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※このお話は、「仙台ゴールデンポークスの章2」のつづきとなります。
「映画『サイコ』のモデルともなったアメリカ最悪の連続殺人鬼、エド・ゲインの収容されている監獄を訪問した牧師は、つめかけた群集に、その印象について、こう答えた。
『彼はもしかしたら、多くの死に触れたので、わたしたちよりも、天国に近いところにいるのかもしれない」と。』
そのくだりに触れたとき、アコの脳裏には、まざまざと昨夜の光景が浮かんだ。
街灯を煌々と浴びて、その男は血まみれの姿を隠そうともせずに、笑っていた。
凄絶な姿とはうらはらに、金色の髪でふちどられた顔のなかでも、もっとも印象を残す蒼い瞳は、似合わぬほどに澄明だった。
男はアコをしばらく見つめたあと、一生涯わすれることのできなさそうな、誘惑に成功した蛇のように狡猾な笑みを浮かべ、なにか言った。
ざんねんながら何語かはわからない。
でもはっきりと男はアコを見て、よろこびに類する言葉を言ったのだと思う。
隣人のトルコ青年がやってこなければ、アコも、柵すらない駐車場の4WDの車の物陰で、あわれな惨殺体で発見されたかもしれなかった。
腕時計をみると、もう三時半になろうとしている。
護衛の警察が、学校にいるアコをむかえにやってくる時間だ。
本をしまって図書室を出ようとすると、本棚のあいだから、図書委員の浅野一子が、立ちふさがるようにしてあらわれた。
一子はアコの同級生であるが、おなじクラス内でも、なかよしグループ以外の子とは、あまり話をしないタイプの少女であった。文系の科目の成績は抜群によく、図書委員と文芸部の活動を両方とりしきっている。
この千台栄華学院は、市内随一といわれるほどの蔵書率をほこるにもかかわらず、利用する生徒数がすくないことでも有名であった。
たまに、外部からの閲覧者がやってくるが、それとて、理事長の承認がないと、学院内に入れない、という厳重ふりであり、せっかくの知識が、棚のなかでまちぼうけをくらっている状態なのだ。
アコは、ヨーコとその取り巻きにつかまりたくないときは、図書室に逃げて読書をすることにしていた。図書室は、ヨーコらがなぜか入りたがらない領域であり、それはおそらく、浅野一子の影響力も大きいのだろう。
浅野一子は表情のすくない、こけしをおもわせる日本的な顔立ちの少女である。
いつもは冷静沈着なのであるが、その日はちがった。
「最上さん、先に言っておこうと思うのだけど」
と、一子は緊張で、顔を真っ赤にしながら言った。
「わたしは、あいつらの賭けには、噛んでないからね」
「賭け?」
アコが鸚鵡返しにすると、一子は、
「それだけ言いたかったから」
と言って、図書室から出て行ってしまった。
ぽかんとしていると、図書室の扉が開いて、千台ヨーコが入ってきた。
一歩足を踏み入れて、それから振り返って覗き込むようにして、一子が立ち去ったのをはっきり確認してから、ヨーコはアコの方にやってきた。
「アコ、宿題はやっておいてくれたぁ?」
「そんな時間ないよ。今日は、刑事さんたちが迎えにきてくれるから、もう帰らないと」
ヨーコは、校則を完全に無視して名古屋巻きにした髪を、さらに指先で転がしつつ、アコの言葉を鼻でわらった。
「ああ、刑事ね。それ、こないから」
「こない? だって」
「あたしの親父さ、警察のエライ人だ、って知ってるでしょ? アコに護衛をつける、っていう話、なしにしてもらったんだ」
「なんで? わたしは犯人の顔をしっかり見てしまったし、相手だってわたしの顔を見たんだから」
ヨーコは、いかにも同情する、というふうに、うんうん、と肯いた。
「怖いよねー、目撃者を消しにくるかもねー。でさあ、あたしたち、賭けをやってるの。アコが、あと何日生きられるか」
今度こそ、アコはあんぐりと口を開けた。ヨーコの馬鹿っぷりには、ほとんど免疫ができていたはずだが、今回は対応できずに、頭が真っ白になった。
「護衛とかいると、邪魔じゃん? だから、アコにはいつもどおりに生活してもらって、殺人鬼がいつごろやってくるか、待っててもらうワケ」
「…ねぇ、本物の人間って、死んだら、ゲームみたいに復活できない、って知ってる?」
「なに言ってんの、アンタ。あたしがそこまで馬鹿だと思う?」
もっと馬鹿だと思っている。
