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B
※このお話は、「ゆべしの章2」のつづきとなります。
「そうか」
アコは聞き分けのよいところを見せて、すぐに考えを切り替えた。
三つしか叶えられないという願いのうち、二つは容易に思い浮かべることができる。
ひとつは、自分を狙っているかもしれない殺人鬼から、守って欲しいということ。
もうひとつは、
「わたしの両親を生き返らせてほしい、というのは?」
趙子龍の顔が、如実に曇った。
アコはそれを見て、返事を聞かないうちにがっかりしてしまった。
アコの両親は、アコが中学生のときに、実家に行ってくる、といって車ででかけて、事故に遭い、それきりもどってこなかった。
当時は、父親の会社の人や、学校の先生がいい人ばかりであったので、なにかと面倒をみてくれて、やっていくことができたのだが、慌しさが過ぎてしまい、日常が完全にもどってくると、どうしようもない寂しさが、いまさらのようにこみ上げてくる。
両親さえいれば。
何度そう思ったことかしれない。
「無理ならいいんだ」
「待て、無理と決めつけるな。無理とはかぎらぬ」
と、趙子龍は、アコのことばを強く否定する。どうやらなかなか負けず嫌いらしい。
「俺はおまえの事情がわからぬ。すこし話してみろ」
そこでアコは、自分が両親を亡くしていること、そのために奨学生として千台ヨーコの母親が経営する学校に通っていること、生活費をかせぐために仙台駅の駅ビル・エスパルの地下にあるゆべし屋のバイトをしていること、先日、その帰りに連続殺人犯を目撃してしまったこと、それをネタに、ヨーコが悪友たちと一緒に、アコの命がどこまでつづくかの賭けをしていることなどを教えた。
「ふむ、さきほどの娘の言葉の意味がわからなかったが、そういう事情があったのか。しかし、ひとつ助言をさせて貰いたいのだが、なぜおまえは、あの娘に、はっきりとおのれの意思を告げないのだ」
「言ったつもりだけど」
「伝わっておらぬ。本当に嫌がっているように聞こえぬのだ。おのれの決然たる意思を相手に伝えたいならば、しっかりと相手の目を見据え、腹の底から声を出せ。次は間違えるでないぞ」
「はい、すみません」
なんでいきなり、半透明人間に説教されているのだろう。
ふと、サラリーマンが、奇妙なものを見るような視線をアコに投げてくる。
そりゃそうだろうな、と思いつつ、愛想笑いで誤魔化したアコであるが、しかしサラリーマンは、趙子龍にはまったく目線を送らず、そのまま首をひねりつつ、行ってしまった。
「もしかして、あなたは、わたしにしか見えないの?」
「霊感がつよい人間ならば、俺の存在程度は感知できようが、はっきり見ることができるのは、おまえだけだ」
「へぇ、そういうものなのか。独り言を言っているように見えるんだね…ところで、あなたは幽霊でもないようだけれど、いったい何なの?」
すると鎧姿の半透明人間は、その質問を待っていたのか、傲然と胸を張って、こたえた。
「俺はこの世界に召還されたアストラル…霊体だ。幽霊は、いわばこの世に残留する魂魄の残像のようなもので、それ自体は思考することができず、同じ行為を反覆することしかできぬ。
それに対して、俺はアストラルなので、君らに干渉することもできるし、この世界の物質に触れることもできる。自分の思考で行動することも当然可能だ。
そうだな、アストラルとは精霊のようなもの、と思えばよかろう。俺たちのように、生きているあいだにそれなりの名を残した英雄と呼ばれる者は、のちに神格化されて崇拝されることがある。後世のひとびとの祈りの力が源となり、俺たちは霊体でありながら、人の形を取ることができるのだ。その代わり、汎世界を渡り、世界を守護する役目をになう」
「汎世界って、パラレルワールドみたいなもの? ちょっとずつちがう世界が平行して並んでいて、その連なりが宇宙を作っている、っていう、アレ?」
たとえばいま、アコは紺色に刺繍の入ったマフラーをしているが、隣に存在する世界では、黒いマフラーをしている。ほかはなにも代わりがない。
しかしさらに隣の世界では、黒いマフラーのうえに、耳当てをしている。
さらに隣の世界では、リュックを背負っている、というふうに、元の世界から離れれば離れるほど、最初のアコとの共通点は薄れていく。
