共有することが可能なのだ。
召還者は、おのれの霊力をアストラルに提供するので、アストラルを長期にわたって召還する場合、霊力を大量に消耗する。その負担をより軽くするために、召還者とアストラルは、五感を繋げることで、記憶を共有し、同じように思考し、行動することが可能になる。
そのために、召還者は、『生前』に、自分と相性のよかったアストラルを召還することが多い」
「あの本だけだと、あなたと召還者の孔明さん、っていう人、仲がいいのか悪いのか、さっぱりわからなかったけど」
「そんなことは、歴史にさして重要じゃない」
「そういうものなのかな。わたしが好きな作家は、歴史は人が作る、おもしろい人物が世の中を動かしている時代は、やはりとびきりおもしろい、って言っていたよ。
あ、そういえば、こんど、新作が発表されるんだった」
そうして、告知ポスターを見て、好きな作家の新作が、来週発売の文芸誌に発表されるのをたしかめた。
が、高い。なんだって文芸誌は、ふつうに千いくらもするのだろう。アコは嘆息する。
今月は食費を切り詰めるべきか、それとも本代を切り詰めるべきか?
「本は食えぬぞ」
と、守護天使ならぬ押しかけ守護霊は、アコに言うと、ぐずぐずと本屋から離れようとしないアコを引っ張った。
どこぞのサラリーマンが、パソコン雑誌を何冊もたばねて、レジにぽん、と無造作において、高そうな財布からさりげなくお札を取り出すのを、うらやましいなあ、と思いつつ、アコはしょんぼりと本屋を離れた。
学校の図書室は立派だけれど、雑誌類は入れてくれないのだ。

「あ、そうだ」
アコは思い立ち、ポケットから、いつのまにか紛れ込んでいた、アメジストの原石を取り出した。
「これ、どこかで売れないかな。そうしたら、いくらか生活費の足しになるかも」
「いくらか足しになるかもしれぬが、売り飛ばすのはよすのだな」
「どうして?」
「その石、紫水晶というのは、魔除けの石だ。おまえを災厄から守ってくれる。守りは多ければ多いほうがいい。いまは売るな」
よいアイデアだと思ったのだが。
「それじゃあ、食費を切り詰めよう。朝はケロッグ、昼は購買の焼きそばパン、夜は百円のレトルトカレー。これで正月まで凌ぐ! どうしても耐えられなくなったら、コレ!」
と、アコは、さきほど、バイト先のゆべし屋からもらってきた、ゆべし餅を取り出した。
「この餅は、そんなに美味いのか」
と、アストラルが、興味深そうに聞いてきた。
趙子龍からすれば、四角いちいさな、見栄えのあまりよくない、こげ茶の餅を売るために、複数の店が競合し、しかも、それぞれの売り上げが、それぞれ良いのが、理解できないらしい。
「試食用で開けた箱のがすこしあまったから、分けてもらったんだけど、食べてみる?」
無理だろうな、と思ってすすめたのであるが、アコが手のひらにのせたそれを、趙子龍はためらいなく受け取ると、ビニールの包装紙を開けて、あっさり口にはこんだ。
そうして、もしゃもしゃとゆべしを食べる。
ほう、わるくない、これなら売れるな、などと言って、納得している半透明の顔を、アコはおどろきのまま見上げた。
「食べられるんだ?」
「五感はある、といったはずだが」
「たしかに聞いたけど…それってつまり、お腹もすくし、食事も必要ってこと?」
「アストラルの糧は霊力だ。霊力さえ尽きなければ、食事は必要ない。味覚はいわば、完全に嗜好のためにあるようなものだな」
「贅沢だね」
と感心しつつ、アコは、不意に、とんでもないことに気が付いた。
「ちょっと待って。霊力っていうのは、召還者のアトラ・ハシースから与えられるもので、あなただけで集められるものじゃない、って言ってなかった?」
「そのとおりだが」
「いま、わたしは三つの願いであなたをこの世に繋ぎとめているけれど、霊力は提供していない。
わたしたちが、なにもしなくてもお腹がすいたり、食べなかったら飢えたりするように、あなたも、日々霊力を消費している、つまり、早いところ召還者を見つけなければ、あなたは消えてしまうっていうこと?」
「そのとおりだな」
と、趙子龍は、なにをいまさら、というふうにアコに言った。
「どうして、そんな大切なこと、教えてくれなかったの?」
思わず声をあげると、趙子龍は、アコが激昂しているのがわからない、というふうに、戸惑いながら、答えた。
「話したところで、どうにもならぬからな」
「なるよ! いまから、諸葛孔明を捜しに行こう!」
趙子龍は、おどろいたふうに、眉をひらいた。
「いまから?」
「そうだよ。っていうか、今日見つからなかったら、明日も捜そう! 学校はサボる!」
「学校はちゃんと行け」
「どうせ、気になって、授業どころじゃないもん。わたしじゃ普通の人間だから、あまり足しにならないかもしれないけれど、なにか手伝うことくらいならできるよ。
ネットで情報をあつめる、とか…そうだ、ダウジングで見つける、とか!」
「針金二本で、簡単に見つかるようなやつじゃないぞ」
「じゃあ、興信所…は、だめか。お金ないし」
「いまやつが、どんな状態にいるのかは、わからぬが、あんな派手なやつが、人の口にのぼらぬはずがないのだ。黙っていれば、そのうち動向が聞こえてくると思うが」
「でも、あなたの霊力が尽きるまで、なにも聞こえてこなかったら? 消滅しちゃったらどうするの? 
できることがあるかもしれないのに、ただ待っているだけ、なんて、わたし嫌だからね」
「たしかに待ち一辺倒の姿勢は消極的かもしれぬ。だが…」
「だが?」
趙子龍は、絶えることない仙台駅の流れを見回す。
仙台ゴールデンポークスVSオレックスの試合が終わり、『せめて失点は十以下!』という横断幕をかかえた、ずんだ色のはっぴを着た応援団が、ぞろぞろと新幹線きっぷ売り場へ移動していくのが見えた。
「…そうだな。すこし動くか」
「うん、そうしよう」
アコはおおいに肯いた。


両親の死があって以来、アコは、周囲の死に関することにたいして、敏感になっていた。
漠然と、将来は医療関係の仕事をしてみたい、と思うようにさえなっていた。
まだよく知らない相手でも、もしかしたら消えてしまうかもしれない、というぎりぎりの状況のなかにいるのであれば、なんとかして助けたい。

「諸葛孔明ってひとの特長は?」
「特長…そうだな、容姿は、身の丈八尺、痩せぎすで、肌が青白く、顔は女みたいだ。しかし女々しいわけではないぞ。あくまで見た目の印象だ。
いちばん目立つのは目かな。目に力がある。第一印象は、かなり濃いはずだ。見るからに、ただ者ではないとわかるヤツだぞ」