「というわけでぇ、アコはあたしの宿題をやってから、ゆべし屋のバイトに行って、家に帰る。ま、フツーの生活をしてほしいわけ。でもさ、あたしだって心配してるんだからね。やばくなったら、携帯に電話してみて。出れたら出るから」
もし携帯を架けられる状態ならば、絶対にヨーコには架けないだろう、とアコは思った。
アコは、ゆうべのことを、もう一度、思い出してみる。
アコは男の姿を見て、完全にすくんでしまった。
男のほうも、あいかわらず意味深長な笑みを浮かべたままで、動こうとしない。
そこへマンションから駆け下りてきたケマルがやってきて、アコを庇うように立ちふさがった。
すると男は、興ざめした、とでもいわんばかりに舌打ちをすると、ゆらりとゆらめいて、蜃気楼のように消えた。
アコとケマルは、それから警察の事情聴取を何時間も受けたのだが、やはり同じことしか答えられなかった。
『血まみれの男は、煙のように消えた』と。
とくに平塚八兵衛という、強面にくわえてガタイの立派な、いかにも刑事然とした刑事は、そんなことがあるはずがない、気絶していたのか、それとも混乱を起こしていたので、走り去るところを見失っただけではないのか、としつこく食い下がってきたが、それでもやはり、おなじことばしか返せないでいた。
仙台の連続男子殺人事件は、これでなんと14件目になる。
被害者男子の年齢は8歳から16歳にかけて。
いずれも成長期の途上にある、線の細い中性的な風貌をもつ少年たちがねらわれており、殺害方法は陰惨きわまりなく、まず首を絞め、性的暴行をくわえたあと、さらに首を絞め、とどめとして鎌のような刃物で首を掻き切る、というもの。
事件を混乱させているのは、被害者の男子が、いずれも家出少年であったり、あるいはまったくの身元不明者であったり、という点である。14件の被害者のうち、いまだに家族からの照会がない、るいは、全国の失踪者のデータベースと合致しないものが、なんと7件、つまり、半数もいる。
身元が判明している少年たちも、当初は、ふつうの少年が、通りすがりに加害者と出会ってしまったため、不運にも事件に巻き込まれたもの、と考えられていたのだが、調査がすすむにつれ、裏の顔があきらかになってきた。
推定犯行時間は、いずれも22時から2時のあいだで、犯行現場は、いずれも仙台の青葉区を中心とした市街地。0時を過ぎても人通りの絶えない不夜城での凶行なのだ。
加害者はともかく、十歳前後の少年たちまでもが、そんな深夜に、なぜ繁華街にいたのか。
被害者は、いずれも親の見覚えのないプリペイド式の携帯電話を所持しており、その通信記録から、被害者の交友範囲内には存在しない携帯電話から、最後の着信があることが判明している。
犯人は、どうやら被害者に向けて、それぞれに携帯の機種や番号を変えて、連絡をとって、呼び出して、犯行に及んでいるようなのだ。
親すら知らなかった携帯の存在を知り、彼らを呼び出しているナゾの犯人。
「被害者は、会員制の売春倶楽部の男娼だった。いわゆる、デリバリーヘルスではたらいていたんだ。親には内緒でな」
八兵衛のことばを聞いて、アコは、あまり驚かない自分に、まず驚いた。
となりでは、アコを心配して、事情聴取は絶対に一緒に受ける、と言い張ったケマルがいて、なにか聖句をつぶやいて、首を振った。
「彼らは塾に行くと偽って家を出て、仕事をしてから、帰宅していたらしい。実際に、親は塾への申し込みをしているんだ。塾のほうでは、それからしばらくして、父親と名乗る男から、解約したいと連絡があったと主張している。それぞれの塾に、解約を申し出てきた男の特徴を聞いたところ、みな合致しているんだ。
つまり、少年たちを所属させていた組織というのは、緻密なカモフラージュをして少年たちを働かせることができるほど大きな組織、ということだ。身元不明者も、おそらくこの組織となんらかの関わりがあるように思える。いくところがない少年に目をつけて、働かせていたのかもしれないな」
「ひどい話ですね」
アコが言うと、八兵衛は大きくうなずいた。
「まったくだ。だが、残念なことに、この組織の正体は、いまだにつかめていない。ふつう、所属していた人間が14人も殺されていなくなってしまったら、なんらかの方法で警察に保護を求めてくるものなんだが、その気配もない。殺人者は、この組織の強い匿名性を知っていて、それを利用して殺人を繰り返しているのかもしれないんだ」
ここで八兵衛は言葉を切り、アコをじっと見た。
アコは着替えもできなければ、荷物を家に置くこともできずに、現場ですぐにパトカーによって護送されて警察署へやってきていた。