いちばん遠い世界では、アコは少女どころか、少年であるかもしれない。
「霊格が高ければ高いほど、干渉できる世界が広がるそうだ。俺なぞは、たいして名を上げなかったので、召還されなければ、元の世界から移動することができぬ」
しかし何十億という生命がつづいてきた人の歴史のなかで、アストラルとして昇格した英雄だ、ということは、かなり名誉なことなのだろう。
それは、趙子龍が謙遜しつつも、どこか得意そうな様子から見て取れた。
「俺たち、って言っていたけれど、それって、あなたと、あなたを呼んだ人のことでしょう? その人はどこへ行ってしまったの?」
アコが尋ねると、趙子龍は、肩をすくめて言った。
「誘導尋問がうまいな。しかし先ほど述べたとおりの理由で、詳しいことを教えることはできない。言えるのは、そいつならば、おまえがさっき言った、両親を生き返らせて欲しい、という願いを叶えることが可能かもしれない、ということだ」
「本当?」
ぱっと顔を輝かせたアコに、子龍は笑みを見せた。人の期待にこたえることに、満足をおぼえる性格のようであった。
しかし、その笑みもほんの一瞬で、花火のようにすぐに消えた。
「だが、そいつがどこにいるのかがわからぬ。あれがいないと俺もここにいる意味がないのだが、しかし気配だけは感じる。あれはまだ、この世界に留まっているのだ。おそらく、なんらかの力が働き、自分が自分であることを忘れているのではないか」
「記憶喪失ってこと?」
「おそらくな。妙に楽観的な男だから、あわてず騒がず、ゆっくり過ごしているのだろう」
「向こうもあなたを捜しているかもしれないよ?」
「忘れている、に百円を賭けてもいい。あいつのことだ。未知なる世界に夢中になって、あちこち飛び回っている可能性の方が高い」
「名前は?」
「諸葛孔明」
「あ、土井晩翠の詩の人でしょ?」
詩人・土井晩翠の自宅は、仙台市内で観光客に開放されている。
とくに特徴のある家ではないのだが、こじんまりした様子が、古きよき時代の詩人の暮らしを髣髴とさせる建物だ。
無料、ということもあり、アコは何度かそこに足を運んだことがある。
展示された色紙のなかに、蜀の丞相・諸葛孔明の最期を歌った「秋風五丈原」という詩があったのだ。
その美麗かつ勇壮な字句が気に入って、おぼえていたのである。
「知っているのか。そうか」
と、子龍は、まるで自分が認められたかのように、うれしそうな顔を見せた。
「じゃあ、わたしのひとつめの願いは、『諸葛孔明を捜して、両親を生き返らせて』」
「うむ、俺の目的とも合致している。実に理想的な願いだ。ほかのふたつはどうだ?」
「ふたつめは、『わたしを殺人鬼から守って』」
人の良いアストラルは、それを聞いて、気遣わしげに眉をひそめた。
「うむ、物騒な願いだが、まあよかろう。しかし攻撃は最大の防御なり、ともいう。先にそいつを見つけ出し、警察に引き出す、というのも手だぞ。そいつはどこにいる?」
アコは首を横に振った。それを知っていたら、平塚八兵衛に教えているし、こんな怯えた生活はしていない。
「でも、捜そうと思えば捜せると思う。西洋人なの。金髪の巻き毛で、長さは肩まで伸ばしている。背が高いけれど、あなたより低いかな。目の色はわからなかったけれど、目つきが蛇みたいな人。顔立ちはちょっと優しそうなの。で、手に鎌を持っていたよ」
趙子龍はしばらく黙っていた。どうやらアコの話を整理して、自分の中でその男の像を考えているようであった。
「たしかに、この島国の東北の町で、金髪の西洋人、というのは目立つかもしれぬ。だが、おかしな話ではないか。それほど目立つ男を、刑吏が追いきれないでいる、というのだからな」
「在仙の外国人って、けっこういるんだって。わたしの隣の家の人もトルコ人だもの」
「少年ばかりを襲う殺人鬼、か…」
考え込んでいた子龍は、ふと愁眉をひらき、それから周囲の、静まりかえった空間をきびしく見渡した。
「視線を感じる。だれかいるな」
「ヨーコたちが戻ってきたのかも」
「そんな生易しい気配ではないぞ。俺から離れるな」
アコは肯き、趙子龍は、顔をきびしくして、周囲に目を凝らした。
寒風が吹き、コンビニの空き袋が、がさがさと音をたてて飛んでいく。
徐々に車の量も減り、地下鉄五橋駅の周囲にあるビルの明かりも、さきほどより減った。
「Bonsoir!」
不意にかけられたフランス語に、アコは身を強ばらせる。