趙子龍のことばのままに、アコは孔明を想像してみたが、出てきたのは、それこそゲームの『アンジェリーク』あたりに登場しそうな、一昔前の少女漫画のように現実的ではない青年の姿だった。
そりゃ目立つだろう。

「あなたはどうして諸葛孔明に呼び出されたの?」
その質問をするや、趙子龍の顔は曇り、きつくアコを見た。
「いちばん最初に言ったはずだ。俺がなぜ、ここにいるのか、くわしいことは、おまえは知らないほうがいい」
「でも、どこに呼び出されたのかくらいは、教えてくれてもいいんじゃない?」
アコの反論に、凛々しい風貌をもつアストラルは、はっと気づいたようにして、言った。
「そうだ。K杉山小学校だ。最後にヤツの気配をつよく感じたのは、あそこだ。あの場所から、やつがどこへ消えたのか、辿れるかもしれない」


K杉山小学校は、愛宕上杉通りを北へ行く道のとちゅうにある小学校だ。
官公庁の近くにあり、その周囲は、閑静な高級住宅地になっている。
駅により近い住宅地である錦町とは、またちがった落ち着いた雰囲気のある場所だ。
官公庁のそばにありながら、商店の数が少ないのは不便であるが、治安がよいことと、どこへいくのにも便利という地理的条件は、ほかのどの街にもないものである。
バスで行くのもかえって面倒なので、平坦な道をてくてくと北へ歩いていく。

「そういえば、このあたりに浅野さんの家があるんだよ」
「浅野…図書室で会った娘のことか?」
「うちの学校、さりげなくお嬢様が多いからなぁ…このあたりに住めたらいいだろうなぁ」
「おまえとて、広いマンションに一人暮らしだろう」
「親の残してくれたなけなしの財産だもん。でも、売っても一千万はいかない、って言われた。
街中にあって、通勤には便利だけど、建具が古くてどうにもならないから、隣の人なんか、郊外に部屋を借りて、マンションは人に貸しているくらいなんだよ」
そうしてやってきたのが、あの親切なトルコ人二人組なのだが。

アコは、ふと、歩道の脇を過ぎていく車の群を見る。
ちょうど帰宅時間なので、車の量も多くなっている。
これだけたくさんの人が、それぞれ帰る場所がある、というのが、当たりまえなのに、不思議に感じられる。
アコは、そのなかの誰ともかかわりなく生きていて、彼らもアコのことを知らない。
この二本の足は、どこに行くこともできて、頭は、どこへ行くこともできる準備ができている、というのに。

「ここだな」
趙子龍は、体育館の明かりがまだついている小学校を、校門から覗いた。
連続男児殺傷事件のために、校門はぴったり閉ざされて、部外者が簡単に入れないようになっている。
それでなくても最近は、物騒な事件が多い。
趙子龍は、ほとんど明かりの消えた校舎を見、それから校庭の一角にある、鉄棒を見て、眉をしかめた。
「俺はあそこで白い犬に会ったのだ」
「犬?」
「そいつに丞相を託した。丞相があの時点で、青葉山にいたのはまちがいない。なにかに追われている様子で、視界はだいぶ混乱をしていた。だが、それきりで、完全に視界が失われてしまったのだ。
封印されたか、あるいはなんらかの呪術に捕らわれて、身動きが取れないでいるのか」
「あ、犬だよ」
すでに藍色に染まりつつある仙台の街に、街灯がともりはじめ、その下を、犬の散歩をする人が歩いていく。
犬は、リボンの飾られたマルチーズで、連れているのは、高校生くらいのカップルだ。

彼らは小学校の前にやってくると、歩調をゆるめた。
アコのほうをすこし気にしつつ、少年のほうが言う。
「そういえばさぁ、ここ、出るらしいよな」
「出るって、なにが? 幽霊?」
「そ。なんでも、友だちに騙されて、男にまわされそうになった子が自殺して、その幽霊が小学校に出るんだって」
「なにそれ? 意味わかんなくない?」
「わけわかんねぇから、怖いんじゃん。あと、血まみれの侍が鉄棒の前に出てきて、『青葉山に言ってくれ』って頼まれるらしいぜ。行きます、って言わないと、首を刎ねられるんだと」
「へぇ、超メーワク」
カップルの目が、アコとあった。そうして、カップルは、冗談混じりに、あの子がそうだったりして、などと言い合いながら、去って行った。

「失礼な二人だなあ。でも、どう思う?」
と、アコが水を向けると、趙雲の顔は、あきらかに強ばっていた。
「どうしたの?」
「…どういうことだ? 時間がループしているだけではないのか? 前回の時間が、捻じ曲がって、過去として伝わっている、というのか? 
いや、これすらも、現在なのだとしたらどうだ? 前回を模倣しているように見えて、まったくちがう時間が進行しているのだとしたら?」
そうして、蒼い顔をして、自分の双眸を手で押さえる。
もはや隣にいるアコは眼中に入っていないようだ。
「俺はたしかに『青葉山』を視た。だが、あの状況は、前回と同じ状況ではなかったのか?」
そうして、アストラルは、軽く目を閉じ、意識を集中させるのであるが、すぐに苛立って、目の前の校門を強く叩いた。
「くそっ! 何も見えん! どういうことだ?」
「事情がいまいち飲み込めないんだけど、まずは落ち着いて。そうだ、ゆべしが食べられるなら、お茶も飲めるよね? そこの自販機で、なにか買ってくるから、ちょっと待っていて」

アコは小学校を睨みつける趙雲を置いて、自動販売機のあるところへ向かった。
以前は酒屋だったのが、店舗を閉じて、自動販売機だけが残してある状態になっている。
ちらりと振り返ると、みじろぎひとつせず、じっと小学校を睨んでいるアストラルの姿が、街灯に半透明に映っていた。

と、向こうから、見慣れた少女が走ってくるのが見えた。
「浅野さん?」
制服のまま、息を切らせて走ってくる少女は、まちがいない。浅野一子だ。
アコは自動販売機のお茶を買いつつ、走ってくる一子に手を振ってみた。
なにやら急いでいるようだが…