アコは厚手のダウンジャケットにマフラー、細身のジーンズという出で立ちである。髪はダウンジャケットの襟元についていたフェイクファーに隠れて長さがよく見えない。
アコの顔立ちは、ぱっと見ただけだと愛らしいものだが、家庭環境が影響して、大人びた雰囲気を漂わせている。そのあたりのアンバランスさが、かえってアコの中性的な印象をつよめていた。
「きみ、もしかしたら男の子に見えるかもな」
鋭敏なアコは、八兵衛の言わんとすることにすぐぴんときて、背筋を震わせた。
「わたしを男の子だとまちがえて、犯人が襲ってくるかも、っていうことですか?」
「ありうる。犯人らしい人物の目撃情報は、信じられないことに、いままで皆無だった。ところが、きみは真正面から犯人の顔を見ている。くわえて、君を少年だと誤認したのであれば、君はヤツの好みにぴったりだ。しばらく護衛をつけよう。生活を少々犠牲にしてもらわなければならないが、死ぬよりはいいだろう?」
そうして、アコには護衛がつくはずだったのだ。
『ケマルさんの護衛の申し出を、断らなければよかったな』
万屋のケマルは、アコのボディーガードを言ってくれたのであるが、刑事さんの護衛があるからいらないと断っていた。いまから申し出て、間に合うだろうか。
長生きをしてやるのだ。ヨーコの賭けにのった連中に、一円たりとも稼がせてやるものか。
そう決意して、アコはバイトに励んだ。
往来のはげしいエスパルでのバイトは、かえって安心できた。こんな人目につくところで、殺人鬼は襲ってこないだろう。
そうしてエスパルの閉店時間が近づき、ゆべし屋も終業支度にはいっている。
アコのゆべし屋は家族経営の店で、代表取締役が職人をかねており、妻が営業、子供たちが販売店のきりもり、という形態だ。アコは真面目にはたらいたので、店から、高校生にしては大目のバイト代をもらっている。
「アコちゃん、クリスマス用の包装紙、なくなりそうだから、倉庫から持ってきてもらえる?」
と、店のおばさんから言われ、アコは、倉庫へと向かった。
エスパルの地下の食堂街は、現在、改装工事がおこなわれている。
地下に縦にひろがる長い長い食堂街は、入り口がすべて板でふさがれて、一般客は中に入れない。
アコは警備のおじさんに身分証がわりの名札入りバッチを見せると、スチールの扉をくぐって、改装工事真っ只中の食堂街を進んだ。
巨大なひらがなの「く」の字になっている食堂街は、道がまっすぐではないため、見通しが悪く、入り口から遠ければ遠いほど、客足が遠のくのが特徴だった。
アコのゆべし屋の倉庫というのは、引っ込んだところにある従業員用扉の奥の小部屋で、それぞれの店に割り振られた小スペースのことだ。
工事は騒音を立てないために、夜間もとおして行われるのであるが、その日、工事人の数はほとんどいなかった。
ぽつぽつと点けられた工事用ライトに、無造作にまるめられたビニールや、ぽつんとある脚立や汚れた軍手、ランプシェードの取り払われた裸電球、かつて置かれていた食堂用の椅子などが散乱しており、廃墟をおとずれたような錯覚さえおぼえた。
ここで普段のアコならば、あれこれ物語を想像し、ひとり遊びをするところであるが、いまはそんな余裕はない。
おぼえず、足早になるアコであるが、ふと、かつて中華料理屋のあった一角で、ランプが意味ありげに点滅を繰り返しているのに気づいた。
ランプが壊れているのだろうかと考えつつ、行き過ぎようとして、アコは、呼び止められたように足を止めた。
いや、実際に呼び止められたのかもしれなかった。
薄暗がりの、透明なビニールシートに梱包されたような形で、男がひとり、横たわっていた。
怪我をしているらしく、どす黒い血でよごれた肩を抑えたまま、青白い顔をして瞑目している。
なによりアコがおどろいたのは、その男が、どう見ても、歴史の教科書や連環画に登場するような、中国の武将の格好をしていたことであった。
アコは考えた。
仮説1・これはドラマの撮影である。
火曜サスペンス劇場「みちのく殺人紀行・祭囃子に七夕飾りが殺意をささやく! フルキャストスタジアムでさっそく事件発生。田尾監督も真っ青。グルメ探偵は事件を解決できるのか?」主演・船越英一郎。
しかし、カメラが回っている気配もなければ、ADが
「すみませーん、撮影中なんで、遠慮してくださーい」
と言ってくる気配もない。
仮説2・よくできた人形。