かつん、かつんと、アスファルトを蹴る革靴の音が響き、姿をあらわしたのは、ケーキの箱を片手に、いつもながらの晴れやかな笑みを見せる、隣人のムスタファ・華丸であった。
「やあ、マドモワゼル! フランス菓子を買ってきたので、ちょいとばかり、おフランスを気取ってみたのだよ。いま、仕事の帰りなのかね? 勤勉は美徳なり。けっこう、けっこう」
明るく大口をあけて笑う華丸であるが、雄牛のような力強い顔を、ふとしかめて、見えざるアストラルのいる方向に目をやる。
「む? なんであろうか。きみの隣に、だれかいるような錯覚をおぼえるのだが」
アコはひやりとしつつ、答えた。
「気のせいじゃないのかな。さっきまで、友だちと一緒だったから」
「そうか、例の事件のこともある。君は一人にならないほうがいい。ときに、警察はどうしたのだね。きみの護衛をするのではなかったか」
「それが…」
と、アコはヨーコの話をした。話をしながら、となりの、渋い顔をして華丸をにらむようにしてみている趙子龍に目を遣る。
その顔には、あきらかに『なんだかしらぬが気に食わぬ』とあった。
華丸のほうは、顔をトマトのように真っ赤にして、怒り出した。
「なんたる横暴! 斯様な女狐は、早急に痛い目にあわせて遣らねばならぬ! アコ、その娘の家を教えたまえ。仲間をあつめて、話をつけにいく」
「話って、どんな話? っていうか、そんなことしたら、華丸さん、捕まっちゃうよ。ヨーコのお父さん、警察の偉い人なんだから」
「ふん、ますますもって気に食わぬ。官憲の威を借りて、あろうことか、人ひとりの命を賭けの対象にするような、破廉恥な女を見過ごすわけにはいかぬ」
「いや、まったくだ。その点は賛同する」
と、アストラルがつぶやく。と、華丸はまたも太い眉をしかめて、きょろきょろと周囲を見回した。
「疲れているのだろうか。いま、男の声が聞こえたような」
「気のせいだよ!」
「ふむ…たしかに今日は、仙台中を駆けずりまわったからな。顔も名前もわからないドイツ女を捜して東奔西走だ。ははは、どうだね、余は四字熟語を使いこなせるほどに、日本語が上達したぞ」
「うん、本当に上手になったよ。東奔西走なんて言葉、いまの日本人だって滅多に使わないもの」
「む、それはそれで、使いこなしたことにならないのでは? 日本語は変化が激しくて、むずかしいものだな。どうだね、そのあたり、このフランス菓子を食べながら、余の部屋で語り合わないかね。もちろん、イスメトも一緒だ」
華丸はいたって紳士的な性格で、アコを女性としてではなく、面倒を見なければならない隣の女の子、というふうに見ていることは知っていたので、承諾してもよかったのだが、隣では、趙子龍が烈火のごとく怒り狂って怒鳴っていた。
「なんだと? いま何時だと思っているのだ、この破廉恥な土耳古人めが! 未婚の婦女子を菓子で釣って、自宅に連れ込もうなど、断じて許さぬ!」
「どうだね?」
フランス菓子には強烈に惹かれるが…
「断れ!」
となりにいる半透明の中国人が、なにをするかわからなかったので、アコはしぶしぶ断った。
「ごめんなさい。これから、宿題をしなければならないから」
「おおそうか、君が学生であったことを忘れていたよ。それでは、またの機会にしよう。さて、ではわが家に帰るとするか」
と、女好きのプレイボーイらしい自然な仕草で、華丸はアコの腰に手を回す。
が、とたんに、悲鳴をあげて手を引っ込めた。
「なんだ? 誰かが余の手をつねったような!」
見ると、子龍が虎のように顔を険しくして、いつの間に出したのか、槍をかまえて立っていた。
「ちょっと、やりすぎだよ!」
「黙れ、お前は無防備にすぎる! 男は、ふとした瞬間に理性がはじけて、とんでもない行動に及ぶことが多々あるのだ。まして未婚の娘が、たやすく男に体を触れさせてはならぬ!」
「あなただって、男じゃない」
「俺はアストラルだ。受肉した状態で具現化できるアトラ・ハシースとはちがう。おそらくおまえにとって、いちばん安全な『男』だ。だから言う。その土耳古人から離れろ、奴はなにかを狙っているぞ!」
「そんなこと、ないって」
「ん? アコ、いったいだれと喋っているのかね? メールでも届いたのかい?」
「え? まあ、そんなもの。華丸さん、ごめんね、ちょっと急ぐから、先に行かないと」