一子は、しばらくアコの存在に気づかなかったようだ。
小学校の門の前を通り過ぎ、NTTドコモのビルのほうへ去ろうとする。
あわててアコはその後を追いかけた。
「浅野さん、どうしたの? これからバイト?」
アコが声をかけると、一子はびくりと体を震わせて、それからようやく足を止めて、アコを振り向いた。
とたん、がくりと膝から崩れ落ちる。
「どうしたの!」
アコは自分もかがんで、一子に目線を合わせた。
「最上さん…うちの、犬が」
犬。また犬か。
趙子龍も、アコの様子にきづいて、校門から離れて、こちらにやってきた。
「犬がどうしたの?」
「銀杏に、変な銀色がたかっていて、そいつと、ロード・オブ・ザ・リングに出てきそうな鎧の金髪外人が戦っていて、んでもって、また外人がひとり増えて、うちらを急に襲ってきたの。で、あたしを逃がすために、犬が盾になってくれて」
かなり錯乱している一子の言葉を、アコは組み立てることすらできなかったが、隣にいる趙子龍は別らしい。
全身を一瞬、ふるわせて、アコに言う。
「外人というのは、金髪の女か? 鎧を着ていただろう。聞いてみてくれ」
「鎧の人って、女?」
「そう。兜に翼がついた、なんつーか、いかにもヨーロッパって感じの、あたし、あんまりそっちは詳しくないんだけど」
「木はどうなった? 肝心なところだ。これも聞いてくれ!」
「木はどうしたの?」
「わかんない。消えちゃったの。煙みたいに、パッと」
それを聞くや、趙子龍は無念そうに呻いた。
「五本のうち、三本までが倒されたか!」
「それって、もしかして、最近の銀杏連続盗難事件のこと?」
アコは趙子龍にたずねたのだが、趙子龍をみることのできない一子は、自分がたずねられたと思ったらしい。
「たぶん、そうかもしれないけど、あれって、なに? 
銀色のKSSチョコの包装紙みたいな奴らで、ぜんぜん可愛くないの! もしかして、うちの犬も、あいつらに食べられちゃったかも!」
「そいつらは、どこにいる?」
「その人たち、どこにいるの?」
「ガストのほう。五橋のほうまで頑張って歩いていこうって散歩してて…」

と、一子は突然言葉をとぎらせ、息をつまらせた。
アコは一子が強ばって、目線を外さないでいる方角をみる。
そうして、自分も強ばった。
NTTドコモビルの前に、銀色の何かが揺らめいている。
それははっきり見えなかったが、銀色の、人間のように見えた。
「女王」
緊張した声で、アストラルが言う。
「アコ、その娘を連れて逃げろ。あいつの狙いは、その娘だ。命に替えても守れ!」
「ええ?」
「俺はあいつを食い止める。おまえはその娘と共に、東照宮まで逃げるのだ。あそこには、あらかじめ張ってあった結界が残っているはずだ。あそこまで行けば、あいつらは手を出すことができない!」

この場合の東照宮、とは日光東照宮ではなく、伊達政宗によって建立された、上杉の隣町、宮町にある東照宮のことである。
いま、アコのいる小学校からだと、三十分弱でたどり着ける。
アコは、一子がどういう状況に置かれているのか、さっぱりわからなかったが、ともかく一緒に逃げることにした。
アコがいなければ、自分がこの世界に留まることはできない、と承知のうえで、命に替えても守れ、と言ったのだから、これは相当なものだろう。

閑散とする巨大ビル、NTTドコモ東北の入り口に、唐突にあらわれた銀の人間は、徐々に形をととのえて、女性の形となっていく。
いつのまにか、アストラルの手には、槍があらわれていて、銀の女に対し、威嚇するような姿勢を取っていた。
ちょうど、タクシーがやってきたので、アコはそれを止めると、一子とともにタクシーに乗り込んだ。
タクシーの出費は痛いが、こういうときのためのボーナスだったんだ、と自分に言い聞かせる。
一子はずっと震えていて、アコの手を固く握り締めていた。
「お嬢ちゃんたち、具合悪そうだね。病院に行くかい?」
と、運転手が尋ねてきた。
アコは、大きくかぶりを振り、言った。
「病院はいいです。東照宮までお願いします!」



アコがタクシーをいいタイミングでつかまえて、そうして去っていったのを見届けて、趙雲はつぶやいた。
「よし、いい子だ」
アコや旧友に指摘されたとおり、趙雲は女性というものを崇拝しているし、恐れてもいる。
女性は強い。だが、身体的には脆い。
その脆さが扱いかねて、そばにいると、混乱して、異常に気を遣ってしまう。
疲れるので、自然と距離を置く。
したがって、周囲に女人がいなくなる。
そういう循環のなかで人生を過ごしていた。
アコは、そのなかでも、わりと過剰に意識をすることなく付き合える娘だ。
あの聞きたがりの好奇心むきだしのところが、孔明を思わせてくれるからだろうか。
アストラルとして過ごしてきて、いままでに、汎世界をわたって、さまざまな人間を見て、さまざまな人間の三つの願いをかなえてきた。
なかには、眉をひそめたくなるほど残酷な願いを、平気で口にする者もいたし、欲望むき出しの願いを、続けざまにするものもいた。
アコは、彼らとはちがって、願いのことはあまり触れず、趙雲自身につよい興味を持ち、そして、その身を案じていた。優しい娘だ。
あの娘の境遇、そして、なぜか立て続けに巻き込まれる凶事を思うと、気の毒でならない。
ほかに誰もいなかったので、一子を託すことになったが、本心からいえば、一子より、アコのほうに生き延びてほしかった。

「世界の語り部を逃がしたわね」
と、銀の女王は言った。
「おまえはむずかしい、趙子龍。ふつう、下僕というものは、主の命令に絶対服従するものなのに、おまえはそうではない。
召還者のアトラ・ハシース以上に疑い深く、慎重なのだから」
「諸葛孔明をどうした」
その問いに、女王は声を立てて笑った。とはいえ、仮面をかぶったようなその顔は、表情というものがない。
彼女がなにを感じているかは、声の調子だけで判断するしかないのだ。
「おまえが分からないのに、わたしたちに分かるとでも?」
「一度、ラグナロクは起こったはずだ。なのに、時間がループして、ふたたび12月がやってきている。
だれかが『戦士の角笛』を吹いた。
だから、召還されたアトラ・ハシースは、この世に辛うじて留まっている。
アトラ・ハシースがいるので、俺もまだ、ここにいる」
「そのとおり。でも、『戦士の角笛』を吹いたのは、今回は世界の護り手ではないわよ。彼女は呪いを受けたので、世界に積極的に関われなくなってしまった。
おかしなことね。世界を奇跡が救おうとした。だが、この奇跡は、わたしたちにとっては、災いだった。
奇跡を覆すために、わたしたちは過去を遡り、わたしたちを止めるために、貴方たちがあらわれた」
「たった一人の夢想からつむがれたこの世界も、いまはちゃんと呼吸をしている。生きているのだ。ならば、俺たちはこの世界を護る」
「律儀なこと」
女王が、さっと手を掲げると、周囲から、陽炎のように煙が立ち昇り、それが徐々に、銀色の小人の形に変化した。
「わたしの兵士たちは費えることがない。百万の兵の中を駆け抜けたというおまえでも、わたしたちを凌ぐことはできないわ」
「どうかな」
趙雲は、ふたたび槍を構えると、静かに、ひたひたと押し寄せてくる銀の小人に向かって行った。



