新ずんだの章 10
※ この話は、「新ずんだの章9」のつづきとなります。
世界は塵である。
そして汚濁に満ちている。光輝は、目の前から、はるか昔に消え去った。
朝は来ない。永遠の夜だ。
時にすでに意味はなく、あるのはただひとつ。
水に飢える砂漠の旅人のように、ただひたすら、たったひとつの魂を求める心のみ。
いつであったか、世界を放浪していたときに、永劫の魂を本気で願っている男と出会った。
もう名前すら忘れてしまったが、金髪の、賢しい顔をした、青白い頬をした男であった。
その極度に汚濁を恐れる神経質そうな面差しが、ほんのすこしだけ、黄金の魂を思わせた。
男は、深夜0時に、十字路のうえで魔方陣を描き、悪魔を召喚するという、ほとんど意味のない召喚術に夢中になっていた。
現世に多く流布している召喚術のうち、ほんものの召喚術が正しく伝わっている例は稀だ。
なぜならば、悪魔……この場合は、堕天したアトラ・ハシースやアストラルのなれの果て……が現世にあらわれると、すかさずやってくるのが、世界の彼方のお節介どもで、かれらは、悪魔のもたらす禍が二度とおこらないように、徹底して、その方法や痕跡を消してしまうからだ。
ジルが、その男に出会うことになったのは、ほんとうに偶然であった。運命的だと、男は喜んでいたが、能天気なものだと、いまにして思う。
男は世に飽き飽きしていると言った。
自分は卓越した天才なのだと言った。ニュートンのように、アインシュタインのように、世界に大きな影響を与える才能を持っているのに、ゴッホのように、生きているあいだはどうやら認められない悲運を抱えているらしい、と。
だからと言って、死ぬのは馬鹿馬鹿しい。いいや、死んでなんぞやるものか。生きて生きて、生き抜いて、周囲の人間が、老いて、つぎつぎと墓場に入っていくのを、哂って見てやるのだ。そのうち、時代が自分に追いつくだろう。そのときに、栄光のなかで、死にたい、と。
ジルはめったにだれかに共感するということはなかったが、この男にはすこし、心を動かされるところがあった。
それは、男の言葉にうなずくものがあったからではなく、男に哀れみを覚えたからである。
気の毒な凡人よ! なぜならば、その男の語る妄想も、ありとあらゆる世界にあまた溢れる誇大妄想狂と、さしてちがいのない、平凡で退屈なものであったからだ。
なのに、自分だけが特殊だと信じて、魂を悪魔に売り渡すことも厭わない。
この愚か者は、ちっぽけで平凡で、そのくせ、順当な努力を嫌う真のおのれの姿を直視するくらいならば、地獄の業火に焼かれたほうがマシだという。
ああ、それならば、願いをかなえてやろうではないか。
いつもならば、ジルは男の魂を奪い去る。そして、体内にある霊力を絞りとり、自分がその男に成り代わって、人を狩っただろう。
そして、あわれな男は、永劫の魂を感じる暇もなく、おのれがおのれであると知覚することもできない無明の闇に落ちることになったはずだ。
悪魔に魂を売るとは、無尽蔵にひろがる世界の闇に身を投じることにほかならない。
悪魔、あるいは人類の敵、悪霊と呼ばれる者たちは、共通してある世界の闇がたくわえられている胎盤より霊力を与えられ、動き回る。その胎盤を管理しているのが魔王というわけだ。
とはいえ、そんな仕組みなんぞ、知ったことではないのだが。
ジルのすることは、人から霊力を奪い、肉体を乗っ取ることである。
魂は、吸血鬼には不要なので、悪魔どもにくれてやる。
悪魔どもが、そのあとにそれをどうするかなんぞに興味はない。
悪魔たちが、たまに自分を助けて、世界から世界へ渡る手伝いをしてくれるのも、自分が、魂をタダで与える便利な存在として、かれらに利用されていることも知ってはいたが、だからなんだと思う。
ともかく、ジルは、男の魂を奪い去ることはしなかった。
男は、ジルを、召喚に応じてあらわれた悪魔だと信じた。
信じたから、その干からび、朽ちかけた身体を見ても、勝手にそういうものだと思って、過度に怯えることはなかった。