ぽかんとする華丸を置いて、アコは五橋公園をつっきって、自分のマンションへと走っていった。このままだと華丸の身があぶないからだ。
隣で、足音も立てずに飛ぶように付いてくる子龍が言う。
「それでよい!」
「よくないよ! ただでさえ、友だちが少ないのに、減ったらどうしてくれるの!」
「男女間の友情など幻想だ」
「わたしは、あなたのことをよく知らないけれど、過去になにかあったの? なんだか潔癖に過ぎる気がするのだけど」
「詮索無用」
「ああ、そう…」
明日図書室で調べればわかるか、と思いつつ、アコはエスカレーターに乗って、憮然とするアストラルをちらりと見た。
そういえば、自分が一人暮らしだということをまだ言っていないなあ、どうするつもりだろう、と思いつつ。
あさってには帰ってくる。
そう言って、両親は車で出かけた。
金曜日の夕方のことだった。アコが学校から帰ってくると、両親は、あわただしく泊まりの荷物をまとめていた。
お父さんの出張用のボストンバックに下着を詰めて、お母さんが、作りおきのカレーをチンして食べなさい、と言った。
父の実家に、アコは行ったことがない。
そもそも、生まれてこの方、両親が親戚づきあいをしているところさえ見たことがなかった。
年賀状も届くのはいつも会社関係ばかりで、同姓の差出人のものは一枚もなかった。
なにがあったの?
そう尋ねても、両親は忙しいから、帰ったらね、といって、答えなかった。
場所もよくわからない実家の、顔も見たことのない親戚は、どうしてもイメージすることができなかったので、両親がばたばたしているのを見て、アコは不吉な印象を受けたものである。
これから日も暮れようというのに、出かけなければならない、ということ、それに加えて、荷造りする両親をまるで観察するように、ベランダに烏が一羽、止まっていたのが余計にそう思えたのかもしれなかった。
両親は、あわただしく出て行き、アコはマンションの廊下から、北へ向かう車を見送った。
それが最期となった。
のんびりDVDを鑑賞していたアコのもとに、電話が入った。
事故だった、親戚はみんな死んでしまった。そう語った。
お父さんの会社の人、お母さんのパート仲間がやってきて、あれこれ面倒を見てくれた。
葬式も、彼らが話し合って、アコに負担がかからない形で執り行ってくれた。
その段になっても、アコの親戚は姿をあらわさず、死んだという親戚の葬式が、どこで行われているのかもわからなかった。
そもそも、アコに事故の電話をかけてきたのは、警察ではなかった。
逆に、電話におどろいたアコが、マンションの管理人に相談をして、管理人が警察に問い合わせて、事実がわかった、というほどだったのだ。
葬儀は問題なく執り行われた。
出棺のとき、ちいさな葬儀場に入りきらないほどの参列者をみて、お父さんの会社の人が、
「どれだけ地位が上がったとか、お金を稼いだとかじゃないね。死んだときに、どれだけたくさんの人に悲しんでもらえるかが、人の価値だよ。お父さんもお母さんも、みんなに愛された人たちだったんだよ、誇りに思いなさい」
そう言ったのを聞いて、アコは、ようやく両親が、この世からいなくなってしまったことを実感した。
それでも、いつか帰ってくる。ひょっこり玄関を開けて戻ってくる。
そんな幻想に、数ヶ月のあいだは縛られていた。
お父さんの会社の人がよい弁護士を見つけてくれて、財務関係を整理してくれた。アコの進学先として、千台栄華学院をすすめてくれたのも、その人だ。
アコのマンションは、建築年数がかなり経っていたが、市営地下鉄五橋駅から近いこと、仙台駅へも歩いて行くことが可能なこともあり、売ればそれなりの財産になる、と勧められたが、アコはそれには同意しなかった。
古ぼけたマンションであるが、生まれ育った場所であり、両親との思い出がいちばん詰まっている場所だからである。
売れば千台家の奨学金なんか当てにしなくていいだろうし、ヨーコに威張られることもないだろう。念願の大学にだって、いけるかもしれない。
それでもアコは、マンションにこだわりつづけた。
もしかしたら、こんな日が来ることを、予感していたのかもしれない。
諸葛孔明という人物…アトラ・ハシース…? ともかくその人を見つけて、両親を生き返らせてもらう。
そんなことが現実にできるのだろうか。
しかし、現実に目の前にあらわれた、非現実的な霊体が、できる、といっているのだから、逆に信じても、よいのではないか?