だがアコの仮説をすぐさま否定するように、人形は息をしていた。その身をくるむビニールが呼吸によって上下しているのだ。
仮説3・仮想パーティーですっかり出来上がった酔っ払いが、どういうわけか工事中のエスパル地下に入り込んだはいいが、なぜかはしらねど、怪我を負って、ここで、助けが来るのを待っている。
これが正解に近い…気がする。
アコはそっと歩をすすめ、倒れている男に近づいた。
どんな事情の人間にしろ、怪我を負っている事実にはちがいない。
例の事件の目撃者になったという経緯があるからか、妙に度胸がすわって、恐怖はなく、自分でもびっくりするくらいに冷静にものを考えていた。
いま、バイト中なので携帯電話は従業員用のロッカーの中だ。連絡を取るならば、内線電話がどこかにあったはずである。取り外されていなければ。
まず、救急車、それから警察。平塚八兵衛が名刺をくれたので、そこに直接電話をしよう。
とりあえず、怪我の程度はどれくらいなのか。
アコは「大丈夫ですか」と声をかけながら、そっと男を包むビニールをかきわける。
貸し衣裳にしては、ずいぶん精巧な鎧だ。芸術品のように作りこまれている。
とはいえゴテゴテときれいなだけなのではない。リアルなことに、よく見ると装飾かと思われた模様は、刀傷を受けた跡なのだ。こだわりの職人が、ここまで完璧に昔の鎧を再現した、というのか。
単なるコスプレでここまで作れるものだろうか。骨董品というほどに古さは感じられないが、素人目にも、この男のまとう鎧の価値の高さが、はっきりと分かる。
金持ちなのだろうか。金持ちで、怪我をして、死にかけている?
自分の想像力に自信のあったアコだが、男に関しては、ありきたりの想像しか、はたらかせられなかった。
がさりとビニールをかきわけ、浅い呼吸をつづける男の瞑目する相貌があらわになった。
寒かったので、こんなふうにビニールに包まっているのだろうか。なんとなく一昔前に流行したツインピークスを思い出しつつ、アコはさらに男の顔をのぞきこんだ。
うっすらと汗がにじんでいるのがわかる。
ふと、日本人ではないのでは、とアコは思った。
どこか大陸の人間を思わせる、彫りの深い顔をしている。
顎を中心とする骨格がどこかちがうのだ。それは言葉が違うことや、食生活のちがいなどもあるだろう。日本人にはない骨太さ、風韻の大きさを、風貌から感じ取れる。
顔色が悪い、そう思いながら、さらに顔をのぞきこんだアコは、顔色が悪い、どころではない、異常さに気が付いた。
この人、透けていないか?
ビニールに包まれているために、近づくまでわからなかったが、肉感はあるものの、その体を構成するのは、基本的に体をなぞる輪郭のばかりで、体の中心にいけばいくほど、色素は薄くなり、体をつきぬけて周囲のビニール袋がはっきり見える。
恐怖やおどろきよりも、好奇心につよく動かされ、アコは手を伸ばすと、男のからだに触れようとした。手が、肉体に吸い込まれて床に触れることができるのでは、と思ったのだ。
が、手を伸ばしたとたん、それまで瞑目していた男が、かっ、と目を開いた。
アコは、まるで悪いことをしたかのように、あわてて手を引っ込めた。
「ごめんなさい!」
思わずあやまるが、男は黙ったまま、うめきもせず、じっと目の前にいるアコを見つめている。
「いま、救急車を呼びます。痛みますか?」
「おまえは、この世界の住人か」
男のことばから出たのは、意外な言葉であった。
それに奇妙な感覚である。男はたしかに唇を動かしてふつうに言葉を発しているのだが、アコには、直接、音が脳内で響いたように感じられた。
「この世界の住人だな。ちがうか」
「ちがいません」
「すまぬな、この体を留めているので精一杯で、視界がぼやけている。おまえがこの世界の住人だというのならば、ありがたい。力を貸して欲しいのだ」
「救急車ですか?」
男は、そうではない、というふうに首を振った。
「見たとおり、俺はこの世界の人間ではない。この世界にとって、俺は招かれざる者なのだ。
だから世界が、俺を異物として、消去しようと力をかけてくる。俺を召還した人間がどこかへ行ってしまったのだから、仕方がない。あらたに何者かに招かれなければ、世界は、俺がここに留まることを許さぬのだ。
助けると思って、俺と契約してほしい。その代わりといってはなんだが、おまえの三つの願いをかなえよう」
アコの脳裏に、さまざまな童話のモチーフが浮かんでは消えた。
なんだろう、これは。自分は、とうとう夢想家を突破して、妄想家になってしまったのか?