仙台東照宮は、国指定の重要文化財だ。
東照宮の名を見ればわかるとおり、御祭神は、当然のことながら、徳川家康である。
三百五十年前に建立された建物は、石作りの鳥居、階段を登りきると、あらわれる荘厳にして重厚な門、華やかなつくりの本殿など、どれを取っても、かつての仙台藩の栄華をしのばせてくれる。
日光東照宮ほどの大きさはないけれど、現在も多くの参拝客をあつめるお宮である。

タクシーの運転手は、怪訝そうにしながらも、アコと一子を鳥居の前で降ろしてくれた。
「ねえ、なにがどうなっているの?」
一子は、しっかりとアコの手を握りながら、這うようにして、東照宮の階段を上がっていく。
アコは、一子の問いを、そのまま返したかった。
そうして、引き下がりすぎた、と苦く思う。
趙雲が拒むので、なぜ、かれが召還者に呼ばれたのか、そもそも、召還者たるアトラ・ハシースたちがこの世にいる理由はなんなのか、アコは、あまりに何も知らない。

銀杏連続盗難事件が、趙子龍にかかわっているなど、さっきまで、想像すらしなかった。

階段をのぼりきり、門をくぐると、本殿と、闇に浮かぶ松の木が不気味に聳えている。
ほかに人影はなく、コンクリート造りの社務所も、明かりが消えている。
結界がある、という話だが、ここにいれば安全なのか、それとも結界とは、本殿の中だけなのか、それすらも分からない。
アコは、息を切らしている一子をつれて、本殿の前にまでやってきた。
石畳の上に、一子は崩れ落ちる。
「どうなってるの? なにがどうなってるわけ? 家に帰りたい!」
アコは、一子をなだめるべく、その背中をさすりつつ、言った。
「もうちょっと待っていて。たぶん、助けが来てくれるはずだから」
「助け?」
「うん、きっと来てくれるよ」
アコは、階段を見下ろし、眼下にひろがる宮町と、その家並みの向こうにいるであろう、趙子龍のことを考えた。
大丈夫、きっと帰ってくる。

「うちの犬」
と、一子が顔を覆いながら、喋りだした。
「ポニーっていうんだ。シェットランドシープドックなんだけど、ほんとうは、ポニーじゃなくて、羅貫中っていう中国人なの」
ハテ、どこかで聞いたような。
「ずいぶん、立派な名前の犬だね」
「犬じゃないんだ、本当は…羅貫中って、明代の中国の大作家で、三国志とか、水滸伝とか書いた人なの。その人の魂が、ポニーに降りてきていて、しゃべれるんだ」
もしも、おとといまでのアコであったなら、一子の言葉をきいて、これは錯乱して妄想がひどくなっているな、と薄気味悪く思うだけであったろうが、いまならば、素直に聞くことができた。
すべては、すこしずつ、繋がっているのだ。
「三国志って、陳寿って人が書いたんじゃないの?」
「それは歴史書としての三国志で、羅貫中は、それをベースに小説を書いたの。それがどういうわけかうちで飼われていたんだけど、考えてみれば、どうしてうちなんだろう? こんなことになるなんて、絶対ヘンだよ! 
あたしを庇って、銀のヘンテコに向かっていったんだけど、どうしただろう? ちゃんと家に帰れたかな?」
その問いに答えられるものは、おそらく当の銀のヘンテコか、羅貫中本人であろう。

「いま、何時?」
しゃべっていないと、恐怖に押しつぶされそうになるのだろう。
一子は震えつつも、尋ねてくる。
アコは、ポケットの携帯電話を取り出して、答えた。
「もう六時になるところだね」
「あ、お母さんに連絡しないと」
母親の声を聞いて、安心したい、というのもあるにちがいない。
うらやましいな、と思いつつ、アコは一子が携帯を取り出すのを見守った。
一子の携帯電話は、丸っこいデザインのピンク色のものである。
ストラップがついており、銀色のキューピー人形のようなものが…
いや。
「! なにこれ!」
一子は叫ぶと、携帯電話を石段の上に叩きつけた。
ピンクの紐に、銀色のビリケン、あるいはキューピーもどきのついたストラップ。
地面に叩きつけられた携帯は、沈黙している。
「そ、そうだ。ヨーコのヤツが、試供品だとかいって、みんなに配っていたんだ。あいつの友だちが、そのヘンテコのグッズを売っているからって…あたしいらないっていったのに、いつ、紛れ込んでいたんだろう?」
「ヨーコが?」
ヨーコまで繋がるのか。

突然、一子の携帯がなりだした。
着メロは、バッハの『G線上のアリア』。
一子がすくんでしまったので、アコは変わりに、パネルを覗き込み、架電者をたしかめた。
しかし、パネルにはなんの表示もされていない。
非通知、とも表示されていないのだ。
さすがに気味が悪く、拾いあぐねていると、不意に、ぐっと手首をつかまれた。
アコは、あまりのことに悲鳴をあげることすらできなかった。
ストラップについた小人が、いつのまにか巨大化して…といっても、親指大のものが、幼児ほどの大きさになったのだが…石畳の上に横たわり、アコの手首をぎゅっと掴んでいるのだ。
そして、そのアーモンド状の大きな目が、きょろりとアコを見る。

「浅野さん、逃げて!」
ここは無事なんじゃなかったのか?
アコはうろたえつつも、小人から逃れようと、手を動かした。
小人は、アコの手を掴みながら、ゆっくりと起き上がる。
視界が揺らぐ。眩暈がする。
掴まれた手首を中心に、力が抜けていくような…
「最上さん!」
意識まで遠のきかけたが、一子の声で目が覚めた。
同時に、自分の手首が、異常にしわがれていることに気づく。
いや、手首だけではない。
足も、顔も、皺だらけで、皮と骨だけになっている。
肌には、劣化を示すシミがところどころ浮き上がっている。
アコは、思わず自分の頬をさすり、そして、潤いをなくした髪に触れた。
何本か乱暴に抜くと、あっさりとそれは抜け落ち、見ると雪のように白い。
一方で、銀の小人はアコから手を離し、ゆっくりと起き上がると、硬直している一子のほうへと歩いていく。
「だめ! 逃げて!」
アコはそれでも立ち上がろうとするが、膝に力が入らない。
それに発した言葉は、自分のものとは思えないほど低く、しわがれていた。
アコは懸命に起き上がり、一子に迫ろうとする、銀の小人の背中に向けて、タックルをする。
銀の小人は、アコの生気を吸い尽くし、力を得たのか、乱暴にそれを払いのけようとする。
しかし、アコは容易に離れようとしなかった。
「も、最上さん! あたし、どうしよう!」
うろたえる一子に、アコは叫んだ。
「いいから、行って! 早く!」