アコの就寝前の習慣として、両親がもしも生きていたら、どんな明日になるだろう、と空想をして眠るのであるが、その日は空想力がはたらかなかった。
願いが叶えられたら、空想は現実となる。
助けられた、と霊体はいうが、その場に居合わせた、というだけで、たいしたことはしてない。それなのに、見返りが大きすぎることに、恐ろしさもおぼえる。
悪魔に三つの願いを叶えてもらった男は、魂を悪魔に渡さなければならない。
しかしアコは、自分の命と引き換えにしても、家族を取り戻したかった。
ふと、ベランダのほうを見る。
厚く閉め切ったカーテンの向こうに、アコが一人暮らしと聞くや、みずから外に出て行った霊体がいる。
アコはベッドから脱け出すと、そっと窓を開いて、風のつよいベランダで、枯れかけたアロエの鉢植えのとなりで、悄然と遠くをながめ遣るアストラルに、声をかけた。
「寒くないの?」
「霊体だからな。風邪をひくことはない」
と、趙子龍はアコに目を向けて、それから眉をしかめて、さっ、と顔をそむけた。
「そのような寝巻きで、男の前に現れるのは、感心せぬ」
『そのような』と形容される寝巻きは、ごくごくふつうの、厚手の上下のパジャマである。動物のアップリケのついている、むしろ高校生のものにしては幼いデザインだ。
実はお母さんに買ってもらったパジャマをずっと愛用しているのだが、道徳にうるさいアストラルには、刺激的に感じるらしい。
お国こそちがうが、性に関することが、表から徹底的に排除されたヴィクトリア朝では、テーブルの足が性行為を想像させるとの理由から、テーブルクロスをかけるのが一般にひろまったという。
いささか滑稽ささえおぼえる、過剰な反応だ。ヴィクトリア朝の逸話を思い出しつつ、アコは、憮然と腕を組み、顔をそらしつづけるアストラルを見た。
なんだか窮屈そうな人生(?)を送っている。いまどき、パジャマ姿ごときで、ぎゃあぎゃあ言う男性がいるだろうか?
とはいえ、霊体には霊体の道徳の基準があるのだろう。
「着替えてこようか?」
「面倒だろう。それはよい。次からは気をつけてくれ」
厳格すぎる、というわけでもない。
「あのね、用件なんだけれど、わたしの部屋に、鍵もちゃんと掛けるから、家の中に入ったら?」
「さきほども話したが、俺は未婚の婦女子と一つ屋根の下で、二人きりで過ごす、などという真似はできぬ」
「なんで? 矛盾しているよ。あなたはさっき、自分はアストラルだから、自分が一番安全な男だ、って言っていたじゃない」
「それはそれだ。よいか、これは名誉の問題なのだ」
と、趙子龍はアコのほうに顔を向けて、それからあわてて、また顔をそらした。面倒だなあ、と思いつつ、アコはベランダからの風に震えつつ、つづけた。
「あなたへの名誉、ってこと? アストラルの社会がどうなっているのかわからないけれど、だれかがわたしたちのことを観察していて、道徳から外れると、悪い評判が立つ、ってことなの?」
「アストラルに社会制度はない。俺たちは互いに干渉せず、ただ世界の法則にしたがって行動するのみ。世界の法則を守護するのがアトラ・ハシースたちだ。いわば、彼らは俺たちを守るために存在しているといってもいい。
話は逸れたが、付け加えるならば、気持ちの問題だ。あとでやつに会ったとき、いままでどうしていたのか、と問われて、答えに詰まるようなことはしたくない」
「なんだかわからないけれど、あなた以上に道徳とかに五月蠅い人なんだね。諸葛孔明っていう人は」
アコの言葉に、趙子龍は、む、と考え込むような仕草をみせた。
「いや、そのあたりの考え方は、妙に破天荒というか、柔軟な男だ。からかいはするだろうが、勘繰ることはないだろうな。洞察力という点にかけては、右に出る者がない」
「じゃあ、ぜんぜん問題がないわけでしょう? なにを気にしているの?」
「だから、気持ちの問題だ…」
うまく説明できないのが歯がゆいのか、アストラルは居心地がわるそうに体をそわそわさせる。
アコは、なんとなくだが、言いたいことが理解できた気がした。この人は、よほど召還者の諸葛孔明という人が好きなのだろう。
だから、少しでも悪く思われるのがつらいし、彼らの名誉を守って、義理立てをしたいにちがいない。
「わかった、しつこく言ってごめんなさい。でも、ベランダがいやになったら言ってね」
「野営は慣れている。それに、五感はあるが、受肉した状態ではないのだ。さっきも言ったが、夜風に当たったせいで風邪を引く、ということはないから、気にするな」
口うるさいうえに頑固なのはたしかだが、やはり悪い人ではなさそうだ。
アコはおやすみ、と挨拶をして、自分のベッドに戻った。