「三つの願い?」
アコの問いに、半透明人間はうなずいた。よく見ると、俳優にだってなかなかいないような、整った顔をしている。透けているが。
「そうだ。それが俺をこの世界に繋ぎとめる錨となる。頼む、助けると思って、契約を結んでくれ」
「あなたは、悪魔かなにか?」
アコがいちばんに思い浮かべたのは、悪魔と人間が契約をかわす、『三つの願い』という古いヨーロッパの童話であった。悪魔が中国の武将というのは、新手のパターンだな、と思いつつ。
アコの言葉に、半透明人間は苦笑を浮かべる。
「俺は悪魔の類いではない。単に、招かれざる者、というだけだ。俺の名は趙子龍。俺の名を呼び、契約の言葉、『天が裂け、海が泡立つ日が来ぬかぎり、汝との契約は不可侵なり』と言うだけでいい。見返りなどなにも要求せぬから、安心してくれ」
「趙、子龍」
どこかで聞いたことがあるような名前だ。昔読んだ本だったっけ? 明日、図書室で調べよう、などとぼんやり考えながら、アコは吸い寄せられるかのように、その名を呼んでいた。
趙子龍は、そうだ、と答えるように、こくりと肯く。
「つづきを」
「天が裂け、海が泡立つ日が来ぬかぎり、汝との契約は不可侵なり」
呪文のようなその言葉を口にしたとたん、いまにも消えそうな蜃気楼のようであった趙子龍の体は、まばゆい青白い光に包まれた。
悪魔が、これほど美しい光を放つとは信じられなかったから、この半透明人間は、悪いものではなさそうだと判断したが、恐ろしいのにはちがいない。
趙子龍は上半身をゆっくり起き上がらせると、手をアコに伸ばしてきた。
「よろしい、我は汝に召還される。汝の名を」
手をつかめ、というのだろう。アコは引き寄せられるように、差し伸べられた手に、自分の手を伸ばした。そして、自分の名を告げる。
「最上アキラ子」
「よろしい、いまおまえは、最高の剣を手にした。俺は三つの願いをかなえるまで、おまえの守護者となろう」
まばゆい光の向こうから、そんな力強い声が聞こえた。
光はさらにすさまじい力を放つ。天狼星を間近でみることができたなら、きっとこれほど青白く、孤高な光を放つのだろう。
光に押し包まれるようにして、アコの意識は遠のいていった。
「ちょっと、大丈夫? 貧血なの?」
気が付くと、ビニールシートと脚立や軍手が散乱するなかで、アコは蹲っていた。
掃除のおばさんが、閉店後のエスパル地下を掃除するために、バケツとモップをもって、立っていた。顔見知りのおばさんだ。
「閉店時間まであと五分だから、もうちょっとがんばんなさいよ」
五分。
アコが、包装紙を取りに行くことを頼まれてから、ほとんど時間が変わっていない。
周囲を見回しても、ビニールシートのなかに血痕があるわけでもなし。ストレスが高じて、いよいよリアルな白昼夢(病的な妄想ともいうが)を見るようになってしまったのだろうか。
狐につままれた気分、というのはこういうことを言うにちがいない。
アコは混乱しつつも、倉庫へ包装紙を取りに行き、閉店の支度を手伝って、それから従業員専用出口より、外に出た。
着替えを終えたころには十時近くになっていた。
星空がけぶって見えない、仙台の空にむかって、はあっ、と大きく息を吐くと、白い息が大気にまざっていく。高層ホテルの合間から、月が煌々と輝いているのが見えた。
ポケットに手を入れて、アコは、コートになにかが入っているのに気が付いた。
取り出すと、指の爪ほどの大きさの紫水晶のカケラである。
パワーストーンの類いは、興味はあったけれど、実際に買ったことはなかったので、良し悪しはわからなかったが、きれいだったので、トクした、と思いつつ、ふたたびポケットに収めた。どこかで紛れ込んだのだろうか。
仙台市街は、東北一の歓楽街・国分町から離れると、東京や大阪などの大都会とちがって、とたんに静かになる。
都会にありがちな、闇に込められた人の気配がうすい。もちろん、ひったくりや親父狩りなどの犯罪は、それなりに発生するものの、男子連続殺人が発生するまで、仙台は陰惨な事件とはまったく無縁の、平和な都市であった。
アコのマンションのある五橋は、エスパルから歩いて十五分くらい。