逃げて。わたしの代わりに。

なんとしても一子だけは助けなければ。そんな強烈な思いが押し寄せてくる。
なぜ自分が、こんなことを強く思うのかわからない。
でも、助けなければ。わたしの代わりに。
わたしはもう、ダメだから。

銀の小人は、その上背に似合わぬ力を発揮し、背中に追いすがるアコを、渾身の力で振り切る。
ふわり、と臓腑を不安定な感覚が襲い、アコは、お宮の横手にある雑木林に放り投げられた。
視界が回転し、ざわざわと、木々が襲ってくるような感覚がある。
身体のあちこちが、枝に引っかかり、無数の小さな切り傷ができた。
一子が、悲鳴をあげながら、階段を下りていく音が聞こえる。

ああ、まただ。また、こんなところで、せっかく時間が戻ったのに、あのときと同じように、場所はちがうけれど、青葉山とこことでは、ちがうけれど、

銀の小人は一子を追うべく、階段を下りようとしたが、門のところまで行ったとたんに、見えない壁にはじかれて、ふたたび本殿のほうへ戻された。
結界は、彼ら外界のものを、ひとたび取り込んだら、けして外には出さない種類のものだった。
アコたちをここに誘導したこと自体が、趙子龍の巧妙な罠だったのだ。
ひとこと言ってよ、とアコは枝の上で朦朧としつつ、人の悪いアストラルにつぶやいた。

銀の小人には口がない。
そのために、悪態をつくことはなかったが、そのかわり、悔しそうに地面を蹴った。
そして、代わりに、憂さ晴らしできそうなものを捜す。
さきほど、自分が跳ね除けた、人間の抜け殻に、とどめをさしてやろうと。

がさり、がさり、と無情に葉をかきわける音がする。
なんのために銀の小人が戻ってきたのか、アコにはわかりすぎるくらいに、わかっていた。

耳の奥のほうで、だれかが捜しているような声が聞こえる。
助けではない。
アコを追いかけてる連中の声だ。
どこだ、どこへ行った。
畜生、しっかり押さえていないからだ
ひとりで山の中、そんなに遠くまでいけるか
捜せ、ぜったいに捜してやれ
寒さと恐怖と混乱、裏切られた悲しさ、悔しさ。
すべてが押し寄せてきて、なにも考えられず、ただひたすらに、足を動かしていた。
助けを呼ぼうにも、山の中で、誰もいない。
そもそも、付いていってはいけなかったのだ。
必死で抵抗し、逃げて、走って、走って…そうして、途中で、バイクを乗った連中が、先回りしてきた。
咄嗟にアコは、ガードレールの向こうにある鬱蒼とした闇に目を向けた。
死んだほうがマシ。
そう思った。そうしてガードレールから闇に飛び込むようにして…

こんな状態で、もう身動きが取れないのに。
こっちには、もうなんの力もないのに。
容赦なく、さいごのさいごまで、すり潰そうというのか。
どうして、こんなひどい真似ができるの。
もう、ひどいことしないで。

わたし、もう死んでいるのに。

「助けてやろうか」

自分がどうなっているのかすら、わからないでいるアコに、聞き覚えのない男の声が届いた。
うっすらと目を開くと、木立の中に、あの男が立っていた。

月光に輝く金色の髪。
残酷なまでに傲慢な蒼い瞳。
圧倒的な存在感をみせつける、呪われた血に濡れた獣。

アコと目が合うと、男はにやりと笑った。
「これは、貸しだ」
そう言うと、男は、手にした鎌でもって、雑木林をゆっくり下りてくる銀の小人に立ちはだかる。
銀の小人は、無感情なその顔を、男に向けた。
一瞬のことであった。
男が鎌を振りかざした、と思ったその一瞬に、小人の首は跳ね飛ばされていた。
とたん、アコから抜けていた力が、一気に戻ってくる。
アコは手を見、それから顔に触れ、髪を梳いた。
皺はなくなり、以前のとおりの肌艶に戻っている。
心から安堵しつつ、木々にひっかかった、自分の体をなんとかしようともがいた。
どういう具合か、複数の木々の枝にひっかかって、下手に体を動かすと、反動で、もっと下に落ちてしまいそうだ。
「おやおや、ひどい有り様だな。手を貸してやろう」
と、男は鎌をもったまま、アコを助けようとする。
その足元には、首を刎ねられた銀の小人の体が、しゅうしゅうと煙を吐いて、地面に還っていくのが見えた。

アコは、さっき、なにか重要なことを思い出したと同時に、恐怖という感覚も、忘れてしまったような錯覚をおぼえた。
目の前の男は、まぎれもなく、例の男児連続殺傷事件の犯人だ。
なのに、恐ろしさがない。
男は、手にした鎌を、どういう仕組みになっているのか、手で奇妙な仕草をして、消してしまうと、アコが地面に下りる手助けをした。
まだ頭がぼんやりする。一子はどうしただろう。

「なるほど、聖剣の力というのはすさまじいな。おまえほどの者を、こんな形で封じ込めることができるとは」
おそらく男はフランス語をしゃべっている。
アコはもちろん、フランス語なんてしゃべれない。
なのに、男がなにを言っているのか、苦もなく理解することができた。
この場合、打ち所がよかった、というべきだろうか。

「聞くがいい。『戦士の角笛』を吹いたのはわたしだ。つまり、この世界にとって、わたしは恩人といってもよい存在なのだよ。お前ならば理解できるだろう。
そして、わたしの目的は、世界でも、おまえたちの首でもない。黄金の魂だ」
アコはくらくらしつつも、頭を振って、正気を保たせた。
男のことばはわかるが、意味となるとさっぱりだ。
黄金の魂?
だれのことだろう。

「わたしはだれに召還されなくても、世界を渡ることができる。アストラルとちがって、霊力が糧なのではない。不死の呪いを受けたからだ。
だが、おまえたちはどうだ。世界のあらゆる制限を受けて、巨大な力を持ちながら、不自由きわまりないではないか。
特におまえ、聖剣のおそるべき力によって、受肉での降臨どころか、『死肉』での降臨だ。このままだと、召還したアストラルともども、この世界と心中するはめになるぞ」
「し、にく?」
アコが聞き返すと、男は鼻で笑った。
「いまだ、封印されたままか。まあ、よい。それはそれで好都合だ。おまえたちが動けなくなった分を、わたしが動いてやろう。
そのかわり、黄金の魂がわたしのものになるように、協力してくれないか。そうしたら、この世界を共に救ってやろう」