子龍はおやすみ、と返事をしてくれたものの、アコが部屋に戻るまで、律儀に顔をそむけたままだった。
『劉備が江南を平定した際、趙雲はそれに従って桂陽を攻め、桂陽太守の趙範と交替した。
趙範にはやもめの兄嫁がおり、これがたいへんな美女であった。趙範は趙雲と同郷であることから、これを気に入り、兄嫁を趙雲に縁付けようとしたものの、趙雲は、
『あなたとわたしは同姓で、しかも同郷というのならば、あなたとわたしは血族も同然。
あなたの兄嫁は、わたしの兄嫁も同然である』
といって固辞した。
のち、その話を聞いた者が、趙雲に、さらに趙範の兄嫁をすすめたところ、趙雲は、
『趙範は降伏したばかりで心のうちが知れない。それに、天下にはほかにも大勢女がいるのだ』
と、答えて、兄嫁を娶らなかった。
結局、趙範はのちに逃亡し、趙雲の慎重な態度が正しかったことが知れた』
「うーむ」
「なんだ」
アコは本から目を離すと、だれもいない図書室で、アコの斜め向かいの席に座って、腕を組んでいる、鎧姿で半透明の中国人を見た。
明るいところでよくよく見れば、冗談のように整った顔立ちをした男である。顔立ちもさながら、体つきも均整が取れていて、無駄がない。
鎧姿ではなく、現代人の服を着せても、十分に通用するだろう。
「もてたでしょ?」
アコの突然の言葉に、趙子龍はあきれたように眉を開いた。
「いきなり、なんだ」
「もてる人の言葉だよね。『天下にはほかにも大勢女がいるのだ』って。不自由しないから、いいもん、ってことでしょ」
「たわけ。前後の文章をよく読むといい。単体で見ればよい女でも、周囲が胡散臭すぎる。だから娶らなかっただけのこと」
「じゃあ、『いい女だとは思うが、趙範が気に食わないからやめとく』って、ふつうに言えばよかったのに。『天下にはほかにも大勢女がいる』っていう言い回しはね、なーんか嫌味に感じるんだよなー。余裕があるというか」
「余裕なんぞなかった。だいたい、なんでやつと同じことを言う」
「ほう、同意見が多数?」
アコが意地悪くにんまり笑うと、趙子龍は虎のように唸った。
千台学院の図書室には、ほかにだれもいない。
アコは、登校しても、ヨーコはアコをかまおうとせず、むしろ避けている様子であった。
アコとしては拍子抜けであったが、ヨーコは昨日の怪異を言いふらすつもりもないらしく、奇妙なほどに静かな一日となった。
アコの命をめぐる賭けはどうなっているのかわからないが、続いているのはまちがいない。
たまに、ヨーコの悪友たちが、アコに意地悪な目線を向けてくるが、それが賭けが続いている証拠だろう。ヨーコとその取り巻きのことは、いまにはじまったことではない。
それに、今日は、すぐそばにアストラルの護衛がいるので、いつもより安心していることができた。
それに、学校内で、気兼ねなしにだれかと話ができる、というのは、本当にひさしぶりであった。相手は半透明だけれども、アコの言葉に、ひとつひとつ真面目に答えてくれる。
その返ってくる言葉が、いちいちうれしい。
もしも常日頃のアコを知る人が、その様子を見たら、いつもはもの静かなアコが、幼女のようにはしゃいでいるのを見て、おどろいたことだろう。
そこにはいつもの大人びた空想好きの少女はおらず、ごくごくふつうの、年相応の明るい笑顔をみせる、健康的な少女の姿があった。
「まったく、ちょっとした言葉のアヤだろうが。それがなんだって、二千年ちかく経ったいまでも、からかわれることになるのだ」
「わたしは昔の中国のことはよく知らないけれど、奥さんって、いまのアラブのお金持ちみたいに、第一夫人、第二夫人っていうふうに、たくさんいたんでしょう? どれくらいいたの?」
「それを聞いてどうする」
「ちょっとした興味だよ。どんなふうだったのかなぁ、って」
「あえて答えないでおく」
「十人くらい?」
「人を好き者のように言うな! いなかった!」
「いない? なんでまた?」
アコが身を乗り出したのを、趙子龍は迷惑そうにしながら、軽くため息をついた。
「おまえ、ほんとうに聞きたがりだな」
「でも、いない、っていうの、納得できるかな。あなたって、女の人に厳しいでしょう? なんというか、崇拝しているからこそ、見る目が厳しい、というか」
趙子龍は、すこし考えるようにしてから、アコを見た。
「そういう見解を示したのは、おまえだけだな。やつは俺が女を怖がっている、と言った」
「それじゃあ、わたしが怖い?」
「そうだな、化け物のように恐ろしい、というのではなく、目を離すと、ふとした瞬間に、死んでいそうで怖い。そういう怖さはある」