四車線道路をまっすぐ道沿いにいけば見えてくる。歓楽街から遠いのと、若者がたまりやすい店が皆無というのもあり、夜の十時でも安全に歩ける道である。
残業を終えた会社員の姿がぽつりぽつりとあり、まったくひとりになる、ということもない。
駅の方角へむかうサラリーマンとすれ違うようにして、自宅へ向かうアコの前に、急に車が横付けされた。
「なーんだ、まだ生きてるじゃん!」
振り向くまでもない。アコは自分の気持ちを抑えるために大きく息をつくと、派手な紫色のスポーツカーを見た。また男がちがうなぁ、と思いながら。
「生きてるけど」
「だよねぇ。あんたさ、これから暇でしょ?」
千台ヨーコのファッションは年がら年中、テーマが夏である。
肌寒い夜だというのに肌の露出のはげしい服を着て、懸命に寄せて上げてできあがった胸の谷間を、さらにタトゥー(シールだったりする)で強調している。
ヨーコは胸がないことを気にしている。
いつだったか、女性誌の後半に、つらつらとつづく美容形成の宣伝のページを真剣にながめていた。豊胸手術はどれくらいかかるのか、毎日シリコンを揉んで、なじませないといけない、という話は本当なのか、代わりに電話て聞いてくれ、と言われたことがあるので、アコは、よくおぼえている。
「霊屋橋(おたまやばし)行って、花火やらない?」
「なんでまた」
ときどき、アコは、ヨーコが本気でアコを友だちだと認識しているのでは、と戸惑うことがある。
腹が立つことばかりのヨーコを、まったく無視できないでいるのは、ヨーコの気持ちを掴みかねているからではないのか。
「余命いくばくもない、あんたのために、パーティーしてやろうか、って話になってさあ。肝試しも兼ねて」
霊屋橋は仙台有数の心霊スポットだ。
「いま冬なんだけど」
「あんた知らないの? ヨーロッパじゃ、怪談は冬にやるもんなの」
ヨーコの「ヨーロッパじゃ」は、ヨーコの遊びに仲間のフランスの留学生・メアリから仕入れた受け売りである。
ヨーコは日本どころか、宮城県さえも出たことのない少女なのだ。長期旅行に出かけるとなると、なぜだかひどい腹痛で寝込む癖を持っている。
「というわけでぇ、早く乗って。あんたのために、わざわざ、そこのファミマでコアラのマーチを買ってきたんだからね」
「頼んでないし。コアラのマーチも特別好きじゃないもん」
「ああ、もう! ごちゃごちゃ行ってないで、乗るのっ!」
ヨーコが、スポーツカーを運転する男に合図すると、スポーツカーの後ろに止まっていたワゴン車から、いかにも遊んでいそうな少年たちが、わらわらと歩道に降りてきた。
彼らの顔つきをみたとき、ヨーコの思惑云々を通り越し、アコは、これはまずい、と思った。
ヨーコは遊び人たちから見れば、ていのよいカモである。
頭が弱いさびしがりやで、しかも金持ちとくれば、たかられないほうが、どうかしている。
ヨーコは見栄っ張りなので、きまえよくだれにでもおごる。そうなると、たかるほうは、もっと美味い汁を吸うために、ヨーコの機嫌をとる。ヨーコは乗せられて、さらに気が大きくなり、おだてられて舞い上がっていることに気づかないまま、彼らの要求に無制限に応えてしまう。
それがエスカレートし、遊び友達の女の子が、深夜にヨーコに呼び出され、待ち受けていた男にひどい目に遭ったとか、遭わなかったとか…
ヨーコは残酷だが、それは無邪気さゆえのもの。そこまでひどくはないだろう、とタカをくくっていたアコであるが、あの噂は、本当だったんだ、と背筋に寒いものを覚えつつ、思った。
彼らの顔つきを見ればわかる。単に同情して花火をしましょう、という顔ではない。数にものをいわせて、いい思いをしてやろうと狙っている顔だ。
少年たちが薄笑いを浮かべつつ、アコの前に壁を作った。
しまった、出遅れた。
「ごめん、今日は帰るから」
アコが彼らをすり抜けようとすると、ひとりが、その肩を掴んだ。それをきっかけに、少年たちはアコを無理やり車に押し込めようとする。暗くて少年たちの顔は、はっきりと見えない。
しかし、耳朶に低く聞こえる笑い声が不気味だった。
「悪くないじゃん」
だれかがそう言って、アコのおかっぱ頭の毛先を、かるく跳ね上げた。