そうして、ジルを自宅にともなって、地下室にて丁重にもてなした。
奇妙な部屋であった。
一部、シャワールームになっているが、仕切りはない。手術台のような、殺風景なベッドがあって、壁には、鉄の枷がぶら下がっている。部屋の隅には、配線がめちゃくちゃなTVとDVDがあり、無造作に非合法のポルノ雑誌やビデオが放り出されているかと思えば、その隣には、小難しいタイトルの並んだ哲学書や神学の本がある。
もう一方の壁には、ポラロイドカメラで撮影したものとおぼしき、たくさんの女たちの姿が映っており、そのどれもが、半裸で、ひきつった笑顔をカメラに向けていた。
中には、あきらかに顔が腫れているものもあり、男が力付くで、その屈辱的な記念撮影を強行したことが、それでわかった。女たちがカメラに向ける眼差しは、恐怖と軽蔑が混ざったものだ。ジルはそれらには、さして興味はおぼえなかった。
男は、自分がどれほどに優れているか、どれほど『高尚な』趣味を持ち、どれだけ高い理想でもって、『衆愚』を教育してやっているのかを説明した。
合い間合い間に、自分が買った子供、あるいは女たちに、どうやって『矯正』を施しているのかをとくとくと語った。
男は、自分には哲学があるのだという。そして、経験から得た知識を披露してみせる。
世の中には、いろんな悪徳に染まった女がいるが、とくに、白人女はだめだ。金髪はいちばん悪い。あいつらはとんでもなく淫らなくせして、わがままで、傲慢で、神を冒涜している。
男は計画を語った。
生贄が必要なんだ。町でいちばんのあばずれ女を、荒みきった世の中への警告として、懲らしめのために屠ってやる。そうして、世間の連中の悔悛のきっかけを作ってやるのだ。
報復だ。これは聖なる戦いなのだ。非凡なる才能からくみ出された、最高の計画なのだ。世にはこびる悪徳を一掃するための!
世人は、最初は理解できずに怖じるだろう。しかし、やがて感謝するようになるだろう。この世の悪が消えた、その最初に、この自分がいることを見つけ、賛美するようになるだろう。そのときに、生きていたい。非凡なおのれを世界中が賛美する日を眼窩に刻み付けたいのだ。
矛盾に満ちた理想を、悪魔に魂を売ろうとした男は、恍惚として語る。
その熱に浮かされたような目つき。得意げに『異様で平凡』な理想を語る口ぶり。
こいつは、なんだって似ているのだろう。
そう思うと、ジルは笑いがこみ上げてきて、我慢ができなくなっていた。
そっくりではないか。かつてロマンシュクール城にて、ペテンのイタリア人に踊らされ、おのれの欲望のままに子供たちを屠った、このわたしと。
悪魔を召喚することに熱中しながら、少年たちと無理やり交わり、その咽喉笛を鉤で掻ききる瞬間、我を忘れる興奮と恍惚のなかで、かれは神の姿を追い求めていた。悪魔も神も、彼のなかでは、すでに表裏一体の同一のものに転じていたのである。
彼に真の光輝を示したのは、神から遣わされた娘であった。
そして、彼から光輝を奪ったのは、俗世にはこびる権力である。しかし、かれはそこには立ち向かわず、おのれの寝室に籠もり、戦うことを放棄した。
悪魔は、望みを叶えてくれるという、ペテン師の言葉をよすがに、かれは神を呪いながらも、神を求めていた。
酸鼻きわまる地獄絵図が、毎日のように城の一室で繰り返されたが、それは、ルーアンの忌まわしい炎によって、永遠に失われた光輝をふたたび取り戻すための、神聖な儀式であったのだ。
しかし。
ジルは、笑いながらも、心で男に呼びかける。
おまえもまた、光輝を見ようとするのなら、やってみるがいい、この『衆愚』めが。フランス王をしのぐとさえ言われた財貨のすべてを使って、わたしは少年たちを生贄に捧げた。それでも、光輝を取り戻すことはかなわなかったのだ。
町の女をひとりやふたり捕まえて、痛めつけたところで、なにを見ることができるというのか。おまえの残酷で平凡な、神に捧げる遊戯を、呪われたこの身が見届けてやる。
だから、おまえは殺さない。
ジルは男に手を貸して、街から女を攫ってきた。