「たわけめが、アトラ・ハシースが、『暗き運命を背負う女神』を売るはずがなかろう」
「おや、よく逃げ帰ってこられたな、犬めが」
アコは、ようやく、はっきりと目を覚ました。
雑木林の上、東照宮本殿の前に、趙子龍が立っている。
ところどころ傷ついているようだが、目だった怪我はない様子だ。
闇に浮かぶその相貌は、男への敵意にあふれている。
金髪の男をきつくねめつけて、趙子龍は、唸るように言った。
「迂闊であったな、おまえまで、この世界に侵入していたとは」
「迂闊も迂闊。おまえほど、おろかなアストラルは見たことがない」
男は唄うような軽快な調子で、趙子龍を嘲弄する。
「黙れ。その者から離れろ」
すると、男はさらに笑って、アコの顔をながめた。
「言われるまでもない。ああ、せっかくならば、本来の姿のまま受肉すべきであったのだ。少女のおまえには、食指が動かぬ」
「下衆めが!」

とたん、上空から、強い風が押し寄せてきた。
アコは落ちそうになるのを、近くの木の枝を掴んで、なんとか耐えた。
趙子龍は、槍の穂先を、まっすぐ男に向けている。
その槍の周囲が、まるでちいさな竜巻が、槍になついているかのように、渦巻いていた。
傍らの男の気配が、さきほどまでとは違う。
見ると、白い頬から、突風により吹き飛ばされた小枝でもって、ちいさな、かすり傷ができていた。
それをさすりながら、男は怒気を吐く。
「このわたしに刃を向けるか! フランスでもっとも高貴な血を持ち、イギリス兵をもっとも怖じさせた、最強の騎士たるわたしに向かって!」
そう叫びながら、はっきりと怒りを燃やして、男は鎌をふたたび持ち出して、飛ぶように雑木林の上に向かっていく。

男は鎌を振りかざし、鳥のように大きく闇を跳梁し、趙雲に攻撃を仕掛ける。
迎え撃つ趙雲は、槍を大きく振りかざし、宙に飛ぶ男の身体を巻き込むようにして、難なく、男を地面に叩きつけた。
「フランスの最強の騎士は、たいしたことがないな」
「そう思うかね」
男の秀麗すぎるほど甘い秀麗な顔に、凶悪な笑みが浮かぶ。
地面にあお向けになり、趙子龍の槍の穂先に抑えられた男の体が、一瞬光る。
男にとどめを刺そうとした趙雲は、はっとして後退した。
とたん、頬をぎりぎりかすめて、刃が抜けていった。
そうして、驚愕のうちに、頬に付いた傷に触る。
頬から流れる血は、その半透明の体とはうらはらに、鮮やかに赤い。
「おまえ、それはまさか?」
男は、上半身だけを起こし、愉快そうに笑う。
その手には、壮麗な装飾の施された、穂先が真っ赤に濡れた、まがまがしい槍があった。
「そのとおり。契約の槍。英雄殺しの槍だ。不死の英雄を殺した槍、ありとあらゆる法則を打ち破り、只人に戻してしまう槍だ。
たとえかすり傷でも、この槍によって傷つけられたなら、英雄殺しの効力は発揮される」
ぞくり、と趙子龍が震えたのが、アコにもはっきりわかった。
「おまえのアストラルとしての生涯は、この世界で終わりにするといい。さらばだ!」

趙子龍は、身動きひとつとらない。
すくんでいるのではない。
契約の槍の力によって、身動きが取れなくなってしまったのだ。
頬につけられた傷が基点となって、電光が全身を走り、趙子龍の体を縛っている。
そうして、赤い槍は無情にも、その胸を深々と突き刺した。
とたん、血潮にも似た赤い電光が、ばちばちと周囲に飛び散る。
死。
消滅。
そんな言葉が、アコの脳裏を過った。

アコは、気が付くと雑木林を駆け上っていた。
そして、薪ほどの大きさの枝を、途中で拾い上げる。
石畳の上で、高笑いをつづける男のもとまで行き、その金髪の頭を思い切りぶん殴った。
「やめて! どうしてこんなことをするの!」
しかし、あまり痛くなかったらしく、男は迷惑そうに振り返る。
「水をさすな。せっかくおもしろいことになっている、というのに」
「止めて、いますぐ止めなさい!」
「おまえを怒らせるのは本意ではないが、刃を向けられたならば、全力で答えるのが礼儀。礼儀を守っただけだ。もうすぐ、おまえのアストラルは消滅する」
アコは、いまや完全に輪郭だけを残し、赤い電光に飲まれようとするアストラルをみた。
そうだ、三つの願いを使えばいい!
「二つ目の願いをいうよ! 死なないで!」
ただひたすら耐える表情であった趙子龍の顔が、わずかにやわらいだ。
傍らの男が、味気なさそうに言う。
「おまえも、たいがいに愚かだな。アストラルに生き死にもあるか。だいいち、願いは、やつの霊力が残っていればこその話だろう」
そうして、くぐもった声でつづける。
「おまえが間に合えば、消滅からは逃れられるかもしれないが」

そうだった。
こうしているあいだにも、アストラルはどんどん薄くなっていく。
その唇が動いたような気がしたので、アコは電光をものともせず、近づいていった。
びり、と足元から、皮膚をさすような刺激があり、うぶ毛が焼けた臭いがしたが、かまわない。
「なに? 何が言いたいの?」
「願いを」
「うん、願いを言う。でも何を願ったらよいのかわからないの」
「俺の霊力をすべて使え。願いはこうだ。『我を解放せよ』と」
「ええ?」
「迂闊であった。ほんとうに迂闊であった。おまえの視界が読めなかったのではない。
おまえと視界を一緒にしていたので、読む必要がなかったからなのだ」
「何を言っているの?」
戸惑うアコに、趙雲は笑った。
「最上アキラ子、おまえをかならず助けてやる。そのために、おまえの身に封じ込められたものを解放するのだ。言え、願いを」
アストラルの体を作る線が、いよいよ掠れてきた。消えてしまう。
ダメだ。
アコは叫んだ。
「趙子龍、我を解放せよ!」