「そんな簡単に死なないよ。せめて五十までは生きるんだから。ところで、子龍さんって」
「今度はなんだ」
「ピクミンみたいだね」
「…それは新種の栄養素か?」
ちがう、とアコは答えて、ノートにピクミンのイラストを書き、ついでにピクミンの歌を唄って聞かせた。
すると趙子龍は、なんともいえない、いやーな顔をしてアコを見た。
「なんだ、それは。しまいには『食べられる』のか、俺は」
「だって、この趙雲伝って、はじまったと思ったら、あっというまに死んでるんだもん」
「それは字数制限やら、なにやらの事情があったからだろうが! 陳寿がそういうふうに、あれこれはしょって書いただけで、俺の人生は、そのピクミンとやらのように、儚げなものではない! 第一、俺は増えもしないし、食べられもしない」
が、その言葉も、最後のほうになると、どんどんしぼんでいった。
なにか、途中で、それに類する記憶を甦らせたらしい。
「そうだとも」
声を荒げてはいるものの、どちらかといえば、アコの軽口に余裕をもって、わざとからかわれている、というふうだった趙子龍の様子が、とたんに暗いものになった。
「どうしたの?」
「いや、陳寿で思い出したのだが、k杉山小学校で、白い犬に会ったのだ。失念していたが、奴はどうしただろう。ちゃんと丞相に会えたのだろうか」
丞相、の単語を聞いて、アコはぱらぱらとページを遡り、趙雲伝とはうってかわって、かなり長大な諸葛亮伝をちらりと見た。
読む気が失せるほどの長さである。
「なんだかわからないけれど、早く諸葛孔明に会えるといいね」
「まったくだ。いったい、どこへ行ってしまったのか…あれほどの者が、これほど気配が薄くなるとはな。もしかすると、何者かの結界に封じ込められて、出られないでいるのかもしれない」
「うーん。よくわかんないけど、陰陽師とか?」
「丞相は北斗の化身だぞ。生身の陰陽師ごときに、たやすく封じることなどできるものか。だが」
「だが?」
と、趙子龍はことばを切って、アコをちらりと見た。
「昨日から思っていたが、おまえはずいぶん聞きたがりだな。好奇心は身を滅ぼすもとだぞ」
「だって、目の前に半透明の人がいるんだよ。その人が三つの願いを叶えてくれるって言ってるんだよ。好奇心をもたないほうが、どうかしているでしょう?」
「気のせいか、昨日から、十年分くらい喋っている気がする」
「情報を制するものは世界を制す、だよ。そんなこと言うなら、三つ目の願いを言うよ。この状況を一瞬で完璧に教えて! どう?」
すると、それまで、いやいやながらも子供を相手にしている、といわんばかりの態度であった趙子龍は、威儀をただして、アコを真正面から見た。
「莫迦者」
「はい?」
「短気をおこして、くだらぬことに願いを使うな。答えられることには、ふつうに答えてやる。二つ目までは正式に受理した。
だが、いまのは無効、ということにしておくからな。三つ目に関しては、もっと熟慮してから言うがいい。まあ、俺も調子にのって軽口が過ぎたが」
アコは戸惑いと共にアストラルを見た。
「ありがとう、助かるけれど…早く願いを叶えて、自由になって、召還者を捜しに行きたい、とか思わないの?」
「ふむ、誤解があるようだな。契約の時に言わなかったか? 俺はあくまでこの世界にとっては『異物』なのだ。三つの願いという束縛によって、かろうじて世界に招かれている客である、ということだ。
三つの願いが果たされれば、俺はまた『異物』に戻ってしまう。一つ目の願いがあるから、召還者と再会さえできれば問題がないが、いまの状況では、三つ目の願いが残されているほうがありがたい」
「思ったんだけれど、三つ目の願いが、『あと百個の願いを叶えて』だといけないの?」
「願いの追加をしてもよいが、俺の霊力の貯蔵量にも限界がある。三つが最適なんだ。それ以上は負担がかかりすぎる」
「負担がかかりすぎると、どうなってしまうの?」
アコの問いに、趙子龍はどこか苦い笑いを見せた。
「消滅する。霊力には、もとに戻るための力も必要だ。召還者に還されるのであれば問題がないが、いまの状況で霊力が尽きたら、もとに戻ることができないまま、この世界で消滅するだろう」
「それって、死ぬ、っていうこと?」
「いささか語弊があるが、まあ、そういうことだ。アストラルは霊体だが、不死不滅の存在ではない。霊力が行動の源となる。
アトラ・ハシースのように、自然界から無尽蔵に霊力を取り入れることができる存在ではない。これが尽きてしまえば、人のように消滅…そうだな、死ぬのだ」
「そうなのか…」
肉体を持たない生き物、と考えればよいのか。幽霊ともちがう、過去の英雄の魂が、進化したもの。それがアストラル?