悲惨で、血なまぐさい光景が繰り広げられた。ジルは、豊満な女にはすこしも興味をおぼえなかったから、その光景を見ても、すこしも血を騒がせることはなかった。
人語も尽きるほどの凄惨な拷問のすえに女が命を落としたとき、霊力を得ることが出来たのが幸いだったと思ったくらいである。
霊力を手にしたら、あとはさらにたやすかった。
どんな抵抗も障害にはならない。目撃者を恐れることもない。
つぎつぎと女は男の手に落ちて、男は儀式に熱中した。
しかし男は、殺せば殺すほどに、疲労を見せるようになっていた。
話にならないことに、男はこぼす。
殺すことが義務になってしまっている、疲れた、と。
そうして男は語る。
自分のみじめな半生。失踪した母、アル中でドラッグ漬けの父親との悲惨な暮らし。ありとあらゆる暴力が襲ってくる。心を守るためには、大きな幻想をつくって、そこに閉じこもるしかなかった。
都合のいい神と、優しい悪魔と、残酷で愚かな人間の登場する、夢の世界だ。そこでの男は、不遇な王である。
男は言う。
父は、自分を母に似ていると言った。甘えるような声で近づいてくることもあれば、暴君となってのしかかってくることもあった。そうして、おまえは母親に似て悪い子だと言いながら、身体を蹂躙する。
夜になり、父が階段をのぼってくる。その足音を聞くたびに、世の中を呪った。
成長して、父から離れることができても、癒されぬ傷と、鬱屈した怒りだけが心に残りつづけた。
ちっぽけな窓から見上げる世界。それがすべてだと信じた男は、世界を恨みながら、都合のいい神に祈り、ままならない現実をだれかの責任にして、陰惨な空想を悪魔に捧げることで、自分を慰めた。
十字路に魔方陣を書き付けたのも、空想の延長に過ぎない。ほんとうに、悪魔があらわれるなどとは思っていなかった。
悪魔に会えたのは、自分が優秀な証拠だ。自分の考えが正しい証拠だ。だって、ちまたの悪魔主義者どもは、ほんものの悪魔に会いたくても、会えていないではないか。
だから、儀式をはじめたのに、なぜこんなに虚しいのだろう。何人殺しても、すこしも満たされない。虚しいだけだ。疲れた。もうおしまいにしたいのに、始めてしまったことだから、止めることができない。これは、おまえの仕業なのか?
ジルは、男の告白を、じつにうんざりした気分で聞いた。
平凡で、どこにでもあるような話ではないか。どこに非凡さがあるって? どこにでも転がっている、不幸な身の上話が、たまたま捻じ曲がった方向に行ってしまっただけのこと。それとて、おまえが選び取ったことではないか。
くだらぬ現実。なんと平凡な光景だろう。
おまえのしたことといえば、人を攫って、メディアから教わったありきたりの方法で痛めつけ、命を奪っただけのことだ。
全部借り物。独創的なひらめきは、どこにもない!
下種な凡愚め、もうおしまいだ。
ジルは、男のもとを去った。
魂を奪うことはしなかった。ただ、あまりに興ざめだったので、すこしばかり意趣返しをすることにした。
すなわち、男があれほど軽蔑しきっていた『衆愚』に、男を渡したのである。
魂を奪うなどという、『非凡な最期』にまったく見合わない凡人だった。ならば、ふさわしい方法で、みじめな最期を与えてやろうと思った。
ジルのしたことは、ただ一本の電話を警察に架けたことだけ。
男は、そこいらの『つまらない』こそ泥と同じように、ごくふつうに逮捕され、裁判にかけられた。
世界中の批難を浴びながら、いずれ処刑台のうえに立つ。
こんな男を救うためには、どうしたらよかったか?
簡単だ。人はおのれのプライドを引っ込めて、この思い上がった男に、たった一言、「あなたは世界で一番すばらしい」と言ってやればよかったのだ。
男は、ほどよく満足し、都合のいい幻想のなかに閉じこもっただろう。
たった一言で、無差別殺人が防げるうえ、ひとの命が買えるなら、安いものではないか。
あの男は、いまごろどうしているだろうか。
独房の中で、どうしてこんなことになったのかと、頭を抱えているだろうか?