乙女は言った。
「槍の使い方って、だれかにちゃんと教わったことがないの。だから、使い方も下手でしょう?」
「君が自ら戦わねばならない時は、決戦の時だろうな」
だからよ、と乙女は身を乗り出した。
白百合のようにたおやかな体に、晴れ渡った空の色を混ぜ込んだ蒼い瞳、そして、生き生きとした愛らしい顔立ち。これほど美しい少女は、ほかにないだろう。
思わず笑みをこぼすと、乙女はむくれた。
「わたし、本気なのよ。決戦の時に、大将が、槍が下手だから、負けてしまいました、では話にならないもの」
「ゲオルギウスに頼めばよろしかろう」
「断られてしまったの。あなたは、只そこにいるだけでよい御方です、って。
でも、あなたも言っていたじゃない。自分に技術があると自信があるからこそ、戦いを回避するために、臆することなく動くことができる、って。
貴方がだめなら、だれか他の方を紹介してくれない? わたし、きっとよい弟子になると思うわ」
この生真面目な少女騎士の師匠に、ぴったりな男がひとりいる。
「アトラ・ハシースではなく、アストラルだが、召還しようか」
「いいの?」
ぱっと乙女は顔を輝かせた。そんな顔を見せられたら、断ることはもうできない。
「趙子龍という男だ」
「趙、子龍…子龍ね、おぼえたわ。ありがとう、孔明。わたしきっと、世界でいちばん槍が上手な女の子になれると思うわ」
いまのままで十分だが、と孔明は思ったが、あまりに気安かろうと思い、口には出さなかった。



孔明は、いまや消え行こうとする盟友の手を取り、叫んだ。
「我、ふたたび汝を我が元に召還す! わが英霊よ、当山孔真君の名の元に従え!」
掴んだ手の感触が、ふたたび強くなる。
はっきりと、触れ合う指先に、己が手を握り返してくる、力強い指の感覚があり、孔明は安堵した。
間に合ったのだ。
孔明は続けざま、呪文を唱える。
「冥き海、死せる空、もろもろの光を失いし世界より、恨む者、憎む者、生きとし生ける者の呪詛を我に集めよ」
背後にいる、忌まわしき吸血鬼が、息を呑んだのがわかった。
「卑怯だぞ、助けてやった恩を忘れたか!」
「助けてくれとは頼んでおらぬ! 消えよ、吸血鬼!」
すさまじい風が吹きすさび、ありとあらゆる木々をはげしく揺らし、東照宮の本殿を不安定になぶり、砂という砂が巻き上げられた。

あたりに、青白い龍のごとき雷鳴が走る。

衝撃は突然であった。
巨人が打ち下ろした金槌が、地面をゆさぶったかのような衝撃で、あたり一帯がぐらりと揺れる。
遅れて、何万という銅鑼を一斉に打ち鳴らしたような雷鳴がとどろくいた。
耳をつんざく雷鳴が走り抜けていったあとには、男がいた場所に、深く地面を抉られた跡が残っているだけであった。

孔明はそれを見て嘆息した。
「逃げられたか、さすがだな」
「あれはただの吸血鬼ではない。呪詛を解いてやるか、ヤツの願いを叶えてやるか、どちらかしかなかろう」
「ほかに方法はないのか? まったく、災厄しか撒き散らさない。
あんなヤツまでこの世界に侵入しているとは、厄介だ」
やれやれ、と孔明は、細い腰に手を休めて、一息つく。
吸血鬼の去ったあとには、ざわざわと、木立のざわめきが残っているばかりである。
ただし、その姿はかつての諸葛孔明のものではない。
純白のブラウスに、黒のニット、黒いプリーツスカート、黒いニーソックスに、黒い革靴、黒づくめの制服を身にまとった、おかっぱ頭の少女のままだ。
「無事…ではなさそうだな」
孔明は、あらためて召還した盟友を見て、これまた嘆息した。
「お互いにな」

趙雲は不機嫌に言うと、己の頬の傷をぬぐった。
さきほどまでの半透明ではない。
完全に受肉した状態での来臨である。
英雄殺しの槍の呪いは、消滅にはいたらないまでも、それなりのものをもたらした。
すなわち、英霊を、只人に変えてしまうこと。
いまの趙子龍は、普通に肉体を持つ、ごくごく普通の人間だ。
もはや姿を消すことはできないし、食事を取らねば飢える。

「言いたいことが山ほどあるのだが」
「だろうな」
小言の嵐を覚悟し、孔明は気まずく目を逸らす。
案の定、趙雲は虎のように吠えた。
ふざけるな! 目の前にいるのならば、ここにいると、なぜ早く教えない!
「仕方なかろう、わたしとて、あのとき無事ではなかった。
だから、ふつうに受肉せずに、この世界の住人の体に憑依する形での来臨となってしまったのだ。
そのために、この娘の記憶に強烈に支配されてしまった。自分を取り戻したのは、ついさっきだよ。騙していたわけではない」
「本当だな?」
「本当だ。でも、思い切り、わたしらしいだろう? 性別はともかく、顔立ちも似ているし、それに名前だって」
「名前?」
「そうだよ。なんだ、マンションの表札をちゃんと見なかったのだな。この娘の名前は『最上アキラ子』」
「それは知っている」
そうじゃない、といいつつ、孔明は、砂のうえに、名前を表記した。
「こういう字を書くのだ。『最上亮子(あきらこ)。はなはだ明るい(孔明)、という元の名とも、意味が共通している名前なのだよ」
趙雲の顔から完全に血の気が失せた。
孔明は逃げの体勢をつくる。
ふざっけるな! 最初からそう書け! ハンパなカタカナ表記をしたら、二度と許さぬぞ!
孔明は、ふうっと強くため息をつきつつ、趙雲に言った。
「悪かった。本当に悪かった。しかしもろもろ、困ったな」
そう言って、東照宮の本殿の石段に腰かける。
趙雲もそれに倣い、いつになく華奢な姿になってしまった友のとなりに腰かけた。

少女、としか認識していなかったため、その顔を見ても、さほど感慨はなかったが、中身が諸葛孔明だと知ると、たしかに面差しは孔明になった。
整った鼻梁、抜けるように白い肌、形の良い唇と、明るい光を湛えている瞳。
ただ、アコであったときとちがうのは、大人しそうな印象はすっかり払拭されて、ひたすら明るさが際立っているところだ。
孔明の元の顔からして、男性としての特徴が、ふしぎと薄い顔立ちだったから、女性として完成される前の中性ともいうべき少女に宿っていても、さほど違和感がないのかもしれない。