その仕草は、まるで人形をからかうような、気遣いのカケラもないものであったので、アコは怒りすらおぼえた。
手を払いのけようとすると、手首を掴まれ、引っ張られた。それを機に、背中を押す手と腰を押す手が加わった。
アコは暴れようと思ったが、暴れたくても多勢に無勢。押し返すことすらできなかった。
ふっと力がゆるみ、それから突き飛ばされるようにワゴンの中に入れられた。ワゴンの中は、甘ったるい菓子の、人工的な匂いがしていた。
アコはそれでも車から出ようとしたが、すぐに複数の手に押さえられた。
アコは三人席の真ん中に、少年たちに囲まれるようにして座らされた。怯えるアコの顔をよく見ようとでもいうのか、少年たちがにたにたといやらしい笑みを浮かべて、アコのほうに目線を向けてくる。アコは力で抑えつけられながらも、敢然とそれを睨み返した。
「なんか、かわいくねぇな。わざと泣かしてみるか?」
少年たちがそう言ってからかうと、アコは冷めた眼を向けて答えた。
「泣くと思う? それより、どうするつもりなの?」
どうする、だってよ、と少年たちは、いやらしい笑いを交し合う。恐怖よりも怒りが先に立ち、アコは言った。
「先に言っておくけれど、わたしは絶対に泣き寝入りなんてしないからね。あんたたちとちがって、わたしには失くすものがないんだから。怖いことなんて、正気を失うことくらいなの。あんたたちがどんなことしようと、絶対に負けたりしない!」
おお、と少年たちは揶揄するように言う。
「威張った女だな。おれ、こういうヤツ、やだよ。どうする、ヨーコに、もうひとり呼べ、って言うか?」
「ほっとけよ。おしゃべりするために、連れて行くんじゃないだろ」
花火をするためでもあるまい。
アコは、薄闇に眼を凝らし、彼らのひとりひとりの人相を覚えてやろうと思った。こいつらの顔を、絶対に忘れないでやるのだ。
「しゅっぱーつ!」
ヨーコの無邪気な声が、開け放たれたスポーツカーの窓から聞こえてきた。ぶおん、とエンジンがかけられる。
が。
「あれ?」
ワゴン車の運転席にいた少年が、アクセルを何度も踏んで、首をかしげている。
「うごかねぇよ、これ」
「バァカ、アクセルとブレーキ、間違えてるんじゃねぇのか。これオートマだぞ。もういっぺんやってみろよ」
運転席の少年は、アクセルを踏むが、やはり車は空回りするばかりだ。
「ったく、これだから無免はよー。これ兄貴の車借りてるんだぜ、壊すなよな」
と、言いながら、運転席の少年をどかして、ほかの少年が変わろうとする。
が、突然車が前に傾いだかと思うと、急にワゴン車の窓という窓に、亀裂が入った。
同時に、ぎし、と音がして、天井がひしゃげる。まるで上部から、とんでもない力で押しつぶされているかのように。
「なんだ、地震か!」
その場の全員の脳裏をかすめたのは、二年前の2003年7月26日に起こった、震度6の宮城地震であった。あのときの揺れの激しさ、おそろしさを知っているがゆえに、少年たちはすっかりパニックを起こして、車から出ようとする。
アコも、これを幸いと車から出たが、周囲は高層ビルばかり。窓ガラスが落ちてこないかと空を見あげたのだが、奇妙なことに、銀杏の木も街灯も、すこしも揺れていないことに気がついた。
揺れて潰れているのは、ワゴン車だけなのである。
スポーツカーも同様のありさまで、助手席では、すっかり怯えたヨーコが、頭をかかえて、ぎゃあぎゃあ言っているのが見えた。
なんだか知らんが、逃げるべし。
アコが走り去ろうとすると、少年のひとりが、
「逃げる!」
と叫んだのが聞こえた。
冗談じゃない。しばらく怯えていればよいものを。
アコは自分のマンションに向かって走り出した。
ともかく、マンションまで行けば、隣のトルコ人に救いを求めることができる(やはりパニックになっているのはアコも同様で、携帯で警察を呼ぼうとか、ちかくの派出所に行こう、という考えはまるで浮かばなかった)。
ちなみにアコは短距離に自信があったが、少年たちの足のほうがやはり速い。
風になびくマフラーを、背後に迫った少年がぎゅっと掴んで引っ張った感覚がある。後ろにつんのめりそうになった瞬間、アコは、自分の顔すれすれに、空き缶が飛ぶのを見た。