それとも自分が手をかけた女たちのために、悔恨の涙を流しているだろうか?
神に許しを請うているだろうか?
それとも、憤怒のうちに、『悪魔』に呪詛をかけつづけているだろうか?
おそらく、そうではあるまい。
男はいまごろ、ようやくほっと安堵しているにちがいない。
善悪の基準だけで見れば、男は類い稀なる異常者にちがいない。
たとえ世界の罵倒をあびようと、男は、はじめて本当の非凡な人間になれたのだ。
夢が叶った男は、ようやく求めていた本来の位置に自分を置くことができて、安息を得ているはずだ。
男は、かつて、自分を踏みつけにし、人間性を奪い去り、罵倒し、汚しつくした父親の言葉どおり、『悪い子』になった。
親の言いつけをよく守った、孝行息子と誉めてやれ。
あわれな凡愚に、慈悲深き神のお恵みを。
目を開くと、淡い光にきらきらと瞬く水晶の数々が見えた。
夢を見ていたらしい。まったく、どうせ見るならば、もっと楽しい夢であればよかったものを。
「地下鉄の事件は、おまえか」
と、目の前に立っている男が、苛立ちを抑えて言う。
そうだ、と破れた咽喉から、なんとか声をひねり出すと、男は怒気をあらわにした。
「なぜだ? だれにも見られなかっただろうな」
問題ない…そう答えて、ジルは笑った。
脳裏に浮かんだのは、切り刻んだ少女の白い背中である。
鮮血が滴るなめらかな白い肌を思い出すと、興奮で身が震える。あれが黄金の魂であったなら。
ジルの笑う凄まじい姿に、男は怯えたのか、一瞬ことばを詰まらせた。
男から見れば、ジルは有りえない姿をした『生き物』だ。
ジルは不死の呪いをかけられている。魂が再生することもなければ、悪魔に魂が吸収されることもない。
最初にジルに呪詛をかけたのは、ヴァチカンより派遣された悪魔祓いを専門とする司教たちであったが、かれらもまさか、ジルが呪詛を飲み込んだまま、長い時を経て、別の形に進化するとは思っていなかっただろう。
ジルは、不死であることを逆手にとって、みずから肉体を捨て、他者の肉体に憑依することで、自由を手に入れた。自由に活動するために吸血活動を必要とする。最初から吸血鬼であったわけではないのだ。
「新しい体が必要だろう」
と、男は話題を切り替えてきた。
頭のいい男だ。いつか出会った、平凡なシリアルキラーとは、知恵の格がちがう。自分がどう動けば有利になるかを知り尽くしているのだ。
「集められるだけの石を集めてきた。これだけあれば、霊力で、おまえのその、『棺』を修復できるのではないか」
親切なことだ。そう答えて、ジルは、朽ち果て、落ち窪んだ眼孔より、地下室を見回す。
そこには、びっしりと、研磨されていない水晶が並べられていた。
「山にあったものをすべて持ってきた」
と、男の背後にいた、もうひとり、若い背の高い男が言った。
ひょろりとした、表情の読めない目の細い男である。
「あの山にある石は、いちばん純度が高い。スイスのものや南米のものよりも、霊力を多く含んでいるそうだ。酒井勝軍が世に紹介したヒヒイロカネの、これが本物だからな」
なんであれ、霊力が回復すれば問題はない。
『棺』、すなわち、もとの自分の身体が回復するというのであれば、それがいちばんだ。
だれかに憑依して行動しているあいだ、隠している『棺』が壊されてしまったら、不死は破れ、それこそ、どこに向かうこともできない、無力な魂の残骸に成り果ててしまうのだから。