「子龍」
と、孔明は、自分の細く長い手を出してきた。
あらためて握手か? 
怪訝におもいつつ、手を重ねると、孔明は軽くそれを握り、ふーむ、とうなった。
趙雲はぞくりとした。
孔明の手であるはずのそれが、異様に柔らかく、華奢であったからだ。
肉体は少女のものであるから当然なのだが、中身にいるのが、だれよりよく知っている者、というだけに、混乱がひどい。
「やはり、アストラルであったときよりも、熱が上がっている…本当に只人になってしまったのだな」
孔明の、いつになく高く澄んだ声を聞きつつ、趙雲はなるべく平静をよそおって、手を引っ込めた。
「おまえもな…ところで」
「なんだね」
「ヤツが言っていたことは、ほんとうか」
その、といいつつ、趙雲は言葉を引き出しかねて、顔を覆った。
それを察したか、孔明が先回りして答える。
「残念ながら本当だ。この娘は死んでいる」
「なぜ」
「ひどい話だ。この娘は、友だちに青葉山へ誘われて、途中、同行していた男たちに乱暴されそうになった。
その友だち、千台ヨーコと男たちは、賭けをしていたのさ。彼女が辱めをうけたあとでも、自害を選ばないか、どうか」
「……」
「だが、この娘は必死に抵抗し、逃げる途中、青葉山の崖から墜落したのだ」
「小学校で流れていた噂は、そのことを示していたのか」
「奇跡が二重で起こってしまったのだよ。
最初のループでわたしがラ・ピュセルと相打ちになったとき、聖剣はラ・ピュセルの願いを受けて、世界樹ユグドラシルとともに、ふたたび時間を巻きもどした。
その合図をするための『戦士の角笛』であったが、吹き手が吸血鬼であったためと、世界の護りであるユグドラシルが三本しか残っていなかったために、聖剣の力が強くなりすぎて、邪悪なチカラからラ・ピュセルを優先して護る形で、時間が巻き戻ってしまったのだ。
時間が巻き戻る直前に、わたしが消滅した時刻と、この娘が命を落とした時刻が一致した。
そもそも、ユグドラシルは、『無念のうちにこの世から去らねばならない霊魂を慰める世界を支える』ために設置されたものだ。この世界自体が、あってはならない、奇跡の作り物。
そのために、非業の死を遂げた者の願いに敏感だ。ユグドラシルは、娘の声をも、聞き届けた。だが、例の少年とちがって、彼女の場合、一度、命は絶えてしまっている。
死んだものを甦らせる巨大な力が必要だ。そして、ユグドラシルはその補填に、わたしを回した、というわけさ」
「そうか」
趙雲はそれだけ聞くと、決然と立ち上がった。孔明は動かない。
「どこへ行く」
「その娘を裏切り、男たちに与えようとした娘を、懲らしめに行く」
だが、孔明は、趙雲の衣の裾を、ぐっと掴んだ。
「座れ、子龍」
「止めるな」
「座るのだ。あなたはもはや、アストラルではない。肉体を持つ、只人なのだ。
腹が立つのはわたしも同じだ。わたしはこの娘と同化している。最期に見た光景、悲しみ、屈辱、怒り…すべて共有している。
昨日の晩、本来ならば、この娘は、青葉山で死ぬはずであったのだ。いまは純然たる怒りがあるよ。
しかし、この娘を罠にかけた千台ヨーコの家に乗り込んで、首尾よく懲らしめたとする…どういう手段を使うかは、あえて聞かないよ…で、官憲のお尋ね者となり、下手をすれば生涯を刑務所で過ごすこととなる。
わたしはアトラ・ハシースでありながら、毎日のように、河原町の仙台刑務所へ、差し入れ片手に面会に行くはめになるわけだ」
「このまま、黙って見過ごせというのか?」
「そうとも言っていない。たしかに、この娘は一度死んだが、わたしの霊力をまるごと補填したために、復活したのだ」
「それでよいと?」
「そうではない。子龍、この娘にとって、保護者は、あなた一人なのだ。わたしと同化したことで、この娘は復活を遂げた。
あなたは、わたしやこの娘を置いて、塀の中へ行ってしまうつもりかね? それが、この娘のためになると思うか?」
「そうかもしれぬが」

いや…趙雲は、もっと事態が深刻なことに気が付いた。
そして、いつになく青白い横顔を見せる孔明に尋ねる。

「待て、おまえの霊力は、その娘の維持に、ほとんどを使っている状態なのだな? すると、いつものような力は、発揮できない、ということではないか?」
「そのとおりだ。アトラ・ハシースは、自然界から無尽蔵に霊力を補給できるが、補給元が無限というだけで、わたしの身に留めることができる霊力には、ちゃんと限界がある。
わたしに注がれる霊力は、右から左へ、『最上亮子』を維持させるために使用される。わたしには、あらたなアストラルを呼び出す力も残されていない。
さっきの吸血鬼を逃してしまったのも、ヤツが素早かったからだけではない。わたしに力が足りなかったから、見切られてしまっただけのことだ」
「つまり、俺は、もはやアストラルでもなんでもなく、ごくごく普通の人間で、おまえは、死んだ娘に宿った、いつもの力を発揮できないでいるアトラ・ハシース。俺たちを助けるはずの世界樹ユグドラシルも、もはや二本しか残されておらず、ほかのアトラ・ハシースも、どこへ行ってしまったのかわからない。
しかもアトラ・ハシースをまとめるはずのラ・ピュセルを狙う、変態吸血鬼までが乱入している、というのが現状、というわけか」
「うん。簡単に言うなら、そうだ」
「対策はあるのか?」
「…いまの時点ではなんともいえないが、レティクルたちが、四散したアトラ・ハシースを、単体で攻撃しているのはたしかだ。
そして、手っ取り早く、浅野家を消滅させようとしている。浅野家はいま、この世界の臍だからな」
「一子とかいう娘は、どうしただろう」
「ああ、大丈夫だよ。ちゃんと家に帰った。ふむ、浅野家にはオーディンの結界が張られている。
これを破るのは、聖剣マスターでなければできまい」

孔明は、闇にまたたく宮町の向こうの、上杉の町並みを見つめている。
遠見の術で、一子が、無事に家にたどり着いたかを、確認したようだ。
一瞬、その瞳が金色になったが、またたきのあとに、ふたたび開いた目は、いつものように黒く澄んでいた。

「オーディンの結界、ということは、ヴァルキューレが張ったのだろうな」
「うむ、ヴァルキューレは呪われたけれど、まだ戦いを止めていない、ということだ。
しかし逆に言えば、これも問題だ。浅野家にはアトラ・ハシースが二人、付いていたはずなのに、その彼らの護りも、なくなっているようだな。気配が薄すぎる。
アトラ・ハシースは、今回、わたしやラ・ピュセルを含めて七人いたはず。残りの彼らがどこへ消えてしまったのか、これを捜すしかあるまい」
「諸葛孔明、陳寿、羅貫中、メアリ・スチュワート、聖ゲオルギウス、ケマル・アタチュルク、そして聖ジャンヌ・ダルク」
「東西を代表する賢者ばかりが集められたというのに、このざまだ。すべてのアトラ・ハシースの名にかけて、きっとこの世界は救わねばなるまい」

そうして、孔明はさいごに、ちらりと趙雲をみた。
「子龍、まずはあなたのその格好から、なんとかしなければなるまいな。それではタクシーも乗れないよ」

※このつづきは、「ずんだの章5」になります。余裕のある方は「おまけ」へドウゾ。

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