「じゃあ、三つ目の願いは、あんまりあなたの負担をかけない方向で考えるよ」
それを聞くと、趙子龍は、はじめて声を立てて笑った。
「気遣いは無用だ。最初の願いである『諸葛孔明を見つけ、両親を甦らせる』が達成されれば、問題はなくなる。
とにもかくにも、奴を見つけることが先決だ。それと、連続殺人鬼か。あれから進展はないようだな」
「うん、昨日は犠牲者がいなかったって、TVでやっていたね」
「安心しろ、いまのところ、おまえの周囲に妖しい気配は感じない。俺が死ぬこともあると聞いて、不安に思うこともあるだろうが、ただの人間に対しては、アストラルは無敵だ」
アコは大きく肯いた。
「信用する」
「よろしい…と、喋りすぎたかな」
趙子龍の目線が、アコの肩越しに本棚のほうを見る。
視線につられて振り返ると、そこに、蒼ざめた顔をした一子が立っていた。
「あ、あの、最上さん、大丈夫?」
「え? 大丈夫だよ?」
と、答えてから、アコは一子の顔が蒼ざめている理由を理解した。
アストラルは他人には見えない。
一子から見れば、アコはひとりで笑ったり、ぶつぶつ独り言を言ったりしているように見えたのだ。
ヨーコの品のない賭けの話しは全校中に知れ渡っており、一子からすれば、アコがそのためにとうとうノイローゼになったのかと思ったのだろう。
「あの、本当に大丈夫だから」
「本当に? あの、あたしじゃ役に立たないかもしれないけれど、なにかあったら…その」
と、一子は、指先をヘソのあたりで組んで、左右の指同士をもしゃもしゃとせわしなく動かしながら、アコと目を合わせずに、うつむきかげんに言った。
「話とか、聞くくらいなら、できると思うから」
一子の言葉に、アコは素直に感激した。
学校では、アコはヨーコにいじめられている子分、ということになっている。ヨーコのメチャクチャさを嫌う生徒は多く、そのせいで、アコも敬遠されることがおおい。
そのなかで、どちらかといえば、あまり他者に関わりたがらない雰囲気のある一子が、そんなことを言ってくれたのが嬉しかった。
「うん、ありがとう。きっと相談するから」
「役に立ったら、だけど…うん、本当に」
一子は、会話を続けるか続けまいか、まよったようで、しばらく指先を蜘蛛の足のように動かしていたが、けっきょく、場が持たない、と判断したのか、それきり言葉を発せず、ぱっと飛び出すように出て行ってしまった。
あとに残された趙子龍は、アコに怪訝そうに言う。
「いまの娘は、おまえの友だちか?」
「友だちというか、クラスメートかな。浅野一子っていうの」
「変わった娘だな」
「でも、いい人だね。いままで、あんまり仲良くする機会もなかったけど、困っているときに、だれかが気にしてくれている、って思うだけでもうれしいな」
しかし趙子龍の表情は固く、一子が走り去った方向をじっと見つめて、つぶやいた。
「気のせいだとよいが…あの娘から、つよい気配を感じたのだ」
「なんの?」
しかしアコの問いに、趙子龍は答えなかった。
このつづきは、「ずんだの章3」になります。