「いろは横丁のビルの倒壊、あれはやはり、アトラ・ハシースの仕業らしい。裏切ったメアリたちを追っていたレティクルが、もうひとりのアトラ・ハシースを確認したそうだ…いや、二人かな? ひとりと一匹、というべきか」
若い男の言葉に、もうひとりの、肩幅の広いスーツの男は眉をしかめた。
「どういう意味だ? ひとりと一匹?」
「レティクルを撃退したのは、少年と、犬だったそうだ。しかも少年は、手に聖剣を持っていた」
「聖剣……しかし、ゲオルギウスは消滅したのだろう。あと聖剣を持っているのは、諸葛孔明か」
そうではない、とジルはすぐに判ったが、発言はしないでいた。
いろは横丁のビルの倒壊のときに、孔明は長町にいたのである。それは、ジルがずっと観察していたから、まちがいはない。
ゲオルギウスは消滅し、シグルトはヴァルキューレを裏切ってメアリとともにある。アタチュルクは聖剣の所有者ではない。エリザベスや、あとほかの中国人も同様だ。
と、すれば、残るはひとり。
「少年の身元はわかっている。レティクルが画像を見せてくれた」
若い男が言うと、となりの中年男は、皮肉げに口をゆがめてみせた。
「君は策士だな。レティクルも、まさかわれわれが、保険をかけているなど夢にも思っていないだろう」
「遠い未来の、存在するかどうかも不確定な子孫のために、なぜ俺が奉仕しなくちゃならないんだ。それは、あんたも同だろう、千台さん」
言われて、ヨーコの父は口を歪めた。
「当然だ。むしろ迷惑だ。政界に打って出ようとしていたこの大事な時期に、レティクルだのアトラ・ハシースだのとわけのわからぬ連中がやってきて、未来の尻拭いを、俺にさせようとしているのだからな」
「だから、目には目を、わけのわからぬものには、わけのわからぬものを。レティクルには協力していると見せかけておいて、俺たちは俺たちで動けばいい。この怪物の力を利用してね」
と、若い男は、不遜にも、ジルに軽蔑の混じった視線を投げてよこした。
ジルは沈黙する。ここで反駁して、近年稀なほど純度の高い霊力を吸収できる機会を失ってはならない。
「少年の身元がわかっていると言ったが、なぜだ」
「身内だったんでね。そこで、あんたの協力が欲しいんだ。俺の部下が、そいつの潜伏先を突き止めた。木町通りの牛タン専門店の『たんたかタン』だ」
「ここから目と鼻の先じゃないか。しかし、普通の店に踏み込むなんぞ、いくら俺でも、簡単にはできんよ」
「だから、踏み込む理由は俺たちが『作る』。頃合になったら連絡するから、いつでも動けるようにしておいてくれ。ああ、もちろん、レティクルには悟られないように。それと、この地下室の存在もな。連中は、ここに地下室があるということも知らない」
「それは気をつけているとも。しかし、どうやって隠しているんだ? 俺にはいつもと変わらないようにしか見えん」
「俺の一族の秘法だよ。くわしく説明したところで、あんたには理解できまい」
そうして話し合う二人のことばに、ジルは、沈黙のまま、耳を傾けつづけた。
とうの昔に活動を止めていた心臓がよみがえり、熱い血潮が、干乾びた体をめぐって走りまわるのを感じる。
木町通り。『たんたかタン』。
なんという偶然。憑依していた男が配達していた、あの箸袋の店ではないか? やはり、おのれと黄金の魂は、特殊な結びつきがあるらしい。
行かねば。そこに、目指す黄金の魂がいるのだ!