ぱかん、と心地よい音がして、首の感触が軽くなった。
だれかが、空き缶を飛ばしてくれたのだろうかと、空き缶が飛んできた方向を見るが、そこにあるのは、自動販売機と空き缶入れだけ。空き缶入れの周囲にはだれもいない。
だれもいないのであるが、なぜだか空き缶だけが、空中にぷかりと風船のように浮いていた。
言葉をなくして立ち尽くすアコを避けるように、空き缶はつぎつぎと宙に浮いて、少年たちめがけて特攻していく。
その狙いは百発百中。ぱかん、ぱかんと小気味よい音とともに、ワゴン車の崩壊、宙を飛ぶ空き缶に肝をつぶしている少年たちを殴り飛ばしていく。
もはやアコを追おうという少年はだれもいない。
とどめ、とばかりに不意にアコの周囲の空気が大きくゆらぐと、小さな竜巻のような疾風が、ごう、とうなり声をあげて少年たちを襲った。
少年たちは吹き飛ばされ、地面に後ろに倒れる。
「こいつキモイ! 化けモンだ!」
などと無礼なことを言いながら、少年たちはうろたえて、ぼろぼろになったワゴン車とスポーツカーに乗り込むと、一目散に逃げていった。
ヨーコは最後まで頭をかかえてうずくまり、アコの姿を見ようともしなかった。
彼らが行ってしまったあと、アコは月光を見あげるようにして、いつのまにか悄然と立っていた男を見あげた。
さきほどよりも明確な輪郭を持ち、すこし透けて見えるけれど、恐ろしさはない。淡い光を放つその姿は、儚げであると同時に、圧倒的な存在感をもって、そこに立っていた。
「夢だと思ったか?」
唖然とするアコをおもしろそうに見下ろして、男は言った。
負っていた怪我はいつのまにか消えており、街灯に照らされて、ほうぼうに刀傷のある精巧な鎧はにぶく光っている。腕を組み、傲然と立つ姿は、たのもしくすらあり、アコは、夢だと思ったか、の問いに、首を横に振った。
生気のよみがえった顔色はつややかで、非現実的なその姿をさらに補完するような、きわめて均整の取れた体つきにくわえて、癖のない凛々しいした男である。
いささか恐ろしげな雰囲気もあるが、双眸の表情がやわらかいために、抜き身の刃のような冷たさは感じられない。
「助けてくれて、ありがとう」
アコは右手を差し出した。
「礼にはおよばぬ」
男は言うと、アコの前に進み出た。重そうな甲冑は、しかし、アスファルトの上ではまったくの無音であった。
そうしてアコの手を軽く握り返してくる。その感触は、たしかに温かい。
『幽霊とはちがうんだな』
と、アコは自分の手に残る体温を確めるように、掌をみた。
自分が試されたのだと気づいた男は、ふむ、と感心したように言う。
「おもしろい反応をするものだな。ふつう、俺を見た人間は、気絶するとか、悲鳴をあげるとか、助命をしながらひれ伏すかの、どれかなのだが」
「助けてくれた人に、悲鳴なんてあげないよ」
「よい反応だ。気に入った。まずは俺も礼を述べねばなるまい。おまえが俺と契約をしてくれたので、俺は世界から消される心配がなくなった。傷も癒えて万全だ。あらためて、感謝する」
「あなたは、何者なの?」
「俺はアトラ・ハシースに召還された霊体だ。さて、さっそくだが、叶えて欲しいことはあるか? 三つの願いを言うがよい」
「いまので、三つ目の願いのうち、ひとつは終わったのじゃなかったの?」
「いまのは数に入らぬ。三つの願いをすべて叶えるまでは、契約者の安全を守る義務がある。だから礼は要らぬ、と申したのだ」
アコはきちんと男に向き直り、アコをおもしろそうに観察しているその顔を見た。名前はたしか
「趙子龍」
「なんだ」
「もし、三つの願いを言わなかったら、あなたはわたしを守ってくれるの? いまみたいに?」
趙子龍は、察しのいいところで表情をくもらせた。
「願いを叶えずに、俺を繋ぎとめようと思っているのならば、それは間違いだ」
「そうなの?」
「おまえには、この世界のふつうの住人のようだから、あまり俺のことを教えたくない。知識は、情報は、吸引力を持っている。それと知る者のところへ、事態を引き寄せる性質があるからな。おまえには感謝するが、俺には使命がある。ここに留まることはできぬのだ」
このつづきは「ゆべしの章3」となります。