長い放浪が終わりに近づいている予感に、ジルは、いまこそ、心より神を賛美した。
悪魔にではなく。
変化の術は、膨大な霊力を必要とする。
死に体であった孔明が、使用可能なものではない。あれほど力の弱っていた孔明の、この急激な回復ぶり。
趙雲は、わけがわからないながらも、その身に捕まりながら、奔流のように押し寄せる風に耐えた。
やがて孔明は、あまり人気のない、青葉山から南に位置する、大きなテレビ塔を有する大年寺山の山中へ下降し、そこで趙雲と男を下ろし、自分もまた、アコの姿に戻った。
「大丈夫なのか? 怪我はどうした?」
駆け寄る趙雲の声が届いていないのか、孔明は、怪訝そうな顔をして、自分の体を見下ろしている。
その様子はひどい有様で、服のところどころを赤黒い不快な染みが汚し、背中に至っては、大きく裂けている。
身だしなみになにより気を配る孔明が、まず人には見せない姿である。そして、さらにいつもと違うことには、その己の様子を眼にしているだろうに、なにやら呆然としたまま、衣服を整えようとする気配がないことだ。
やはり、尋常ではないと焦りつつ、趙雲が、いつになく華奢な肩に触れると、孔明は、びくりと身を震わせ、はじめてそこに趙雲が気づいたような顔した。
「本当に大丈夫なのか?」
「ああ、すまないな」
どこかぼんやりとした表情で答えながら、大丈夫だとは返さない。
そこに不安を覚えつつ、肩を掴んだまま、趙雲は、こちらに背中を向ける姿勢になるように、孔明の体を押した。
真ん中からすっぱりと裂かれた衣服は、公園のうえに流れる風に、旗のようにぱたぱたとはためいた。
しかし、その中央にあるはずの、白い肌のうえの傷は、あとかたもなくなっている。
服の様子と、周辺に飛び散っている血の染みがなければ、背中を裂かれたとは思えなかったであろう。傷跡すら残っていない。傷は完全に癒されていた。
服の裂け目から想像できる、傷があったであろう位置を軽くなぞりつつ、趙雲は尋ねた。
「痛まないか?」
「触れられても、なんともない。見た目はどうだ」
「なにもなくなっている。綺麗なものだ」
さらに奇妙なのは、胸の傷である。
胸の傷は、背中の傷とはあきらかに異なることに、服すら裂いていなかった。
まったく刺された痕跡がない。
以前であればともかく、女性の体の胸に触れることはためらわれたので、ただ眺めるだけになったのだが、それでも、正面にはなにも異常が見えなかった。
「わけがわからぬ。背中を切りつけたあと、胸を刺し、その後、癒しを使ったのか?」
「ちがうよ。背中の傷は吸血鬼につけられたのだ。あなたと長町で別れたあと、地下鉄に乗ったのだが、そこにやつがいて、襲われた。
やつの不死の呪いは、『永遠に呪われた肉をまとい、地を彷徨え』というものであった。それゆえ、やつは、己の肉体を捨てることができない。肉体を捨てるということは、消滅を意味するからだ。
だからやつは、肉体を安全な場所に安置した状態で、そこから自在に魂を出入りさせ、移動先の世界の住人に憑依し、獲物を狩るのだ。いままで、アコたち以外の目撃証言が出なかったのは、おそらく複数の住人に憑依していたからではないのかな」
「つまり、被害者に近づきやすい住人に憑依して、襲ったと?」
「そう。そして、足がつきそうになると、その体を放棄した。おそらくいままでの被害者のなかに、憑依された者も含まれていたのにちがいない」
「被害者が加害者でもある…考えたな」
「慣れているよ。いままで似たようなことを繰り返してきたのだろう。通常の人間は、殺人事件の背後に、吸血鬼が潜んでいるなどとは、普通は思わない。だから、存在すら気づかれず、退治されることもなかったのだ。
しかし、憑依した肉体がなくなってしまった以上、おそらくは本体に戻っているのだろうが、また憑依できる人間を探して、同じことを繰り返す危険がある」
「肉体がなくなった?」
趙雲が尋ねると、孔明は暗い面持ちで頷いた。
「憑依されていた男は、わたしが殺してしまった。車両に轢き殺させてね。ほかに方法がなかった。地下鉄が止まったのは、わたしのせいだよ」
「そうか、だんだん繋がってきた。おまえは吸血鬼に襲われ、その後、地下鉄でやつを撃退した。しかし、あれだけ嫌がっていた五橋に、怪我をしているのに、どうして戻ったのだ?」
「怪我の修復に集中しているあいだに、意識の主導権が最上アキラ子に戻ってしまったのだ。最上アキラ子は家に帰ろうとしたのだが、あのマンション、伏魔殿だぞ。幻想魔族のアストラルは出てくるわ、アタチュルクのアストラルは出てくるわ、それに」
と、孔明は言葉を切り、ちらりと、仙台の市街地を見下ろせる位置にあるウッドデッキと、ベンチと水飲み場とシーソーくらいしか遊具のない、公園を見回した。
公園には、孔明と趙雲の二人のほか、身の置き所のなさそうに、嫌でも目立つ大男がひとり、寒いのか、肩をさすりつつ、気まずそうに、公園の入り口そばのベンチの横に立っている。
「貴様、戦争屋!」
趙雲が詰め寄ろうとするのを、孔明は手で制した。
※ この話は、「新ずんだの章11」につづきます。